2025年7月20日日曜日

江漢西遊日記四 その63

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

牛 なり蘭 人 鉄 槌(テツツイ)を以 テひ多以を打 殺(コロス)又

うしなりらんじんてっつい     をもってひたいをうち  ころす また


四足 を志バ里横 ニして能どを切り殺 春夫 ヨリ

しそくをしばりよこにしてのどをきりころすそれより


後 足 を志バ里車  ニて引 あけるニ口 よりして

あとあしをしばりくるまにてひきあげるにくちよりして


水 出ツ足 能処  ヨリ段 \/と皮 をひらき殊\/

みずでずあしのところよりだんだんとかわをひらきことごと


く肉 を塩 ニ春彼 国 ニてハ牛  肉 を上  喰  と春る

くにくをしおにすかのくににてはぎゅうにくをじょうしょくとする


中  以下ハパンとて小麦 ニて製(セイ)春物 なり之 を食

ちゅういかはぱんとてこむぎにて  せい すものなりこれをくう 


寒  国 ニして米 を不   生故 なり

さむしくににしてこめをしょうぜずゆえなり


廿   七 日 とかく雨 折 \/時雨(シクレ)なり朝 五  時 比 吉

にじゅうしちにちとかくあめおりおり   しぐれ なりあさいつつどきころよし


雄息(ソク)定  之助 おらん多通 詞ニて其文(フン)箇(コ)

お  そく じょうのすけおらんだつうじにてその ぶん   こ


持 となり紅 毛 舩 へ荷積ミ水 門 より小舟 尓

もちとなりこうもうせんへにづみすいもんよりこぶねに

(大意)

(補足)

「ひ多以」「志バ里」、変体仮名が目立ちます。

「段\/」、くずし字辞典にはここのような形のものはありませんでした。

「殊\/く」、悉く。ことごとく。

「廿七日」、天明8年10月27日。西暦1788年11月24日。

「文箇」、文庫。

「紅毛舩」、『こうもうせん【紅毛船】江戸時代,オランダ船の俗称。幕末には広く諸外国の船をいう』

 

2025年7月19日土曜日

江漢西遊日記四 その62

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

妙  なる人 と云 とぞ西 国 長 崎 近 邊 能大 名  衆

みょうなるひとというとぞさいごくながさききんぺんのだいみょうしゅう


一 代 ニ一 度此 嶋 へお入  有 とぞ其 外 ハなら春゛

いちだいにいちどこのしまへおはいりありとぞそのほかはならず


廿   六 日 少  々  雨天 向  地稲 佐悟真 寺ニ行キ

にじゅうろくにちしょうしょううてんむかいちいなさごしんじにゆき


唐 人 おらん多能墳(ハカ)を見る皆 臥(フシ)多るまゝ

とうじんおらんだの  はか をみるみな  ふし たるまま


尓葬(トムロウ)蘭 人 ヅール。コツプ。と云 人 能塚 石 ヲ

に  とうろう らんじんずーる こっぷ というひとのつかいしを


カマボコ形リ尓して何 やラ蘭 字を彫り

かまぼこなりにしてなにやららんじをほり


金 箔 を入レ上 ニ砂 時計 を彫ル是 ハ漏(ロウ)

きんぱくをいれうえにすなどけいをほるこれは  ろう


刻 ツキ多る譬 へなり宿 ヘ帰 りて牛 能生 肉 ヲ

こくつきたるたとえなりやどへかえりてうしのなまにくを


喰フ味  ヒ鴨(カモ)能如 しおらん多此 節 出  舩 前 ニ

くうあじわい  かも のごとしおらんだこのせつしゅっこうまえに


ニて牛 を数 \/死して塩 ニ春其 牛 皆赤(アカ)

にてうしをかずかずししてしおにすそのうしみな あか

(大意)

(補足)

「廿六日」、天明8年10月26日。西暦1788年11月23日。

「悟真寺」夜景で有名な稲佐山の麓、浄土宗・悟真寺の境内にあり、歴代住職によって守られてきた世界的にも珍しい国際墓地。元和から寛永初年にかけて、長崎で病死した唐人の墓地として境内に百間四方の土地を設定して、朱印をえたとされる。西遊旅譚三に図があります。 

「蘭人ヅール。コツプ。」、Hendrik Godfried Duurkoop(ヘンドリック・ゴドフリート・デュールコープ、ドルヌム(ドイツ)、1736年5月5日-1778年7月27日)。ドゥールコープは日本でいわゆるオランダ人墓地に埋葬された。1778年、彼は確かにそこに埋葬された最初の人ではなかったが、彼の墓石は現在、この場所で最も古い墓標となっている。と、オランダ版のウィキペディアにありました。西遊旅譚三の図。 

「漏(ロウ)刻」、『ろうこく【漏刻・漏剋】

水時計の一種。水を入れた器(漏壺(ろうこ))から常時一定量の水を落とし,その水位変化によって目盛りが時刻を示す装置。時の刻み』

 鴨と牛肉は見た目も味も確かに似ています。しかし牛肉は鴨肉とちがって、やはり獣臭い。個人的には鴨肉に軍配があがります。

 出島の図に、左上の部分に牛が引っ張られている画がありました。

 

2025年7月18日金曜日

江漢西遊日記四 その61

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

え津き入 ル事 なりとて此 かひ多んハ当 年 初 メ

へつきいれることなりとてこのかぴたんはとうねんはじめ


て参  候   者 ニて餘 リ懇 意ニなし夫 より出嶋 を出テ

てまいりそうろうものにてあまりこんいになしそれよりでじまをいで


个る吾 等ニ付 添ヒ来 ル者 三 人 皆 長 崎 者 ニて

けるわれらにつきそいきたるものさんにんみなながさきものにて


一 向 おらん多人 をミ多る事 なし尤  も此 出嶋

いっこうおらんだじんをみたることなしもっともこのでじま


蘭 人 居所  ハ一 向 入 ル事 なら春吾 カ蘭 人 と物

らんじんいどころはいっこうはいることならずわれがらんじんともの


談  ヲ春るを見て誠  ニ肝(キモ)を津婦し其 上 かひ多ん

かたるをするをみてまことに  きも をつぶしそのうえかぴたん


と知ル人 なりとあれハ何 と云 人 と者なし合へり

としるひとなりとあればなんというひととはなしあえり


とぞ長 崎 の者 ハ唐 人 ハ見れど蘭 人 ハ見多

とぞながさきのものはとうじんはみれどらんじんはみた


る事 なし佛 参 など皆 駕籠ニ能りて行ク

ることなしぶっさんなどみなかごにのりてゆく


故 なり夫 故 尓訳(ワケ)を知らぬ者 ハ今 ニても奇(キ)

ゆえなりそれゆえに  わけ をしらぬものはいまにても  き

(大意)

(補足)

 右側の頁の左下隅にあるのは「卅」。十(10)廿(20)卅(30)。丁数です。

「参候」、小さく「人」のような形の字が「候」のくずし字というか略字。「丶」のときもあります。

「夫より出嶋を出テ个る」、西遊旅譚三に出島の画があります。 

 方角が入っているので、長崎の街に対してどのような位置にあるかがわかります。

「尤も」、このくずし字もよく出てきます。

 出島に入って、オランダ人と歓談したり、さらにはカピタンと知り合いでいかにも親しそうに話す様子を見て、まわりの通詞などが驚き、江漢さんが鼻高々で胸をはってそり返っている姿が目に浮かびます。

 

2025年7月17日木曜日

江漢西遊日記四 その60

P70 東京国立博物館蔵

(読み)

ツキ来 ル者 ヘ与 ヘ个り此 かひ多んハ江戸ヘ五度

つききたるものへあたえけりこのかぴたんはえどへごど


参  多る者 ニて知ル者 なり名ヨハン。ネス。カスパル。

まいりたるものにてしるものなりなよはん ねす かすぱる


ロンベルグと云 亦 一 人能かひ多んハ二階 住居(スマイ)ニ

ろんべるぐというまたひとりのかぴたんはにかい   すまい に


てハなし路 ニ花 畠  と云 アリ地(イケ)能上 ニ橋 アリ

てはなしみちにはなばたけというあり  いけ のうえにはしあり


其 上 ニ涼 ミ所  アリ玄 関 能様 なる処  より入 て

そのうえにすずみどころありげんかんのようなるところよりいりて


坐しきへ通 り夫 より玉 津きと云 処  を見 物

ざしきへとおりそれよりたまつきというところをけんぶつ


春是 ハ碁双 六 なと春る様 なる者 ニて戯(タワムレ)

すこれはごすごろくなどするようなるものにて  たわむれ


なり四 尺  尓七 尺  程 ニ羅紗 を張りて机(ツクエ)の如 シ

なりよんしゃくにななしゃくほどにらしゃをはりて  つくえ のごとし


夫 ニ玉 を置き馬 を打 ムチ能如 キ棒(ホウ)ニて

それにたまをおきうまをうつむちのごとき  ぼう にて


津くる也 四所 ニ玉 能落 ル所  ありてそれ

つくるなりししょにたまのおちるところありてそれ

(大意)

(補足)

「玉津き」、『「射玉為賭図」石崎融思 1797年11月11日制作』とあるので、江漢がみたのはこの画と同じものかもしれません。 

「かひ多ん」、江戸時代,長崎の出島に置かれたオランダ商館の館長。慶長14(1609)年〜安政3(1856)年までの166代を数える。カピタンは毎年正月、長崎より江戸におもむき、将軍に拝謁し、土産ものと海外事情を記した「風説書」提出した。貿易許可の謝意を表すためでありました。

 ビリヤード台についての細かい文章の説明はありますが、画にするほどの興味はひかなかったようで、西遊旅譚にも画は描かれていませんでした。

 

2025年7月16日水曜日

江漢西遊日記四 その59

P69 東京国立博物館蔵

(読み)

其 内 より出で手ニ長 ヒキセルを持チ吾 等ニ

そのうちよりいでてにながいきせるをもちわれらに


向  て挨 拶ツ春松 十  郎 通 辯 して云 ニハナント。

むかいてあいさつすまつじゅうろうつうべんしていうにはなんと


リツパ。尓ケツコーカとあちら可ら自慢(シマン)して

りっぱ にけっこーかとあちらから   じまん して


云フなり彼 等日本 をバ物 をかさら春゛至  て素

いうなりかれらにほんをばものをかざらず いたってそ


なる国 風 と思 ヒ云フなるべし夫 よりこちらからも

なるこくふうとおもいいうなるべしそれよりこちらからも


是 ハ目を驚(ヲトロ)可し多る事 と返 答 春夫 より

これはめを  おどろ かしたることとへんとうすそれより


黒  坊 二 人銀 能盆 の上 尓金 を焼 付し多る

くろんぼうふたりぎんのぼんのうえにきんをやきふしたる


コツプとフラスコと能せ傍  ラ尓立ツ其 コツプ

こっぷとふらすことのせかたわらにたつそのこっぷ


ニて酒 を呑ムアネイス。ウヱインと云 焼酎(セ ウチ ウ)也

にてさけをのむあねいす うえいんという   しょうちゅう なり


是 ハウイキヨウニて造 ル酒 なり剛(ツヨイ)酒 故 ニ吾 ニ

これはういきょうにてつくるさけなり  つよい さけゆえにわれに

(大意)

(補足)

「アネイス。ウヱインと云焼酎」、フランスではパスティス、アニゼット、ギリシャではウゾ、トルコではラクと呼ばれる酒のことか、食前酒。

 カピタンの云う「ナント。リツパ。尓ケツコーカ」は「どうです、とても立派でよい部屋でしょう」と手振り身振りで部屋を指し示し、江漢一同はお世辞もあるでしょうけど、結構本気で驚きながら「どこを見ても驚いています」というような会話でしょうか。

「ウイキヨウ」、『ういきょう ―きやう【茴香】セリ科の多年草。南ヨーロッパ原産で,古く日本に入り栽培される。芳香があり,高さ1~2メートル。葉は複葉で小葉は糸状の裂片となる。六月ごろ,枝頂に黄色の小花を多数つけ,秋,円柱状の小果を結ぶ。乾燥した果実を健胃薬・香味料などにする。フェンネル。〔「茴香の花」は 夏〕』

 少々長くなりますが、オランダはこの頃より危機に陥ります。このような状況です。

『18世紀末のフランス革命に始まる動乱の中でオランダも危機を迎え、1795年に連邦共和国は滅亡、新たに成立したバタヴィア共和国は東インド会社を経営不振を理由として廃止した。さらに1806年からは本国は実質的にフランスの支配を受けた。1808年8月にはフランスと敵対していたイギリスの軍艦がオランダの艦船を追って長崎に強制入港するというフェートン号事件が起きた。1811年からはバタヴィアをイギリスに占領され、オランダ国家とその植民地が消滅するという事態となった。しかし、長崎のオランダ商館は江戸幕府に対して、東インド会社の解散やオランダ国家の変動を知らせず、出島は当時世界で一ヶ所だけオランダの国旗を掲げ続けていた』。

 

2025年7月15日火曜日

江漢西遊日記四 その58

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

綿 能赤 キ色 能物 ニて包 ミ髭(ヒゲ)ハなし辞(コトハ)

めんのあかきいろのものにてつつみ  ひげ はなし  ことば


ハ天 竺 ことハニして蘭 人 ニも不通  甚  タキタナ

はてんじくことばにしてらんじんにもつうじずはなはだきたな


キ者 なり夫 よりかび多ん部屋へ行ク畳(タゝミ)

きものなりそれよりかぴたんべやへゆく  たたみ


二十  デ ウも敷(シキ)四方 ランマ下 尓ビイドロ尓描(カキ)

にじゅうじょうも  しき しほうらんましたにびいどろに  かき


多る額 を掛ケ並 ヘ下 ニハ倚子(イス)を並 ヘ倚子毎(コト)

たるがくをかけならべしたには   いす をならべいす  ごと


尓唾子(タコ)とて津ハ吐キ之 ハ銀 ニて竪(タテ)二尺(シャク)程 ニて

に   だこ とてつばはきこれはぎんにて  たて に  しゃく ほどにて


花瓶(クワヒン)能如 し畳  能上 ニ毛 せんの如 キ花 を

   か びん のごとしたたみのうえにもうせんのごときはなを


織(ヲリ)多る物 をしき天 上  ノ中 尓ビイドロニて作 る

  おり たるものをしきてんじょうのなかにびいどろにてつくる


瑠理(ルリ)燈 を釣リ向 フ尓紅 キ幕(マク)能下ケ多る書

   るり とうをつりむこうにあかき  まく のさげたるしょ


斉(サイ)能如 キ処  アリ障子(ショウジ)皆 ビイドロヲ以 テ張ルかひ多ん

  さい のごときところあり   しょうじ みなびいどろをもってはるかぴたん

(大意)

(補足)

「髭」、「長」も「此」も、単独で使うときと同じくずし字になっています。

「かび多ん部屋」、西遊旅譚三に詳細なカピタン部屋の画があります。 

 ここの文章に説明されている物はすべて描きこまれていて、順に目を移してゆくとこれまた現在のカメラのパンでながしてゆくようであります。

「倚子」、椅子。

「唾子」、『だこ【唾壺】

① 唾を吐き入れるつぼ。たんつぼ。② タバコ盆の灰吹き。吐月峰(とげつぽう)』

「ビイドロ」、ガラスのこと。

「天上」、天井。

「瑠理(ルリ)燈」、『るりとう 0【瑠璃灯】

① ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊灯籠(つりどうろう)。「亭(ちん)に雪舟の巻竜銀骨の―をひらかせ」〈浮世草子・日本永代蔵•3〉

② 歌舞伎・文楽で用いる照明具。面に直角な板をつけた四角い小板にろうそくを立てたもの。大道具に打ちつけたり,並べて下げたりする。多分に装飾的』

 カピタン部屋の見取り図は、江漢さんは西洋画から学んだ遠近法をとりいれて、精緻そのもの。しかしどことなくまだ自分のものになってないような感じで全体に硬い。

 

2025年7月14日月曜日

江漢西遊日記四 その57

P67 東京国立博物館蔵

(読み)

なされと云 此 黒  坊 と云 ハおらん多ノ方 能者 ニ

なされというこのくろんぼうというはおらんだのほうのものに


あら春゛天竺(シク)能方 ノおらん多能出張 ヤハ嶋

あらず てん じく のほうのおらんだのでばりやはじま


能者 或(アルイ)ハアフリカ大 州  の中(ウチ)モノモウタア

のもの  あるい はあふりかたいしゅうの  うち ものもうたあ


バと云 処  能熱國(ネツコク)能産 れなり故 尓色 黒 く

ぱというところの   ねつこく のうまれなりゆえにいろくろく


髪 チリ\/と雲珠巻(ウツマキ)尓なり總 て目鼻 も

かみちりちりと    うずまき になりすべてめはなも


甚  タ異(コトナ)里夏 ハ裸(ハタカ)の上 ヘけさ能様 なる物 を

はなはだ  ことな りなつは  はだか のうえへけさのようなるものを


着(キ)るなり此 時 ハ冬 なりおらん多より筒 袖

  き るなりこのときはふゆまりおらんだよりつつそで


能衣類 を与 ヘ下 ハ日本 能象 股 引 尓履(クツ)ハ

のいるいをあたへしたはにほんのぞうももひきに  くつ は


雪駄(セツタ)を者くなり腰 ニハ日本 能皮 能さげ

   せった をはくなりこしにはにほんのかわのさげ


た者こ入 をさげ多り頭  ハベンガラ嶋 とて木

たばこいれをさげたりあたまはべんがらじまとても

(大意)

(補足)

「おらん多能出張」、『でばり【出張り】⑤ 出向いて仕事をする所。支店。「じやがたらのこんぱんやは,おらんだの―にござい」〈滑稽本・浮世床•初〉』

「ヤハ嶋」、ジャワ島。

「モノモウタアバ」、ウィキペディアによると『モノモタパ王国(Monomotapa)もしくはムタパ王国(Mutapa)は、王国の始まりは15世紀前半にさかのぼり、かつてアフリカ大陸の南東部に存在していた国家。南部アフリカのザンベジ川とリンポポ川の間に広がり、支配領域にはジンバブエ共和国とモザンビーク共和国の領土にあたる地域が含まれている』とあります。全く知らない王国名でした。

 江漢の思い込みの強い口からでまかせかとおもいきや、実際にあった王国でした。

アフリカの国々が内戦もなく諸物産や交易を行い人的交流もできるようになるには、あとどれくらいの年月が必要となりましょうか。諸外国がこぞってアフリカの諸民族を征服し植民地として搾取しまくった爪痕はひどく深かったようで、それらのことを先頭にたって行った国々はまったくしらんぷりとひどいものです。

 江漢さんの黒ん坊の観察は実に詳細です。ジロジロとなめるように見るというよりも絵描き独特のぱっぱっと眺めては描くような感じで見たのではないかとおもいます。

 

2025年7月13日日曜日

江漢西遊日記四 その56

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

クロ坊 スワルトヨング

くろぼうすわるとよんぐ


頭 ラハ釈 迦カシラ

かしらはしゃかがしら


ベンカラ嶋 能木綿

べんがらじまのもめん


を巻く足 ハ日本

をまくあしはにほん


の象 股 引 雪駄(セツタ)ヲ者く

のぞうももひき   せった をはく


黒 ヒとて墨 ニて

くろひとてすみにて


多る様 ニハなし日尓焦 れて

たるようにはなしひにこがれて


赤 くろし

あかぐろし


スワルトとハ黒 ヒ事

すわるととはくろいこと


ヨングとハ若 イ者 ナリ

よんぐとはわかいものなり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚三」にもおなじ構図の画があります。 

こちらのほうが、より「生う川し」になっています。

「クロ坊」、「西遊旅譚三」に、「ジャガタラ能人なり(ジャガタラハ赤道直下の国故尓??熱国なり)阿蘭陀人の下奴(ゲヌ)となり来る其色真黒(マツクロ)なり」とあります。

「スワルト」、オランダ語「zwart」、黒い。音はズワルトときこえます。

「ヨング」、オランダ語「jong」、若い。

「嶋」は縞。

「象股引」、『ぞうももひき ざう―【象股引】脚部がゆったりした股引。象が渡来した頃(1729年)のもの』

「墨ニて」のあとは虫食い?で不明。

 

2025年7月12日土曜日

江漢西遊日記四 その55

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

鳥 ゐんこ能類  ニて其 後チ不見なり亦 酒

とりいんこのたぐいにてそののちみずなりまたさけ


を呑(ノマ)セける尓何 ヤラ獨(ドフ)ろく能様 なる酒 尓

を  のま せけるになにやら  どぶ ろくのようなるさけに


て春く思 ひ个れハ酢(スシ)\/と申  尓彼 云 尓ハ薬(クスリ)\/

てすぐおもいければ  すし すしともうすにかれいうには  くすり くすり


とて玉 子へ指シ个ゝ連クスリ\/ ハ日本能辞(コトハ)なり

とてたまごへさしけけれくすりくすりはにほんの ことば なり


夫 よりして外 ヘ出亦 通 詞部屋へ参 り幸

それよりしてそとへでまたつうじべやへまいりこう


作 ニ逢フ幸 作 申  付 徳 太郎 松 十  郎 安 内?

さくにあうこうさくもうしつけとくたろうまつじゅうろうあんない


ニてかび多ん部屋ヘ行ク尓外 能土間より階(ハシコ)

にてかぴたんへやへゆくにそとのどまより  はしご


三 方 より登 ル大 者゛しごなり上ニ廊(ロウ)可ありて

さんぽうよりのぼるおおば しごなりうえに ろう かありて


先 松 十  郎 部屋ヘ行 尓皆 者き物 能まゝ也

まずまつじゅうろうへやへゆくにみなはきもののままなり


か多和ら尓黒 ン坊 来 ル松 十  能云 能 生  う川し尓

かたわらにくろんぼうきたるまつじゅうのいうよくしょううつしに

(大意)

(補足)

「類」、くずし字はこの一文字だけで読むの困難。前後の流れから読みます。「るい」、「たぐい」。

「安内」、案内でしょうけど、不明です。

 ストッツル(このとき25歳)との会話文や江漢御一行様の動きなど、まるで現場リポートをしているようで、とても生き生きと描写されています。237年前の出来事!

 

2025年7月11日金曜日

江漢西遊日記四 その54

P62 東京国立博物館蔵

P63

(読み)

清 朝  人

しんちょうじん

P63

云ヒ个り之(コレ)ハ能ク分 リて能 通 し个り。ミネール。とハ

いいけり  これ はよくわかりてよくつうじけり。みねーる。とは


貴公 と云ふ事 。カーモル。ハ部屋なり。コム\/

きこうということ。かーもる。はへやなり。こむこむ


とハ来(キタレ)\/と云 事 なり夫 故 尓跡 ニ付 て行ク尓

とは  きたれきたれということなりそれゆえにあとにつきてゆくに


二階 へ土足 ニて登 りキタナキタ〃ミをしきて

にかいへどそくにてのぼりきたなきたたみをしきて


皆 立て坐春事 なし倚子(イス)尓腰 をかけシツ

みなたてざすことなし   いす にこしをかけしつ


ポク臺 能如 キ物 能上 ニコツプニ酒 等 ヲ能せ其

ぽくだいのごときもののうえにこっぷにさけとうをのせその


外 火とほし色 \/をかざる尓皆 ヒイドロ銀

ほかひとぼしいろいろをかざるにみなびいどろぎん


細 工なり亦 白 キおう武能様 なる鳥 大 キサハ

ざいくなりまたしろきおうむのようなるとりおおきさは


鳩(ハト)程 もアリて放(ハナシ)畜(カイ)尓して手ニ居ゑ顔 ヘ付

  はと ほどもありて  はなし   がい にしててにすえかおへつけ


あ多まを口 ノ中(ウチ)ヘ入レなどして愛(アイ)春なり此

あたまをくちの  うち へいれなどして  あい すなりこの

(大意)

(補足)

「跡ニ」、後に。「倚子」、椅子。

「カーモル」、オランダ語で「部屋」は kamer(カーメル)。「ミネール」という音のオランダ語はなく不明。

 江漢さん、見るものすべて珍しく、好奇心全開になります。

 

2025年7月10日木曜日

江漢西遊日記四 その53

P60 東京国立博物館蔵

P61

(読み)

者 二 人来 ル門 を入  所  ニて婦ところ袂(タモト)を

ものふたりきたるもんをはいるところにてふところ  たもと を


改  ム何 物 尓ても持チ入ル事 を禁 春暫  く行 と

あらたむなにものにてももちいることをきんずしばらくゆくと


去 年 江戸石 町  長 崎 屋と云 おらん多゛宿

きょねんえどいしちょうながさきやというおらんだ やど


ニて逢(アヒ)多るおらん多外科ストッツルと云 者 也

にて  あい たるおらんだげかすとっつるというものなり


吾 長 崎 ヘ参 ル事 ハ兼 て江戸ニて約 束 して置

われながさきへまいることはかねてえどにてやくそくしておき


ぬ夫 故 吾 を見ると先 ヱ立チ人 能居ぬ牛

ぬそれゆえわれをみるとさきえたちひとのいぬうし


部屋能方 へ行ク路 \/何 ヤラ話 ス尓一 向 不

へやのほうへゆくみちみちなにやらはなすにいっこうつうぜ


通只 テイケネン\/   と云 事 能ミ是 ハ江戸能

ずただていけねんていけねんということのみこれはえどの


丸 の内 見付 \/  を圖引 てもらゐ多しと云フ事

まるのうちみつけなどなどをずひいてもらいたしということ


なり夫 よりしてミネール。コム。カーモル\/  と

なりそれよりしてみねーる。こむ。かーもるかーもると

P61

蘭人ストツツル

イキ カーモル コム\/

我  部屋   来レ


(大意)

(補足)

「江戸石町長崎屋」、江戸参府中の商館長(カピタン)をはじめ随員のための定宿。日本橋本石町三丁目、長崎屋源右衛門方。

 宿をのぞく画があります。『浅草庵作 葛飾北斎画 享和2(1802)序刊』

 江戸におけるオランダ人の定宿であった日本橋本石町三丁目の長崎屋の情景。窓外に見物人が集まっている。オランダ人たちは江戸滞在中も自由に外出はできなかった、とありました。

「外科ストッツル」、Johan Arnold Stützer (1763–1821)。『MIchel-J-A-Stuetzer-in-the-East-Indies-2015.pdf』に詳しく記されています。

「テイケネン」、tekening.オランダ語で図面、地図。

 

2025年7月9日水曜日

江漢西遊日記四 その52

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

内 ヘ入 ル事 を禁 春勝 木利兵衛ハ江戸會

ないへはいることをきんずかつきりへえはえどかい


所 能下 役 是 ヘ参 リおらん多出嶋 ヘ入 ラン事 ヲ

しょのしたやくこれへまいりおらんだでじまへはいらんことを


談 春゛吾 をハ白 川 侯 能ヲンミツならんと思

だんず われをばしらかわこうのおんみつならんとおも


ひ夫 故 世話を春る者 ナシ爰 ニ於 て白 戸

いそれゆえせわをするものなしここにおいてしらと


會 所 能商  人 となり館 内 ヘ入 ルケンチ ウ位

かいしょのしょうにんとなりかんないへはいるけんちゅうくらい


能小袖 ニ脇差(サシ)一 本 なり春 木門 弥ハ誠  ニ

のこそでにわき さし いっぽんなりはるきもんやはまことに


通 詞能草 履取 となり布 子尓カラ尻 ヲ

つうじのぞうりとりとなりぬのこにからしりを


からけて行クを見多り

からけてゆくをみたり


廿   四 (五 )日天 氣江戸會 所 より門 能切 手を請

にじゅうよっ(いつ)かてんきえどかいしょよりもんのきってをうけ


取り吾 カ後 ニ従  ヒ勝 木利兵衛外 尓長 崎 の

とりわれがあとにしたがいかちきりへえほかにながさきの

(大意)

(補足)

「白川侯」、松平定信のこと。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。

「世話」、変体仮名「世」(せ)の形はほとんど「を」で、すぐ右の行の「吾をハ」の「を」とおなじです。

「春木門弥」、「春」のくずし字が変体仮名「春」(す)とおなじで、「す」+「て」のようなかたち。一ヶ月とちょっと前(天明8年九月十五日。1788年10月14日)に、尾道を一緒に観光しています。

「ケンチウ」、『けんちゅう ―ちう【絹紬・繭紬】柞蚕糸(さくさんし)を経緯(たてよこ)に用いた薄地の平織物』。『さくさんし【柞蚕糸】柞蚕の繭からとった太い糸。やや褐色で光沢がある。この糸で織ったものを絹紬(けんちゆう)という』

「廿四(五)日」、天明8年10月25日。西暦1788年11月22日。

「商人となり館内ヘ入ルケンチウ位能小袖ニ脇差(サシ)一本なり」、数ページ先に画があります。 


  中央の商人風なのがきっと江漢さんでしょう。

 

2025年7月8日火曜日

江漢西遊日記四 その51

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

持 渡 ル者 廣 東 邊  能産 物 薬 種 砂糖

もちわたるものかんとんあたりのさんぶつやくしゅさとう


類 なり亦 金 銀 とも持 渡 ル也 程 赤 城

るいなりまたきんぎんとももちわたるなりていせきじょう


ハ十  五年 此 方 渡海 春と云

はじゅうごねんこのほうとかいすという


廿   三 日 天 氣時雨 上 玄とて家 ゴトニ餅 を

にじゅうさんにちてんきしぐれかみいとていえごとにもちを


舂(ツク)昼 より田口 氏へ行 薬 園 を見 物 ス

  つく ひるよりたぐちしへゆくやくえんをけんぶつす


夫 より梅 カ﨑 と云 処  唐 船 かゝ里てあるを

それよりうめがさきというところとうせんかかりてあるを


乗り見 物 春亦 唐 人 往 来 春るを見る

のりけんぶつすまたとうじんおうらいするをみる


帰 り尓上 村 徳 太郎 是 もおらん多掛 りの者

かえりにうえむらとくたろうこれもおらんだかかりのもの


之 へよる酒 吸 物 を出ス夜 ニ入 四 時 ニかえる

これへよるさけすいものをだすよるにいりよつどきにかえる


廿   四 日天 氣時 \/雨 おらん多毛唐 人 モ共 尓館(クワン)

にじゅうよっかてんきときどきあめおらんだもとうじんもともに  か ん

(大意)

(補足)

「廿三日」、天明8年10月23日。西暦1788年11月20日。

「上玄(かみい)」、『旧暦10月(現在の11月頃)の最初の亥の日を指し、亥の子(いのこ)の行事が行われる日です。亥の子は、無病息災や子孫繁栄を祈る行事で、特に西日本では盛んに行われます』、と、ここまではグーグルのAI(調べ物をしていると、ここのところAIによるものが急激に増えてきました)による概要から。ここからは辞書『また江戸時代には,この日に炉やこたつを開き火鉢を出す習慣があった』。

「梅カ﨑と云処唐船かゝ里てあるを乗り見物」、「西遊旅譚三」に精密な支那船(トウセン)の図があります。 

「唐人往来春るを見る」、同じく「西遊旅譚三」より。 

 やはり江漢は絵師で、いつもとは全く異なる絵筆運びで、ものの形を精細に写しとっています。うまいです。

「夜ニ入四時」、夜の10時頃。

 

2025年7月7日月曜日

江漢西遊日記四 その50

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   二日 天 氣昼 ヨリ元 大 工町  唐 人 通 詞吉

にじゅうににちてんきひるよりもとだいくちょうとうじんつうじきち


嶋 佐十  郎 方 ヘ行 酒 吸 物 出ス吾 ホ製 作

じまさじゅうろうかたへゆくさけすいものだすわれらせいさく


能目か年ヲ見セる唐 人 今 渡海 春る舩 ハ

のめがねをみせるとうじんいまとかいするふねは


私   ニスル商  人 なり皆 蘇州  と云 処  ヨリ来 ル則

わたくしにするしょうにんなりみなそしゅうというところよりきたるすなわち


蘇州  ハ日本 ノ大 坂 の如 し南 京 第 一 繁(ハン)

そしゅうはにほんのおおさかのごとしなんきんだいいち  はん


昌  能地なり王 命 尓て渡海 春る者 昔 しハ

じょうのちなりおうめいにてとかいするものむかしは


范(ハン)氏なり中 比 ニてハ王 氏来 ル今 ハ銭 氏也

  はん しなりなかごろにてはおうしきたるいまはせんしなり


外 尓十  二家とて是 ハ自分 一 己能商   ニ交易(ヱキ)

ほかにじゅうにかとてこれはじぶんいっこのあきないにこう えき


春るなり其 舩 五六 艘 来 ルなり日本 より交 ヱき

するなりそのふねごろくそうきたるなりにほんよりこうえき


能代 物 ハ銅 十  萬 斤 を高 と春彼 国 ヨリ

のしろものはどうじゅうまんきんをたかとすかのくにより

(大意)

(補足)

「廿二日」、天明8年10月22日。西暦1788年11月19日。

「酒吸物」、江漢が接待されるときの酒の記述は「酒肴」or「酒吸物」が多いです。いろいろ調べますと『汁と吸物は同じような汁物ですが、飯に添えるのが汁で、酒の肴として供するのは吸物と定義されています。江戸時代料理書には、汁の部と吸物の部は区別して記載されており、汁は飯に添える副菜なので味は濃いめにし、吸物は酒に合うよう軽く薄めの味にして綺麗につくり、供する時機を大切にするとしています』とありました。現在でも日本料理店の腕を確かめるにはその店の吸物(椀もの)をみればわかるといいます。

 江戸時代の輸出入品を調べると、たとえば『主な輸入品としては、中国産の生糸、絹織物、砂糖、香木、胡椒、鮫皮、薬品など、輸出品として初期は銀(1668年以降は輸出禁止)、金(おもに小判。 1763年輸出禁止)、その後は銅(棹銅)が主体で、陶磁器、漆器などの工芸品もあった』とあります。更に調べてみると銅が重要な輸出品であったことがわかります。

「十二家」、官商とともに長崎貿易を独占したいわゆる十二家額商。一定の員数に限られた官許の民間商人のこと。

 

2025年7月6日日曜日

江漢西遊日記四 その49

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

数 \/出春外 尓雑 用 なし揚 屋へ料

かずかずだすほかにざつようなしあげやへりょう


理廿   五匁  能内 十  匁  なりとぞ夫 故 旅

りにじゅうごもんめのうちじゅうもんめなりとぞそれゆえたび


宿 へ太夫 を呼ヘハ一 日 十  五匁  なり二 人共

やどへたゆうをよべはいちにちじゅうごもんめなりふたりとも


尓長 崎 近 所 能産 レと云 何 とも美人

にながさききんじょのうまれというなんともびじん


なり此 揚 屋能亭 主 ハ大 坂 者 ニて爰 ニ住

なりこのあげやのていしゅはおおさかものにてここにじゅう


居 春と云 草 画五六 枚 認  メルお山 多ち皆\/

きょすというそうがごろくまいしたためるおやまたちみなみな


見 物 春予カ揚ケし太夫 ノ曰  王多くしハ江戸の

けんぶつすよがあげしたゆうのいわくわたくしはえどの


路考 と申  役 者 尓能ク似多と申  事 實  な

ろこうともうすやくしゃによくにたともうすことまことな


里やと問フ爰 ニ於 て能ク見れハなる程 能

りやととうここにおいてよくみればなるほどよく


似て居多り其 夜爰 ニ泊 ル

にていたりそのよここにとまる

(大意)

(補足)

「路考」、三代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉〜文化7年12月4日〈1810年12月29日〉)。化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。上方出身。

 江漢さん、席画でお山に囲まれ見物されてうれしそう。そして「何とも美人」な太夫と「其夜爰ニ泊」り、いたくご満足の様子です。

 

2025年7月5日土曜日

江漢西遊日記四 その48

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

糸(シ)能入 多る物 を打 かけ尓着(キ)多り髪 ハ江

  し のいるたるものをうちかけに  き たりかみはえ


戸能様 なり夜具ハ表(ヲモテ)木綿(メン)なり裏 ハ絹(キヌ)

どのようなりやぐは  おもて も  めん なりうらは  きぬ


ニて蒲とん同 断 なり長 崎 能衣装  と

にてふとんどうだんなりながさきのいしょうと


云 ハ昔 し能事 也 昔 しハ唐 人 おらん多も

いうはむかしのことなりむかしはとうじんおらんだも


町 尓宿 を取 金 一 両  に付 十  二匁  うん上

まちにやどをとりきんいちりょうにつきじゅうにもんめうんじょう


を出し多る時 能事 なり今 ハ唐 人 おらん

をだしたるときのことなりいまはとうじんおらん


多人 能代 物 皆 上 ヘ買ヒあけ夫 よりして

だじんのしろものみなかみへかいあげそれよりして


商  人 入  札 ニて買フ事 とハなりぬ別  て

しょうにんにゅうさつにてかうこととはなりぬべっして


此 節 ハ水 野公 と云 お奉行  此 方 尚 \/

このせつはみずのこうというおぶぎょうこのかたなおなお


衰(スイ)びし多ると云 揚 代 廿   五匁  酒 肴

  すい びしたるというあげだいにじゅうごもんめさけさかな

(大意)

(補足)

「絹」、絹のくずし字はどうも苦手です。

「同断」、断のくずし字は特徴的なので覚えやすい。

「うん上」、運上。税金のこと。

「水野公」、水野 忠通(みずの ただゆき、延享4年(1747年)〜文政6年11月17日(1823年12月18日))。水野若狭守。この年の9月に着任。

 寛政の改革を推し進めた松平定信は、天明6年(1786年)もしくは翌7年初頭に将軍徳川家斉に上申した書状に、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、その統治は熟考すべきことだと書いた後、当時長崎奉行を務めていた水野は「相応御用に相立ち申す可き(しっかりしており役に立つ)」者と述べていた。『よしの冊子』にも、定信から目をかけられたことで「水野ハ一体気丈無欲ニてよき御役人のよしのさた」(なかなか気が強く無欲なので、よい役人だ)と評判になったことが書かれている、とウィキペディアにありました。

「衰(スイ)びし多ると云」、ウィキペディアに『天明8年(1788年)に、同僚の長崎奉行の末吉利隆が長崎在勤中に処罰を受けたため貿易業務は滞った。国内の銅不足とあいまって、貿易用の銅搬入が遅延し、そのために後任の水野は離日を控えたオランダ商館長に責められた。水野は、輸出銅が枯渇したのは長崎会所の乱脈経営にあると考え、会所改革のため翌寛政元年(1789年)にオランダ貿易に深く関与していた年番大通詞の堀門十郎と長崎会所調役の久松半右衛門を処分した』とあって、このことを指しているのかもしれません。

 

2025年7月4日金曜日

江漢西遊日記四 その47

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

筑 町 服 部 甚 兵衛方 尓宮 嶋 尓て別 レ

つきまちはっとりじんべえかたにみやじまにてわかれ


し春 木門 弥と云 者 爰 尓滞 畄  して居ル

しはるきもんやというものここにたいりゅうしている


と云フ故 尓一寸  よりぬ宿 元 へ手紙 を頼 ム

というゆえにちょっとよりぬやどもとへてがみをたのむ


廿   一 日 曇  て雨 昼 より亦 大 徳 寺へシツ

にじゅういちにちくもりてあめひるよりまただいとくじへしっ


ボク尓呼ハレ馳走 ニなる夜 ニ入 江戸宿  老 ト

ぽくによばれちそうになるよるにいりえどしゅくろうと


云 人 来 リ知ル人 ニなる夫 より田口 惣 八 郎 と

いうひときたりしるひとになるそれよりたぐちそうはちろうと


云 人 之(コレ)もヲトナと云 役 人 なり之(コレ)と共 尓

いうひと  これ もおとなというやくにんなり  これ とともに


丸 山 揚 屋河 さきやと云 家 尓至 り太夫

まるやまあげやかわさきやといういえにいたりたゆう


を揚 る名は半 太夫 と云フ田口 ハ小式 部と

をあげるなははんだゆうというたぐちはこしきぶと


云フ衣装  ハ絹 縮 面 なり亦 何 ヤラ金

いういしょうはきぬちりめんなりまたなにやらきん

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年10月21日。西暦1788年11月18日。

「ヲトナ」、ここでは長崎各町の代表者。町民の選挙により選ばれた。

「絹縮面」、縮緬。

 さて何度目かの揚屋。江漢さん目がキラキラしてきます。

 

2025年7月3日木曜日

江漢西遊日記四 その46

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日雨 天鍛冶(カチ)町  荒木(アラキ)為 之進 と云フ

はつかうてん   かじ ちょう   あらき ためのしんという


者 能処  ヘ行ク之 ハ画(ヱ)鑑定(メキゝ)能役 ニて夫

もののところへゆくこれは  え    めきき のやくにてそれ


故 画も春こし描(カク)なり一 向 能下手爰 ニて昼

ゆええもすこし  かく なりいっこうのへたここにてちゅう


喰  ヲ出春夫 ヨリ大 徳 寺尓行キ和尚  尓

しょくをだすそれよりだいとくじにゆきおしょうに


逢ひ酒 食  を出ス庭 尓かひでと云 唐(カラ)

あいしゅしょくをだすにわにかえでという  から


楓(モミチ)あり之(コレ)ハ黄色 尓なる能ミ尓して紅 葉

  もみじ あり  これ はきいろになるのみにしてこうよう


ハせぬも能なり此 節 紅(ベニ)能如 クなり和尚

はせぬものなりこのせつ  べに のごとくなりおしょう


の云 今年 初 メて紅 葉 春と云 さて庭 ヨリ

のいうことしはじめてこうようすというさてにわより


見おろせバおらん多出嶋 唐 人 蔵 屋し

みおろせばおらんだでじまとうじんくらやし


き十  善 寺目能下 尓見ユ夫 よりして

きじゅうぜんじめのしたにみゆそれよりして

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年10月20日。西暦1788年11月17日。

「荒木(アラキ)為之進」、『荒木 元融(あらき げんゆう、享保13年(1728年)〜寛政6年4月18日(1794年5月17日))は、江戸時代中期の長崎派画家』。江漢は「一向能下手」と酷評していて、それは「秘伝のガラス絵の技法を教えてもらえなかったことへの鬱憤晴らしと捉えられている」とウィキペディアにありました。

 おだてられると調子にのり、願いが叶えられないとふてくされる。いい歳をしてガキのようですけど、年をとってもその性格はかわりませんでした。昼食をごちそうされているのにな・・・

「画(ヱ)鑑定(メキゝ)能役」、唐絵名利。長崎奉行のもとにおかれ、洋画・唐絵を鑑定し、値付け・買い入れにあたった役。

「庭ヨリ見おろせバおらん多出嶋唐人蔵屋しき十善寺目能下尓見ユ」、なるほど地図にある大徳寺のすぐ西に十善寺があり、入江の向こうには出島阿蘭陀屋敷があります。


「唐楓(カラモミジ)」、中国が原産のカエデなのでトウカエデ(唐楓)という名が付き、日本には江戸時代に渡来、切れ込みのある葉の形をカエルの手に見立てたことによる。

 

2025年7月2日水曜日

江漢西遊日記四 その45

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

ナシ

なし


十  九日 天 氣ニて小袖 綿 入 一 ツ着(キ)てよし昼

じゅうくにちてんきにてこそでわたいれひとつ  き てよしひる


ヨリ酒 屋町  鉅鹿(キヨロク)裕 五良 方 ヘ参 ル主 人 出て

よりさかやちょう   きょろく ゆうごろうかたへまいるしゅじんでて


云フ私  の祖父ハ支那明(カラミン)の世の者 ニて外 国 ヨリ

いうわたしのそふは    からみん のよのものにてがいこくより


亂 を起 シ明 亡  ル能時 亂 避ケて此 日本 長

らんをおこしみんほろぶるのときらんさけてこのにほんなが


崎 ヘ来 リて今 爰 尓住  居 春性 ハ魏鉅 鹿 と云

さきへきたりていまここにじゅうきょすせいはぎきょろくという


処  能者 也 其 比 ハ持 来 リし物 も有 家居 も

ところのものなりそのころはもちきたりしものもありかきょも


彼 国 能風 尓造 里お目尓かけ度 物 もありし尓

かのくにのふうにつくりおめにかけたくものもありしに


火災 にて失  ひ如此    能体(テイ)なりとなミ多を浮

かさいにてうしないかくのごとくの  てい なりとなみだをうか


へ古と和里を申 シきなる程 一 向 能貧 乏 人 とハなりぬ

べことわりをもうしきなるほどいっこうのびんぼうにんとはなりぬ

(大意)

(補足)

「十九日」、天明8年10月19日。西暦1788年11月16日。

「魏鉅鹿」、『鉅鹿家(おうがけ)の祖先魏之琰(ぎしえん)と兄の魏琰禎(六官)は明朝滅亡後、長崎に来航し安南貿易に従事し、巨商となり、崇福寺の大(おお)檀(だん)那(な)として活躍した。鉅鹿家は明の遺臣魏之琰(九官)を祖とする長崎在住の中国人の名門である。鉅鹿の姓は之琰が徳川家光から中国の魏の発祥地、河北省鉅鹿の地名を賜わったものという。 元禄2年(1689)之琰が死去して、子供たちが父と伯父を立派な純中国式の墓で合葬した。之琰は死去するまで鉅鹿姓を名乗らず魏であったが、子供から鉅鹿と日本姓を名乗った』と、長崎県学芸文化課のHPにありました。

 もう小寒いのか、「小袖綿入一ツ着(キ)てよし」とあります。

 

2025年7月1日火曜日

江漢西遊日記四 その44

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

ハ大 友 能真 鳥哥(カ)婦゛妓(キ)なりより処  なく見

はおおとものまとり  か ぶ   き なりよりどころなくけん


物 して夜 の九   時 過 尓帰 りぬ

ぶつしてよるのここのつどきすぎにかえりぬ


十  七 日 曇 ルおらん多出嶋 へ入 ル尓ハ坊  主惣

じゅうしちにちくもりおらんだでじまへはいるにはぼうずそう


髪ハなら春゛と云 爰 ニ於 て剃(ソツ)て野郎 となり

ははならず というここにおいて  そっ てやろうとなり


江 助 と名を改  ム一 人も江 助 と云 者 なしとかく

こうすけとなをあらたむひとりもこうすけというものなしとかく


江 漢 先 生 と呼フ又 利助 と槐 庵 と共 尓

こうかんせんせいとよぶまたりすけとかいあんとともに


木 庵 開 基能福 済 寺へ行ク寺中  永 笑

もくあんかいきのふくさいじへゆくじちゅうえいしょう


院 尓参 り酒 出 日暮 帰 ル額 在 大 雄 宝 殿 ト

いんにまいりさけだすひぐれかえるがくありだいゆうほうでんと


温 陵  鄭 泰 印 コレハ国 性 爺ノ事 なりとぞ

おんりょうていしんいんこれはこくせんやのことなりとぞ


十  八 日 クモル此 日灸  治春る此 地ニ切 モクサ

じゅうはちにちくもるこのひきゅうじするこのちにきりもぐさ

(大意)

(補足)

「より処なく」、とくに見るべきところもないものだった、といった感じでしょうか。

「十七日」、天明8年10月17日。西暦1788年11月14日。

「坊主」、「主」のくずし字が「丶」の下が「王」なので、そのくずし字「己」の形になっています。

「国性爺」、近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で有名。『人形浄瑠璃。時代物。近松門左衛門作。1715年初演。明朝から亡命した鄭芝竜(ていしりゆう)と日本女性との間に生まれた子鄭成功(ていせいこう)(和藤内)が,明朝再興に活躍した史実をもとに,国姓爺(和藤内)を中心に脚色したもの』。

 江漢さん、髪の毛を剃っていよいよ出島に入る準備をします。

 

2025年6月30日月曜日

江漢西遊日記四 その43

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

多る事 也 夫 より白 眠 と云 人 印 能上  手ニて

たることなりそれよりはくみんというひといんのじょうずにて


名高 キ人 なり之 へ参  知ル人 ニなる倅  ハ醫

なだかきひとなりこれへまいるしるひとになるせがれはい


者 ニて槐 庵 と云 爰 を去 て丸 山 寄 合

しゃにてかいあんというここをさりてまるやまよりあい


町  夜見世を見 物 春見世尓郡 内 嶋 能如 キ

ちょうよみせをけんぶつすみせにぐんないじまのごとき


衣服 ニて客  を取れハ衣装  を改  ムと云 價(アタ)へ

いふくにてきゃくをとればいしょうをあらたむという  あた へ


揚 代 十  匁  雑 用 共 亦 太夫 あり揚 屋二軒

あげだいじゅうもんめざつようともまたたゆうありあげやにけん


あり之 ハ揚 屋ヘ呼フ事 なり揚 代 廿   七 匁  内

ありこれはあげやへよぶことなりあげだいにじゅうななもんめうち


十  匁  ハ雑 用 なり漸  く太夫 六 七 人 とぞ此

じゅうもんめはざつようなりようやくたゆうろくしちにんとぞこの


節 夜 芝 居アリ亦 それへ行キ芝 居を見ル尓

せつよるしばいありまたそれへゆきしばいをみるに


砂糖(サトウ)よし能こもニて張リ多る小屋ニて狂  言

   さとう よしのこもにてはりたるこやにてきょうげん

(大意)

(補足)

「郡内嶋」、『ぐんないじま【郡内縞】』。『ぐんないおり【郡内織】山梨県郡内地方で産する絹織物。甲斐絹(かいき)の一種。太い格子縞のものが多く,夜具地。郡内縞』。

「砂糖(サトウ)よし」、きっとサトウキビのような葦(あし)のことでしょうか。

 江漢さんは揚屋については一家言の持ち主でありますので、どこへいってもその鑑識眼を最大限に発揮して、事細かく記しています。

 ウィキペディアの「丸山遊女」に、非常に詳しく様々な事柄が記されています。

 

2025年6月29日日曜日

江漢西遊日記四 その42

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

唐 人 がゝ里の者 なり此 人 能話  尓程 赤 城

とうじんかかりのものなりこのひとのはなしにていせきじょう


ハ浙 江 のうち乍(サ)浦と云 処  能人 なり少 シ書

はせっこうのうち  さ ほというところのひとなりすこししょ


を能ク春然  共 無学 人 ニて皆 商  人 の手代

をよくすしかれどもむがくじんにてみなしょうにんのてだい


なり方 西 園 ハ福 建 能近 邊 ニて舩 を仕出ス

なりほうせいえんはふっけんのきんぺんにてふねをしだす


者 ノ親 類 ニて之 も商  人 ニて交易(コウヱキ)ニ疎(ウトク)して

もののしんるいにてこれもしょうにんにて   こうえき に  うとく して


画など描キ能らくら者 なり皆 学 文 亦

えなどかきのらくらものなりみながくもんまた


ハ詩なと作 ル事 ハ一 向 尓知ら春゛となり

はしなどつくることはいっこうにしらず となり


十  六 日 天 氣朝 飯 後より勝 木利助 と云 人

じゅうろくにちてんきあさめしごよりかちきりすけというひと


能方 へ参 り昼 頃 より木 庵 開 基能南 京

のかたへまいりひるごろよりもくあんかいきのなんきん


寺 ヘ行キ見ル尓寺 ハ山 ニアリ誠  ニ唐 めき

でらへゆきみるにてらはやまにありまことにとうめき

(大意)

(補足)

「程赤城」、『享保20年(1735)生~180?歿

 名は霞生、字は赤城、号を柏塘と称し、一般的には字の赤城を以て知られた文人で、江南の人。明の船主で、医者でもあり、中国と長崎を往来して長崎の唐館に住し、書画を善くして日本の文化人と交流した清人で、日本語に通じて和歌も詠んだ。天明8年(1788)には春木南湖(江漢より二週間ほどはやく長崎に到着している)が会談しているし、文化元年(1804)には福山藩の儒医伊沢蘭軒も交流を持っている』、とありました。

「方西園」、『初来日は明和元年(1764年)とも安永元年(1772年)ともいう。安永3年(1774年)の来日記録ははっきりしている。安永9年(1780年)、45歳の時、元順号の副船主として渡海したが5月2日に房総沖で難破し安房国朝夷郡千倉に漂着。乗組員78名は全員無事だったが岩槻藩の唐人への待遇が悪く問題となった。

 日本船にて長崎に移送される途中、富士山を実見。西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆を走らせたという。このほかにも日本各地を写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻される。その遠近法が当時大いに注目される』、とウィキペディアにありました。

「南京寺」、『興福寺は、長崎県長崎市寺町にある、日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれ、仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれる』。

「能らくら者」、『のらくらもの のらくら者】のらくらして役に立たない人。なまけ者。のら者』。のらくろではありませんでした。

「十六日」、天明8年10月16日。西暦1788年11月13日。

 ここでは程赤城、方西園にたいしてですけど、きっと唐人にたいして、江漢の彼らの蔑視・差別感が顕著にあらわれています。一方で西欧人や彼らの書物や物品・画などはペコペコとありがたがり、西欧のものならなんでも興味をもち、収集・研究をしています。

  しかしながら、西遊旅譚三では支那人の風俗・船などについて冷静に画人としての目で観察し「総て支那人は日本人にかわる事なし。志(ココロザシ)はなはだ似より。雅もあり俗もあり。又顔面(ガンショク)日本人の如し。只衣装の違いあるのみなり」とあって、数ページをさいて詳しく記しています。 

2025年6月28日土曜日

江漢西遊日記四 その41

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

なり此 邊 能土民 瑠  球  イモを常  喰  と春

なりこのへんのどみんりゅうきゅういもをじょうしょくとす


長 崎 ニてハ芋 カイを喰  春芋 至  て甘 し

ながさきにてはいもがゆをしょくすいもいたってあまし


白 赤 の二品(ヒン)アリ

しろあかのに  ひん あり


十  四 日曇  丈  助 と云 人 松 十  郎 近 所 の人 なり

じゅうよっかくもりじょうすけというひとまつじゅうろうきんじょのひとなり


管生(スコー)山 尓居多る出  家を同 道 春菅生 山

   すごう さんにいたるしゅっけをどうどうすすごうさん


ハ西 国 札 所 ニて伊豫能国 なり階(ハシコ)ニて山 尓

はさいごくふだしょにていよのくになり  はしご にてやまに


登 り春る処  至  て妙 なる所  と云 不行 此 出

のぼりするところいたってたえなるところというゆかずこのしゅっ


家ニ聞ク

けにきく


十  五日 天 氣此 長 崎 へ入 口 を西 坂 と云 爰 ヨリ

じゅうごにちてんきこのながさきへいりぐちをにしさかというここより


見多るを圖春昼 比 爰 能親 類 の人 参 ル之(コレ)ハ

みたるをずすひるころここのしんるいのひとまいる  これ は

(大意)

(補足)

「瑠球」、琉球。

「十四日」、天明8年10月14日。西暦1788年11月11日。

「管生山」、愛媛県菅生山大宝寺、四国八十八箇所霊場の44番札所となる寺院。最初の管は「竹」冠、次のは「艹」冠になっています。

「出家」、『僧侶。僧』

「十五日」、天明8年10月15日。西暦1788年11月12日。

「西坂と云爰ヨリ見多るを圖春」、西遊旅譚三に「西坂より長崎を望む」があって、これがその画のようです。


 

 

2025年6月27日金曜日

江漢西遊日記四 その40

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

脇 津深 堀 戸町 など云 処  あり二里半 参  山

わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま


能うへを通 ル所  左右 海 也 脇 津ニ三崎 観

のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん


音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル

  おん どうありここにとまる


十  三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ

じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは


途中  尓滞 畄  春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦

とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた


唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者

からふねおきにかかりいるとうじんげ  かん  のもの


七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡  色 能

しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの


木綿 能着(キ)物 頭  ニハダツ帽 をか武り多り

もめんの  き ものあたまにはだつぼうをかむりたり


初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ

はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの


菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土

きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど

(大意)

(補足)

「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。 

「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。

「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。

「扱ミ」、汲む。

「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。

「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。

「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。


 

2025年6月26日木曜日

江漢西遊日記四 その39

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

蘭 物 ヲかざり酒 肴 を出し夜 能九   時 過

らんものをかざりしゅこうをだしよるのここのつどきすぎ


尓帰 ル

にかえる


十  二日 天 氣ニて朝 早 く御﨑 観 音 皆 \/

じゅうににちてんきにてあさはやくみさきかんのんみなみな


参 ルとて吾 も行 ンとて爰 より七 里ノ路 ナリ

まいるとてわれもゆかんとてここよりしちりのみちなり


松 十  郎 夫 婦外 ニかきやと云 家 能女  房

まつじゅうろうふうふほかにかぎやといういえのにょうぼう


亦 壱 人男 子五人 ニして参 ル此 地生  涯

またひとりだんしごにんにしてまいるこのちしょうがい


ま由をそら春゛夫 故 王かく亦 き里 うも

まゆをそらず それゆえわかくまたきりょうも


能く見ユ鍵(カキ)や婦ハ者゛多゛し参 リ皆 路 山

よくみゆ  かぎ やふはは だ しまいりみなみちやま


坂 ニして平 地なし西 南 を武ゐて行ク右

さかにしてへいちなしせいなんをむいてゆくみぎ


ハ五嶋 遥 カニ見ユ左  ハあまくさ嶋 原 見ヘ

はごとうはるかにみゆひだりはあまくさしまばらみへ

(大意)

(補足)

「夜能九時過」、深夜0時。

「十二日」、天明8年10月12日。西暦1788年11月9日。

「御﨑観音」、円通寺観音寺。地図で探すと似たようなお寺がたくさんあって迷います。「爰より七里ノ路」というのと、「西南を武ゐて行ク右ハ五嶋遥カニ見ユ左ハあまくさ嶋原見ヘ」るのは岬の先端にある「肥之御崎観音寺」だとおもいます。 

 そのお寺をもう少し詳しく調べると

『昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷跡に隣接する十人町(じゅうにんまち)から観音様へと続く約28kmの「御崎道(みさきみち)」という道があり、この道にそって観音様詣りをしました。今も「みさきみち」と標された石碑が残っています』

とあって、ここで間違いないようです。

 十人前後の人数で片道約30kmの小旅行、ピクニックとはとても言えません。

車でなら行ってみたい。いい眺めだろうなぁ〜。

 

2025年6月25日水曜日

江漢西遊日記四 その38

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

吉 参 ル話(ハナス)唐 人 八 月 十  五日 月 餅 と云 を

きちまいる  はなす とうじんはちがつじゅうごにちげっぺいというを


造(ツク)り夫 をも羅ゐ喰ヒし尓小麦 能粉 ニて製

  つく りそれをもらいくいしにこむぎのこなにてせい


し油  尓て揚 多る物 至  て甘(アマシ)彼 国 糯 米 アル

しあぶらにてあげたるものいたって  あまし かのくにもちごめある


と雖  モ吾 日本 能米 能如 くなら春゛故 尓

といえどもわがにほんのこめのごとくならず ゆえに


日本 能餅 なし

にほんのもちなし


十  一 日 天 氣嶋 原 屋しきへ行ク晩 方 風

じゅういちにちてんきしまばらやしきへゆくばんがたふ


呂屋へ行ク居ヘ風呂也 夜 ニ入 平 戸町  幸

ろやへゆくすへぶろなりよるにいりひらどちょうこう


作 処  ヘ行ク二階 おらん多坐しきを見 物 ス

さくところへゆくにかいおらんだざしきをけんぶつす


イキリス細 工のヒイドロ額 蘭間(ランマ)下 ニ掛ケ

いぎりすさいくのびいどろがく   らんま したにかけ


ならべ下 ニハ椅(イ)スを並  其 外 奇妙  なる

ならべしたには  い すをならべそのほかきみょうなる

(大意)

(補足)

 前々回のブログで「おらん多舩 唐人舩」の画がありました。記録に、この年天明8年(1788)には、唐船は13隻、オランダ船は2隻来航したとあるので、江漢さんはちょうどこれからそれら船が帰国するところに出会ったようです。

「も羅ゐ」、この変体仮名「羅」(ら)はあまりみなかったような気がします。

「甘」、調べてみるとここにあるような「耳」に似たくずし字もあることがわかりました。

「十一日」、天明8年10月11日。西暦1788年11月8日。

「おらん多坐しき」、吉雄幸作はオランダ人と接する中で異国の書物・絵画・器具など珍品を収集し、それらを自宅の二階をオランダ風にした部屋に飾った。食事会なども催し、当時人々はこの二階を『吉雄の阿蘭陀座敷』と呼んで珍しがった、とありました。

 

2025年6月24日火曜日

江漢西遊日記四 その37

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

なり多る前 ハ長 崎 甚 左衛門 と云 人 能領  地也

なりたるまえはながさきじんざえもんというひとのりょうちなり


此 日本 へ異国 ヨリ舩 を着(ツク)ルハ伊勢能大湊(ミナト)

このにほんへいこくよりふねを  つく るはいせのおお みなと


と云 所  さダかなら春゛夫 より泉 州  堺  の濱 ナリ

というところさだかならず それよりせんしゅうさかいのはまなり


亦 筑 前 博多 者か多より肥前 平 戸嶋 尓

またちくぜんはかたはかたよりひぜんひらどしまに


渡海 して寛 永 辛  巳の年 今 能長 崎 尓

とかいしてかんえいかのとみのとしいまのながさきに


なるさておらん多大 通 詞吉 雄(ヲ)幸 作 同  ク

なるさておらんだだいつうじよし  お こうさくおなじく


本 木榮 之進 両  人 未 タ役 所 より不返  夫 故

もときえいのしんりょうにんいまだやくしょよりかえらずそれゆえ


か者゛嶋 町  稲 部松 十  郎 へ行ク此 者 ハおらん多゛

かば しまちょういなべまつじゅうろうへゆくこのものはおらんだ


部屋付 役 ノ者 なり先ツ是 ニ暫  ク滞 畄  春日

べやつきやくのものなりまずこれにしばらくたいりゅうすひ


暮レて吉 雄本 木能二 人参 ル亦 本 木の息 元

ぐれてよしおもときのふたりまいるまたもときのそくもとよし

(大意)

(補足)

「長崎甚左衛門」、『長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。深江浦(長崎)を領す。キリシタン大名』

「寛永辛巳(かのとみ)の年」、寛永十八1641)年

「大通詞」、明暦二(1656)年以後、大通詞・小通詞・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞・内通詞と階級がもうけられていた。

「吉雄(ヲ)幸作」、享保九(1724)年〜寛政十二(1800)年。51年間も大通詞職で活躍。解体新書初版に序文をよせている、とありました。

「本木榮之進」、享保二十(1735)年〜寛政六(1794)年。オランダ通詞、蘭学者。

 江漢は天文学方面のこの大先達に直接会って啓発されることが多かったようで、この旅が終えてから、もっぱら天文・地理をはじめとする西洋自然科学の研究と啓蒙書著述に没頭していった、とありました。

「本木の息元吉」、元吉ではなく茂吉。明和二(1767)年生まれ。

 

2025年6月23日月曜日

江漢西遊日記四 その36

P42 東京国立博物館蔵

P43

(読み)

おらん多舩

おらんだふね


唐 人 舩

とうじんふね

P43

屋しきハ十  善 寺と云 処  ニして低(ヒクキ)所  故 見得

やしきはじゅうぜんじというところにして  ひくき ところゆえみえ


春゛唐 舩 ハ七 八 艘 白 キ幡 を立 大 者とト

ず からふねはしちはっそうしろきはたをたておおはとと


云 処  尓かゝ里ておらん多゛舩 ハ其 比 十  月

いうところにかかりておらんだ ふねはそのころじゅうがつ


なれハ大 者とを出 神(カウ)さきと云 処  ハ一 里ヲ

なればおおはとをでて  こう さきというところはいちりを


隔 ツ爰 に一 艘 今 一 艘 ハ山 尓かくれて見

へだつここにいっそういまいっそうはやまにかくれてみ


え春゛向 フ所  ハ西 ニて沖 なり爰 より向

えず むかうところはにしにておきなりここよりむかい


地ハ稲 佐と云 処  なり山 ニ登 り此 景色

ちはいなさというところなりやまにのぼりこのけしき


を寫 春長 崎(サキ)町  数 九  十  六 町  と云 一 躰

をうつすなが  さき ちょうすうきゅうじゅうろくちょうといういったい


海 き王山 ニして町 中 石階(サカ)多 し旅 館 ハ

うみぎわやまにしてまちなかいし さか おおしりょかんは


なし旅 人 滞 畄  を禁 春゛今 能長 崎 尓

なしたびびとたいりゅうをきんず いまのながさきに

(大意)

(補足)

「十善寺」は長崎村と記してある左に十善寺郷とあり、「神(カウ)さき」は地図の左下に神崎臺場、「稲佐」は左端やや上に稲佐山とあります。 

「大者と」、大波止(場)。

「おらん多゛舩ハ其比十月なれハ」、オランダ船は季節風を利用して7~9月ごろにやってきて貿易業務を行い、10月に出航していました。出島には代々カピタンを引き継いだ商館長の日記が豊富にあり、翻訳されてるものも多数あるので、当時の様子がとても詳しくわかります。

 阿蘭陀船出帆之図です。右の山に神嵜とあります。 

 長崎の街なか見物よりも、まず全体を見渡せる稲佐山にのぼり(調べると333mもあります)、写生をするのはいかにも江漢さんらしい。

 

2025年6月22日日曜日

江漢西遊日記四 その35

P40 東京国立博物館蔵

P41

(読み)

夫 より一  方ハ畑  一 方 ハ山 能根を行ク処  ニして

それよりいっぽうははたけいっぽうはやまのねをゆくところにして


岩 尓佛  のか多ちを彫 付 てあり皆 面 部

いわにほとけのかたちをほりつけてありみなめんぶ


手足 を打 かきてあり之 ハ古  へイギリス

てあしをうちかきてありこれはいにしえいぎりす


人 渡 り多る時 能し王ざなりとぞ爰 より長

じんわたりたるときのしわざなりとぞここよりなが


崎 能入 口 なり是 ハ本 道 ニ非  本 道 ハ大

さきのいりぐちなりこれはほんどうにあらずほんどうはおお


村 よりいさ者ヤ四里矢上 ヘ一 里日見へ一 里

むらよりいさはやよりやがみへいちりひみへいちり


長 崎 へニ里なり長 崎 入 口 能町 を桜  の馬場

ながさきへにりなりながさきいりぐちのまちをさくらのばば


と云フ夫 よりして浦 上 と云 処  ニ至 ル高 キ処  ニて山

というそれよりしてうらがみというところにいたるたかきところにてやま


なり爰 も長 崎 へ入 口 人 家續 く長 崎 能

なりここもながさきへいりぐちじんかつづくながさきの


町 中 見ヘおらん多屋しきニハ幡(ハタ)を建て唐 人

まちなかみえおらんだやしきには  はた をたてとうじん

P41

鯖(サハ)腐(クサラカシ)石

  さば   くさらかし いし


数 丈  ニして上 ノ石 危  くかゝる

すうじょうにしてうえのいしあやうくかかる


さバと云 魚  ハくされや春し夫 を

さばというさかなはくされやすしそれを


持(モチ)行く者 此 石 能落 ン事 を恐 れ

  もち ゆくものこのいしのおちんことをおそれ


とヤかくヤと云 うち鯖 くされ多り

とやかくやといううちさばくされたり

(大意)

(補足)

「大村よりいさ者ヤ四里矢上ヘ一里日見へ一里」、諫早は右上、矢上、日見は下中央の入江のところ。

「幡(ハタ)」、旗。

「鯖(サハ)腐(クサラカシ)石」、時津の奇岩として有名なようです。『西遊旅譚三』にも画があります。また「岩尓佛のか多ちを彫付てあり」の画もあります。 

 人家が続く長崎の町中が見え、旗を建てたオランダ屋敷をのぞみ、遠目から長崎に着いたと静かに感じ入っているようであります。