P75 東京国立博物館蔵
(読み)
行ク尓六 地蔵 小畑 村 を過 黄 檗 山 ニ至 ルニ
ゆくにろくじぞうこはたむらをすぎおうばくさんにいたるに
入 口 門 尓第 一 義と云 額 山 門 尓萬 福 寺
いりぐちもんにだいいちぎというがくさんもんにまんぷくじ
本 堂 尓大 王 殿 裏 尓威徳 荘 厳 と在
ほんどうにだいおうでんうらにいとくそうごんとあり
霊 峰 沙 門 即 非敬 書 誠 唐 めき多る処
れいほうしゃもんそくひけいしょまことからめきたるところ
なり夫 より三 宝 堂 橋 寺 恵心 寺恵心
なりそれよりさんぽうどうはしでらえしんじえしん
僧 都自作 の像 あり寛 仁 元 年 六 月 十
そうずじさくのぞうありかんにんがんねんろくがつとお
日卒 春今年 迄 七 百 七 十 三 年 ニなる橋
かそっすことしまでななひゃくななじゅうさんねんになるはし
あり損 春舟 渡 し即 宇治河 是 也 渡 り
ありそんすふなわたしそくうじがわこれなりわたり
て松 あり扇 の芝 と云 左 ニ釣 殿 鳳 凰
てまつありおおぎのしばというひだりにつりどのほうおう
堂 前 ニ池 アリ其 上 の瀬を山 吹 の瀬と云
どうまえにいけありそのうえのせをやまぶきのせという
(大意)
略
(補足)
「小畑村」、小幡(こはた)村か。
「萬福寺 霊峰沙門即非敬書」で調べると、AIの概要は次の通り。
『京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)と、江戸時代前期に活躍した中国出身の高僧である即非如一(そくひにょいち)禅師に関わる言葉です。具体的には、即非禅師が揮毫(きごう)した書の落款(らっかん、署名)や題名の一部と考えられます。 内訳は以下の通りです。
萬福寺: 1661年に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創された、黄檗宗の大本山です。
即非(そくひ): 即非如一禅師(1616年-1671年)のことです。隠元禅師の弟子として来日し、長崎の崇福寺の住職を務めた後、萬福寺の第2代住持となりました。
霊峰沙門(れいほうしゃもん): 霊峰は即非禅師の別号(呼び名)の一つ、沙門は出家修行者を意味します。
敬書(けいしょ): 恭しく(うやうやしく)書いた、という意味です』。AIは信用できないので、個別に調べてみると、まぁ、あっているようです。
「七百七十三年」、この日は西暦で1789年3月27日。寛仁(かんにん)元年は西暦1017年なので引き算をすると、772年前となります。
恵心寺と平等院は宇治川をはさんで向かいあっていますので、江漢さんは恵心寺から川を渡って、平等院へ行ったようです。そこの「扇の芝」は『治承4年(1180年)の宇治川の戦いで平氏軍に敗れた源頼政が、平等院に逃げ込み、自刃した場所と伝えられています。伝説によると、頼政は西方極楽浄土を願って大きな軍扇(ぐんせん)を敷き、その上で切腹したことから「扇の芝」と呼ばれるようになりました』とあります。
「釣殿」、『つりどの【釣り殿】
寝殿造りの南端の,池に臨んで建てられた周囲を吹き放ちにした建物。魚釣りを楽しんだところからの名という。納涼・饗宴に用いられた』。
宇治の平等院鳳凰堂は江漢さんの好みではなかったようで、画を残していません。大和巡りはせずに伏見京町へ帰ってしまいました。
もう50数年前のことでしょうか、もしかしたら大阪万博1970年のときだったかもしれません。父と京都旅行をして萬福寺を訪問しました。真夏の暑い盛り、汗だくでしたが境内は日陰も多く、涼しかった。そこで見た、鉄眼和尚の一切経の版木は感動的でした。ずっと見ていたら、係員の方がガラスケースの中につまれていた真っ黒な版木を取り出して持たせてくれました、重たかった。これは世界にこれ1枚しかないのだとおもうと、いっそうずしりと両手にそのおもみがしみました。版木の漢字の彫りは、たくさん刷っただろうに角がまだしっかりとたっていて、丈夫なのだなとおもったものです。中国ではもうこの一切経の版木はとっくに失われていて、世界でもここにしかない貴重なものということです。


















































