2025年2月21日金曜日

江漢西遊日記二 その52

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

六 七 町  行 て門 徒宗  此 寺 ニ至 ル本 堂 ノ

ろくしちちょうゆきてもんとしゅうこのてらにいたるほんどうの


天井(テンセ ウ)尓雲 龍  左右 十  六 善 神 を画ク

   てんじょう にうんりゅうさゆうじゅうろくぜんじんをかく


筆 太トニして雲 谷 風 なり此 所  能人

ふでぶとにしてうんこくふうなりこのところのひと


能描(カキ)多ると云 爰 ハ一 躰(タイ)人 能利口 なる所  ニて

の  かき たるというここはいっ  たい ひとのりこうなるところにて


画などかく者 数 々 アリ爰 ハ蒲(ガ)毛う(生)郡 ト云

えなどかくものかずかずありここは  が もう   ぐんという


水 口 佐渡 守 加藤 侯 能領  地なり人 家

みずぐちさどのかみかとうこうのりょうちなりじんか


千 軒 余と云フ夫 より山 路 尓入 リ一 里余  を

せんけんよというそれよりやまみちにはいりいちりあまりを


行キて小野村 と云フ尓至 ル井田助 右衛門此

ゆきておのむらというにいたるいだすけえもんこの


所  ニ少  々  能知ル人 ありてそれヘよる爰 ニてベン

ところにしょうしょうのしるひとありてそれへよるここにてべん


トウを開 キ个る尓小童(コトモ)四五人 来 リてベントウを

とうをひらきけるに   こども しごにんきたりてべんとうを

(大意)

(補足)

「十六善神」、『じゅうろくぜんじん じふろく― 5【十六善神】

〘仏〙「般若経」とその誦持者の守護を誓った一六の夜叉(やしや)神。薬師十二神将に四天王を加えたもの。異説もある』

「筆」が「華」に見えます。

「雲谷」、『うんこくとうがん 【雲谷等顔】

[1547〜1618]安土桃山時代の水墨画家。肥前の人。毛利家に仕え周防の雪舟の旧跡雲谷庵を再興。雄勁な筆法と大胆な構図で障屛画を描いた。雲谷派の祖。萩市を中心に作品が残る』

「蒲(ガ)毛う(生)郡ト云水口佐渡守加藤侯能領地」、地図では能登守となっています。 

「小野村」、関宿というところが三叉路になっていて、その近所にこの村がありますけど、なんか変です。

 日野大窪町が中井本家の所在地。水口藩は初期から財政的に逼迫していたらしく、安永4年(1775)以降、仕送り方を依頼し、中井家も江戸の藩邸と水口城に毎月の費用を仕送る重責を負わされていた、とありました。

 中井家がこの時期、大富豪であったのは確かなようで、それなのに三井三越のように現在に生き延びてないのが不思議でした。このような大名を支える資金援助(大名貸し)があり、それが先々すべてチャラにされるわけですから、存続は難しかったのでしょう。

 

2025年2月20日木曜日

江漢西遊日記二 その51

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

此 圓(マルイ)と丸 と能間  か者なれてある処  ハ皆ナ

この  まるい とまるとのあいだがはなれてあるところはみな


天ンてござる爰 で活(イキて)歩(アルイ)ていかれぬ

てんでござるここで  いきて   あるい ていかれぬ


此 天 を飛(ト)フ尓ハ神(タマシヒ)尓なら袮ハ飛ハれ

このてんを  と ぶには  たましい にならねばとばれ


ぬと云ヒ聞カ春れハ其 婦人 至極 ニがてん

ぬといいきかすればそのふじんしごくにがてん


していよ\/阿弥陀様 をお頼 ミ申  事 とて

していよいよあみださまをおたのみもうすこととて


重  尓菓子ニシメを贈  个る此 婦人 此 ノ

じゅうにかしにしめをおくりけるこのふじんここの


家 より近 所 ヘ嫁して今 屋も女(メ)となり多

いえよりきんじょへかしていまやも  め となりた


るなりと只 極 楽 へ行ク事 能ミ願 ふ人 也

るなりとただごくらくへゆくことのみねがうひとなり


十  二日 上  天 氣爰 ノ親類(ルイ)尓助 右エ門 と云ふ

じゅうににちじょうてんきここのしん るい にすけえ もんという


人 其 比 五十  位  ニて此 日案内 して先ツ

ひとそのころごじゅうくらいにてこのひあないしてまず

(大意)

(補足)

「十二日」、天明8年八月十二日。1788年9月11日。

 御婦人の「極楽というところはどこにございましょうや。その極楽に私は生きて参りとうござります。死んでいてはその極楽も見ることはできません。どうぞ生きたまま参りたく、そしてその極楽はどこにござります」と、畳にしかれた「地球ノ圖」を見ながら、江漢さんに迫ったのでしょう。手を合わせて祈る民衆の根源的な問いかけであります。

 くそ坊主なら、「えぇ〜っい!信心が足りぬ、祈りが足りぬ、もっともっと無心になって祈るのじゃ。祈りが足りぬから、そのような邪念をもつのだ」とでもいって、煙に巻くでしょうね。

 「生きて歩いて行かれぬこの天を飛ぶには神(たましい)にならねば飛ぶことができない」との、江漢さんのこの説法は妙な説得力があって、御婦人は至極納得、お重にお菓子やら煮しめをつめて贈られ、江漢さんはしんみりしつつもうれしかったことでありましょう。

 何度読み返しても、今そこで、隣の部屋で行われている出来事のように思われて仕方がありません。

 

2025年2月19日水曜日

江漢西遊日記二 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

参 りとふござ里ま春死シでいてハ一 向 尓

まいりとうござりますししでいてはいっこうに


夢中  故 どふそ生 て参  度 其 極 楽 ハ

むちゅうゆえどうぞいきてまいりたくそのごくらくは


どこでこさりま春と云フ爰 ハ多 ク門 徒宗

どこでござりますというここはおおくもんとしゅう


ニて此 門 も其 宗  旨ニて皆 極 楽 ヘやるつ

にてこのもんもそのしゅうしにてみなごくらくへやるつ


毛里なれど生 ていき多以ニハ坊 主もちと

もりなれどいきていきたいにはぼうずもちと


困  入 多ると見得タリ我 等爰 ニ於 て申  ニハ

こまりいりたるとみえたりわれらここにおいてもうすには


さて生(イキ)て居てハ極 楽 ヘいかれぬ訳(ワケ)ハ此

さて  いき ていてはごくらくへいかれぬ  わけ はこの


世界 能圖ハ丸 ヒ物 シヤ其 外 ハ天ンでご

せかいのずはまるいものじゃそのほかはてんでご


ざる此 様 なる世界 可゛天 の中 尓いくつもご

ざるこのようなるせかいが てんのなかにいくつもご


ざりま春其 うちニ極 楽 世界 可゛ありて

ざりますそのうちにごくらくせかいが ありて

(大意)

(補足)

「門徒宗」、浄土真宗のこと。真宗、一向宗とも。鎌倉初期,法然の弟子の親鸞が創始した浄土教の一派。阿弥陀仏の力で救われる絶対他力を主張し,信心だけで往生できるとする。

 江漢さんは、御婦人の心からの真摯な疑問と希望に、「坊主もちと困入多る」とおもいつつも、御婦人が一番納得するであろう答えを、きっと「地球ノ圖」を指さしながら、説明したこととおもいます。

 御婦人は真剣な表情で、「地球ノ圖」と江漢さんの顔を交互に見つつ、かすかにうなずくさまが見えてきそうです。

じつに、生き生きとした会話と場面が、感動的です。

 

2025年2月18日火曜日

江漢西遊日記二 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

て龍  吐水 ニて庭 尓水 をかけさて其 比 中

てりゅうどすいにてにわにみすをかけさてそのころちゅう


年 能婦人 是 ハ京  大 火事ニて此 所  ヘ奉

ねんのふじんこれはきょうおおかじにてこのところへほう


公 ニ来 りし者 也 相 應 尓暮 し多る者 尓や之(コレ)

こうにきたりしものなりそうおうにくらしたるものにや  これ


尓琴 を弾(ヒカ)せ个り亦タ吾 所 持し多る地球  ノ

にことを  ひか せけりまたわれしょじしたるちきゅうの


圖を取 出し来 ル人 々 尓講 訳  して見セ个るニ

ずをとりだしきたるひとびとにこうしゃくしてみせけるに


歳 比 三 十  六 七 位  能婦人 か多和ら尓居て

としごろさんじゅうろくしちくらいのふじんかたわらにいて


話 シを聞 し尓や可゛て近 くへより只(タゝ)今 御咄  ヲ

はなしをききしにやが てちかくへより  ただ いまおはなしを


承    ル尓天 竺 お釈 迦さ満能おいでなさる

うけたまわるにてんじくおしゃかさまのおいでなさる


所  も承(セ ウチ)ちい多しまし多可゛極 楽 と云 処  ハ何(イツ)

ところも  しょうち ちいたしましたが ごくらくというところは  いず


く尓こざりま春私   ハどふそ活(イキ)て極 楽 へ

くにござりますわたくしはどうぞ  いき てごくらくへ

(大意)

(補足)

「水」のくずし字は読めるようになりましたが、その形は形を持たぬように筆の流れにまかせたよう。その上の「龍吐水」では「水」は楷書。

「京大火事」、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した史上最大規模の火災。御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。

「地球ノ圖」、この画像は江漢が各地で見せていたものではなく、江漢が作成した銅版画です。 

「講訳」、講釈。

 この場面、御婦人と江漢さんの会話は何度よんでもグッとくるところで、江漢さん独特の優しさあふれる受け答えに、そして御婦人の対応に目頭があつくなります。

 

2025年2月17日月曜日

江漢西遊日記二 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

伊州(セイシ ウ)よりハ寒 し朝 夕 ハ給  小袖 を用 ユ銅 板

   せいしゅう よりはさむしあさゆうはあわせこそでをもちゆどうはん


能そき目か年ハ此 様 なる物 初 メテ見ル故

のぞきめがねはこのようなるものはじめてみるゆえ


甚  タ者ヤ里二 人嫁 出て壱 人ハ孫 三 郎

はなはだはやりふたりよめでてひとりはまごさぶろう


妻 と見ヘ歳 十  六 七 紫   色 能ちりめん

つまとみえとしじゅうろくしちむらさきいろのちりめん


振 袖 を着て吾 尓逢フ老 人 夫 婦も

ふりそでをきてわれにあうろうじんふうふも


不離  して者なし春る家 尓蔵 春る画色 \/

はなれずしてはなしするいえにぞうするえいろいろ


出し見セル中 尓ハ能キ画もあり

だしみせるなかにはよきえもあり


十  一 日 朝 曇  ムシ暑 シニ枚 婦春満山 水 亦

じゅういちにちあさくもりむしあつしにまいふすまさんすいまた


ツイ立 花鳥  ヲ認  メル茶 菓子ホ 出してもてな春

ついたてかちょうをしたためるちゃがしなどだしてもてなす


日も暮レ个連ハ庭 能石 灯 籠 尓火をと保し

ひもくれければにわのいしどうろうにひをとぼし

(大意)

(補足)

「伊州(セイシウ)」、伊勢が念頭にあったのでしょう、「勢州」です。

「給小袖」、袷です。江漢さん、やはりそそっかしい。

「壱人」、主人ではない。

「十一日」、天明8年八月十一日。1788年9月10日。

「石灯籠」、「籠」が二文字のようにみえます。なぜか竹冠の漢字(筋など)はくずし字だと二文字のようになってます。

 江漢さん、これ以上はなかろうというおもてなしで気分は上々、「ニ枚婦春満山水亦

ツイ立花鳥ヲ認メル」とたくさんの作品を仕上げたようです。

「紫色能ちりめん振袖」、髪型はともかく、こんな姿だったのでしょうか。 

 手持ちのちりめん本「朝顔」の挿絵です。

 

2025年2月16日日曜日

江漢西遊日記二 その47

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

ニて之 ハ画も好キな人 故 夫 より色\/

にてこれはえもすきなひとゆえそれよりいろいろ


所 持の物 を取 出し能そき目か年を

しょじのものをとりだしのぞきめがねを


皆 〃 見 物 して感 心 春ぢ〃様 も甚  タ

みなみなけんぶつしてかんしんすじじさまもはなはだ


よろこび者〃様 も出て話  春夫 より

よろこびばばさまもでてはなしすそれより


膳 を出春茶 碗 も里焼 物 坪(ツホ)ひら

ぜんをだすちゃわんもりやきもの  つぼ ひら


皆 料  理手き王なる事 也 爰 ハ湖水

みなりょうりてぎわなることなりここはこすい


へ毛遠 く魚  一 向 尓得か多し夜 ニ入 休

へもとおくさかないっこうにえがたしよるにいりやす


ミ希る尓夜具ハどん春也 蚊屋ハモヱギ

みけるにやぐはどんすなりかやはもえぎ


能紗(シヤ)なり遍里ハ緋ぢりめんなりき

の  しゃ なりへりはひちりめんなりき


十 日朝 曇 ル後 天 氣此 日野ハ山 中  故 可

とおかあさくもるのちてんきこのひのはさんちゅうゆえか

(大意)

(補足)

「焼物」、鯛の尾頭付きの塩焼きが正式。箸をつけずに持ち帰るのが通例。「坪」、煮汁の少ない小煮物。蒸してあんをかけるような料理。「ひら」、鳥・肉・野菜などのうま煮などを3品または5品盛り合わせる。平皿・平椀ともいう。本膳料理というらしい。

 料理もさることながら、寝具もとびきり上等な最高のもの。

「湖水」、琵琶湖。

「十日」、天明8年八月十日。1788年9月9日。現在の9月上旬で標高もある山の中でも、蚊帳は必要だったみたいで、「モヱギ能紗(シヤ)なり」とあって豪華。

  文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』は、自筆本・書写本はなく、現存するのは明治24年の翻刻された本ということで、中井家に関するところだけそこから抜き出しました。 

 道中、掘っ立て小屋の蚤虱が飛び跳ねて眠れぬような宿にとまることもあれば、大富豪の申し分なく、きっと江漢さんも経験したことのないような豪華なところもあって、これも旅の醍醐味。

 


2025年2月15日土曜日

江漢西遊日記二 その46

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

金 持 とハ見へ連と是 ハ困 り多る所  へ参

かねもちとはみえれどこれはこまりたるところへまいり


多ると思 ヒ先 奥 の坐しきへ案内

たるとおもいまずおくのざしきへあない


して通 シ个る尓此 間  出来多る坐しき

してとおしけるにこのあいだできたるざしき


と見へて至  てき連ゐなり先 能 茶

とみえていたってきれいなりまずよきちゃ


を出し菓子を出し夫 より茶 津けを

をだしかしをだしそれよりちゃづけを


出タ春爰 ニ於 て申  ニハ我 等所 持し多

いだすここにおいてもうすにはわれらしょじした


る珍 物 をご覧(ラン)ン尓入レんと云 けれハ

るちんぶつをご  らん んにいれんといいければ


ハイ只 今 倅  可七 弟   かえりまし春其 時

はいただいませがれかしちおとうとかえりましすそのとき


拝 見 可仕     と申  程 なく弟   孫 三 郎 返 り

はいけんつかまつるべしともうすほどなくおとうとまごさぶろうかえり


て我 等ニあゐさ川春二   五六 歳 能人

てわれらにあいさつすにじゅうごろくさいのひと

(大意)

(補足)

「此間出来多る坐しき」、江漢の来訪は新築9年目にあたる。このときの間取り図が現存している、とありました。

「倅可七弟」、「弟孫三郎」、光武の三男、正治右衛門。本名を武成といい、のちに京都店・尾道店をまかされ、京都中井家の当主となる、とありました。

 江漢さん、最初は困惑を隠せませんでしたが、「能茶を出し菓子を出し夫より茶津け」とすすむにつれて、ご機嫌になってきました。

 

2025年2月14日金曜日

江漢西遊日記二 その45

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

へかえら春゛夫 故 老 人 出てあな(アナタ)ハどち

へかえらず それゆえろうじんでて   あなた はどち


羅からお出 と問フ故 尓私  ハ江戸の者 ニ

らからおいでととうゆえにわたしはえどのものに


て兼 て子息 可七 様 とハ御懇 意ニて

てかねてしそくかしちさまとはごこんいにて


此 度 長 崎 能方 へ参  候   可 是 より京  へ

このたびながさきのほうへまいりそうろうべくこれよりきょうへ


参  候   序  尓此 日野へお尋  可   申とお約

まいりそうろうついでにこのひのへおたずねもうすべしとおやく


束 い多しまし多可゛未 タお返 りハなきヤと

そくいたしましたが いまだおかえりはなきやと


申  け連ハ左様 なら先 お上 リなされま

もうしければさようならまずおあがりなされま


しと云フ然 し此 ぢゝ様 一 向 尓物 好キ

しというしかしこのじじさまいっこうにものずき


毛なさふ(ナササウ)ニ見へる人 ニて家内 を見れハ

も    なさそう にみえるひとにてかないをみれば


人 も春くなく然 シ家 ハ能 婦志ん尓て

ひともすくなくしかしいえはよきふしんにて

(大意)

(補足)

「子息可七様」、前頁「其子息ハ四十位」のこと、漢字は喜七のようです。

「家内を見れハ人も春くなく」、全国に出店をだし商網が整うと、江州日野の本家では商品を取り扱わず、光武自身がここで全国の出店から月次の営業報告を受け采配をふるった。現業から離れたため、本家にも支配人以下手代をおいた。二百数十年前とはいえ、現在の商社の体制とかわることがないのでした。

 『近江商人中井家の研究』(雄山閣)には「中井家コンツェルン」ともいうべき、当時としては極めて進んだ近代的合理的な経営方法によって営まれた、史上注目すべき存在であることが明らかにされている、とありました。

 文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』には、このときの訪問ことがかなり詳しく記されています。

 歴史上の大商人の会話や家でのもてなしの様子がタイムマシンに乗って時代を遡り、見ているよう。

 

2025年2月13日木曜日

江漢西遊日記二 その44

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

二 ツ渡 ル夫 より山 尓登 る二里を経てかゐ

ふたつわたるそれよりやまにのぼるにりをへてかい


掛 と云 処  人 家アリ爰 ニて昼  喰 を春る未(イマ)多

がけというところじんかありここにてちゅうじきをする  いま だ


四ツ半 比 なり夫 より田能間 タを行クさて日野岡 本 町  ト

よつはんころなりそれよりたのあいだをゆくさてひのおかもとちょうと


云 処  尓至 ル尓爰 ハ家 並  てあれとも前 ハマサ

いうところにいたるにここはいえならびてあれどもまえはまさ


木能生 垣 ニして少 シ引 込ミて見世の様

きのいけがきにしてすこしひきこみてみせのよう


子あり薬 種 屋多 し爰 ニ中 井源 左

すありやくしゅやおおしここになかいげんざ


衛門 とて一 代 尓三 十  万 両  能金 持 尓

えもんとていちだいにさんじゅうまんりょうのかねもちに


なり多る人 也 源 左衛門 隠 居 して其 比 七

なりたるひとなりげんざえもんいんきょしてそのころなな


十  六 七 ニなる老 人 ニて其 子息 ハ四十  位

じゅうろくしちになるろうじんにてそのしそくはしじゅうくらい


ニて奥 州  仙 臺 尓見世ありて未 タ日野

にておうしゅうせんだいにみせありていまだひの

(大意)

(補足)

「四ツ半比」、午前11時頃。

「かゐ掛」鎌掛(かいがけ)。『鎌掛の屏風岩(かいがけのびょうぶいわ)は、滋賀県蒲生郡日野町にある国の天然記念物に指定された巨岩の露頭である』とウィキペディアにありました。

「日野岡本町」、近江蒲生郡日野。この辺一帯は、全国的に商網をはって活躍、商業界を制した近江商人の根拠地である、とありました。

 わたしはずっと長いこと近江商人の本拠地は琵琶湖南端大津付近だと勝手に思い込んでいました。大間違いでした、お恥ずかしい。こんな山奥だったのですね。先に松坂が三井越後屋から現在の三越になった本拠地と記しましたが、ここはまぁ海からも近いからなんとなくそうかと納得できましたが、ここ日野付近は山奥、とても不思議です。 

「薬種屋」、蒲生郡日野から甲賀郡一帯にかけては、今でも売薬業の盛んなところである。他に編み笠・麻布・蚊帳・漆器・畳表などが産物。

「中井源左衛門」、近江商人の中でも第一流の巨商。江戸時代を通じて近江商人中第一位の座を保ち続けた。江漢の随想集『春波楼筆記』(文化8(1811)年)にはこのときの訪問の様子がさらに詳しく記されています。

「一代尓三十万両能金持」、中井家の財産は、享和4(1804)年に11万5375両1分と計上されているので、これはうわさか、とありました。

「其比七十六七ニなる老人」、中井家初代源左衛門光武(享保元(1716)〜文化2(1805))はこのとき72歳。こののち寛政6(1794)年79歳で隠居。

「其子息ハ四十位」、光武の次男彦太郎。本名光昌。宝暦7(1757)年〜文化5(1808)年。長男が早世したので二代目をつぎ、仙台・相馬の支店をまかされた。

「奥州仙臺尓見世あり」、初代源左衛門時代には、全国に出店十店を開設した。仙台開店は三番目、明和6(1769)年。仙台店では、奥州地方から関東北部にわたる物産(ex.生糸・紅花」・青苧(あおからむし。麻の一種)・蝋・大豆・小豆・漆など)を買い入れ、おもに京阪地方に送り、奥州地方へは、古手・綿・木綿を送り、歓迎された。仙台店ではこの産物回しの商法で最も繁盛した店で、こうした出店は本家から派遣された支配人が統括した、とありました。

 

2025年2月12日水曜日

江漢西遊日記二 その43

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日天 氣西 風 六 軒 を正  六 時尓出  立 して

ようかてんきにしかぜろっけんをしょうろくじにしゅったつして


三 里程 過 て津尓出て夫 ヨリ窪田(クホタ)と云フ処

さんりほどすぎてつにでてそれより   くぼた というところ


ヘ一 里半 アリ亦 椋 本 と云 ヘ二里を経て松

へいちりはんありまたむくもとというへにりをへてまつ


山 な王手を過 て楠 原 と云 処  へ一 里あり

やまなわてをすぎてくすはらというところへいちりあり


亦 関 ヘ一 里坂 の下 ヘ一 里二十 町  余来 リ

またせきへいちりさかのしたへいちりにじっちょうよきたり


て坂 能下 尓泊 ル爰 まて皆 山 路 なり

てさかのしたにとまるここまでみなやまみちなり


九  日上  天 氣夜 の引 明 尓坂 の下 を出  立 して

ここのかじょうてんきよるのひきあけにさかのしたをしゅったつして


山 中 尓て明 ル往 来 皆 山 路 ニして土 山 尓

やまなかにてあくるおうらいみなやまみちにしてつちやまに


い多る宿 の者川れより右 尓入 日野へ行 路

いたるやどのはずれよりみぎにいりひのへゆくみち


なり山 路 ニかゝ里小川 ニ 瀬越ヘ亦大 河 を

なりやまみちにかかりおがわふたせこえまおおかわを

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年八月八日。1788年9月7日。

「六時」、午前6時。

 津・窪田・椋本(むくもと)・楠原・関・坂下と宿場名が続きます。津より左斜め上に上る街道です。

 坂の下宿に泊まり、さらに山路を歩きます。坂下・山中・土山・鎌掛です。 

山路という言葉が何度も出てきてます。恐らくではなく絶対に山深き難所に違いありません。これだけの山路を歩いて、暑く汗でびっしょりな様子の記述がないのは、標高があってそれなりに気温が高くないからなのでしょうか。

 古地図の地名がいくつも上の画像にのっています。現在の地図でもそれらが、市町村合併で古い地名が失われているのですが、ほぼすべて残っているのに驚きました。

 

2025年2月11日火曜日

江漢西遊日記二 その42

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

坂 と云 処  尓森 嶋 平 四良 と云フ者 能処  へ

さかというところにもりしまへいしろうというもののところへ


津能茶 人 の手紙 を添ヘ我 等尓よるへしと

つのちゃじんのてがみをそえわれらによるべしと


云 故 尋  け連ハ入 口 ニ札 を掛 多り曰  儒 者

いうゆえたずねければいりぐちにふだをかけたりいわくじゅしゃ


学 者 虚 名 の者 並  尓物 もらい不可入   と

がくしゃきょめいのものならびにものもらいいるべからずと


あり夫 故 よら春゛爰 ハ山 田への往 来 ニて

ありそれゆえよらず ここはやまだへのおうらいにて


埒 もなき色 \/能者 よ里て難ン義なる

らちもなきいろいろのものよりてなんぎなる


事 なるべし夫 より櫛(クシ)田川 を越へ又 よ程

ことなるべしそれより  くし だかわをこえまたよほど


行 松 阪 なり一 里手前 より三 宝 かう神 能

ゆきまつざかなりいちりてまえよりさんぽうこうじんの


馬 尓初 メて乗りて見多り漸  ク六 軒 茶 や尓

うまにはじめてのりてみたりようやくろっけんじゃやに


参  爰 尓てあしき家 尓泊 ル

まいるここにてあしきいえにとまる

(大意)

(補足)

「森嶋」、「森」のくずし字の下半分がへんてこりんです。調べてみてもなるほどこんな形でした。

「三宝かう神」、江漢さん、ほぼこれと同じようなものに乗ったのでは。 

「六軒茶や」、地元松阪市六軒町の説明板の内容です。

『六軒茶屋の賑わい

伊勢街道沿いの宿場町であった六軒茶屋はお伊勢参りの人々で江戸時代に大いに栄えた。文政13年(1830年)におかげ参りが流行した時には、日に数万人の人々が六茶屋を往来したとある。伊勢音頭道中歌にも「明日はお発ちか、お名残り借しや、六新茶屋まで送りしょ・・・」と唄われている』

 江漢さん、北上し亀山から琵琶湖方面をめざします。

 

2025年2月10日月曜日

江漢西遊日記二 その41

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

七 日天 氣筥(トハ)より舟 ニ能里小嶋 数 々 能間

なのかてんき  とば よりふねにのりこじまかずかずのあいだ


を乗る尓景色 妙 也 飛 嶋 右 ニ見て左

をのるにけしきたえなりとびしまみぎにみてひだり


尓浅 間山 を望 ミ二里程 も走 リ二 見能岩

にあさまやまをのぞみにりほどもはしりふたみのいわ


を左  ニ見夫 より一 里程 過 て三 軒 屋と

をひだりにみそれよりいちりほどすぎてさんげんやと


云フ処  尓入 内 川 なり爰 ニて風 少  々  吹 出春

いうところにいるうちかわなりここにてかぜしょうしょうふきだす


沖 ニて風 出ルと甚  タ武川かしき処  なりと三

おきにてかぜでるとはなはだむずかしきところなりとさん


軒 屋と云 処  を五六 町  過 て川 﨑 なり爰 ヨリ

げんやというところをごろくちょうすぎてかわさきなりここより


宮 川 能渡 シへ一 里さて山 田ハ裏 \/まで

みやかわのわたしへいちりさてやまだはうらうらまで


草 婦きなし皆 瓦屋(カワラヤ)なり川 を渡 リて

くさぶきなしみな   かわらや なりかわをわたりて


一 里行キて昼  喰 春亦 一 里半 過 て金剛(コンコウ)

いちりゆきてちゅうじきすまたいちりはんすぎて   こんごう

(大意)

(補足)

「七日」、天明8年八月七日。1788年9月6日。

「筥」、笘(とま『①ふだ。 文字を書くふだ。 箋(セン) ②むち。 竹のむち』)の音をあてて鳥羽。前頁でも鳥羽の部分を白塗り(胡粉か?絵師なので手元にはいつもある)して修正してますが、鳥羽の漢字を思い出せなかったわけでもないでしょうに。

「浅間山」、朝熊(あさま)山。この古地図の底辺中央左寄りに朝熊獄(あさまだけ)があります。

「川﨑」、赤丸が河崎。この地図でも江漢がたどった航路や渡しを確認できます。

そして金剛坂は赤丸のところ。 

次頁に出てくる櫛田川が金剛坂のすぐ先に、さらにその先は松坂なり。


 

2025年2月9日日曜日

江漢西遊日記二 その40

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

入 又 渚辺 を行キ磯 津多えへ行 事 なり池

いりまたなぎさをゆきいそづたえへゆくことなりいけ


の浦 と云 処  池 の様 ニ海 入 込ミ飛 嶋 亦 ハ七 ツ

のうらというところいけのようにうみいりこみとびしままたはななつ


嶋 と云 処  アリおもしろき処  なり夫 より松

しまというところありおもしろきところなりそれよりまつ


山 過 て鳥羽(トハ)尓至 ル八時半 比 なり爰 ハせま

やますぎて   とば にいたるやつはんころなりここはせま


き所  なれと大廻(マワ)し能舩 爰 ニ舩ナか〃里春る

きところなれどおお まわ しのふねここにふながかりする


所  なり旅 館 多 し爰 迄 五十 町  一 里にして四里

ところなりりょかんおおしここまでごじっちょういちりにしてしり


能路 ナリ旅 館 能裏 能口 より出テ四五町

のみちなりりょかんのうらのくちよりでてしごちょう


山 ニ上 ル即  チヒヨリ山 と云 山 上  ニ小 サキ亭 能

やまにのぼるすなわちひよりやまというさんじょうにちいさきていの


如 キありて四方 を眺 武ニ嶋 数 々見 ヘ能き

ごときありてしほうをのぞむにしまかずかずみえよき


風 景 なり爰 ニヒヨリを見定 メ舩 ヲ出タ春と

ふうけいなりここにひよりをみさだめふねをいだすと

(大意)

(補足)

「飛島」、上部中央緑色の島。

「八時半」、午後三時頃。

「大廻(マワ)し」、『おおまわし【大回し】

② 小さな港には寄らず,主要港間を行く航海。特に,江戸と大坂を結ぶ航路にいう』。紀州から鳥羽に入った舟は、ここから下田まで直行した。

「ヒヨリ山」、上の地図にも坂手島があり、その向かいの山が日和山。 

 現在の日和山の写真。 

 現在でも頂上には展望台があります。写真では登るのが大変そうに見えますが、江漢の日記では散歩がてらにちょいとと言う感じです。

 

2025年2月8日土曜日

江漢西遊日記二 その39

P48 東京国立博物館蔵

P49

(読み)

鳥羽浦

とばうら


ヒヨリ山

ひよりやま


爰 ハ諸 国 の舩

ここはしょこくのふな


港留(カ〃リ)て天 氣

   かかり でてんき


風 を見合 て

かぜをみあいて


舩 を出ス処

ふねをだすところ


なり

なり


小嶋 数 々

こじまかずかず


見ヘル

みえる

P49

北流到吾屋断橋幽人傍岸帰と夫

            とそれ


より五六 町  行 て浦 邊なり山 の根尓岩

よりごろくちょうゆきてうらべなりやまのねにいわ


二 ツあり其 波 うちニてこ里ヲ取ル処  聞 しより

ふたつありそのなみうちにてこりをとるところききしより


ハザツトし多る処  なり其 岩 能根を飛ヒ越シ

はざっとしたるところなりそのいわのねをとびこし


浦 邊津多へ尓と者゛浦 尓行く其 路 往

うらべつたえにとば うらにゆくそのみちおう


来 尓非 ス程 なく一 村 尓入 ル川 あり舟 ニて渡 ル

らいにあらずほどなくひとむらにはいるかわありふねにてわたる


夫 よりしてハ山 能腰 を行ク一 向 道 不知 して

それよりしてはやまのこしをゆくいっこうみちしらずして


路 を問フ人 もなき処  ヘ老 婆と小童  二 人

みちをとうひともなきところへろうばとこわらわふたり


行 を見付 其 者 能後 ニ付キて行ク尓山 一 ツ

ゆきをみつけそのもののあとにつきてゆくにやまひとつ


越して磯 邊へ出て岩 ニ飛 能り或  ハ海 ニ

こしていそべへでていわにとびのりあるいはうみに

(大意)

(補足)

 戯れの一句の意味は不明ですけど、あなた(月僊)とわたしは川の橋も壊れて、もう二度と会うことはないでしょうよ、といった感じか?

「こ里」、『こり【垢離】神仏に祈願する前に海水や冷水を浴びて,心身の汚れを落とし,清めること。水ごり』。伊勢神宮が近いのでこのあたりの川辺や海辺にいくつかあったよう。

「ヒヨリ山」、当時もそれからも風待ちの重要な港でありました。

 きれいですね。

 

2025年2月7日金曜日

江漢西遊日記二 その38

P46 東京国立博物館蔵

P47

(読み)

お出 などとてかえ里个る月 仙 待 か年サイ\/

おいでなどとてかえりけるげっせんまちかねさいさい


迎  の人 をよこし其 夜兎角 月 仙 話 シを

むかえのひとをよこしそのよとかくげっせんはなしを


してさかなもなき酒 を出し漸  ク五更 過 ニ

してさかなもなきさけをだしようやくごこうすぎに


寝る明日ハ何 分 蝋油画(ロウユクワ)を能そ武とありけ連

ねるあすはなにぶん    ろうゆ が をのぞむとありけれ

 

ハ明  朝  二 見 浦 を見 物 して亦 爰 ニ返 ルべし

ばみょうちょうふたみがうらをけんぶつしてまたここにかえるべし


と申  置 个る[ダシヌケニ出  立 しけ連ハ月 仙 甚  多腹 を立チけるとぞ]

ともうしおきける だしぬけにしゅったつしければげっせんはなはだはらをたちけるとぞ


六 日寂  照  寺を出て二 見 浦 尓行ク尓山 尓

むいかじゃくしょうじをでてふたみがうらにゆくにやまに


入 半 路過 て川 あり渡 ツて程 なく二 見尓

いりはんろすぎてかわありわたってほどなくふたみに


至 ル其 路 茶 やニより中  喰 春座しき袋

いたるそのみちちゃやによりちゅうじきすざしきふくろ


戸月 僊 の画なり戯   尓一 句を書 ス一 水

どげっせんのえなりたわむれにいっくをしょすいっすい

P47

二 見ガ浦

ふたみがうら


向 フ嶋 ニハ

むかうしまには


鳥羽浦 也

とばうらなり

(大意)

(補足)

「迎」のくずし字は「卩」が右にくるのではなく下にきます。

「五更」、『ごこう ―かう【五更】

① 一夜を5等分した,初更(一更)・二更・三更・四更・五更の総称。また,一夜。一晩中。五夜。「睡らずして騰騰として―を送る」〈菅家文草〉 →更(こう)

②  →1の第五。また,寅(とら)の刻。戊夜(ぼや)』、午前4時頃。

 酒は出すものの、さかなもなく、明け方近くまではなしの相手をさせられ睡眠不足の上、蝋油画を教えてくれとしつこく頼まれ、江漢さんたまらずダシヌケニ出立してしまいました。月僊が甚だ腹を立てていたとあとで聞いて、気分はスッキリしたようです。

「六日」、天明8年八月六日。1788年9月5日。

「二見浦」、古地図と現在の地図。それほどおおきく地形はかわってなさそうです。 

 月僊の顔はもう見たくないとあわてて出立したものの、昼飯に立ち寄った茶屋の袋戸にその月僊の画があって、ガックリ。

 月僊も江漢も当時それなりの有名人でありました。後世の人々はとかく持ち上げて神格化したり、逆に見下げたりといろいろな思惑でその人となりを伝えてきてしまっています。しかし、ここのように江漢がふたりのやりとりを、かきわったように生き生きと抜き出して記しているのは、とても貴重なことであるとおもいます。

 

2025年2月6日木曜日

江漢西遊日記二 その37

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

なか\/蘭 画ハ蝋 油を以 テ作 ル故 尓一 朝  ニ出来

なかなからんがはろうゆをもってつくるゆえにいっちょうにでき


春゛彼 カ如 きザツ画尓非 ス故 尓能かれて前

ず かれがごときざつがにあらずゆえにのがれてまえ


能倡家(シヨロヤ)尓行キ見ンとて行 个る尓お山 十  二三 人

の   じょろや にゆきみんとてゆきけるにおやまじゅうにさんにん


吾 を中 尓おきぐる里ニ取 巻き多りさて之(コレ)

われをなかにおきぐるりにとりまきたりさて  これ


尓ハ甚  タ困 り多り此 地の風 尓や酒 も肴  も

にははなはだこまりたりこのちのふうにやさけもさかなも


未 タ出来(タサ)ツ甚  タテレ多る者 ニてよふ\/酒 さ

いまだ   ださ ずはなはだてれたるものにてようようさけさ


かなを持 来 リ夫 より話 シなとして所 持し多る

かなをもちきたりそれよりはなしなどしてしょじしたる


能そき目か年を取 よせ両  国 橋 中 洲の涼 ミ

のぞきめがねをとりよせりょうごくばしなかすのすずみ


の景 を見セけ連ハお山 どもきもをつぶし

のけいをみせければおやまどもきもをつぶし


夫 より心 ロや春く者なし个る明日(アス)も御咄 シニ

それよりこころやすくはなしける   あす もおはなしに

(大意)

(補足)

「彼カ如きザツ画尓非ス」、「ザツ画」は雑画でしょうけど、自信過剰の三乗ぐらいの江漢さん、余程月僊和尚が気に入らないようであります。なお月僊の画はネットでたくさん見ることができます。

「能かれて」、逃れて(のがれて)、です。月僊の画をザツ画とけなしながらも、それでも気分はイライラ、気分転換にというところでしょう。

「倡家(シヨロヤ)」、娼家(しょうか)。天明年間には伊勢古市廓内の人家は342軒、妓楼70軒、寺3ヶ所、大芝居2場という記録が残っている。参宮者の集まる伊勢の地では遊廓が繁盛し、中でも伊勢神宮の地、古市は隆盛をほこったと宇治山田市史にある、とありました。

 娼家でお山12,3人に囲まれて(江漢もテレるようだ)、どんちゃん騒ぎをするかとおもいきや、のぞき目がねでお山たちがきもをつぶす様子を楽しむとは、いかにも江漢らしい。

 

2025年2月5日水曜日

江漢西遊日記二 その36

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

司馬江 漢 と云フ者 也 足 下吾カ名を不

しばこうかんというものなりそっかわがなをしら


知やと云 ハいか尓も不知 トなりと云 爰 ニ於 て

ずやといえばいかにもしらずとなりというここにおいて


色 \/持 多る画出し見セ个り其 中 尓蘭

いろいろもちたるえだしみせけりそのなかにらん


法 ニてかき多る人 物 アリ髭(ヒゲ)のチリ\/として

ぽうにてかきたるじんぶつあり  ひげ のちりちりとして


活(イケル)カ如 キ者 アリ之 を見て忽  ち其 あい

  いける がごときものありこれをみてたちまちそのあい


さつ加王里て先ツ内(ナイ)宮(クウ)へ参 詣 して我

さつかわりてまず  ない   ぐう へさんけいしてわが


方 尓てお宿 い多春べしゆる\/滞 留  し

ほうにておやどいたすべしゆるゆるたいりゅうし


玉 へと云フ夫 故 尓参 詣 して返 リ尓より个るニ

たまえというそれゆえにさんけいしてかえりによりけるに


打ツて變(カワリ)多る馳走 婦り尓て酒 よ肴 ナよと

うって  かわり たるちそうぶりにてさけよさかなよと


て其 夜ハ爰 ニ泊 リ个る尓其 夜蘭 画ヲ望 ミ个るニ

てそのよはここにとまりけるにそのよらんがをのぞみけるに

(大意)

(補足)

「足下」、『二人称。自分と同等の地位または下位の相手を敬って,あるいはあらたまって呼ぶ語。貴殿。「―の意見を聞きたい」』

「蘭法ニてかき多る人物アリ髭(ヒゲ)のチリ\/として活(イケル)カ如キ者アリ」、江漢自慢の一枚で、道中各所で見せています。「髭(ヒゲ)のチリ\/として活(イケル)カ如キ」がいつも同じ表現で用いられていて、いわば殺し文句。

「酒よ肴ナよと」、最初の「よ」が「尓」にも見えますが、文章のながれから「よ」です。

 江漢さん、自分か月仙のところに訪ねておきながら、自分のことを知らないことに、がっかりするよりも、どうやら腹をたててしまった様子。自慢の蘭画をみせて、どうだ恐れ入ったかと、それに対する月仙も手のひらをころっと返すような応対ぶり。

 どっちも、どっちですね。

 

2025年2月4日火曜日

江漢西遊日記二 その35

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

四里此 日多 ク歩行 春甚  タく多びれ多れハ一 里

しりこのひおおくほこうすはなはだくたびれたればいちり


手前 新 茶 屋と云フ処  尓泊 ル此 邊 六 月 比 大

てまえしんちゃやというところにとまるこのへんろくがつころおお


水 出多りと云

みずでたりという


五 日天 氣ニハあれとハラ\/雨 朝 出  立 して宮 川

いつかてんきにはあれどはらはらあめあさしゅったつしてみやかわ


能渡 シ渡 レハ山 田皆 町 續(ツ〃)く皆 瓦  屋なり

のわたしわたればやまだみなまち  つづ くみなかわらやなり


日本 国 中  ヨリ人 能来 ル処  故 繁 昌  能地也

にほんこくじゅうよりひとのきたるところゆえはんじょうのちなり


先ツ下宮 ヘ参 詣 春夫 ヨリ中 能地蔵 と云 処  ニ

まずげぐうへさんけいすそれよりなかのじぞうというところに


寂  照  寺尓月 仙 と云 画を描ク坊 主住 ケル

じゃくしょうじにげっせんというえをかくぼうずすみける


故 ニ尋  ル尓月 仙 出て逢ヒ吾 ニ向 ツ 云 ニハ其

ゆえにたずねるにげっせんでてあいわれにむかっていうにはその


か多ハ何 人 なりやと云フ吾 ハ東 都のものニて

かたはなんぴとなりやというわれはとうとのものにて

(大意)

(補足)

「新茶屋と云フ処尓泊ル」。左上に松阪、右下に新茶屋村があります。 

「五日」、天明8年八月五日。1788年9月4日。

「ハラ\/雨」、『② 木の葉・花びら・雨・涙のような軽いものが,少しずつ続いて静かに落ちるさま。「―と花が散る」「涙が―(と)落ちる」』。『ぱらぱら① 比較的小さな粒状の物が,少量ではあるが連続的に落ちかかるさま。また,その時に出る音を表す語。「雨は朝のうち―と降っただけだ」「塩を―(と)ふりかける」』。

「宮川能渡シ渡レハ山田」、小俣村の右下が宮川で渡れば山田村、すぐ外宮です。

「下宮」、外宮。

「月仙」、寛保元(1741)年〜文化六(1809)年。江漢よりも少し遅れて銅版画を志した。寂照寺には月仙の書画が数多く残されていたが、明治14年火災にあい、多くは焼失した。

 江漢さんはお坊さんが嫌いです。「月仙と云画を描ク坊主住ケル」という表現にもそれがにじんでいるようです。

 

2025年2月3日月曜日

江漢西遊日記二 その34

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

木 唇 ハ五十  余能人 也 居へ風呂を立 湯尓入レ

もくしんはごじゅうよのひとなりすへぶろをたてゆにいれ


食  事して休 ミ个連

しょくじしてやすみけれ


四 日天 氣然  とも時 々 雨 朝 五時ニ爰 ヲ立ツて

よっかてんきしかれどもときどきあめあさごじにここをたって


津能町 を見る尓町 よこ多てニアリて往 来 ハ

つのまちをみるにまちよこたてにありておうらいは


入 口 より出口 まで二里程 あり能 渡海 也

いりぐちよりでぐちまでにりほどありよきとかいなり


夫 ヨリ雲 津と云 処  ニ至 ル雲 づ川 を渡 ル此 川

それよりくもずというところにいたるくもずかわをわたるこのかわ


伊賀山 ヨリ流 ルと云フ亦 河 を二 ツ渡 ル此 間(アイ)多゛

いがさんよりながるというまたかわをふたつわたるこの  あい だ  


松 阪 を通 ル能 所  ニて江戸駿 河町  三ツ井と云

まつざかをとおるよきところにてえどするがちょうみついという


越 後や能本 家アリ一 町  程 住ム大 家也 津ト

えちごやのほんけありいっちょうほどすむたいかなりつと


違 ヒ横 町  ハあまりなし爰 ヨリお王多と云フ処  へ

ちがいよこちょうはあまりなしここよりおわだというところへ

(大意)

(補足)

「居へ風呂」、『すえふろ すゑ―【据え風呂】→すいふろ(水風呂)に同じ』『すいふろ【水風呂】桶の下部が釜になった,水から沸かす形式の風呂。湯を汲み入れる風呂や蒸し風呂に対していう。「年に一度の―を焼(たか)れしに」〈浮世草子・世間胸算用•1〉』。五右衛門風呂のようなもの。当時、家にこのような風呂があるのはそれなりのお家。

「八月四日」、天明8年八月四日。1788年9月3日。

「朝五時」、朝八時頃。

「渡海」、海を渡るわけがないので「都会」のまちがいでしょう。

「雲津」、津の街の名に引きずられたようで、「雲出」(くもず)です。地図の中央付近。

 松坂はさらに下の方、河の流れているところにあります。

「江戸駿河町三ツ井と云越後や能本家アリ」、三井高利が江戸時代に日本橋に開業した呉服商・越後屋は、現在の株式会社三越伊勢丹ホールディングス。

「お王多」、「小俣」(おばた)。地図の左上、太い川があるところ。そのまま右下に進むと外宮があり、さらにすすむと内宮があります。

 もうすぐ伊勢神宮です。

 

2025年2月2日日曜日

江漢西遊日記二 その33

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

    春爰 を過 て津尓至 ル藤 堂 侯 三 十  万

さんけいすここをすぎてつにいたるとうどうこうさんじゅうまん


石 能城  下富商  軒 を連ラ子繁 昌  能地

ごくのじょうかふしょうのきをつらねはんじょうのち


なり雨 路 より大 降リ茶 人 木 唇 ハ日永 ニて

なりあめみちよりおおふりちゃじんもくしんはひながにて


逢ひ申 して云フ私  ハ津能町 ニ居 申  候   必  スお

あいもうしていうわたしはつのまにちおりもうしそうろうかならずお


通  筋 尓候   間  私   方 へお泊 リ可被成  と申  候   故 尓

とおりすじにそうろうあいだわたくしかたへおとまりなさるべしともうしそうろうゆえに


此 茶 人 方 ヘ参  茶 人 出て迷惑(メイワク)さふなる

このちゃじんかたへまいるちゃじんでて   めいわく そうなる


顔 色 をしてコレハ\/ 雨 ニてお困  サア\/コレヱ\/ と

かおいろをしてこれはこれはあめにておこまりさあさあこれえこれえと


云 故 ニ先 うへ尓あかり見ル尓家内 三 人 なり

いうゆえにまずうえにあがりみるにかないさんにんなり


家 ハ借  家と見へ町 並 にして門 ハ廣 し三 十  三

いえはしゃくやとみえまちなみにしてもんはひろしさんじゅうさん


四五能女  房 十  八 九能娘  どれもふき里よふ美なら春

しごのにょうぼうじゅうはっくのむすめどれもぶきりょうびならず

(大意)

(補足)

「津尓至ル藤堂侯三十万石能城下」、津は藤堂和泉守居城とあるところ。当時の津藩主は第9代・藤堂高嶷(たかさと)。

 娘を「十八九」としながらも、女房は「三十三四五」と細かく刻んでいる。さらには「どれもふき里よふ美なら春」と手厳しい。この日記は一巻から六巻まで江漢は言い放題なので、出版されなかったのでしょう。そのかわりに西遊旅譚が出版されています。

 

2025年2月1日土曜日

江漢西遊日記二 その32

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

八 月 朔 日 天 氣風 アリ高 尾九  兵衛画の

はちがつついたちてんきかぜありたかおきゅうべええの


謝 金 持参 主 人 よりも餞 別 宝 金 を贈

しゃきんじさんしゅじんよりもせんべつほうきんをおくる


明日出  立 して神 戸へ至 らんと春

あすしゅったつしてかんべへいたらんとす


二 日天 氣ニて亀六 と同 道 して四時ころ

ふつかてんきにてきろくとどうどうしてよじごろ


行 着ク夫 より城  内 へ入  本 田侯 尓まミ由

ゆきつくそれよりじょうないへはいりほんだこうにまみゆ


涼 しき所  とて隅(スミ)屋くらへ登 リ画四五枚

すずしきところとて  すみ やぐらへのぼりえしごまい


席 画程 なく旅 宿 ヘ帰 リ其 夜亦 大 雨

せきがほどなくたびやどへかえりそのよまたおおあめ


三 日曇 リ折 々 雨 四時より亦 城  内 ニ参  絹

みっかくもりおりおりあめよじよりまたじょうないにまいるきぬ


地画六 枚 紙 五六 枚 扇  七 八 本 認  メ八 時過

じえろくまいかみごろくまいおおぎしちはちほんしたためはちじすぎ


神 戸を出  立 春程 なく白 子観 音 尓参 詣

かんべをしゅったつすほどなくしらこかんのんにさんけい

(大意)

(補足)

「八月朔日」、天明8年八月朔日。1788年8月31日。

「神戸」(かんべ)、「本田侯(地図では本多)」、神戸藩一万五千石の藩主。天明8年は8月16日まで在藩であった。日永・神戸・白子の地図。 

「白子観音」、寺町家(白子村のすぐ下にある)に現存する。

「隅(スミ)屋くら」、角櫓。一番左にあるのが角櫓だとおもいます。 

 二日三日と日をまたいで、お殿様に随分な量の画などを描いています。

神戸へ着いてすぐに城内へすんなり入ってように記されていますが、いきなり殿様に「まみゆ」というのも、ありえないはなしで、そのへんの仕組みはどのようになっているのか、興味のあるところであります。