2025年11月15日土曜日

江漢西遊日記六 その43

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

八ツ時 過 尓なる宿 能主 人 料  理人 二 人ニ

やつどきすぎになるやどのしゅじんりょうりにんふたりに


て町 ハツレ迄て送 ル爰 より二里宮 内 ヘ出テ

てまちはずれまでおくるここよりにりみやうちへでて


往 来 なり亦 二里行 て岡 山 石 関 町  着

おうらいなりまたにりゆきておかやまいしせきちょうちゃく


林  氏尓至 ル親 七 郎 治倅  㐂左衛門 出て

はやししにいたるおやしちろうじせがれきざえもんでて


能ク\/御帰 リ此 間  中  指 ヲ屈 シ占   などして

よくよくおかえりこのあいだじゅうゆびをくっしうらないなどして


お待 申  とて早 々 喰  事を出し湯ニ入 り亦

おまちもうしとてそうそうしょくじをだしゆにはいりまた


奥 能坐しきへ行キコタツをして當 リな

おくのざしきへゆきこたつをしてあたりな


から父子咄 春寒 氣津よけ連ハ寛(ユル)\/

がらふしはなすかんきつよければ  ゆる ゆる


と御滞 畄  あれとさて何 方 ヘ行キても尊

とごたいりゅうあれどさていずかたへゆきてもそん


敬(ケウ)されるも婦しきなる事 かな

  けい されるもふしぎなることかな

(大意)

(補足)

 足守から4里の徒歩で岡山石関町へ、16Kmも歩くなんて、それも寒中です。

どこへ行っても大切にもてなされ尊敬されているようだと、至極満足げな江漢さん、湯につかりながらも、幸せそうです。どうしてそんなに尊敬されるのだろうと、わかっているくせに自尊心をくすぐられて、ニヤニヤ顔が目に浮かびます。

 

2025年11月14日金曜日

江漢西遊日記六 その42

 

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

六 日天 氣鴨 鹿 料  理申  付 酒 を呑ミ宿 能

むいかてんきかもしかりょうりもうしつけさけをのみやどの


倅  浄  瑠璃をか多り一 興  春夫 より亦 御殿

せがれじょうるりをかたりいっきょうすそれよりまたごでん


へ行キ初 午 趣 好 を春夜 八 時 ニ帰 る

へゆきはつうましゅこうをすよるやつどきにかえる


七 日曇 ル八 時 此 より雪 降 出ス庭 の中(ウチ)色 \/

なのかくもるやつどきころよりゆきふりだすにわの  うち いろいろ


かざり物 田舎(イナカ)者 見 物 尓来ル雪 故 皆\/

かざりもの   いなか ものけんぶつにくるゆきゆえみなみな


かえる其 日も夜 の八 時 旅 宿 へ帰 ル

かえるそのひもよるのやつどきたびやどへかえる


八 日天 氣寒 く氷 ル今 日四 時 出  立 せんとて

ようかてんきさむくこおるきょうよつどきしゅったつせんとて


お暇  乞 ニ罷  出ル足 守 侯 お逢 金 五百  疋 ト

おいとまごいにまかりでるあしもりこうおあいきんごひゃっぴきと


八 丈  嶋 一 反 被 下 夫 より所  々  暇  乞 ニ参 り宿 へ

はちじょうじまいったんくださりそれよりところどころいとまごいにまいりやどへ


ハ庄  屋方 より蕎麦(ソバ)を贈 ル段 \/暇(ヒマ)取 漸  く

はしょうやがたより   そば をおくるだんだん  ひま どりようやく

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年2月6日 1789年3月2日。

「倅」、原文では「亻」が「忄」。「璃」、原文では「理」。

「夜八時」、夜中の2時。「七日曇ル八時」、こっちは昼の2時。「今日四時」、朝の10時頃。

「暇乞」、くずし字は二文字で覚えます。

「罷出」、これもセットで覚えます。

「八丈嶋」、島をもらうわけがないので、これは「縞」。

「被下」、これもセットで覚えます。

「段\/」、学んでなければ読めません。

 寒さが一番厳しい折、ましてや「寒く氷ル」という、夜中の2時まで歓談していたわけですけど、寒くなかったのかぁといらぬ心配をしてしまいます。

 

2025年11月13日木曜日

江漢西遊日記六 その41

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

个連ハ田夫田畑 の間  へタイ松 を持チ数 \/出シ

ければたふたはたのあいだへたいまつをもちかずかずだし


路 を照 し田夫の家 ニハあんどんを門(カト)口 ニ出シ

みちをてらしたふのいえにはあんどんを  かど ぐちにだし


又 タヒ松 を持 セ城  下迄テ連(ツレ)行 ハ尚 \/あり

またたいまつをもたせじょうかまで  つれ ゆくはなおなおあり


か多く思 フよし老 人 ハ数 珠を以 テ拝(ヲカム)なり

がたくおもうよしろうじんはじゅずをもって  おがむ なり


誠  尓愚直(クチヨク)なる者 ニて上ミ尓居ル者 之 を憐(アハレム)

まことに   ぐちょく なるものにてかみにいるものこれを  あわれむ


べし

べし


五 日雨 昼 より天 氣昼 過 御殿 へ出テ小襖

いつかあめひるよりてんきひるすぎごてんへでてこふすま


二組(クミ)桜  尓小鳥 流  尓鮎 の画なり明日出  立ツ

に  くみ さくらにことりながれにあゆのえなりあすしゅったつ


せんと申  上ケ个連ハ初 午 見 物 して八 日ニ出  立

せんともうしあげければはつうまけんぶつしてようかにしゅったつ


スべしと鹿 の肉 鴨 一 羽を下タさる

すべしとしかのにくかもいちわをくださる

(大意)

(補足)

「五日」、寛政1年2月5日 1789年3月1日。

「鹿の肉鴨一羽を下タさる」、鹿肉鴨肉を頂いたものの、江漢さんが料理をするわけではなく、この日記にも料理人が困っている様子がかかれています。春波楼筆記にはこのようにあります。 

 江漢が鹿の生血をすすりのんだいきさつは、この日記と春波楼筆記ではことなって記されていますが、どちらにしろこれらのことは事実であったようです。

 

2025年11月12日水曜日

江漢西遊日記六 その40

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

入ルセコ能者 数 十  人 タイコ。ドラを打ツて山 能根

いるせこのものすうじゅうにんたいこ どらをうってやまのね


を追フ鹿 一 疋 池 の邊  ニ出後(ウシロ)の山 尓入 時 ニ鉄 砲

をおうしかいっぴきいけのあたりにで  うしろ のやまにいるときにてっぽう


雨(アメ)の如 く鹿 鉄 砲 ニあ多り藪(ヤフ)の内 ニ入ル予レ走

  あめ のごとくしかてっぽうにあたり  やぶ のうちにいるわれはしっ


て鹿 の耳 元 をツキ破 里生 血を吸ヒ个連ハ皆

てしかのみみもとをつきやぶりなまちをすいければみな


々 肝 を津ぶ春鹿 の生 血ハ生 を養  フ良  薬 と

みなきもをつぶすしかのなまちはせいをやしなうりょうやくと


聞 个連ハなり夫 より日も晩 景 ニなり个連ハ爰 ヨリ

ききければなりそれよりひもばんけいになりければここより


お帰 りとて同 勢 の中 ニ入 り返 ル路 田畑 の間  を通

おかえりとてどうせいのなかにはいりかえるみちたはたのあいだをとお


るに先 ヘ立ツ多る人 吾カう王さヲ春あれハ江

るにさきへたつたるひとわがいわさをすあれはえ


戸能江 漢 と云フ者 なり鹿 の耳 元 を裂(サキ)て

どのこうかんというものなりしかのみみもとを  さき て


血を吸ヒ个りおそろしき者 なりと云 日も暮レ

ちをすいけりおそろしきものなりというひもくれ

(大意)

(補足)

「養フ」、養のくずし字はいままで見なかったような気がします。忘れてたのかな?

 生血(なまち)を吸った噂がすぐにひろまりましたが、江漢さんはちっともいやがってはなさそう。目立つこと、人と違うことをすること、うわさをされること、どれも彼にとっては飯よりも好きなことであります。

 

2025年11月11日火曜日

江漢西遊日記六 その39

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

へ一 里黒 宮 發 起して温 泉 場  と春未 タ浴(ヨク)

へいちりくろみやほっきしておんせんじょうとすいまだ  よく


春る人 なし爰 より五六 町  を過 て中 山 と云 処

するひとなしここよりごろくちょうをすぎてなかやまというところ


岩 石 聳  多る處  なり見 物 春帰 りて直  ニ御

がんせきそびえたるところなりけんぶつすかえりてちょくにご


殿 ヘ参 ル夜 ノ八ツ時 尓返 ル

てんへまいるよるのやつどきにかえる


四 日上  天 氣暖 氣四 時 より狩 尓お出之(コレ)

よっかじょうてんきだんきよつどきよりかりにおで  これ


あり予 カ旅 宿 能前 の町 を過キ一 里程 を

ありわれがたびやどのまえのまちをすぎいちりほどを


行 て供(トモ)尓歩(カチ)立 ニて山 深 く入り兎  一 疋 を

ゆきて  とも に  かち だてにてやまぶかくいりうさぎいっぴきを


得ル鹿 三 ツ出个連ど取レ春゛夫 より山 を下

えるしかみっつでけれどとれず それよりやまをくだ


里何 とか云フ里 ニ至 り冨家能商  人 方 を膳 所

りなんとかいうさとにいたりふけのしょうにんかたをぜんしょ


とし爰 ニて昼  食  春夫 よりして亦 向 フ能山 ニ

としここにてちゅうしょくすそれよりしてまたむこうのやまに

(大意)

(補足)

「中山」、『岡山県の吉備の中山にある「天柱岩(てんちゅうがん)」「鏡岩(かがみいわ)」「穴観音(あなかんのん)」「吉備中山岩石群」などの岩石群。これらの岩石は、古くから神座や祭祀の場として信仰されてきた』。

「四日」、寛政1年2月4日 1789年2月28日。

「夜ノ八ツ時」、夜中の2時。ずいぶんと遅くまで、お殿様の御殿にいたようです。

 

2025年11月10日月曜日

江漢西遊日記六 その38

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

御猟  あり鹿 三 疋 其 肉 を下 さる

ごりょうありしかさんびきそのにくをくださる


二月 朔  日昼 より雨 此 所  ニてハ一ト夜正

にがつついたちひるよりあめこのところにてはひとよしょう


月 とて昨 日 餅 を搗き今朝雑 煮ヲ喰

がつとてさくじつもちをつきけさぞうにをくう


町  家袴  上 下 ニて禮 尓出ル武家ニなし

ちょうかはかまかみしもにてれいにでるぶけになし


昨 日 能鹿 肉 を料  理人 尓申  付 候得ハ  殊(コト)

さくじつのしかにくをりょうりにんにもうしつけそうらえば  こと


能外 困 りける爰 ハ吉備津の宮 能氏 子ニて

のほかこまりけるここはきびつのみやのうじこにて


毛者 をきろふ夜 ニ入 雨 益 々 ふる

けものをきらうよるにいりあめますますふる


二 日雨 ヤマス画ヲ認  メル町  家ヘハ家中  能者 コ

ふつかあめやまずえをしたためるちょうかへはかちゅうのものこ


ズ夫 故 徒 然 ニて暮 春

ずそれゆえつれずれにてくらす


三 日天 氣となる暖 色  を催  春柏井(カシイ)と云 処

みっかてんきとなるだんしょくをもよおす   かしい というところ

(大意)

(補足)

「二月朔日」、寛政1年2月1日 1789年2月25日。天明9年は1月25日までで、翌日1月26日は寛政1年になってました。

「一ト夜正月」、『「一夜正月(いちやしょうがつ)」または「重ね正月(かさねしょうがつ)」は、2月1日を指す言葉で、特に厄年の人が、その年の厄を早くやり過ごすために、仮に一つ歳を重ねるという意味で祝う習慣です。本来の正月である1月1日に対して、2月1日を2度目の元日と見なすことで、年齢を一つ多く数え、厄年を乗り越えようとする風習で、地域によっては「歳重ね(としがさね)」とも呼ばれます』とAIの概要にありました。

「候得ハ」、頻出です。三文字セットでおぼえます。

「毛者」、もちろん獣です。

「吉備津の宮」、吉備津彦神社正面山が左端にあります。

 江漢さんは新しもの好きですから、鹿肉だろうがなんだろうがモリモリ食べたはず。獣肉は食べないと言われてますけど、食べる人がまたは常食する人が少なかっただけで、食べていたにきまっています。

 

2025年11月9日日曜日

江漢西遊日記六 その37

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

ワキ哥 興  ニ入 ておもしろしさて大 坂 より西 ノ

わぎうたきょうにいりておもしろしさておおさかよりにしの


方 酒 を出春尓肴  さし身硯  婦多ニて吸 物

ほうさけをだすにさかなさしみすずりぶたにてすいもの


ハ酒 数(ス)古ん呑 多る上 尓出春なり此 日も寒

はさけ  す こんのみたるうえにだすなりこのひもさむ


き日ニて一 向 尓あ川き物 を出さづ漸  く仕

きひにていっこうにあつきものをださずようやくし


舞 比 尓吸 物 を出し个連夫 より横 路 へ

まいころにすいものをだしけれそれよりよこみちへ


入 ル行ク事 二里あり足 守 尓至  黒 宮 を

はいるゆくことにりありあしもりにいたるくろみやを


吊(トムロウ)酒 飯 出春夜 尓入 能ク寝る

  とむろう さけめしだすよるにいりよくねる


廿   九日 天 氣寒 し旅 宿 を町 の備前 屋と云

にじゅうくにちてんきさむしたびやどをまちのびぜんやという


尓移 春小坐しきコタツあり

にうつすこざしきこたつあり


卅    日 天 氣よし御殿 へ出ルお逢ヒあり前 日

さんじゅうにちてんきよしごでんへでるおあいありぜんじつ

(大意)

(補足)

「数(ス)古ん」、『こん【献】(接尾)助数詞。

① 杯をさす度数を数えるのに用いる。「一―献(けん)ずる」

② 吸い物・肴・銚子をととのえて膳をすすめる度数を数えるのに用いる。「一―にうちあはび,二―にえび,三―にかいもちひにてやみぬ」〈徒然草216〉』。なんのことかとおもいました。数献(すうこん)の意でした。

「吊(トムロウ)」、吊(つ)る、がどうして訪れるの意味で使われるのか、江漢さんはこの日記でずっとこの漢字を使っています。

「卅日」、天明9年1月30日。1789年2月24日。

 足守藩は緒方洪庵生誕の地です。文化7年7月14日〈1810年8月13日〉〜文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)。江戸時代後期の武士(足守藩士)。残念ながら江漢さんが訪れたときはまだ生まれていませんでした。もし会えていれば、うまがあって話が盛り上がったことでありましょう。


 

2025年11月8日土曜日

江漢西遊日記六 その36

 

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣寒 サ薄 し備 中  足 守 ハ木 下

にじゅうしちにちてんきさむさうすしびっちゅうあしもりはきのした


侯 の領  地なり爰 より西 ノ方 九月 十  一 日 長

こうのりょうちなりここよりにしのほうくがつじゅういちにちなが


崎 へ参 り可け寄(ヨリ)多る尓領  主 江戸より御帰 りなし

さきへまいりかけ  より たるにりょうしゅえどよりおかえりなし


此 節 御着(チヤク)と申  事 故 明日など参 らんと思 フ

このせつお  ちゃく ともうすことゆえあすなどまいらんとおもう


廿   八 日 天 氣昼 より曇 ル㐂左衛門 同 道 ニて四

にじゅうはちにちてんきひるよりくもるきざえもんどうどうにてよつ


時 比 石 関 町  を出て行ク事 二里宮 内 と云フ処

どきころいしせきちょうをでてゆくことにりみやうちというところ


アリ遊 女 ある所  茶 屋あり菊 屋と云 揚 屋ナリ

ありゆうじょあるところちゃやありきくやというあげやなり


爰 尓至 り妓二 人呼フ大 坂 風 なり嶋 ちりめん

ここにいたりぎふたりよぶおおさかふうなりしまちりめん


毛(モウ)留(ル)能帯 ニ髪 大 嶋 田木櫛 横 尓さし

  もう   る のおびにかみおおしまだきぐしよこにさし


竿(コウカヒ)可んざしベツ甲(カウ)也 大 坂 のウタ江戸能サ

  こうがい かんざしべっ  こう なりおおさかのうたえどのさ

(大意)

(補足)

「廿七日」、天明9年1月27日。1789年2月21日

「備中足守」、現在の地図。左上に足守小学校とあります。 


 古地図の中央付近に木下肥後守在所と足守があります。また右下に宮内村があります。


「毛(モウ)留(ル)」、モールの当て字だとおもいます。『モール(ポルトガルmogol)

① 〔インドのムガル帝国に由来するという。「莫臥児」とも書く〕緞子(どんす)に似た浮き織りの織物。たて糸に絹糸を,よこ糸に金糸・銀糸・色糸を用いて花紋などを織りだしたもの。金糸を用いたものを金モール,銀糸を用いたものを銀モールという。名物裂(ぎれ)として茶人に愛好された。モール織り。② 金・銀あるいは色糸をからませた飾り撚(よ)りの糸。モール糸。』

「菊屋と云揚屋」で「妓二人呼フ」、微に入り細に入り、どうしても妓二人を入念に観察してしまう絵師としての職人魂、いやはやスキですねぇ〜。


2025年11月7日金曜日

江漢西遊日記六 その35

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

喰  事して酒 能肴  さし身を出タ春其 切 身

しょくじしてさけのさかなさしみをいだすそのきりみ


歯尓当 りてゴリ\/と云フさし身能氷 り多るなり

はにあたりてごりごりというさしみのこおりたるなり


当 春  へ可けて能寒 サ四十  年 此 方 能寒 氣

とうしゅんへかけてのさむさしじゅうねんこのかたのかんき


と申  事 なりとぞ江戸ハ此 様 尓なしと又 火事

ともうすことなりとぞえどはこのようになしとまたかじ


もあまり大 火ハなしと申  参 り候   主 人 話 シなり

もあまりたいかはなしともうしまいりそうろうしゅじんはなしなり


㐂左衛門 親 ハ七 十  ニ近 キ人 ニて至  て好 事家

きざえもんおやはしちじゅうにちかきひとにていたってこうずか


なり夜 四 時 過キ迄 話 し津き春゛

なりよるよつどきすぎまではなしつきず


廿   六 日 寒 風 後 雪 となる寒 ニ当 里多るや

にじゅうろくにちかんぷうのちゆきとなるかんにあたりたるや


氣分 不勝  画二三 紙認  メ昼 喰 尓白 魚 を

きぶんすぐれずえにさんししたためひるめしにしらうおを


平皿(サラ)尓盛り出春一 升  三 匁 と云フ

ひら さら にもりだすいっしょうさんもんという

(大意)

(補足)

「当春へ可けて能寒サ四十年此方能寒氣」、やはり1789年前後数十年は異常気象であったようで、この日記の随所にその様子が記されています。

「夜四時過キ迄」、夜10時すぎ。「過」と「迄」のくずし字の違いに注意です。

「廿六日」、天明9年1月26日。1789年2月20日

「一升三匁」、岡山は白魚の産地で、簡単に非常にたくさんとれたそうです。その値段でしょう。

 

2025年11月6日木曜日

江漢西遊日記六 その34

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

行 尓寒 風 骨 をとふ春片 上 ヘ五里岡

ゆくにかんぷうほねをとうすかたかみへごりおか


山 へ七 里何 分 岡 山 ヘ行キ度 三 里能ま王

やまへしちりなにぶんおかやまへゆきたくさんりのまわ


里と云フさていなか路 風 烈 しく風 を防 き

りというさていなかみちかぜはげしくかぜをふせぎ


休 ムべき所  なし誠  尓烈 風 骨 肉 を透(トヲス)とハ

やすむべきところなしまことにれっぷうこつにくを  とおす とは


此 事 なり三 里を過 て奥 能郷 と云フ処  ニて

このことなりさんりをすぎておくのごうというところにて


一 軒 家アリ爰 ニて酒 を買 て呑 少 シいきをして

いっけんやありここにてさけをかいてのむすこしいきをして


夫 より走 りて川 あり舟 ニて渡 ル又 大 キなる

それよりはしりてかわありふねにてわたるまたおおきなる


樋 アリ漸  く尓して岡 山 石 関 町 赤穂(アカウ)屋㐂左

おけありようやくにしておかやまいしぜきまち   あこう やきざ


衛門 方 へ行く親 子出テ只 今 お帰 りカとて奥 能

えもんかたへゆくおやこでてただいまおかえりかとておくの


離(ハナレ)坐しきへともなゐコタツをして当(アテ)湯ニ入 ル

  はなれ ざしきへともないこたつをして  あて ゆにはいる

(大意)

(補足)

「片上」、画像の右上に赤穂線備前片上の駅があります。

「奥能郷」、邑久。上の画像で赤穂線邑久駅(おくえき)があります。

「岡山石関町」、 

「赤穂(アカウ)屋㐂左衛門」、往路の9月9、10日に泊まっている。江漢は後年、喜左衛門に頼まれて洋画を送っています。

 江漢さん「いなか路風烈しく風を防き休ムべき所なし誠尓烈風骨肉を透」という真冬の旅路、喜左衛門さん方でこたつ、あたたかい湯でほっとしたようです。

 

2025年11月5日水曜日

江漢西遊日記六 その33

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

舩 著(ツキ)なり保 命 酒 能名 物 あり蕎麦(ソバ)ヤ酒

ふな  つき なりほうめいしゅのめいぶつあり   そば やさか


屋湯やあり酒 など呑 又 舩 尓能る舩 中  さて\/

やゆやありさけなどのみまたふねにのるせんちゅうさてさて


寒 し難 渋  春る陸(オカ)へ上(アカ)らんと思 へども岡 山 ヘ

さむしなんじゅうする  おか へ  あが らんとおもえどもおかやまへ


いなか路 十  八 里あるとぞ

いなかみちじゅうはちりあるとぞ


廿   四 日天 氣風 アリ誠  尓舩 走 ル事 疾(ハヤ)し二十

にじゅうよっかてんきかぜありまことにふねはしること  はや しにじゅう


四五里過 て備前 能牛窓(ウシマド)と云 処  ニ懸(カケル)家

しごりすぎてびぜんの   うしまど というところに  かける いえ


千 軒 ある処  なり此 追 手尓てハ明日ハ大 坂 ヘ

せんけんあるところなりこのおってにてはあすはおおさかへ


著 と雖   餘 りなんぎ故 尓爰 ニてあがる泊  屋

つくといえどもあまりなんぎゆえにここにてあがるとまりや


一軒(ケン)アリ泊 る

い  けん ありとまる


廿   五日 天 氣大 西 風 烈 シ朝 五  時 ニ出  立 して

にじゅうごにちてんきおおにしかぜつよしあさいつつどきにしゅったつして

(大意)

(補足)

「保命酒」、『広島県福山市名産の薬味酒である。生薬を含むことから「瀬戸内の養命酒」などと言われることもあるが、養命酒とは異なり医薬品ではない』とあり、ウィキペディアに詳しく記されています。

「廿四日」、天明9年1月24日。1789年2月18日。

「牛窓」、現在の地図で右下の白いところに牛窓神社があります。

古地図と比べても、大きな川二本があって、それほど変わってないようにはみえます。

「西遊旅譚五」に「備前牛窓」の画があります。 

 風にめぐまれ超特急で大阪に到着するとおもいきや、船中あまりの寒さに難渋して、備前牛窓で陸に上がり一軒家に泊まり、翌日「大西風烈シ」の中、岡山に向けて朝8時頃出発しました。

 牛窓村が「家千軒ある処なり」とあって、かなり大きな村です。ほんとかな?

牛窓から岡山へは西に向かいます。

 

2025年11月4日火曜日

江漢西遊日記六 その32

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

と聞 个連ハ婦なまん中(チ ウ)なりと云 此 舩 へ

とききければふなまん  じゅう なりというこのふねへ


呼フ尓二百  文 なりと或  ハ畏(ヲソ)ル同 郷  ならん

よぶににひゃくもんなりとあるいは  おそ るどうきょうならん


能詩あり和漢 同 し事 也 扨 々 珍(メツラ)しき事

のしありわかんおなじことなりさてさて  めずら しきこと


かなとて一 眠  して夜明 多り

かなとてひとねむりしてよあけたり


廿   一 日 曇  て風 アリ舩 走 ル事 早(ハヤ)シ忽  チ上  関

にじゅういちにちくもりてかぜありふねはしること  はや したちまちかみのせき


能沖 を乗り三 十  五里走 ルヌワと云 嶋 ニ掛

のおきをのりさんじゅうごりはしるぬわというしまにかかる


廿   二日 天 西 風 夜半 舩 を出して藝 州  の内

にじゅうににちはれにしかぜやはんふねをだしてげいしゅうのうち


ミタライと云 処  を見て走 里備 後能鞆(トモ)と

みたらいというところをみてはしりびんごの  とも と


云フ処  ニ泊 ス舩 頭 爰 ヘ碇(イカリ)を頼 ム故 舩 よりあ可゛る

いうところにはくすせんどうここへ  いかり をたのむゆえふねよりあが る


予(ワレ)も共 尓小舟 尓能里上(アカル)爰 ハ福 山 能領  地ニテ

  われ もともにこぶねにのり  あがる ここはふくやまのりょうちにて

(大意)

(補足)

「婦なまん中(チウ)」、『ふなまんじゅう ―まんぢゆう【船饅頭】

近世,江戸隅田川に浮かべた小舟の中で色を売った私娼。船君』、と辞書にはありましたが、日本津々浦々どこにでもあったようです。

「或ハ畏(ヲソ)ル同郷ならん」、この詩のようです。 

「廿一日」、天明9年1月21日。1789年2月15日

「上関(かみのせき)」「怒和(ぬわ)」、たった1日で35里(約140km)。そして翌日、西風で一気に福山へ。船は今の新幹線でした。


 「ミタライ」、御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(広島県呉市)の港町。

 来るときは今津(福山と尾道の中間辺り)に9月15日に泊り、そこから下関に10月2日についています。17日かかったのがわずか2日!

 

2025年11月3日月曜日

江漢西遊日記六 その31

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日ハラ\/雪 霰  降ル爰 尓筑 前 若 松 舩 ハ

はつかはらはらゆきあられふるここにちくぜんわかまつふねは


百  石 積ミ能小舩 米 を積ミ外 尓能り合 ナ

ひゃっこくつみのこぶねこめをつみほかにのりあいな


シ舩 賃 四十  目古 キ蒲とん壱 貫 二百  ニて

しふなちんしじゅうめふるきふとんいっかんにひゃくにて


借り大 坂 迄 かり切 乗里出し个連ど瀬

かりおおさかまでかりきりのりだしけれどせ


戸口 潮 さし込ミ帆を十  分 尓張レとも舩ネ

とぐちしおさしこみほをじゅうぶんにはれどもふね


あと戻 里春る故 尓陸(ヲカ)へ上 り風呂尓者いり

あともどりするゆえに  おか へあがりふろにはいり


舩 頭 と同  く何 ヤラ埒 もなき人 能家 ニ行

せんどうとおなじくなにやららちもなきひとのいえにゆく


雪 アラレ降 寒 し七 ツ時 比 又 舩 ニ能り彼(カ)能

ゆきあられふるさむしななつどきころまたふねにのり  か の


借(カリ)り多るキタナキ蒲とんをかぶ里寝ルと

  かり りたるきたなきふとんをかぶりねると


女  能声 ニて何 ヤラ物 云フ舩 頭 尓あれハ何 シヤ

おんなのこえにてなにやらものいうせんどうにあれはなんじゃ

(大意)

(補足)

「廿日」、天明9年1月20日。1789年2月14日

「四十目」、『㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。『もんめ【匁】② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。③ (「文目」と書く)銭を数える単位。銭一枚を一文目とした。文。 』。

「貫」、『② 銭(ぜに)を数える単位。一〇〇〇文(もん)を一貫とする。ただし,江戸時代には実際は九六〇文を,明治時代には一〇銭のことをいった。貫文』

 大阪までの船を貸し切って40目、きたない蒲とんが壱貫二百とありますが、金額の比較が、よくわかりません。

「借リ」、どうみても「備」にみえます。

 

2025年11月2日日曜日

江漢西遊日記六 その30

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

目つらしき本 なり法 師其 画ニ指(ユヒ)サシ平 家

めずらしきほんなりほうしそのえに  ゆび さしへいけ


投落(ホツラク)次第 を物 語(カタ)り春昔 シを思 ヒ出し目

   ぼつらく しだいをもの  がた りすむかしをおもいだしめ


尓涙  を浮 へ多り早 友 明  神 ハ向 フ地なり爰

になみだをうかべたりはやともみょうじんはむこうちなりここ


より望 ム尓十 町  許  尓見ユル瀬戸口 なり平 家

よりのぞむにじっちょうばかりにみゆるせとぐちなりへいけ


蟹 ハ世尓数 アル蟹 と違 ヒ背能甲 怒 レル顔

がにはよにかずあるかにとちがいせのこういかれるかお


色 アリ硯  石 ハ赤 キと青(アヲ)アリ此 山 能浅 村

いろありすずりいしはあかきと  あお ありこのやまのあさむら


山 ヨリ出ルとぞ又 大 積 山 ト云 よりモ出ル稲

やまよりでるとぞまたおおつぼやまというよりもでるいな


荷町  と云 処  遊 女 アリこー(ウ)シ造 り見世付 ハ

りちょうというところゆうじょありこ  う しつくりみせつけは


遊 女列(レツ)をなさ川皆 横 立 ニ居て至極 ザ川

ゆうじょ れつ をなさずみなよこだちにいてしごくざっ


トし多る所  なり

としたるところなり

(大意)

(補足)

「投落(ホツラク)」、没落。

「早友明神」、『主に北九州市門司区の和布刈(めかり)神社を指す別名です。和布刈神社は、「早鞆の瀬戸」という場所にある』。早鞆瀬戸(はやとものせと 【早鞆瀬戸】関門海峡東端の最狭部の水道。海底を国道が走り,関門橋がかかる。壇ノ浦合戦の古戦場) 

 すでに赤間関(下関)にいるので、「早友明神ハ向フ地なり」です。

「大積山」、大積山(おおつぼやま)は、現在の北九州市門司区付近にかつて存在した、赤間硯(あかますずり)の硯石の産地として知られる山。大積山産の石材は頁岩(赤色)で、赤間硯によく似た性質を持っていたとされています。

 稲荷町で遊女屋をみつけて、歴史探訪から現実にもどったようです。

 

2025年11月1日土曜日

江漢西遊日記六 その29

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

平 家一 代 の盛衰(セイスイ)合 戦 の始終  を圖(ヅ)セリ

へいけいちだいの   せいすい かっせんのしじゅうを  ず せり


是 ハ土佐光 信 の筆 又 後 ロ能山 上 ニハ

これはとさみつのぶのふでまたうしろのやまうえには


壇(タン)の浦 ニて入 水 し多る人 々 能墳 墓アリ

  だん のうらにてじゅすいしたるひとびとのふんぼあり


宝 物 ハ土 御門 の院 幷  ニ後奈良能院

ほうもつはつちみかどのいんならびにごならのいん


正親 町 の院 右 の論 旨五通 鎌 倉 能

おおぎまちのいんみぎのりんじごつうかまくらの


御教  書 二十  三 通 尊 氏 能花押 御教

みぎょうしょにじゅうさんつうたかうじのかおうみぎょう


書 二通 太 閤 秀 吉 能短 冊 吉 田卜 部

しょにつうたいこうひでよしのたんざくよしだうらべ


家證  文 大 家代 々 毛 利吉 川 小早 川

けしょうもんたいかだいだいもうりきっかわこばやかわ


数 人 の書 十  余通 古筆 能平 家物 語

すうにんのしょじゅうよつうこひつのへいけものがたり


十  二巻 是 ハ筆 者 数 人 なり皆 長 門本 ニて

じゅうにかんこれはひっしゃすうにんなりみなながとぼんにて

(大意)

(補足)

「土佐光信」、『とさみつのぶ 【土佐光信】

室町中期の大和絵画家。宮廷の絵所預りとして活躍,幕府の御用絵師となり土佐派の画壇的地位を確立。多くの寺社縁起類や肖像画を描く。作「星光寺縁起」「足利義政像」など。生没年未詳』

「論旨」、『りんじ【綸旨】〔「りんし」とも。綸言(りんげん【綸言】天子・天皇のことば。みことのり。〔「礼記緇衣」による。「綸」は組糸。天子の言は発せられた時は糸のように細いが,これが下に達した時は組糸のように太くなる意〕)の旨の意〕

① 天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。平安中期から南北朝時代に多く発行された』

「吉田卜部」、『主に「吉田兼倶」と「吉田兼好」を指し、吉田姓と卜部氏の姓が関係しています。吉田兼倶は「吉田神道」を創始した室町時代の神道家であり、卜部氏を家名とした吉田家の始祖とされる人物です。一方、吉田兼好は『徒然草』の著者で、本名は「卜部兼好」です』とAIの概要にありました。

「長門本」、『赤間神宮・宝物殿。重要文化財として室町時代に制作された「長門本 平家物語」20冊が左右に展示されている。これは阿弥陀寺本ともいい、昭和20(1945)年7月の空襲で周囲を焼失。戦後の文化財修復第1号として昭和25(1950)年に修復完了したものである』

 江漢さんが見学したものは、現在は赤間神宮宝物殿にあるようです。

日本はほぼ全土が空襲されています。いったいどれだけの文化財が焼かれてしまったことでしょうか。かくいう日本もアジアの古物を焼き払い壊しまくったのでありますが。

 

2025年10月31日金曜日

江漢西遊日記六 その28

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

流  しま向 フ尓見へ与次平 塚 能前 を乗り。

りゅうしまむこうにみえよじへいづかのまえをのり


行キ可けと違 ヒ波 なく能キ舟ナ遊 ヒなりき

いきがけとちがいなみなくよきふなあそびなりき


七 ツ時 赤 間カ関 ニ著(ツク)朝  鮮 人 萩(ハキ)へ漂  流  シ

ななつどきあかまがせきに  つく ちょうせんじん  はぎ へひょうりゅうし


此(コゝ)所へ来ルと云 亦 おらん多人 廿 日ニ爰 ニ来

  ここ  へくるというまたおらんだじんはつかにここにく


るよし舩 尓おらん多能幡(ハタ)を建(タテ)多り

るよしふねにおらんだの  はた を  たて たり


十  九日 天 氣一 日 滞 畄  春阿弥陀寺ニ行キ

じゅうくにちてんきいちにちたいりゅうすあみだじにゆき


開 帳  春安 徳 帝 入 水 能海 ニて陵(ミサゝキ)もあり

かいちょうすあんとくていじゅすいのうみにて  きささぎ もあり


天 皇 能木 像 左右 能障  子ハ極 彩 色 ニ

てんのうのもくぞうさゆうのしょうじはごくさいしきに


して古法 眼 の画と云フ二位の尼 内 侍及 ヒ

してこほうげんのえというにいのあまないしおよび


平 家の一 族 能像 を画く次キの障  子ニハ

へいけのいちぞくのぞうをかくつぎのしょうじには

(大意)

(補足)

「眼流しま」、巖流島(がんりゅうじま)。正式名称は船島。無人島。引島のすぐ東側。

「赤間カ関」、赤間関。西国第一の要港。

「阿弥陀寺」、『 山口県下関市阿弥陀町にあった寺。中世には浄土宗,近世では真言宗に転じた。安徳天皇鎮魂のため1191年に建立。1875年(明治8)寺を廃して赤間宮(あかまじんぐう 【赤間神宮】山口県下関市阿弥陀寺(あみだじ)町にある神社。阿弥陀寺を神社に改めたもので安徳天皇をまつる。旧称,赤間宮。)となる』。

「十九日」、天明9年1月19日。1789年2月13日

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう。』

「二位の尼」、『にいのあま にゐ― 【二位の尼】

平時子(たいらのときこ)のこと。剃髪後,従二位に叙せられたのでいう。』

「内侍」、『ないし【内侍】

① 律令制で,内侍司の職員である尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじよう)の総称。本来は天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する女官であるが,平安中期には,妃・夫人・嬪(ひん)ら天皇の「妾」に代わる存在となり,また,単に内侍といえば,掌侍をさし,その筆頭者を勾当(こうとうの)内侍と呼ぶようになる。』


2025年10月30日木曜日

江漢西遊日記六 その27

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

いくらもアリて拾(ヒロヒ)て二 ツ三ツハ持 帰 り个連ど

いくらもありて  ひろい てふたつみつはもちかえりけれど


荷重 くなる故 尓ひろ王づ僕(ホク)弁 㐂も馬 尓

におもくなるゆえにひろわず  ぼく べんきもうまに


能る馬 能足 一 二尺  泥(トロ)ニ入ル亦 田畑 尓ツル多

のるうまのあしいちにしゃく  どろ にいるまたたはたにつるおお


し真奈靏 黒 ツル白 ツルなり白 ツルハ全

しまなづるくろつるしろつるなりしろつるはぜん


身 白 く尾の先 少  々  黒 キ処  アリ喙(クチハシ)足(アシ)代(タイ)シヤ

しんしろくおのさきしょうしょうくろきところあり  くしはし あし  たいしゃ


石 ニ黄混し多る色 喙(クチハシ)ハ鷭(バン)の如 し七 ツ時 ニ

せきにきまじたるいろ  くちはし は  ばん のごとしななつどきに


木屋瀬(コヤノセ)ニ泊 ル石 炭 能風呂尓入 ル

    こやのせ にとまるせきたんのふろにはいる


十  八 日 雨 折 \/降 朝 六ツ時 立ツ駕籠ニて黒

じゅうはちにちあめおりおりふるあさむつどきたつかごにてくろ 


崎 まて亦 馬 ニて小倉 へ次キ直  尓渡 シ舩 尓

さきまでまたうまにてこくらへつぎただちにわたしふねに


能る扨 風 なく海 平  カ。引 嶋 遠 く見へ眼(カン)

のるさてかぜなくうみたいらか ひきしまとおくみえ  がん

(大意)

(補足)

「十八日」、天明9年1月18日。1789年2月12日。

「木屋瀬、黒崎」、木屋瀬は画像下部中央川の右岸、そこから右上街道をのぼって入江にぶつかったところが黒崎。

「小倉」、引島は湾のうちにあります。

 来るときは長崎街道を下ってきましたが、帰りは九州の上部の海沿いをなぞるように歩んでいます。


 

2025年10月29日水曜日

江漢西遊日記六 その26

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

出春亦 酒 を買って呑 夫 より飯 出春爰

だすまたさけをかってのむそれよりめしだすここ


元(モト)ハ魚  ハ一 向 尓なし玉 子フハ\/尓して出し

  もと はさかなはいっこうになしたまごふわふわにしてだし


个り今 利路ニて足 の甲(コウ)者れ痛 武夜 尓

けりいまりじにてあしの  こう はれいたむよるに


入り雨 止(ヤマ)春゛

いりあめ  やま ず


十  七 日 兎角 雨天 五 ツ時 畝 町 を出  足 して

じゅうしちにちとかくうてんいつつどきうねまちをしゅっそくして


駕籠ニて赤 間ヨリ亦 駕籠を次キ木屋能

かごにてあかまよりまたかごをつぎこやの


瀬(セ)ヘ四里此 路 誠  尓田の如 し此 邊 石 炭

  せ へしりこのみちまことにたのごとしこのへんせきたん


を掘 出春農(ノウ)夫の墓(ハカ)路 者゛多尓有 石 塔 皆

をほりだす  のう ふの  はか みちば たにありせきとうみな


石 炭 の中 より出て不燃  物 皆 木能化石

せきたんのなかよりでてもえざるものみなきのかせき


なり木 目あり節(フシ)枝 あるなり小  なるハ路 \/

なりもくめあり  ふし えだあるなりしょうなるはみちみち

(大意)

(補足)

「玉子フハ\/尓して」、玉子は高価で贅沢品。まさか生卵ではなく、だし巻き玉子をやわらかくふわふわにしたもののような気がします。

「今利」、伊万里。

「十七日」、天明9年1月17日。1789年2月11日。

「五ツ時」、朝8時頃。

「畝町村」、赤間村、木屋瀬宿。足の甲がはれてしまったので、駕籠にのりました。画像の左隅が畝町村、赤い線の街道を右上に上がり、二股になるところが赤間村、右下にすすんで川を渡ってすぐが木屋瀬村。

 農夫の墓石が石ではなく、石炭の化石で木目が表れてとあり、黒くてツヤツヤした木の切り株のようなものだとおもいます。「いわき市石炭・化石館 ほるる」で実物を見たことがあります。

 

2025年10月28日火曜日

江漢西遊日記六 その25

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

いよ\/大 降 となる青柳(アヲヤキ)ニ至 り昼  喰 春コレ迄テ

いよいよおおぶりとなる   あおやぎ にいたりちゅうじきすこれまで


四里あり爰 より駕籠ニ能る雨 益 \/津よし

しりありここよりかごにのるあめますますつよし


路 皆 山 坂 畝(ウネ)町 と云フ処  コレ迄 二里あり問(トヒ)ヤニ

みちみなやまさか  うね まちというところこれまでにりあり  とい やに


参  人 足 を頼 ミ个連ハ最早(モハヤ)七 ツ時 過 なれバ之(コレ)ニ

まいりにんそくをたのみければ   もはや ななつどきすぎなれば  これ に


お泊 りと云フ雨 ヤマ春゛夫 なら泊 ルべし上(アカ)ル処

おとまりというあめやまず それならとまるべし  あが るところ


ありやと云 希れハイザ是 へと云 見ル尓サツ

ありやといいければいざこれへというみるにさっ


者゜里とし多る所  一 間 ありタゝミもよし窓(マド)よ

ぱ りとしたるところいっけんありたたみもよし  まど よ


里外 を見れハ漸  く一 重能早梅(ソウバイ)能さか里なり

りそとをみればようやくひとえの   そうばい のさかりなり


土瓶(トヒン)尓能キ茶 を入レ茶 ウケ香 能物。味噌

   どびん によきちゃをいれちゃうけこうのものみそ


津け。沢庵(タクハン)津け。菜(ナ)つけ。色 \/皿(サラ)ニ盛(モ)り

づけ    たくあん づけ   な つけ いろいろ  さら に  も り

(大意)

(補足)

「青柳」、「畝町」、赤い細い線が街道。下部左よりに青柳町、右上に畝町村。

「問(トヒ)ヤ」、『といやば とひ―【問屋場】江戸時代,街道の宿駅で人馬の継ぎ立てなど種々の事務を行なった所。伝馬所。とんやば』

「七時過」、午後4時すぎ。「コレ迄テ四里」「コレ迄テ二里」とあって違いに注意。

「サツ者゜里」、変体仮名「者」(ハ)に「゜」(半濁点)がついてます。

 隣の頁にその画があります。たしかにいろいろおいしそうな茶うけがのっています。主人は取り箸を右手に持っていますけど、取り皿がみあたりません。手のひらにうけたのでしょうか。

 

2025年10月27日月曜日

江漢西遊日記六 その24

P33 東京国立博物館蔵

P34

(読み)

松 林

まつばやし


博 多ノ町

はかたのちょう


人 福 岡 ヘ

にんふくおかへ


行ク

ゆく

P34

畝(ウネ)町 ヘ泊 り多る図

  うね まちへとまりたるず


此 邊 茶 ヲ土瓶(トヒン)

このへんちゃを   どびん


ニて煮花 茶 ウケ

にてにばなちゃうけ


香  物 色\/

こうのものいろいろ

(大意)

(補足)

P33「松林」、松囃子。

P34「畝町」、現在の地図で、福岡より海沿いに北東へ街道をすすむと、福津市があって、そのすぐ東側あたり。

 福津町近辺を拡大した古地図では右下に畝町村とあります。 

「煮花」、『にばな【煮花・煮端】煎じたての香りの高い茶。でばな』

 襖の絵は梅、日記には早梅とあります。

土瓶といっても、この画のものは土瓶サイズではなくて、なんという名前か知りませんがでかい。

 

2025年10月26日日曜日

江漢西遊日記六 その23

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

町  とて遊 里アリ是 ハ至  てザット志多る所  也

ちょうとてゆうりありこれはいたってざっとしたるところなり


此 地姪 の濱 より福 岡 まて一 里余  福 岡

このちめいのはまよりふくおかまでいちりあまりふくおか


ヨリ博 多迄 十  八 町  人 家續 キて繁昌(ハンゼ ウ)

よりはかたまでじゅうはっちょうじんかつづきて   はんじょう


能地なり西 ハ海 南  ハ山 なり

のちなりにしはうみみなみはやまなり


十  六 日 天 氣出  立 せんと春老 婦色 \/取

じゅうろくにちてんきしゅったつせんとすろうふいろいろとり


揃 ヘ飯 出須茶 梅 干 外 ニ金 子を添ヘて

そろえめしだすちゃうめぼしほかにきんすをそえて


餞 別 と春五  時 少 シ過 て發 足 し程 なく箱

せんべつとすいつつどきすこしすぎてはっそくしほどなくはこ


崎 八 幡 往 来 なり参 詣 春海 の中 路 見へる

さきはちまんおうらいなりさんけいすうみのなかみちみえる


玄 海 じま鹿 の嶋 なと云 嶋 \/見へ能キ景色

げんかいじましがのしまなどいうしまじまみえよきけしき


夫 より松 原 を通 里昼 比 より雨 降 出して

それよりまつばらをとおりひるごろよりあめふりだして

(大意)

(補足)

「ザット」、大雑把ということですが、現在でも日常的に使われ、この時代でも同じ意味だったのでしょう。古い文献では余り見ません。

「十六日」、天明9年1月16日。1789年2月10日。

「博多迄十八町」、「五時少シ過て」、迄と過の区別に注意。

「鹿の嶋」、志賀嶋。箱崎八幡は赤い印のところ。

 古地図と比べても、ほとんど同じです。右下に箱崎村、箱崎宿があり、すぐそばにある青い屋根が筥崎宮だとおもいます。 

 博多には結局12日から3日間過ごし、16日朝8時頃出立。「玄海じま鹿の嶋なと云嶋\/見へ能キ景色」を楽しみましたが、「昼比より雨降出して」しまいました。

 

2025年10月25日土曜日

江漢西遊日記六 その22

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

付 を者き和らんじニて福 岡 能城  内 ヘ入リて

つけをはきわらんじにてふくおかのじょうないへいりて


玄 関 ニ酒 盃 アリ夫 を呑ミ帰 ル事 なり

げんかんにしゅはいありそれをのみかえることなり


今 ハ祭 り能様 尓なり頭  ニハ紫(ムラサキ)。亦紅(モミ)。色 \/尓

いまはまつりのようになりあたまには  むらさき  また もみ  いろいろに


染 多るちりめんの投(ナゲ)頭巾 をか武里腰 尓三(サン)

そめたるちりめんの  なげ ずきんをかぶりこしに  さん


尺  手拭(テヌグイ)をしめ手ニ扇  を持 行クなり往 来

じゃく   てぬぐい をしめてにおおぎをもちゆくなりおうらい


さしきを掛ケ家中  能婦女 見 物 春夫 尓

ざしきをかけかちゅうのふじょけんぶつすそれに


たゐして色\/能ザレ口(クチ)を云ツても失 禮 ニ

たいしていろいろざれ  ぐち をいってもしつれいに


あら春゛とぞ又 福 人 能造 り物 捅(ヲトリ)屋臺(ヤタイ)

あらず とぞまたふくじんのつくりもの  おどり    やたい


夜半 過 迄 三 味せん太 鞁ニて者や春也

やはんすぎまでしゃみせんたいこにてはやすなり


櫛田(クシタ)能宮 博 多第 一 能大 社 なり又 柳

   くしだ のみやはかただいいちのたいしゃなりまたやなぎ

(大意)

(補足)

「和らんじ」、『わらんじ わらんぢ 【〈草鞋〉 】

「わらじ(草鞋)」に同じ。「やつちの糸の―をはき」〈幸若舞・山中常盤〉』

「捅」、踊。

「夜半過迄」、「過」と「迄」のくずし字はまぎらわしいのですけど、ふたつくっついて並ぶのは珍しいかも。くずし字は、「過」は「る」+「辶」、「迄」は「白」+「辶」、のような感じ。

「鞁」、鼓。江漢さんは太鼓をいつも太鞁とかきます。

「櫛田(クシタ)能宮」、『櫛田神社を指す言葉で、博多祇園山笠の発祥の地であり、祭りの中心となっています』。


 

2025年10月24日金曜日

江漢西遊日記六 その21

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

なり硫黄 の氣能燃 ルなり扨テ冨士能画

なりいおうのきのもえるなりさてふじのえ


を認  メ亭 主 ニ贈(ヲクル)酒 菓子を出し馳走 春此

をしたためていしゅに  おくる さけかしをだしちそうすこの


地も暖 土ニして多゛い\/の木を家 毎 ニ植へて

ちもだんどにしてだ いだいのきをいえごとにうえて


酢ニ用 ユ

すにもちゆ


十  四 日雨天 此 日出  立 せんと春主 人 云 明

じゅうよっかうてんこのひしゅったつせんとすしゅじんいうあ


日ハ爰 もと松 林  と申  て先祭(マツリ)能様 なる事

すはここもとまつばやしともうしてまず まつり のようなること


ニて家 々 煉(ネリ)酒 を造 里祝(イワウ)元 来 此 松 林

にていえいえ  ねり さけをつくり  いわう がんらいこのまつばやし


と云フハ昔 シ此 博 多尓唐 舩 能著(ツキ)多る処  ニて

というはむかしこのはかたにからぶねの  つき たるところにて


天 領  なり今 黒 田侯 能領  地となる昔 シ

てんりょうなりいまくろだこうのりょうちとなるむかし


能遺風 残 りて町  人 麻 の肩衣(カタキヌ)下 ハタチ

のいふうのこりてちょうにんあさの   かたぎぬ したはたち

(大意)

(補足)

「十四日」、天明9年1月14日。1789年2月8日。

「松林」、松囃子(まつばやし)。『まつばやし【松囃子・松拍子】

① 中世,正月に行われた囃子物。町村で組を作って趣向をこらし,権門勢家を訪れて祝言を述べたもの。のち,猿楽の太夫が将軍家などで勤めた。現在,民俗芸能として熊本県菊池市・福岡市などに残る。飾り囃子。

② 江戸時代,正月に行われた謡初め。将軍家や公家では3日に各座の能楽太夫を招いて行い,一般では3日から15日の間に行なった』

「煉(ネリ)酒」、『ねりざけ【練り酒・煉り酒】

白酒の一。蒸した米に酒と麴(こうじ)をいれて熟成させ,石臼(いしうす)でひき,漉(こ)したもの。博多の名産であった。練貫(ねりぬき)酒』

 12日に博多に着き、今日14日出立しようとするも、主人に引き止められた様子。

 

2025年10月23日木曜日

江漢西遊日記六 その20

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

母 親 出て者なし春此 者ゝさ満門 徒宗  ニて

ははおやでてはなしすこのははさまもんとしゅうにて


ぼ多゛ひ所 能和尚  を内 々 生  写 し尓い多し度

ほだ いじょのおしょうをないないしょううつしにいたしたく


とて此 家 能老 奴と一 所 尓寺 ヘ参 り院 主

とてこのいえのろうどといっしょにてらへまいりいんじゅ


尓面 會 して帰 りぬ此 寺 能庭(ニワ)尓木能

にめんかいしてかえりぬこのてらの  にわ にきの


化石 あり大 キサ一 間 余  なり淡(ウス)墨(スミ)色 ニ

かせきありおおきさいっけんあまりなり  うす   すみ いろに


て後 ロ能方 を見れバ真(シン)黒 なる処  あり

てうしろのほうをみれば  しん こくなるところあり


形 ち松 の木ニして枝 あり是 ハ石 炭 能

かたちまつのきにしてえだありこれはせきたんの


中(ナカ)より出 多る者 なり此 邊 豆腐(フ)や餅

  なか よりいでたるものなりこのへんとう ふ やもち


や風呂や皆 石 炭 を焚(タク)故 尓臭(クサシ)此 石

やふろやみなせきたんを  たく ゆえに  くさし このせき


炭 ハ山 能根より堀 出ス開 闢  以前 能化石

たんはやまのねよりほりだすかいびゃくいぜんのかせき

(大意)

(補足)

「堀出ス」、「扌」偏の掘もありますが、ここのは「土」偏です。二つの違いは『扌のほうは手でほること。土のほうは土地をほって水を通したところ(お城の堀など)』とあって、別の字とありました。

「開闢」、『かいびゃく【開闢】(名)スル 〔古くは「かいひゃく」とも〕

① 天地のはじまり。世の中のはじまり。「―以来の最大珍事」』

 

2025年10月22日水曜日

江漢西遊日記六 その19

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

尓馬 尓能里来 ル夫 より博多(ハカタ)ニ至  半 里あり爰 ハ

にうまにのりきたるそれより   はかた にいたるはんりありここは


黒 田侯 三 十  万 石 能領  地ニて姪 の濱 より

くろだこうさんじゅうまんごくのりょうちにてめいのはまより


爰 まで人 家續(ツゞ)けり博 多鰯(イワシ)町  由岐屋

ここまでじんか  つづ けりはかた  いわし ちょうゆきや


甚 兵衛生 月 能問 屋なり昼 時 爰 尓着(ツク)也

じんべえいきつきのとんやなりひるどきここに  つく なり


見世能向 フ尓別 家アリ我 等能ミ爰 ニ居ル

みせのむこうにべっかありわれらのみここにいる


奇麗 ニして起居 安 し菓子茶 を出春兎

きれいにしてききょやすしかしちゃをだすと


角 僕 弁 吉不快 なり平 戸より之(コレ)まで能往

かくぼくべんきふかいなりひらどより  これ までのおう


来 人 行 希 なり誠  尓寒 氣能節 昨 日 と一

らいじんこうまれなりまことにかんきのせつさくじつといっ


昨 日 風 雪 能山 路 誠  尓難 渋  なりき

さくじつふうせつのやまみちまことになんじゅうなりき


十  三 日 雨天 滞 畄  春主 人 出テ話 ス主 人 能

じゅうさんにちうてんたいりゅうすしゅじんでてはなすしゅじんの

(大意)

(補足)

「博多鰯(イワシ)町」、『博多の「鰯町」は、かつて存在した豪商の町で、明治時代の風情を残しています。かつては川端町の一部でしたが、1945年の福岡大空襲で全焼し、現在は「須崎町(すさきまち)」となっています』とAIの概要にありました。

「奇麗」、綺麗。「弁吉」、弁喜。

「人行」、『じんこう ―かう【人行】人の往来。「街には―絶えたり」〈即興詩人•鷗外〉』

「誠」、「殊」かもしれません。すぐ左に「誠尓」があって、比較すると偏のくずし字が異なっています。3行目に「續」があり、この糸偏とも形がことなっています。

「十三日」、天明9年1月13日。1789年2月7日。

 生月島を出立してから、せっせせっせと帰路を急ぐような雰囲気が文章に感じられます。

 

2025年10月21日火曜日

江漢西遊日記六 その18

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

唐 津屋利吉 方 へ泊 ル生 月 嶋 ニて逢ヒタル幸 左

からつやりきちかたへとまるいきつきしまにてあいたるこうざ


衛門 と云フ人能弟(ヲトゝ)なり扨 爰 ハ間(アイ)ノ宿  ニヤ松

えもんというひとの おとと なりさてここは  あい のしゅくにやまつ


並 木能間 タ能家 ニて埒 もなき大 いなかなり

なみきのあいだのいえにてらちもなきおおいなかなり


坐(サ)志き様 なる処  茅(ホヲ)屋(ヲク)天 井  なし煙 りいぶ

  ざ しきようなるところ  ぼお   おく てんじょうなしけむりいぶ


せくして屋(ヲク)中  を廻 る是 まで行(キタ)ル路 雷  チ

せくして  おく じゅうをめぐるこれまで  きた るみちいかずち


山 雪 降り各 \/ま多゛ら上 尓瀧 アリとぞ

やまゆきふりおのおのまだ らうえにたきありとぞ


十  二日 天 氣無風 暖  カなり僕(ホク)昨 夜より何ニ

じゅうににちてんきむふうあたたかなり  ぼく さくやよりなに


ヤラ当 り多る歟亦 ハ寒 氣故 可吐シ或(アルヒ)ハ下 シ不

やらあたりたるかまたはかんきゆえかとし  あるい はくだしふ


快 なり夫 故 少  々  能荷物 を為持 姪(メイ)能濱 ま

かいなりそれゆえしょうしょうのにもつをもたせ  めい のはまま


て先 ヘ行キ亦 福 岡 ニて次(ツク)爰 ニて待 合ヒ个る

でさきへゆきまたふくおかにて  つぐ ここにてまちあいける

(大意)

(補足)

「間(アイ)ノ宿」、『あいのしゅく あひ― 【間の宿】江戸時代,旅人の休憩のために宿場と宿場の中間に設けられた宿。宿泊は禁止されていた。間の村。あい。』

「茅屋」、『ぼうおく ばうをく【茅屋】① かやぶきの家。② みすぼらしい家。また,自宅をへりくだっていう語。』

「十二日」、天明9年1月12日。1789年2月6日

「姪(メイ)能濱」、古地図の中央の河口の西側。東側には福岡城。

 当時の旅人は道中で病死したり、追い剥ぎにあって殺されたりなどしたときのために、どこに葬られても異存はないという書状を持っていました。