2025年12月14日日曜日

江漢西遊日記六 その72

P86 東京国立博物館蔵

(読み)

ウヅマサ聖  徳 太 子開 帳  大 井河 ニ掛 ル土橋 アリ

うずまさしょうとくたいしかいちょうおおいがわにかかるどばしあり


吐月 橋  と云 渡 しハ虚空 蔵 嵐  山 なり亦タ

とげつきょうというわたしはこくうぞうあらしやまなりまた


もと能橋 を渡 里天 龍  寺夫 より嵯峨の

もとのはしをわたりてんりゅうじそれよりさがの


釈 迦堂 茶店 ニ休 ミ裏 を出て愛 宕へ

しゃかどうさてんにやすみうらをでてあたごへ


行ク路 婦もとより五十 町  清 瀧 なと云 処  アリテ

ゆくみちふもとよりごじっちょうきよたきなどいうところありて


路 \/喰 物 アリ人 をも泊 ル女  土器(カワラケ)を投(ナケ)る

みちみちくいものありひとをもとめるおんな   かわらけ を  なげ る


妙 なり山 上  ニ至 レハ雪 消 残 ル夫 より下 り路

たえなりさんじょうにいたればゆきけしのこるそれよりくだりみち


尓して野山 を越 て北 野天 神 へ出て日暮

にしてのやまをこえてきたのてんじんへでてひぐれ


前 冨 ノ小 路尓かえりぬ

まえとみのこうじにかえりぬ


十  五日 曇  此 間  頼 ミし目鏡  箱 出来る

じゅうごにちくもりこのあいだたのみしめかがみばこできる

(大意)

(補足)

「大井河」、大堰川。「吐月橋」、渡月橋。いくらなんでも吐月とはちょっとひどすぎ、風流のかけらもない。

『おおいがわ おほゐがは 【大堰川】

京都府中東部,丹波高地の大悲山(たいひざん)に源を発し,亀岡付近(渡月橋より上流)で保津(ほづ)川と名を変え,さらに(渡月橋の)下流で桂川となり,淀(よど)川に注ぐ川。大井川。「いろいろの木の葉ながるる―しもは桂のもみぢとやみむ」〈拾遺和歌集•秋〉』。『大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来』するとありました。

「冨ノ小路」、南北の青い部分、繁華街です。

「十五日」、寛政1年3月15日 1789年4月10日。

 この日14日は、嵐山、愛宕山、北野天神などの周辺の1日観光、ずいぶんと歩いたはずです。

 

2025年12月13日土曜日

江漢西遊日記六 その71


P85 東京国立博物館蔵

(読み)

十  三 日 曇  昼 より四条  竹 田から繰 を見 物 春

じゅうさんにちくもりひるよりしじょうたけだからくりをけんぶつす


画心 紙と云 大 唐 紙 三 十  三 匁  ニ調  へ亦 能そき

がせんしというおおからかみさんじゅうさんもんめにととのへまたのぞき


目鏡 能箱 出来ル

めがねのはこできる


十  四 日曇  朝 飯 後より愛宕 ヘ参 ル三 条  ヲ

じゅうよっかくもりあさめしごよりあたごへまいるさんじょうを


西 へ行キ十  五六 町  過 シハ洛 外 なり田畑 路ニ獄

にしへゆきじゅうごろくちょうすぎしはらくがいなりたはたじにごく



門 あり者しめて見ル此 盗   ハ三 十  三 間 堂 能

もんありはじめてみるこのぬすっとはさんじゅうさんげんどうの


床(ヱン)の下 ニ住 て夜盗 なり捕  ラれて縄 をぬけ

  えん のしたにすみてやとうなりとらえられてなわをぬけ


途中  ニて逃 出し路 を通 ル醫者 能脇 差

とちゅうにてにげだしみちをとおるいしゃのわきざし


を取 ぬき身を以 て古 手屋ヘ入 衣類 を着(キ)

をとりぬきみをもってふるてやへいりいるいを  き


多ると云 産 レハ薩摩(サツマ)の者 と云 夫 より嵯峨

たるといううまれは   さつま のものというそれよりさが

(大意)

(補足)

「十三日」、寛政1年3月13日 1789年4月8日。

「竹田から繰」、このようなものだったのでしょうか、 

「画心紙」、画仙紙。

「調へ」、『ととの・える ととのへる 【整える・調える・斉える】⑦ 買う。「酒を―・へに来たほどに」〈狂言・伯母が酒•鷺流〉』

「愛宕」、観光地嵐山のさらに北西部。

 

2025年12月12日金曜日

江漢西遊日記六 その70

P81 東京国立博物館蔵

P82 


 P83

P84

(読み)

P81

小倉堤

おぐらつつみ


三 十 町  アリ

さんじっちょうあり

P82

きゃく


中居

なかい

P83

嶋 原 大夫

しまばらたゆう

P84

愛 宕山

あたごやま


カワラケ

かわらけ


ナゲ

なげ

(大意)

(補足)

 嶋原太夫の前帯のでかいこと。足袋をはいているとおもいきや、はだしでした。

愛宕山のかわらけ投げについてのAIの概要です。

『京都の愛宕山や高雄などで、見晴らしの良い場所から素焼きの土器(かわらけ)を投げて、その舞い方を楽しむ遊びで、厄除けの意味合いもあり、古典落語の演目にもなった有名な風習です。落語『愛宕山』では、旦那が小判を投げるという滑稽な話に発展しますが、本来は参詣客が楽しんだ縁起の良い行事でした』。

「女土器(カワラケ)を投(ナケ)る妙なり」、それをながめるふたりは江漢と弁㐂。

 

2025年12月11日木曜日

江漢西遊日記六 その69

P80 東京国立博物館蔵

(読み)

三 条  生(イケ)春松 源 柏 宗 なと名 家アリ鯉 ふな

さんじょう  いけ すまつげんはくそうなどめいかありこいふな


うなぎ酒 を呑 妓  一 人三 味せんハなら春゛夫

うなぎさけをのむおんなひとりしゃみせんはならず それ


よりして新 地と云 処  ヘ至 り亦 爰 妓  壱 人茶 や

よりしてしんちというところへいたりまたここおんなひとりちゃや


の女  房 を連レて嶋 原 へ行ク揚 屋偶 徳 と云

のにょうぼうをつれてしまばらへゆくあげやすみとくという


尓参 ル玄 関 より上 ル書 院 坐しき燭  臺

にまいるげんかんよりあがるしょいんざしきしょくだい


数 十  如昼    照 春女  房 出 中 居八 九人 妓

すうじゅうひるのごとくてらすにょうぼうでてなかいはっくにんおんな


四人 盲 人 壱 人夫 より大夫 をかりて見ル

よにんもうじんひとりそれよりたゆうをかりてみる


三 十  人 其 内 玉 の井と云 を揚 る夜 の八ツ時

さんじゅうにんそのうちたまのいというをあげるよるのやつどき


比 尓帰 ル

ころにかえる


十  二日 曇  氣分 あしゝ偶 然 として暮 春

じゅうににちくもりきぶんあししぐうぜんとしてすごす

(大意)

(補足)

「三条生洲」、『川に面した座敷があり鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを店の生洲(高瀬川の水を引き込んだ)や庭に飼っておいて、客の注文に応じて料理を出す』。

「松源」「柏宗」については、当時の有名な茶屋・料理屋ではないかとおもわれますが、不明です。

「揚屋偶徳」、京都島原の揚屋、角屋徳兵衛の略。角屋は島原の郭内でも由緒ある揚屋として、歴史上の重要な舞台ともなった。また、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。

 さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

「夜の八ツ時比」、夜中の2時頃。

「十二日」、寛政1年3月12日 1789年4月7日。

「偶然」、寓然。しばらく前にも、同じように過ごしました。

 江漢さん、午前2時ごろに帰宅。二日酔いと寝不足で「氣分あしゝ」だったようです。

 

2025年12月10日水曜日

江漢西遊日記六 その68

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

五十  位  爰 ニ十  四 日滞 畄  春る

ごじゅうくらいここにじゅうよっかたいりゅうする


八 日曇  さ武し荻 野左衛門 方 へ行ク頗  ルおらん

ようかくもりさむしおぎのさえもんかたへゆくすこぶるおらん


多を好 ム人 ニて窮  理談 を春酒 肴 を出して

だをこのむひとにてきゅうりだんをすしゅこうをだして


よろこぶ

よろこぶ


九  日宿 の弟   を連レ北 野天 神 へ行ク天 曇

ここのかやどのおとうとをつれきたのてんじんへゆくてんくもり


て雪 降 出春此 日さ武し大 霜 厚ツ氷 リハル

てゆきふりだすこのひさむしおおしもあつごおりはる


十 日朝 霜 氷 ル天 氣京  ハめつらしき故 尓

とおかあさしもこおるてんききょうはめずらしきゆえに


所  々  を歩ス祇園 より金 毘羅参 り人 多 し

ところどころをほすぎおんよりこんぴらまいりひとおおし


僕(ホク)弁 喜大 坂 へ遣  ス

  ぼく べんきおおさかへつかわす


十  一 日 大 雨 晩 方 雷 鳴 伏 見六 右衛門来 ル

じゅういちにちおおあめばんがたらいめいふしみろくえもんきたる

(大意)

(補足)

「八日」、寛政1年3月8日 1789年4月3日。

「窮理談を春」、江漢はこの長崎西遊の後、寛政5(1793)年〜文化6(1809)年に以下の科学書を次々に刊行した。『銅版地球全図』『地球全図略説』『銅図』『和蘭天説』『和蘭通舶』『刻百爾(コッペル)天文図解』『地球儀略図解』。『春波楼筆記』には「小子は天文地理を好み、わが日本にはじめて地転の説をひらく」と自負し、地動説の紹介と普及に功績をあげた。

 1792年に発刊した『地球全図』、 

「雪降出春此日さ武し大霜厚ツ氷リハル」、1789年は世界中で異常気象の年でした。現在でも4月上旬春先の爆弾低気圧でこのようなことはありますので、なんとも判断がつきかねます。

「祇園」、なんども日記にでてきてます。日記では「祇」が「祗」となっています。

 

2025年12月9日火曜日

江漢西遊日記六 その67

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

路 雨 降 出春

みちあめふりだす


六 日大 雨 扇 面 ニ画を描ク伊賀の商  人 昨

むいかおおあめせんめんにえをかくいがのしょうにんさく


夜より爰 ニ居ル銅 版 目か年を見セる其 者

やよりここにおるどうはんめがねをみせるそのもの


云 私   兄 画を好 ム是 より吉 野ノ方 へお出

いうわたくしあにえをこのむこれよりよしののほうへおいで


ならハ必  ス相 待 申  と云 九  兵衛津の者 を

ならばかならずあいまちもうすというきゅうべえつのものを


連レ来 ル亦 佐兵衛方 ニて小倉 能沼 の蜆(シゝミ)

つれきたるまたさへえかたにておぐらのぬまの  しじみ


至  て大 キシ吸 物 ニして酒 を呑ム

いたっておおきしすいものにしてさけをのむ


七 日天 氣さ武し伏 見京  町 より京  冨 の

なのかてんきさむしふしみきょうまちよりきょうとみの


小 路姉 カ小 路日野屋方 へ引 越ス主 人 ハ廿   二

こうじあねがこうじひのやかたへひっこすしゅじんはにじゅうに


三 能若 者 弟   十  六 七 能キ人 物 なり母 親 アリ

さんのわかものおとうとじゅうろくしちよきじんぶつなりははおやあり

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年3月6日 1789年4月1日。

「吉野ノ方へお出ならハ」、江漢はその後、文化9(1812)年、吉野へ観光旅行をして、『吉野紀行』をあらわしています。

 伏見京町に2月28日〜3月6日まで泊まって、この日7日に姉カ小路日野屋へ引っ越しました。

 

2025年12月8日月曜日

江漢西遊日記六 その66

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

尓て呼 れ酒 出 馳走 ニなり帰 ル文 策 と物

にてよばれさけだすちそうになりかえるぶんさくともの


語 りして夜 五  時 尓寝ル此 文 策 と云 醫者

がたりしてよるいつつどきにねるこのぶんさくといういしゃ


ハ相 馬能人 ニて此 伏 見ニ滞 畄  して居(イ)し

はそうまのひとにてこのふしみにたいりゅうして  い し


なり

なり


四 日天 氣後 曇  冨士の画出来上 ル昼 比

よっかてんきのちくもりふじのえできあがるひるごろ


隣 家佐兵衛方 へ文 策 と行ク酒 を呑ミ又

りんかさへえかたへぶんさくとゆくさけをのみまた


九  兵衛処  へ茶 尓参 ル帰 りて茶 尓おかされ

きゅうべえところへちゃにまいるかえりてちゃにおかされ


二 人共 夜半 迄 不眠

ふたりともやはんまでねむれず


五 日曇  京  へ行ク三 里あり宗 林 寺門

いつかくもりきょうへゆくさんりありそうりんじもん


前 大 雅堂 能跡 へ行ク其 外 所  々  へ尋  る返

ぜんたいがどうのあとへゆくそのほかところどころへたずねるかえり

(大意)

(補足)

「四日」、寛政1年3月4日 1789年3月30日。

「茶尓おかされ二人共夜半迄不眠」、むかしもいまもお茶で眠れなくなってしまうのは時代をこえてのアルアル。

「宗林寺門前大雅堂」、京都市のHPより。

『池大雅(1723~76)の家は北山深泥池村で代々農業を営んだが,父が京都に出て銀座の下役になった。大雅は少年時代より書を学び,南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘町(玉瀾)と結婚し,この地真葛原(知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯)に草庵を結んだ。与謝蕪村(1716~83)とともに日本的な独自の文人画を大成した。この石標は池大雅の住居跡を示すものである』。 

 池大雅や蕪村も、江漢さんと同時代の人だったのですね、へぇ〜、です。


 

2025年12月7日日曜日

江漢西遊日記六 その65

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤  へ出て

このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて


伏 見京  町 ニ帰 ル

ふしみきょうまちにかえる


二 日雨天 四ツ時 より京  の方 へ行ク深 草 と云

ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという


処  焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十  三

ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん


軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条  橋 へ出寺 町

げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち


通 りを行キ四条  より三 条  芝 居の前 へ出て

とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて


麩(フ)屋町  へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して

  ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして


知音 院 へ参  祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル

ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる


三 日天 氣寒  日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の

みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの


冨士を描ク昼 比 より隣  九  兵衛方 ひゐな祭 り

ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり

(大意)

(補足)

「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。

「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。

『深草の焼き物について

深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。 

深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。

深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。

「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。

「文束」、文策。

「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』

「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。

 この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。


 

2025年12月6日土曜日

江漢西遊日記六 その64

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

行ク尓六 地蔵 小畑 村 を過 黄 檗 山 ニ至 ルニ

ゆくにろくじぞうこはたむらをすぎおうばくさんにいたるに


入 口 門 尓第 一 義と云 額 山 門 尓萬 福 寺

いりぐちもんにだいいちぎというがくさんもんにまんぷくじ


本 堂 尓大 王 殿 裏 尓威徳 荘 厳 と在

ほんどうにだいおうでんうらにいとくそうごんとあり


霊 峰 沙 門 即 非敬 書 誠  唐 めき多る処

れいほうしゃもんそくひけいしょまことからめきたるところ


なり夫 より三 宝 堂 橋 寺 恵心 寺恵心

なりそれよりさんぽうどうはしでらえしんじえしん


僧 都自作 の像 あり寛 仁 元 年 六 月 十

そうずじさくのぞうありかんにんがんねんろくがつとお


日卒 春今年 迄 七 百  七 十  三 年 ニなる橋

かそっすことしまでななひゃくななじゅうさんねんになるはし


あり損 春舟 渡 し即 宇治河 是 也 渡 り

ありそんすふなわたしそくうじがわこれなりわたり


て松 あり扇  の芝 と云 左  ニ釣 殿 鳳 凰

てまつありおおぎのしばというひだりにつりどのほうおう


堂 前 ニ池 アリ其 上 の瀬を山 吹 の瀬と云

どうまえにいけありそのうえのせをやまぶきのせという

(大意)

(補足)

「小畑村」、小幡(こはた)村か。

「萬福寺 霊峰沙門即非敬書」で調べると、AIの概要は次の通り。

『京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)と、江戸時代前期に活躍した中国出身の高僧である即非如一(そくひにょいち)禅師に関わる言葉です。具体的には、即非禅師が揮毫(きごう)した書の落款(らっかん、署名)や題名の一部と考えられます。 内訳は以下の通りです。

萬福寺: 1661年に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創された、黄檗宗の大本山です。

即非(そくひ): 即非如一禅師(1616年-1671年)のことです。隠元禅師の弟子として来日し、長崎の崇福寺の住職を務めた後、萬福寺の第2代住持となりました。

霊峰沙門(れいほうしゃもん): 霊峰は即非禅師の別号(呼び名)の一つ、沙門は出家修行者を意味します。

敬書(けいしょ): 恭しく(うやうやしく)書いた、という意味です』。AIは信用できないので、個別に調べてみると、まぁ、あっているようです。

「七百七十三年」、この日は西暦で1789年3月27日。寛仁(かんにん)元年は西暦1017年なので引き算をすると、772年前となります。

 恵心寺と平等院は宇治川をはさんで向かいあっていますので、江漢さんは恵心寺から川を渡って、平等院へ行ったようです。そこの「扇の芝」は『治承4年(1180年)の宇治川の戦いで平氏軍に敗れた源頼政が、平等院に逃げ込み、自刃した場所と伝えられています。伝説によると、頼政は西方極楽浄土を願って大きな軍扇(ぐんせん)を敷き、その上で切腹したことから「扇の芝」と呼ばれるようになりました』とあります。

「釣殿」、『つりどの【釣り殿】

寝殿造りの南端の,池に臨んで建てられた周囲を吹き放ちにした建物。魚釣りを楽しんだところからの名という。納涼・饗宴に用いられた』。

 宇治の平等院鳳凰堂は江漢さんの好みではなかったようで、画を残していません。大和巡りはせずに伏見京町へ帰ってしまいました。

 もう50数年前のことでしょうか、もしかしたら大阪万博1970年のときだったかもしれません。父と京都旅行をして萬福寺を訪問しました。真夏の暑い盛り、汗だくでしたが境内は日陰も多く、涼しかった。そこで見た、鉄眼和尚の一切経の版木は感動的でした。ずっと見ていたら、係員の方がガラスケースの中につまれていた真っ黒な版木を取り出して持たせてくれました、重たかった。これは世界にこれ1枚しかないのだとおもうと、いっそうずしりと両手にそのおもみがしみました。版木の漢字の彫りは、たくさん刷っただろうに角がまだしっかりとたっていて、丈夫なのだなとおもったものです。中国ではもうこの一切経の版木はとっくに失われていて、世界でもここにしかない貴重なものということです。 

2025年12月5日金曜日

江漢西遊日記六 その63

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

鍋 嶌 黒 田と呼フ古  へ能屋しき能跡 と

なべしまくろだとよぶいにしえのやしきのあとと


見ユ其 畑  のウ子\/尓梅 桃 を植 て其

みゆそのはたけのうねうねにうめももをうえてその


比 梅 能花 さか里なり臺 より見下 セハ皆

ころうめのはなざかりなりだいよりみおろせばみな


梅 村 小倉 能沼 堤  向 フ方 ハ春 日山 八幡

うめむらおぐらのぬまつつみむこうかたはかすがやまやわた


山 遥  尓吉 野能方 金 剛 山 を望 ム左  ハ黄檗(ヲーハク)

やまはるかによしののほうこんごうさんをのぞむひだりは   おうばく


山 宇治の方 なり臺 を下 レハ御香 の宮

さんうじのほうなりだいをおりればごこうのみや


とて鎮 守 なり門 ハ古  へ能臺 所  能門 と云フ

とてちんじゅなりもんはいにしえのだいどころのもんという


画馬堂 尓大 釜 ニ菊 桐 の紋 アリ

えまどうにおおがまにきくきりのもんあり


三 月 朔 日 天 氣寒 シ宇治の方 へ行ク尓宮

さんがつついたちてんきさむしうじのほうへゆくにみや


乃前 を通 り梅 畑  を過 て城  址を左  ニ見テ

のまえをとおりうめばたけをすぎてじょうしをひだりにみて

(大意)

(補足)

「ウ子\/」、いままでずっとこの「ウ子」の「子」を「ネ」としてきましたが、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「子」が字の形として正解のようです。

「小倉」、巨椋。この古地図を見ると大池の右に小倉村とありますので、正しいのかも。


 「御香の宮」、『御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は京都市伏見区に鎮座し、安産・子育ての社として古くより信仰を集めています』とありました。
 

「画馬堂」、絵馬堂。

「三月朔日」、寛政1年3月1日 1789年3月27日。

 見学するところ、見学したいところがたくさんあるのでしょう。精力的に近辺を歩き回っています。

2025年12月4日木曜日

江漢西遊日記六 その62

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

てハ遠 し堤  湖   能半(ナカハ)尓あり太 閤 之(コレ)を

てはとおしつつみみずうみの  なかば にありたいこう  これ を


築(キツカ)レしとぞ岸 \/尓疎栁  植(ウユ)栁 キ䇭(コリ)

  きづか れしとぞきしきしにそやなぎ  うゆ やなぎ  ごり


を作 ル堤  長 サ三 十 町  其 半  尓漁 村 両

をつくるつつみながささんじっちょうそのなかばにぎょそんりょう


三 軒 アリ京  町 近 江屋ニ至 ル

さんげんありきょうまちおうみやにいたる


廿   九日 雨天 夜 尓入 イヨ\/降ル此 日偶 然

にじゅうくにちうてんよるにいりいよいよふるこのひぐうぜん


として暮 春

としてすごす


三 十  日 雨 ヤム曇 ル隣 家九  兵衛と云 人 亦

さんじゅうにちあめやむくもるりんけきゅうべえというひとまた


佐兵衛と共 尓宇治見臺 と云 所  へ登 ル太

さへえとともにうじみだいというところへのぼるたい


閤 庭 の跡 と云 其 行 路を昔 シ大 和街

こうにわのあとというそのこうろをむかしやまとかい


道 と云 今 ハ左右 畑  なり其 畑  の名あり

どうといういまはさゆうはたけなりそのはたけのなあり

(大意)

(補足)

「廿九日」、寛政1年2月29日 1789年3月25日(どこかで1日ずれていました)。

「栁キ䇭(コリ)」、柳行李。

「偶然」、寓然。

「宇治見臺」、AIの概要がしばらく考えてました。

『京都の伏見(現在の京都市伏見区桃山町付近)にあったとされる歴史的な眺望地(展望台)の名称です。現在の宇治市内の正式な住所や地名としては存在しません。 

 江戸時代の紀行文などによると、宇治見台は豊臣秀吉が築いた伏見城の庭園跡の一角にあったとされ、そこから宇治方面の眺めを楽しんだことが記されています。

 司馬江漢の『江漢西遊日記』にも、寛政元年に宇治見台からの眺望を楽しんだという記述があります。 

 現在、宇治市内で眺めの良い場所としては、宇治川や平等院を一望できる大吉山(仏徳山)展望台などが知られています』とありました。

 「西遊旅譚五」にそこからの眺望の画があります。「堤湖能半(ナカハ)」とあるように、なるほど湖を左右に分けています。 

 季節季節できれいだったでしょね。

 

2025年12月3日水曜日

江漢西遊日記六 その61

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣六 過 ニ大 坂 丸 清 方 を出  立

にじゅうしちにちてんきむつすぎにおおさかまるせいかたをしゅったつ


して安 道 寺町 筋 を東  能方 へ行キ山 ニ

してあんどうじまちすじをひがしのほうへゆきやまに


入 クラガリ峠  を越へ亦 向 フ能山 ニ至 りモ

いるくらがりとおげをこえまたむこうのやまにいたりも


ロノ木山 より南 都塔 及 ヒ大 仏 殿 見(ミ)

ろのきやまよりなんととうおよびだいぶつでん  み


え(ヘ)る山 を下 レハ春 日能社  誠  尓大 社 ナリ

え   るやまをくだればかすがのやしろまことにたいしゃなり


亦 大 佛 を見る猿 沢 の池 の邊  尓泊 ル

まただいぶつをみるさるさわのいけのあたりにとまる


廿   八 日 曇 ル椿 木町  古梅 園 へ参 り天 覧 能

にじゅうはちにちくもるつばきちょうこばいえんへまいりてんらんの


墨 を見る亦 墨 の形  を見る妙  工 なり夫 より

すみをみるまたすみのかたちをみるみょうこうなりそれより


南 都を出テ七 里伏 見尓至 ルニ其 路 小倉

なんとをでてしちりふしみにいたるにそのみちおぐら


堤  アリ是 ハ京  より南 都ヘ宇路を廻 里

つつみありこれはきょうよりなんとへうじをめぐり

(大意)

(補足)

「廿七日」、寛政1年2月27日 1789年3月22日。

「クラガリ峠」、暗峠。大阪を出立してほぼ真東へ。

 更に東へ、 

 猿沢の池です。 

 猿沢の池は春日大社、大仏の西にあります。見学してから西へ戻ったのでしょうか?なんか変です。

「椿木町古梅園」、「椿木町」ではなく「椿井町(つばいちょう)」のようです。古梅園は今でもあって、「1577年(室町時代末期)創業で、440年以上の歴史を持つ老舗の墨メーカーです。徳川幕府の御用達も務めた歴史を持ち、「奈良墨」の代名詞とも言える存在です」とありました。

「小倉堤」、『おぐらのいけ 【巨椋池】

京都市伏見区・宇治市・久世郡にまたがってあった周囲約16キロメートルの湖沼。一九三三(昭和八)~41年干拓によって消滅。現在は水田・住宅地帯。巨椋の入江。おぐらいけ』のようです。

「宇路」、宇治。

 かなりの道を、それも暗峠(くらがりとおげ)という非常に難所の山越えをしてからも、歩み続けています。健脚!

 

2025年12月2日火曜日

江漢西遊日記六 その60

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

なんぎ春る

なんぎする


廿   五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京  壬(ミ)

にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう  み


生寺 開 帳  壬生狂  言 を見ル夫 より清 水

ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず


寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を

でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを


出春尼 五同 道 なり

だすあまごどうどうなり


廿   六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂

にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう


へ暇  乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別

へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ


ニ贈 ル明  朝  奈良ノ方 へ出  立 せんと思 フ

におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう


ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時

なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき


過 帰 ル甚  タ別 レをおし武

すぎかえるはなはだわかれをおしむ

(大意)

(補足)

「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。

「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。

「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。

 

2025年12月1日月曜日

江漢西遊日記六 その59

P69 東京国立博物館蔵

P70

(読み)

箕山(キサン)

   きさん


瀑布(タキ)

   たき


正  面 ヨリ見テ

しょうめんよりみて


能キ瀧

よきたき


ナリ

なり


不動

ふどう


茶 屋

ちゃや

P70

勝 尾 寺観 音

かつおおじかんのん


札 所 なり

ふだしょなり


大 坂 へ五里

おおさかへごり

(大意)

(補足)

「不動」、『箕面山 瀧安寺』のHPに「14. 箕⾯⼤滝Mino-o Falls」があります。 

 説明文に『役⾏者お悟りの聖地。江⼾期までは当寺の境内として、滝壺の側に不動堂が建てられていた。現在は⼤阪府営「明治の森箕⾯国定公園」内にあり、⽇本の滝百選のひとつに選ばれている』、とあって、写真の観光客がいるあたりに不動や茶屋があったのでしょう。

 勝尾寺の手前の起伏が大きく描かれているは文中の「山上より望ム尓山なし平地尓見へ山を下レハ皆山路なり」を表現したものでしょうか。山門が子どもが描いたような稚拙さがあって、これも江漢の特徴かもしれません。


2025年11月30日日曜日

江漢西遊日記六 その58

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

五郎兵衛方 ニ泊 ル此 近 く尓銀 山 アリ

ごろべえかたにとまるこのちかくにぎんざんあり


廿   四 日曇 ル後 天 氣爰 ヨリ三 里を行キて

にじゅうよっかくもるのちてんきここよりさんりをゆきて


深 山 尓入 ル瀧 アリ箕 尾の瀧 と云 能き

しんざんにはいるたきありみのおのたきというよき


瀧 なり右 ノ方 岩 石 を踏(フン)て攀(ヨシ)能ほり

たきなりみぎのほうがんせきを  ふん で  よじ のぼり


勝 尾 寺ニ至 り観 音 能札 所 也 大 坂 の城

かつおうじにいたりかんのんのふだしょなりおおざかのしろ


見ユ爰 ヨリ五里アリ山 上  より望 ム尓山 なし

みゆここよりごりありさんじょうよりのぞむにやまなし


平 地尓見へ山 を下 レハ皆 山 路 なり河 二 ツ

へいちにみえやまをくだればみなやまみちなりかわふたつ


を越へ一 ツハナカラ能渡 しと云フ北 堀 江三 町

をこえひとつはながらのわたしというきたほりえさんちょう


目尼 崎 屋五兵衛方 ニ夜 の四 時 過 ニ参 ルサテ

めあまざきやごへえかたによるのよつどきすぎにまいるさて


其 路 喰 物 なし暗夜(アンヤ)田のあぜ路 ニテ

そのみちくいものなし   あんや たのあぜみちにて

(大意)

(補足)

「五郎兵衛」、漢数字では「五」のくずし字が一番わかりにくいのですけど、ここのは楷書です。

「廿四日」、寛政1年2月24日 1789年3月19日。

「箕尾の瀧」、箕面です。画像の中央付近。勝尾寺はその右斜め上。

「北堀江三町目」、AIの概要では、

『江戸時代の北堀江三丁目周辺

堀江新地の開発: 元禄11年(1698年)に河村瑞賢によって西横堀川と木津川を結ぶ堀江川が開削され、その周辺が開発されました。この新しく開かれた土地が「堀江新地」と呼ばれました。

遊郭と芝居: 堀江新地は遊郭として発展し、幕府公認の新町遊廓に匹敵するほどの賑わいを見せました。また、歌舞伎座や人形浄瑠璃の小屋も開かれ、道頓堀に負けない芝居街としても知られていました。多くの人形浄瑠璃や浮世草子といった小説の舞台にもなっています。「橘通」という町名: 江戸時代、この辺りは「橘通(たちばなどおり)」という町名でした。

文化人の交流: 南堀江三丁目には、文人や勤王の志士であった藤井藍田の学塾「玉生堂」跡の碑があるなど、文化的な側面も持っていました。 

このように、江戸時代の北堀江三丁目は、大阪の「天下の台所」と呼ばれる経済的な中心地とは異なる、華やかな娯楽と文化の中心地として機能していました』、とありました。

 AIは平気でとんでもない間違いをしますけど、江漢さんが訪れた2年後、『寛政3年(1791)10月10日「堀江・島之内大火」南堀江伏見屋四郎兵衛町より出火 南北堀江、島之内を焼き尽くし町数87ヶ所を消失』は事実のようであります。

 

2025年11月29日土曜日

江漢西遊日記六 その57

P67 東京国立博物館蔵

(読み)

初 まりと云 時 役 者 皆 頭  を下ケル日暮 ニ芝

はじまりというときやくしゃみなあたまをさげるひぐれにしば


居終 りて兵  庫屋と云 茶 やニ行キ喰  事して

いおわりてひょうごやというちゃやにゆきしょくじして


帰 ル

かえる


廿   三 日 曇  朝 右 能両  人 参 ル四ツ時 前 十  一 屋案(アン)

にじゅうさんにちくもりあさみぎのりょうにんまいるよつどきまえじゅういちや  あん


内 して天神(ナニハ)橋 を渡 り池 田路即  チ池 田ニ

ないして   なにわ ばしをわたりいけだじすなわちいけだに


至 ル池 田河 流 レて酒 造 家三 十 軒 程 アリ

いたるいけだがわながれてしゅぞうかさんじっけんほどあり


伊丹 ニハ百  余軒 アリ池 田の名 酒 ハ満 願 寺

いたみにはひゃくよけんありいけだのめいしゅはまんがんじ


なり爰 ニてハ其 酒 を不賣 伊丹 ハケンビシ

なりここにてはそのさけをうらずいたみはけんびし


綿(モメン)屋七 ツ星 なり爰 を過 て多田と云 処  ニ

  もめん やななつぼしなりここをすぎてただというところに


至 ル多田の宮 アリ亦 温 泉 アリ中 野屋

いたるただのみやありまたおんせんありなかのや

(大意)

(補足)

「廿三日」、寛政1年2月23日 1789年3月18日。

「池田」、「多田」、「多田の宮」、 

 赤印が多田、その西に多田神社があり、南に下ったところが池田。

 

2025年11月28日金曜日

江漢西遊日記六 その56

P66 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   一 日 曇  虎 の画を認  メ浮 フ瀬福 屋と云 茶 や

にじゅういちにちくもりとらのえをそたためうかぶせふくやというちゃや


ヘ遣  スよし亦 蒹 葭ヘ行ク馳走 春る薩摩(サツマ)の人

へつかわすよしまたけんかへゆくちそうする   さつま のひと


天 文 を知ル人 来ル吾カ名を聞 て驚  く亦 十

てんもんをしるひとくるわがなをききておどろくまたじゅう


一 屋五郎兵衛と云 人 来ル楕圓(イヒツ)文 廻 シを新 製

いちやごろべえというひとくる   いびつ ぶんまわしをしんせい


春と云フ

すという


廿   二日 雨天 十  一 屋五郎兵衛尼 カ﨑 屋五兵衛両

にじゅうににちうてんじゅういちやごろべえあまがさきやごへえりょう


人 吾 等をともなひ道 とん堀 芝 居を見 物

にんわれらをともないどんとんぼりしばいをけんぶつ


春雛 助 金 作 非人  敵  打 能狂  言 大 當 里

すひなすけきんさくひにんのかたきうちのきょうげんおおあたり


芝 居ハ江戸能繰(アヤツリ)芝 居程 なりさんしき両  方

しばいはえどの  あやつり しばいほどなりさんじきりょうほう


ニ十 軒 宛 アリ幕(マク)両  方 より志める是 ヨリ新ン狂  言

にじっけんずつあり  まく りょうほうよりそめるこれよりしんきょうげん

(大意)

(補足)

「廿一日」、寛政1年2月21日 1789年3月17日。

「浮フ瀬福屋」、江漢西遊日記三その16の往路ででてきた浮瀬とおなじところでしょうか。

「十一屋五郎兵衛」、「五郎」がわかりにくですけど、同じ名前が2行あとにでてきて、これは「五郎」の部分がよみやすい。やはりくずし字はそのときどきでいい加減です。

「吾カ名を聞て驚く」、大物ぶりたい江漢さんはいつでもどこでも自分を知らない人には少々腹を立て、そっけない態度。反対に知っていればうんうんとうなずいて満足。

「楕圓(イヒツ)文廻シ」、ぶん回しはコンパスのこと。コンパスのように楕円を描く器具。

「さんしき」、『さんじき【桟敷】→さじき(桟敷)に同じ』。『さじき【《桟敷》】さずき」の転〕

① 祭りや相撲などの興行物を見るために高く作った見物席。さんじき。

② 劇場で,平土間に対して左右に一段高く設けた席。桟敷席』

「幕(マク)両方より志める」、江戸ではもちろん片側からです。

 

2025年11月27日木曜日

江漢西遊日記六 その55

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

丸 清 と共 尓道 とん堀 ヘ行ク茶 屋竹 庄  ニて

まるせいとともにどうとんぼりへゆくちゃやたけしょうにて


妓 子小梅 其 他 五人 白  人右近(ウコン)甚  タドロン

げいここうめそのほかごにんしろうと   うこん はなはだどろん


コとなり夜 八ツ時 過 尓帰 ル

ことなりよるやつどきすぎにかえる


十  九日 長 﨑 の圖を描キ蒹 葭堂 ヘ遣  ス此 日

じゅうくにちながさきのずをかきけんかどうへつかわすこのひ


雪 降 寒  夜ル山 﨑 町  丸 清 ヘ伏 見九  兵衛と同

ゆきふるさむしよるやまざきちょうまるせいへふしみきゅうべえとどう


道 して行 酒 を呑 さかな酢シ豆 腐なり

どうしてゆくさけをのみさかなすしとうふなり


廿 日曇  暖   扇 面 ニ画を数 \/描キ蒹葭(ケンカ)ヨリ

はつかくもりあたたかせんめんにえをかずかずかき   けんか より


菓子を贈  昼 比 風呂屋ヘ行ク四ツ時 までかゝ

かしをおくるひるごろふろやへゆくよつどきまでかか


里湯なし流 シ皆石炭(シツクヒ)タゝキ扇  風呂と云

りゆなしながしみな  しっくい たたきおおぎふろという


ニハ扇  を彫里戸多゛な婦ろなり

にはおおぎをほりとだ なぶろなり

(大意)

(補足)

「白人」、『はくじん【白人】

② 〔「白人(しろうと)」を音読みした語〕

㋐ 近世,上方で,私娼。また,公認の遊里以外の地にいた遊女。しろと。はく。「―芸子の今様めけるは,南北に風情をたたかはす」〈滑稽本・風流志道軒伝〉

㋑ 技芸などに熟達していない人。素人(しろうと)。「京の色里にて手弱き客を―と言へり」〈浮世草子・新吉原常々草〉』。すでに何度かでてきています。

「十九日」、寛政1年2月19日 1789年3月15日。

「風呂屋ヘ行ク」、江戸と大阪の銭湯文化の違いを述べているようで、以下AIの概要です。

『江戸時代の大阪の風呂事情

風呂の形式: 江戸時代の風呂は主に「戸棚風呂」と呼ばれる蒸し風呂の一種でした。浴槽は非常に浅く(膝丈程度)、上半身は湯気で蒸す仕組みでした。入口には「石榴口(ざくろぐち)」という低い仕切りがあり、湯気が逃げるのを防いでいました。

東西の違い: 江戸の銭湯の洗い場が板張りだったのに対し、大坂の銭湯では切り石が敷かれているのが特徴でした。この特徴は戦後の大阪の銭湯にも残っていたほど、根付いた文化でした。』

 蒹葭堂へは長崎へ来るときもたちよってしばらく出入りしていましたが、今回もやはり足繁く訪れています。当時の文化人、町人武士をとわず、蒹葭堂に出入りし主人に会うことが、文化人仲間入りのあかしになり、多くの人たちが訪れたようであります。

 

2025年11月26日水曜日

江漢西遊日記六 その54

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

必有大過人者惜乎載筆者無所考

信不能発揚其盛美大徳耳

 右故河摂泉三州守贈正三位近

 衛中将楠公賛明徴士舜水朱

 之瑜字魯璵之所撰勒代碑文

 以垂不朽

右ハ兵庫(ヘウゴ)湊川(ミナトカワ)楠義士ノ碑

明ノ舜水ノ文也

(大意)

必ずや人を超えた者がいるはずだが、惜しむべきことに著者を考証する手がかりがない。

その盛大な美徳を発揚することができなかったに違いない。

 右は故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公が賛め、明の徴士舜水朱之瑜(字は魯璵)が撰し、碑文を代わって刻んだものである。

 不朽を垂れるためである。

(補足)

 現在も神戸、湊川神社の楠木正成公御墓所に嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)が現存しています。表面は水戸光圀自筆。 

 裏面の拓本です。 

 江漢さんはせっせとこれらの漢文を写しとったのですけど、忍耐強くなければできないことです。ざっとみたところ、写し間違いはなさそう。

 

2025年11月25日火曜日

江漢西遊日記六 その53

P63 東京国立博物館蔵

(読み)

王室還於舊都諺云前門拒狼後

門進虎廟謨不蔵元兇接踵構殺

国儲傾移鐘篋功垂成而震主策

雖善而弗自古未有元帥妬前庸

臣専断而大将能立功於外者卒之以身

許国之死靡佗観其臨終訓子従容

就義託孤寄命言不及私自非精忠

貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤

忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王

公大人以及里之士交口誦説之不衰其

(大意)

王室は旧都に還る。諺に云う「前門で狼を拒み、

後門で虎を入れる」と。廟謨は元凶を蔵さず、

相次いで殺し合いを構える。

国庫は傾き、鐘篋は傾く。功は垂れ成すも、主を震わせる策。

善くとも自ら為さず。古より元帥が前の庸臣を妬むことなし。

臣が専断し、大将が外で功を立てる者は、ついに身を以て終える。

許国に死を捧げ他を顧みず、臨終に子に訓示し従容と

義に就き孤児を託し命を寄せる、私事に及ばず自らを非ず

忠誠を貫くとはかくのごとく、整然として暇あるものか

父子兄弟世々篤く

忠貞節孝一門に集う、盛なりかな

今に至るまで王公大人、及び里の士が口を揃えて称え

その誉れ衰えざる

(補足)

 この部分も前回と同じく、大意はDeepL翻訳の直訳をそのままコピーしたものです。

「前門拒狼後門進虎」、『前門に虎(とら)を拒(ふせ)ぎ後門(こうもん)に狼(おおかみ)を進む〔趙弼「評史」に見える中国の諺(ことわざ)〕

一つの災難から逃れたと思ったら,別の災難に遭うことのたとえ。前門の虎,後門の狼。』

 江漢さんの日記では誤字がたくさんあります。しかしこういった石碑の漢文を書写するのは、大丈夫なようであります。

 

2025年11月24日月曜日

江漢西遊日記六 その52

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

楠ノ碑

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無

日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則

乱賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱

正或者忠勇節烈国士無双蒐其

行事不可概見大抵公之用兵審強

弱之勢於幾先決或敗之機於呼

吸知人善任體士推誠是以諜無

不中而戦無不克誓心天地金石不

渝不為利回不為害状故能興復


(大意)

楠の碑

忠孝は天下に著しく、日月が天に麗し。

天地に日月なきがられば、晦蒙し否塞す。人心が廃し忠孝を失うがられば、

乱賊相次ぎ乾坤反復す。余、楠公の諱は

正あるいは忠勇節烈国士無双と聞く。

その行いは概見せざるべからず。大抵、公の用兵は強

弱の勢いを幾先決し、あるいは敗の機を呼息に知ること。

人を知り善く任じ、士を推し、

正または忠勇節烈国士無双その行いを

概ね見ることはできない大抵公の用兵は強弱の勢いを

幾先決し敗れの機を呼息に知り人を知り善く任じ

士を推し誠を体すゆえに諜報は中まず戦いは

克まず心を天地に誓い金石に渝せず利に回らず

害に為さず故に興復を成し遂げ


(補足)

 以下AIによる概要によります。AIは平気でとんでもない間違いをしますけど、この解釈は大丈夫そうです。

『この文章は、南北朝時代の武将・楠木正成を称賛する「楠ノ碑」の碑文の一部です。忠孝を重んじ、智・仁・勇を兼ね備えた武将として、その武勇や人徳が称えられており、「天下を照らす日月のように麗しい天道に対し、忠孝を廃せば世は乱賊の時代となる」といった格言が記されています。 

碑文の冒頭部分: 「忠孝著乎天下日月麗乎天天地無 日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則 乱賊相尋乾坤反覆」とあり、これは「忠孝が世に著しいように、天地には日月が輝いている。日月がなければ世は暗くなるが、人の心に忠孝がなくなれば乱賊がはびこり、天地がひっくり返る」というような意味合いになります。

楠木正成の人物像: 「余聞楠公諱 正或者忠勇節烈国士無双蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱の勢於幾先決或敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以諜無不中而戦無不克誓心天地金石不渝不為利回不為害状故能興復」と続きます。これは、「楠木正成公は、忠義勇節に優れた、国士無双の人物である。その行事を全て見尽くすことはできないが、兵法は強弱の形勢を瞬時に見抜き、敗れる機を呼吸のように知り、人にはよく従い、士を大切にする。ゆえに、いかなる策も外れず、いかなる戦いにも必ず勝った。心には天地金石の誓いを持ち、利にも害にも屈しなかった。だからこそ、幕府を興復することができた」と讃えられています。

湊川神社の「楠ノ碑」: 湊川神社の境内にある、徳川光圀が建立したとされる「楠ノ碑」は、正成公の功績を称える碑文が刻まれています。』

 なお大意はDeepL翻訳の直訳をそのままコピーしたものです。

 

2025年11月23日日曜日

江漢西遊日記六 その51

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

茶 屋

ちゃや


布 引 の瀧 山 の

ぬのびきのたきやまの


中  段 より見ル

ちゅうだんよりみる


女  瀧 アリ少 シ小 サシ

おんなだきありすこしちいさし

(大意)

(補足)

「布引の滝」で検索すると、神戸、京都、鳥取などいくつかが候補にあがりますけど、ここはもちろん神戸の滝です。しかし江漢さんの画と現在の滝の写真がずいぶんとことなっていて、二百年ちょっとのあいだにくずれたのかもしれません。

 

2025年11月22日土曜日

江漢西遊日記六 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

あり楠 の碑を石 摺 ニして賣ル亦  清盛 ノ石

ありくすのひをいしずりにしてうるまたきよもりのいし


塔(ハカ)アリ布 引 の瀧 ハ摩耶山 ノ下 ニアリ山 ノ中  腹

  はか ありぬのびきのたきはまやさんのしたにありやまのちゅうふく


より望  て能キ瀧 ナリ岡 本 と云 処  其 比 梅 さか

よりのぞみてよきたきなりおかもとというところそのころうめさか


里兵  庫の者 梅 見ニ行ク夫 より西 の宮 ニ泊 ル

りひょうごのものうめみにゆくそれよりにしのみやにとまる


以上  十  里の路 也

いじょうじゅうりのみちなり


十  七 日 雨 大 降 大 坂 迄 五里駕籠ニ能る

じゅうしちにちあめおおぶりおおさかまでごりかごにのる


晩 七 ツ時 比 丸 清 方 ニ著ク宿 元 の状  正  月 二 日

ばんななつどきころまるせいかたにつくやどもとのじょうしょうがつふつか


出無事ナルヨシ安心(アンシン)春る

でぶじなるよし   あんしん する


十  八 日 天 氣北 堀 江蒹 葭堂 ヘ行ク色\/

じゅうはちにちてんききたほりえけんかどうへゆくいろいろ


談 話春昼 過 帰 ル晩 方 丸 庄。 治兵衛。扇 久。

だんわすひるすぎかえるばんがたまるしょうじへえ せんきゅう

(大意)

(補足)

「布引の瀧ハ摩耶山ノ下ニアリ」、日記では「耶」が「邪」。 

 古地図の左下の神戸村をでてすぐ左上が布引の滝、その右上に摩耶山があります。そのまま街道に沿って中央辺りが岡本村になり、さらにすすんで古地図の右側が西宮宿です。

「以上十里の路也」ですから、40kmすすんだことになります。

「十七日」、寛政1年2月17日 1789年3月13日。

「大坂迄五里駕籠ニ能る」、20kmを二人でかつぎとおすのは難しいでしょうから、きっと交代のかつぎ手がふたりいたとおもいます。

「北堀江蒹葭堂ヘ行ク」、長崎へ行くときも何度か立ち寄ってます。

 帰りは駕籠をよく使ってます。一刻も早く江戸へ帰りたい気持ちでいっぱいなようです。

 

2025年11月21日金曜日

江漢西遊日記六 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

屋庄  左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ

やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには


市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も

しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも


あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里

ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり


大 久保へ三 里半 五十 町  又 一 里程 行キ明

おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか


石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿  なり爰 ヨリ

しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより


淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心  持 春る

あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする


十  六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して

じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして


舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の

まいこがはまふうけいよし   あつもり のせきとうの


前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵  庫ニ至  楠

まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす


能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物

の  ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ

(大意)

(補足)

地名がたくさんでてきます。

「姫路」より「加古川」へ、

「大久保(大窪)」より「明石」で泊、

「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、

「敦盛墓兵庫津神戸」、

「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』

「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。

「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。

 

2025年11月20日木曜日

江漢西遊日記六 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日曇  北 風 さ武し三ツ石 を明 七 ツ時 尓

じゅうよっかくもりきたかぜさむしみついしをあけななつどきに


出  立 して有年(ウネ)迄 三 里山 路 なり漸  く尓して

しゅったつして   うね までさんりやまみちなりようやくにして


夜明 多り有年河 舟 渡 し正  条  より駕

よあけたりうねかわぶねわたししょうじょうよりか


籠ニて姫 路ニ泊  爰 より丹 波へ出テ夫 より

ごにてひめじにとまるここよりたんばへでてそれより


京  へ行ク心  得なれと兎角 故郷  へかえ里度

きょうへゆくこころえなれどとかくこきょうへかえりたし


妻 子ある故 歟夫 故 ニ所  々  行キ残 し多る所  多 シ

さいしあるゆえかそれゆえにところどころゆきのこしたるところおおし


今 更 思 ヘハ残 念 なり姫 路皮 四五枚 買(カフ)

いまさらおもえばざんねんなりひめじかわしこまい  かう


商  人 の云 京  光 代 寺当 月 八 日消  失 と云

しょうにんのいうきょうこうだいじとうげつようかしょうしつという


去 年 能大 火尓焼 残 里多る処  なり

きょねんのたいかにやけのこりたるところなり


十  五日 天 氣無風 五  時 過 尓出  立 して表

じゅうごにちてんきむふういつつどきすぎにしゅったつしておもて

(大意)

(補足)

「十四日」、寛政1年2月14日 1789年3月10日。

「明七ツ時」、夜明け前4時。真冬の4時に出立するなんて、よほど先を急ぎたいのでね。

「三ツ石」「有年(ウネ」、現在の地図です。右側の竜野の河よりが正条(しょうじょう)。 

「正条」、「姫路」、右端にお城の絵があって、そこが姫路。左側の揖保川の左に正条村。

「姫路皮」、『姫路はわが国の皮革のふるさととして著名である』とあって、わたしはまったく知りませんでした。

「光代寺」、高台寺。実際は「2月9日、高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失した」とあります。消失してからまだ5日しかたってないのに、もう姫路まで届いてます。

「去年能大火」、『天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災』。

 江漢さん、再三「兎角故郷へかえ里度妻子ある故歟」とこぼしていますが、そんなことはなく、普段の江戸の生活が恋しいだけだとおもいます。