2019年12月10日火曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その72




 P.42 4行目〜最後。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
武州  入 間郡 戸口 村
ぶしゅういるまぐんとぐちむら

弘 化三 年 午 十  一 月
こうかさんねんうまじゅういちがつ

佐七
さしち

利助
りすけ

寅五郎
とらごろう

萬五郎
まんごろう

佐十
さじゅう


(大意)



(補足)
あらためて「間」のくずし字をみると、原型はなくなっているけど、必ず読むことができる字のひとつです。
「寅五郎」「萬五郎」、おなじ「郎」のはずなのにくずし字が異なってます。ひとつは「ら」、もうひとつは「戸」+「巾」。

 弘化3年(1846年)も幕府はてんやわんやのときで、この7年後にはペリー率いる黒船がやっってきます。このようなときでも、田舎の村の日常の出来事から生じた争いごとの裁判をしているわけです。幕府崩壊の危機など感じることのできないのどかなといっては失礼ですが、庶民の普段の生活意識はこんなものだったのだろうと感じる次第です。


0 件のコメント:

コメントを投稿