2025年8月18日月曜日

江漢西遊日記五 その23

P23 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日天 氣爰 ニ来 りて初  て能 天 氣となる亦

はつかてんきここにきたりてはじめてよきてんきとなるまた


正  右衛門方 へ行ク銅 板 目鏡  取 よせ見セル

しょうえもんかたへゆくどうはんめかがみとりよせみせる


家 能者 出て見 物 春酒 吸 物 飯 を出春

いえのものでてけんぶつすさけすいものめしをだす


明日壱岐 守 使者 屋 ニてお逢ヒと申  事 也

あすいきのかみししゃおくにておあいともうすことなり


ヒシキ生(ナマ)なるハ緑  色 ニして先キの方 ハ平(ヒラミ)なり

ひじき  なま なるはみどりいろにしてさきのほうは  ひらみ なり


初 メて喰  春爰

はじめてしょくすここ


ハ此 国 の法 ニて

はこのくにのほうにて


大 小  を帯ヒ多る者 ニハ町 の者 下駄(タ)を

だいしょうをおびたるものにはまちのものげ  た を


をぬき禮 をな春軽 キ者 も同 し夫 故 尓

をぬぎれいをなすかろきものもおなじそれゆえに


脇 差(サシ)一 本 ニて出けれと僕(トモ)一 人連レると

わき  ざし いっぽんにてでけれど  とも ひとりつれると

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年11月20日。西暦1788年12月17日。

「初て能天氣」、ここの「能」は、格助詞「の」のくずし字になっていません。この二行あと「家能者出て」の「能」のくずし字が格助詞「の」のくずし字(Hのようなかたち)で、このふたつは、しっかり区別されています。

「ヒシキ」、海藻のひじきのことですけど、江戸周辺の江戸湾や相模湾あたりでは普通にとれていたし、浜周辺の住民は食していたはずです。当時でもふつうに江戸では食されていたはずで、単に江漢さんが食べたことがなかっただけであろうとおもわれます。

 農林水産省のHPに『文献に登場するのは江戸時代の初期、寛永15年(1638年)発行と言われる「毛吹草」(俳諧の理論や各地の名産品を紹介)の中で、すでに伊勢の国の名産品として「鹿尾菜(ひじき)」が紹介されている。

 流通網が拡大するに伴って寛政年間(1789~1800年)の頃には、伊勢産のひじきは全国的に知られるようになった。伊勢ひじきの名前もこの頃、江戸でその名で売り出されたのが始まりと言われている』とありました。

 

2025年8月17日日曜日

江漢西遊日記五 その22

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 人 江戸屋しきニテ度 々 結メ多る人 ニて懇(コン)

というひとえどやしきにてたびたびつめたるひとにて  こん


意之(コレ)へ尋  ル酒 出春鮪  鰯(イハシ)のさかななり

い  これ へたずねるさけだすまぐろ  いわし のさかななり


此 日平 戸松 浦侯 へ我 等参  候   事 を申

このひひらどまつらこうへわれらまいりそうろうことをもうし


上 ルとぞ

あげるとぞ


十  九日 風 雨 雪 あられ亦 ハ日照 し青 天

じゅうくにちふうせつゆきあられまたはひでりしせいてん


を見ル甚  タ寒 し旅 館 主 人 の云 爰 ハ盗賊(トウソク)ハ

をみるはなはださむしりょかんしゅじんのいうここは   とうぞく は


なき所  と云フ然  とも戸も風屏(ひようふ)モなくてハ寒 し

なきところというしかれどもとも   びょうぶ もなくてはさむし


夜 尓入 正  右衛門方 より申  来 ル明日明後日

よるにいりしょうえもんかたよりもうしきたるあすあさって


能うち壱岐能守 お目尓かゝられ可申   と申

のうちいきのかみおめにかかられもうしべしともうし


来ル

くる

(大意)

(補足)

「結メ」、詰め。

「平戸松浦侯」、第9代松浦静山(まつらせいざん)。宝暦7(1757)年〜天保12(1841)年。文政4(1821)年以降書き続けた『甲子夜話』は江戸時代の随筆として有名。ウイキペディアに『清(静山)は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能に嫁いで慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入り、明治天皇を産んでいる。よって清は明治天皇の曽祖父にあたる』とありました。

「参候事」、「候」が「ら」のように見えますけど、ながれから「候」のくずし字というより、簡略記号。

「十九日」、天明8年11月19日。西暦1788年12月16日。

 天候は相変わらずめちゃくちゃのようであります。

「風屏」、屏風ですけど、逆さまになっちゃってます。

「壱岐能」、安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日従五位下・壱岐守に叙任する。安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により、家督を相続した。

 

2025年8月16日土曜日

江漢西遊日記五 その21

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

四五百  里能海 上  七 八 日 ニして江戸尓着(ツク)十  二

しごひゃくりのかいじょうしちはちにちにしてえどに  つく じゅうに


月 五嶋 マグロと云 物 なり兼 て舩 尓塩 を貯(タクハ)

がつごとうまぐろというものなりかねてふねにしおを  たくわ


へ舩 滞(トゝコヲ)る時 ハ塩 漬(ツケ)尓春其 價  十  分  一 となる

へふね  とどこお るときはしお  づけ にすそのあたいじゅうぶんのいちとなる


此 地其 後追 \/漁  春る物 ハ皆 油  ニ春鮪(シヒ)

ことちそのごおいおいりょうするものはみなあぶらにす  しび


一 ツ舩 より舩 尓買 尓金 四十  五匁  位  なり故 ニ

ひとつふねよりふねにかうにきんしじゅうごもんめくらいなりゆえに


塩 ニしてハ大 損(ソン)とぞ鮪  一 斤 ニて三 十  二文 なり

しおにしてはおお  ぞん とぞまぐろいっきんにてさんじゅうにもんなり


肉 黒 赤 し毒 アリ伊豆海 ニて漁  春る鮪(マクロ)

にくくろあかしどくありいずうみにてりょうする  まぐろ


とハ亦 別 種 なるベシ唐 蘇州  邊  ニてハ大 キ

とはまたべっしゅなるべしとうそしゅうあたりにてはおおき


サ八 九尺  大 毒 ありて人 不喰 とぞ

さはっくしゃくおおどくありてひとくわずとぞ


十  八 日 今 日も時雨 風 雨なり山 本 庄  右衛門

じゅうはちにちきょうもしぐれふううなりやまもとしょうえもん

(大意)

(補足)

「四五百里能海上七八日ニして江戸尓着(ツク)十二

月五嶋マグロと云物なり」、地図で大まかに平戸〜東京の海上路を測ってみると、約1600km程あり、8日間かかったすれば、1日に約200km。風だけがたよりで8日間ずっと西風に恵まれなければなりません。いつもがいつも、そのようにできたとはとてもおもえません。

 しかし江戸では五島鮪という言葉があるので、届けられていたということは確かなようであります。

「十八日」、天明8年11月18日。西暦1788年12月15日。

「金四十五匁」「鮪一斤ニて三十二文」「大キサ八九尺」と度量衡がいろいろあって大変。

 

2025年8月15日金曜日

江漢西遊日記五 その20

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

ごとしと云 此 宿 雨 戸なし障  子婦春まなし

ごとしというこのやどあまどなししょうじふすまなし


天井(テン セウ)を張(ハラ)春゛扨 \/寒 し爰 も風 土長 崎 能

   てんじょう を  はら ず さてさてさむしここもふうどながさきの


如 し時雨(シクレ)ニて大 雨 風 雪 あられ降りて

ごとし   しぐれ にておおあめかぜゆきあられふりて


東 方 ノ氣色 なしさて平 戸城  下海 岸

とうほうのけしきなしさてひらどじょうかかいがん


尓人 家並 ヒて此 節 鮪(シヒ)漁  ニて大 舩 岸 ニ

にじんかならびてこのせつ  しび りょうにておおふねきしに


着(ツキ)鮪 を積ム事 一 艘 尓何 萬 数 艘 尓積ム

  つき しびをつむこといっそうになんまんすうそうにつむ


故 海 能潮 鮪 の血(チ)流 レて赤 し鮪 舩 此 時(シ)

ゆえうみのしおしびの  ち ながれてあかししびふねこの  し


雨(グレ)能嵐  尓帆を張り玄 界 灘(ナタ)を過 て下 能関

  ぐれ のあらしにほをはりげんかい  なだ をすぎてしものせき


尓至 り防 州  灘 を越へ阿波能鳴 戸を渡里

にいたりぼうしゅうなだをこえあわのなるとをわたり


志摩の国 鳥羽浦 ニ掛ケ伊豆能東  洋 を経(へ)

しまのくにとばうらにかけいずのひがしなだを  へ

(大意)

(補足)

「平戸城下」、平戸藩6万1700石。古地図と現在のもの。黒子島、牛首(平戸牛ヶ首灯台)など地形はほとんどかわっていません。また平戸オランダ商館HPに1621年平戸図(平戸城下の絵図)があります。 


  一艘に何万匹も鮪を積んだ船が数艘ということで、港の浜は血だらけで海が赤いとあります。その鮪満載の船が平戸から玄界灘をへて下関にいたり、坊州灘を越え鳴門をわたり、鳥羽の浦でひと休み、伊豆を経て、江戸に向かうわけです。ホントかなと疑ってしまいます。

 木村蒹葭堂「日本山海名産圗會」にこの鮪の説明と画があります。 

 当時も今も平戸五島付近はすぐれた鮪漁場であったようです。

 

2025年8月14日木曜日

江漢西遊日記五 その19

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

十  七 日 なり天 氣舩 より上 り舩 頭 能宅 尓行 て

じゅうしちにちなりてんきふねよりあがりせんどうのたくにゆきて


喰  事春夫 より長 崎 宿  あり宮 能町  橋 口 次

しょくじすそれよりながさきしゅくありみやのちょうはちぐちじ


兵衛と云 爰 尓藤 五郎 とて幸 作 能外 料  能

へえというここにとうごろうとてこうさくのがいりょうの


弟子四五日 以前 尓参 り居ル其 者 先ツ酒 を買

でししごにちいぜんにまいりおるそのものまずさけをかう


シビ能さしミニて呑ム平 戸ハシビマグロイワシ

しびのさしみにてのむひらどはしびまぐろいわし


皆 其 毒 ニ当 り湿瘡(シツサウ)を病 者 多 し宿 能主

みなそのどくにあたり   しっそう をやむものおおしやどのしゅ


人 眼のあしき人 故 之(コレ)を聞く尓私   惣 毒 能

じんめのあしきひとゆえ  これ をきくにわたくしそうどくの


病 ヒありて両  眼 ぬけ出テ一 寸 程 さかり申

やまいありてりょうがんぬけでていっすんほどさがりもうす


時 尓熱 病  を王川゛らひし尓大 熱 の為(タメ)ニ

ときにねつびょうをわず らいしにおおねつの  ため に


其 湿 毒 殊(コト)\/くぬけ夫 故 尓眼(マナコ)かく能

そのしつどく  こと ごとくぬけそれゆえに  まなこ かくの

(大意)

(補足)

「十七日」、天明8年11月17日。西暦1788年12月14日

「外料」、『がいりょう ぐわいれう 【外療・外料】

外科的治療。また,外科医。「―へいさぎよく行く向ふきず」〈誹風柳多留•18〉』

「シビ」、『しび【鮪】① マグロの異名。② クロマグロの成魚で,大形のものの異名。 』『めじ。クロマグロの若魚で,1メートル 以下のものの異名。メジマグロ。』

「惣毒」、瘡毒(そうどく さう【瘡毒】梅毒の異名。かさ。)。

「湿瘡」、『疥癬(かいせん)、疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病。かゆみが激しい。指の間・わきの下・陰部など皮膚の柔らかい部分を冒す。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しつそう)。』

 マグロはあしがとても早いので、刺し身で食していろいろあたって、病気になることが多かったのだろうとおもいます。

 

2025年8月13日水曜日

江漢西遊日記五 その18

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

喰  事せ春゛横 に伏し个連ハ何 ヤラうゑ尓

しょくじせず よこにふしければなにやらうえに


かけ个る可゛トロ\/と一 寝(ネイ)里し个る可゛僕 来て云フニハ

かけけるが とろとろとひと  ねい りしけるが ぼくきていうには


今 風 可直 り申  故 ニ舟 を出春と目を覚(サマシ)け

いまかぜがなおりもうすゆえにふねをだすとめを  さまし け


る氣可゛さ川者゜里快(コゝロモ)ち能 夫 より舟 へ行ク尓

るきが さっぱ り  こころも ちよくそれよりふねへゆくに


夜 能八 時 比 なり満 月 浪 を照 シ寒 風 肌(ハタヱ)ヲ

よるのやつどきころなりまんげつなみをてらしかんぷう  はだえ を


とふ春東風吹ヒて舟 走 ル事 者やし牛 ガ

とうすこちふいてふねはしることはやしうしが


首(クヒ)など云 嶋 を見ル重 キ流人 ハ爰 尓来ルと云

  くび などいうしまをみるおもきるにんはここにくるという


夫 ヨリ九十  九嶋 能外 海 を乗り行ク誠  尓

それよりくじゅうくしまのそとうみをのりゆくまことに


西 ハ朝  鮮 唐 能大 洋 なり風 追(ヲイ)てニて忽  チ

にしはちょうせんとうのたいようなりかぜ  おい てにてたちまち


夜明 て四 時 過 ニ平 戸嶋 尓着(チヤク)岸 春

よあけてよつどきすぎにひらどしまに  ちゃく がんす

(大意)

(補足)

「肌(ハタヱ)」、『はだえ ―へ【肌・膚】① 皮膚。はだ。「―は雪の如くにて」〈朱雀日記•潤一郎〉』

「九十九嶋」、平戸島の対岸の細々した島々。北松浦半島西岸(相浦〜小佐々町〜鹿町町)に連なる五島灘に面したリアス式海岸の群島。

「平戸嶋」、ウイキペディアに詳しい。その中で『1609年(慶長14年)にオランダ商館、1613年(同18年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立された。しかしその後の鎖国政策によって1623年(元和9年)にイギリス商館閉鎖、オランダ商館も1641年(寛永18年)に長崎の出島へ移転して、平戸港における南蛮貿易は終わった』というのが印象的であります。

 満月の下、夜中の2時に肌に刺すような寒風の東風で、追手(追い風)で疾走しても平戸島に着いたのは朝10時過ぎでありました。

 

2025年8月12日火曜日

江漢西遊日記五 その17

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

用 ユる事 なり漸  く尓して爰 を越へ小鯛 可浦 と云フ

もちゆることなりようやくにしてここをこえこたいがうらという


処  ニ七  時 かゝる山 尓社  あり舟 よりあか里磯 邊へ

ところにななつどきかかるやまにやしろありふねよりあがりいそべへ


歩 き向 フ能祠  へ参 ル尓見所  なし舩 頭 其 外 能

あるきむこうのほこらへまいるにみどころなしせんどうそのほかの


乗 合 能者 も爰 ニ知ル者 ありて何 クへ可行 帰 り尓

のりあいのものもここにしるものありていずくへかゆきかえりに


求 メ多るやドフロクとて濁  酒 を我 尓進 メ个る故

もとめたるやどぶろくとてにごりざけをわれにすすめけるゆえ


一 口 呑て 顔 をシカメて止メぬ夫 より其 酒 能

ひとくちのみてかおをしかめてやめぬそれよりそのさけの


当 り多るや昨 夜舟 尓伏し寒 氣能当 里タル

あたりたるやさくやふねにふしかんきのあたりたる


歟頭痛 などして氣分 あしゝ夫 より程 なくして

かずつうなどしてきぶんあししそれよりほどなくして


大 鯛 ガ浦 ニ掛 ル爰 ハ皆 平 戸領  なり因 て田夫能

おおたいがうらにかかるここはみなひらどりょうなりよってたふの


家 尓あか里火ニ当 り个る可゛氣分 あしき故 尓

いえにあがりひにあたりけるが きぶんあしきゆえに

(大意)

(補足)

「心を用ユる」、用心はレ点読みでした。

「大鯛が浦」「小鯛が浦」、大小とあるのである程度大きい浦なのかと地図で探しましたが見つけられませんでした。

 どぶろくの質はともかくとして、日本中どこにでもあったといわれています。

 

2025年8月11日月曜日

江漢西遊日記五 その16

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

雪 まし里あられ風 吹き又 ハ上  天 氣となる

ゆきまじりあられかぜふきまたはじょうてんきとなる


時 甚  タ暖 氣となる言 語ハ東 方 と甚  タ異  り

ときはなはだだんきとなるげんごはとうほうとはなはだことなり


十  六 日 天 氣小串 と云 処  ニて舟 ニて夜を明(アカ)し

じゅうろくにちてんきおぐしというところにてふねにてよを  あか し


朝 舩 を出して六 里程 走 りて針 尾能瀬戸

あさふねをだしてろくりほどはしりてはりおのせと


なり右 ハ大 村 領  左  ハ平 戸領  なり山 両  方 ヨリ

なりみぎはおおむらりょうひだりはひらどりょうなりやまりょうほうより


入 込ミ其 間  僅  ニして波 なく潮(ウシヲ)雲珠巻

いりこみそのあいだわずかにしてなみなく  うしお うずまき


木 目能如 し或   岩 石 ニ觸れ白 浪 飛んで

もくめのごとしあるいはがんせきにふれしらなみとんで


沸騰(ホツトウ)能如 し引 しをニう川゛へ乗り入ル時 ハ舟 忽

   ほっとう のごとしひきしおにうず へのりいるときはふねたちまち


巻 込 と云 夫 故 潮 能満チ多る時 渡 ル也 此 瀬戸

まきこむというそれゆえしおのみちたるときわたるなりこのせと


能間  を能る事 凡  半 里程 あるべし舩 頭 甚  タ心  を

のあいだをのることおよそはんりほどあるべしせんどうはなはだこころを

(大意)

(補足)

「十六日」、天明8年11月16日。西暦1788年12月13日。

「針尾能瀬戸」、渦潮といえば、鳴門の渦潮しかしりませんでした。大村湾が外海と唯一つながっているところなので、潮の出入りが激しい。

 「西遊旅譚四」に画があります。 

 江漢さん、旅の最初の頃は、船に乗ると緊張感が伝わってきましたが、何度か命がけの乗船で慣れてきたのでしょう、冷静な目で状況を観察できているようであります。

 

2025年8月10日日曜日

江漢西遊日記五 その15

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

さて長 﨑 より此 邊(ヘン)能風 土三 十  二三 度

さてながさきよりこの  へん のふうどさんじゅうにさんど


能処  ニして尤  モ海 邊故 夏 ハあ川く冬 ハ至

のところにしてもっともうみべゆえなつはあつくふゆはいたっ


て暖   ニして雪 霜 希(マレ)なり家 \/尓タイ\/

てあたたかにしてゆきしも  まれ なりいえいえにだいだい


能樹(キ)を植(ウユ)恒 ニ酢ニ用 ユザボンとて九年 母ニ

の  き を  うゆ つねにすにもちゆざぼんとてくねんぼに


十  倍 能物 辻 \/尓賣ル大 根 太 ク短  シケラ能

じゅうばいのものつじつじにうるだいこんふとくみじかしけらの


尾と云 亦 ほそ大 根 白 赤 能二品 サツマ芋

おというまたほそだいこんしろあかのにしなさつまいも


も同 し蕪 亦 同 し茶 釜 なし土瓶(ヒン)ニて

もおなじかぶまたおなじちゃがまなしど  びん にて


茶 を煎(センス)口 取 ボール黒 砂糖(トウ)或  ハ蕪(カブ)を酒

ちゃを  せんず くちとりぼーるくろざ  とう あるいは  かぶ をさけ


醤  油ニ漬(ツケル)婦人 生  涯 眉(マユ)を剃(ソラ)春゛手能指 ニ

しょうゆに  つける ふじんしょうがい  まゆ を  そら ず てのゆびに


金 輪を者める十  月 より此 方 時雨 とて大 雨

かなわをはめるじゅうがつよりこのほうしぐれとておおあめ

(大意)

(補足)

「風土」「土瓶」、「土」のくずし字に注意です。

「三十二三度」、この「度」はなんでしょうか?長崎・小串の直線距離は約36kmです。「里」や「町」の間違いではありませんし、経度でもなさそう。さて?

「九年母」、『くねんぼ。ミカン科の常緑低木。インドシナ原産。葉はミカンに似るがやや大きい。果実は球形で秋にオレンジ色に熟す。果皮は厚く,果肉は香りと酸味が強い。香橘(こうきつ)。季秋』

 当時の地元の果物や野菜の様子がわかっておもしろい、でもそれほど変わってはなさそうです。

「口取」、『くちとり 【口取り】①酒や茶などに添えて供する食べ物。㋐ 「口取り肴(ざかな)」の略。㋑ 「口取り菓子」の略。』

 江戸時代、女の人は結婚すると眉を剃りお歯黒でとよくいわれますが、そうでもないことがわかります。また「手能指ニ金輪を者める」のはきっと南蛮人の風習を取り入れたでしょうか。またはキリシタン信仰からのものでしょうか。

 フランス革命の遠因は気象異常とはよくいわれますが、この18世紀後半は地球上いたるところで天候不順だったようで、ここ九州でも南国で雪や霜があったことがわかります。

 

2025年8月9日土曜日

江漢西遊日記五 その14

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

ハ扨 々 キタナキ家 尓泊 ル事 かなと云 个り此

はさてさてきたなきいえにとまることかなといいけりこの


所  能者 喰  事春るを見ル尓且 て米 麦 を不喰

ところのものしょくじするをみるにかつてこめむぎをくわず


瑠  球  芋 を蒸(ム)して籠 ニ入 夫 能ミ喰ヒ菜(サイ)ニハ

りゅうきゅういもを  む してかごにいれそれのみくい  さい には


生(ナマ)大 根 う春く切リ塩 ニてもミ多るなり

  なま だいこんうすくきりしおにてもみたるなり


十  五日 とかく時雨 なり朝 五 ツ時 尓舩 を出ス風

じゅうごにちとかくしぐれなりあさいつつどきにふねをだすかぜ


津よし波 高 し大 村 領  小串(グシ)と云 ニ舩 を掛

つよしなみたかしおおむらりょうお  ぐし というにふねをか


け又 亀(カメ)ガ浦 ニ入 ル雪 と雨 降ル小舟 なれハト

けまた  かめ がうらにはいるゆきとあめふるこぶねなればと


マをかけれハ立ツ事 なら春゛舩 頭 よりキタナキ蒲

まをかければたつことならず せんどうよりきたなきふ 


とん一 枚 かり夫 をか婦り寝(フセ)るニ鼻(ハナ)先 へ雪

とんいちまいかりそれをかぶり  ふせ るに  はな さきへゆき


トマ能間  より降り込 積ム大 難 渋  者なし能多袮

とまのあいだよりふりこみつむだいなんじゅうはなしのたね

(大意)

(補足)

「瑠球芋」、琉球芋。「瑠」はるり。

「十五日」、天明8年11月15日。西暦1788年12月12日。

「大村領小串(グシ)」、来るとき10月8日に泊まった彼杵(そのぎ)が地図の右にあります。小串(おぐし)はそこから10時方向のナスみたいな岬の左側のヘタ部分にあります。亀(カメ)ガ浦はきっと、そのあたり。

 長崎なのに、雪も降ってずいぶんと天気は乱れてます。

 

2025年8月8日金曜日

江漢西遊日記五 その13

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

能かけ多る人 也 幸 作 ヘ弟子(デシ)入 故 尓おらん多

のかけたるひとなりこうさくへ   でし いるゆえにおらんだ


二階(カイ)タアフル四人 結メ来 ル者 予カ名を知ル

に  かい たあふるよにんづめきたるものよがなをしる


十  三 日 時雨 なり石 原 休  甫外 ニ一 人幸 作 の

じゅうさんにちしぐれなりいしはらきゅうほほかにひとりこうさくの


像 を認  メ遣  春皆 〃 謝 銀 を贈 ル

ぞうをしたためつかわすみなみなしゃぎんをおくる


十  四 日時雨 幸 作 方 を出  立 せんと春酒 吸

じゅうよっかしぐれこうさくがたをしゅったつせんとすさけすい


物 を出しおらん多ヒイドロ。コツフを贈 ル者かま

ものをだしおらんだびいどろ こっぷをおくるはかま


ニて外 迄て送 る利助 伯 民 ハ西 坂 まて送 ル

にてそとまでおくるりすけはくみんはにしざかまでおくる


平 戸屋しきへより夫 より時津(トキツ)能方 ニ趣(ヲモム)く雨 ニテ

ひらどやしきへよりそれより   ときづ のほうに  おもむ くあめにて


路 春べ里晩 七  時 ニ至 ル参 りシ時 泊 リ多る隣  能家

みちすべりばんななつどきにいたるまいりしときとまりたるとなりのいえ


二泊 る昨 夜迄 ハ能(ヨキ)夜具尓て寝多る尓今 夜

にとまるさくやまでは  よき やぐにてねたるにこんや

(大意)

(補足)

「四人結メ」、四人詰メ。

「十三日」、天明8年11月13日。西暦1788年12月10日。

 ようやく平戸(北へ約100km)へ向けて出立しました。14日は16時過ぎに時津に着き、来るときに泊まった家の隣に泊。足元が滑るので時間がかかったようでした。

 

2025年8月7日木曜日

江漢西遊日記五 その12

 

P12 東京国立博物館蔵
(読み)
様 尓なし我 等可 作 ル処 の銅 版 画を見せ个る
さまになしわれらがつくるところのどうはんがをみせける

尓甚  タ肝(キモ)を津婦゛春是 ハおらん多銅 版 画ハ
にはなはだ  きも をつぶ すこれはおらんだどうはんがは

且 て日本 ニてハ出来ぬと云 事 を知ル故 なり
かってにほんにてはできぬということをしるゆえなり

十  二日 大 風 雨此 地の時雨(シグレ)なり幸 作 能像 を
じゅうににちだいふううこのちの   しぐれ なりこうさくのぞうを

草 \/多る墨画(スミヱ)尓して者かま羽織 ニして坐し手
そうそうたる   すみえ にしてはかまはおりにしてざして

ニ蘭 書 を持チ上 尓ヱンゲル。ルーフを吹き居る
にらんしょをもちうえにえんげる るーふをふきいる

圖なり是 ハ備 中  倉 舗 と云 処  能伯 駒 と云 醫
ずなりこれはびっちゅうくらしきというところのはくこまというい

ニ贈 ル張  仲  圭 能像 を認  メ由良泰 伯 と云 醫
におくるちょうちゅうけいのぞうをしたためゆらたいはくというい

尓遣  春讃 州  能人 にして長 崎 尓住  春晩 方 石 見
につかわすさっしゅうのひとにしてながさきにじゅうすばんがたいわみ

能人 松 平  周防 侯 能醫者 名ハ齢 文 と云 鼻(ハナ)
にひとまつだいらすおうこうのいしゃなはれいぶんという  はな
(大意)
(補足)
「十二日」、天明8年11月12日。西暦1788年12月9日。
「ヱンゲル。ルーフ」、天使。らっぱ。オランダ語でラッパを調べたところルーフという音はありませんでしたが。
「伯駒」、小谷伯駒。宝暦13(1763)年〜文化11(1814)年。倉敷戎(えびす)町生まれ。天明8年25歳から寛政2年27歳まで吉雄幸作に医学を学び、帰郷後開業しはやった。
「張仲圭」、張 機(ちょう き、150年 - 219年)は、中国後漢末期の官僚・医師。張璣とも。字は仲景。荊州南陽郡涅陽県の人。張仲景として知られ、その功績から医聖と称えれている。
 幸作の像は代々引き継がれてどこかの蔵に残っているのでしょうか、見てみたい。忙しく画をしたためあちこちに遣わしています。これもふくめて、肝をつぶすほど銅版画を称賛されて、江漢さん鼻高々、気持ちよさそう。

2025年8月6日水曜日

江漢西遊日記五 その11

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

亦 何 ヤラ魚  尓タイ\/能酢を入 又 梅 干 能肉 尓

またなにやらさかなにだいだいのすをいれまたうめぼしのにくに


ニンニクをあしらへ味噌ニて幸 作 朝 ヨリ酒

にんにくをあしらえみそにてこうさくあさよりさけ


を呑 吾 等尓進 メルさて\/困  入ル夫 よりして

をのみわれらにすすめるさてさてこまりいるそれよりして


サツマ芋 能粥(カユ)を喰フサツマ能国 能醫者 幸

さつまいもの  かゆ をくうさつまのくにのいしゃこう


作 能弟子となり居ル此 者 申  ニハ在 所 ヘ舩 中  七

さくのでしとなりおるこのものもうすにはざいしょへせんちゅうなな


十  里近 日 爰 元 を出  立 見 物 なからお出デ

じゅうりきんじつここもとをしゅったつけんぶつながらおいで


あらん歟と申  个連と竟  いか春゛此 者 サツマ

あらんかともうしけれどついにいかず このものさつま


琵琶(ヒワ)を弾 个り古風 なる物 なり夫 よりして

   びわ をひきけりこふうなるものなりそれよりして


猪能又 と云 鉄 細 工人 の処  へ参 ル細 工道 具等(トフ)

いのまたというてつざいくじんのところへまいるさいくどうぐ  とう


砥(ト)車  など皆 おらん多風 ニて日本 の鍛冶能

  と くるまなどみなおらんだふうにてにほんのかじの

(大意)

(補足)

「幸作能弟子」、吉雄幸作は通詞職のかたわら、数名の蘭館医師より直接医術の伝習をうけ、蘭方医術をみにつけ、自宅に成秀館を開塾し、多くの門弟を教え導いた。入門を請うものはひきをきらなかったという。

 前野良沢・杉田玄白らとの交流は深く、2人が携わった『解体新書』に幸作は序文を寄せている。 

 ヌタもうまそうですが、ダイダイの酢味噌に梅肉とニンニクを入れて食している魚もきっと刺し身かやはりヌタのようなものじゃないかとおもいます。これもうまそう。


 

2025年8月5日火曜日

江漢西遊日記五 その10

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

十 日天 氣晩 七  時 比 役 所 ヨリ幸 作 を呼ヒ尓参

とおかてんきばんななつどきころやくしょよりこうさくをよびにまいる


帰 りて承    レバ紅 毛 舩 能小舟 鍋 嶌 領  地ヘ吹 流

かえりてうけたまわればこうもうせんのこぶねなべしまりょうちへふきなが


され多るを漂  流  と云 立 し故 尓表  向 となる

されたるをひょうりゅうといいたてしゆえにおもてむきとなる


昼 比ロより大 徳 寺ヘ行ク方 丈  ニ逢 十  四 日尓出

ひるごろよりだいとくじへゆくほうじょうにあいじゅうよっかにしゅっ


立 せん事 を云 酒 吸 物 を出し唐 人 書 外 ニ

たつせんことをいうさけすいものをだしとうじんしょほかに


おらん多指 輪鉄 ニて作 ルタバコ入 餞 別 尓贈 ラ

おらんだゆびわてつにてつくるたばこいれせんべつにおくら


る此 方 からも紙 の画三 枚 絹 地画一 枚 遣  ス

るこのほうからもかみのえさんまいきぬじえいちまいつかわす


平 戸屋しきより飛脚  舟 参 り十  三 日 尓出  舩

ひらどやしきよりひきゃくふねまいりじゅうさんにちにしゅっこう


と申  来 ル

ともうしきたる


十  一 日 雨 天朝 鰯(イワシ)のヌタ尓蕃菽(トウカラシ)ネギを入 シ

じゅういちにちうてんあさ  いわし のぬたに   とうがらし ねぎをいれし

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年11月10日。西暦1788年12月7日。

「承」、このくずし字は一度見れば特徴的なので覚えられそう。

「嶌」、普通は「嶋」ですが、「嶌」や「㠀」もあっていろいろです。

「方丈」、『② 〔インドの維摩(ゆいま)居士の居室が一丈四方であったという故事から〕寺の住職の居室。また,住職の俗称。維摩の方丈』

「贈ラる」、江漢さんは人から贈られたときも贈るときも、この日記の中では「贈る」としてますが、ここでは「贈らる」と受け身になっています。

 

2025年8月4日月曜日

江漢西遊日記五 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  四 時 より平 戸屋しきへ参  ツイ立 ニ墨(ホク)

ようかくもりよつどきよりひらどやしきへまいりついたてに  ぼく


梅(ハイ)を認  メ其 外 画色 \/描(カキ)酒 を呑 帰 ル夫

  ばい をしたためそのほかえいろいろ  かき さけをのみかえるそれ


より大 村 町  定 之助 へ参 ルブタを煮て夜

よりおおむらちょうさだのすけへまいるぶたをにてや


喰  を出春至(イタッテ)うまし

しょくをだす  いたって うまし


九  日曇  て大 西 風 寒 し頼(タノ)れまれ多る画を

ここのかくもりておおにしかぜさむし  たの れまれたるえを


所 々 へ遣  春幸 作 をおぢ様 と云フ四 歳 位

しょしょへつかわすこうさくをおじさまというよんさいくらい


能小童 あり實 ハ妾(セ ウ)腹 能子と云 蘭 語ヲ

のこどもありじつは  しょう ばらのこというらんごを


能ク覚 へて牛  肉 をクウベイスと云 馬 をパー

よくおぼえてぎゅうにくをくうべいすといううまをぱー


ルドと云 サツマ芋 を与(ヤレ)ハレツケル\/  とて喰ひ

るどというさつまいもを  やれ ばれっけるれっけるとてくい


个り今 幸 作 跡 ハ此 童  なり。レツケルハ美味ノ事

けりいまこうさくあとはこのわらわなり れっけるはびみのこと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年11月8日。西暦1788年12月5日。

「四歳位能小童」、後の吉雄権之助、天明5(1785)年〜天保(1831)2年。オランダ語は非常に巧みで、英・仏語にも通じ、蘭医レッケより外科を学んだ。シーボルトとも親交があり、その門下の日本人にオランダ語を教えた。著作も多数ある。

「實ハ妾(セウ)腹能子と云」、吉雄耕牛(幸作)(享保9(1724)年〜寛政12(1800)年)の妾の子で、耕牛62歳のときの子なので幼名を六二郎とよんだ。

「クウベイス」、オランダ語kooesvlees(コウエスヴレス)を調べると牛の肉とありました。

「パールド」、paard。「レツケル」、lekker。

 歴史上の人物の普段の姿が出てきています。

 

2025年8月3日日曜日

江漢西遊日記五 その8

P8 東京国立博物館蔵

(読み)

見 物 春土間ニしてろくロ挽キ鍛冶道 具

けんぶつすどまにしてろくろひきかじどうぐ


其 餘 奇妙  なる形 チの物 数 々 あり

そのほかきみょうなるかたちのものかずかずあり


幸 作 細 工ハせ袮と好 事ニ色 \/あ川め

こうさくさいくはせねどこうずにいろいろあつめ


多る者 なり此 日田舎(イナカ)者 病  氣とて薬

たるものなりこのひ   いなか ものびょうきとてくすり


をもろふ幸 作 の云フシヤンスを\/   と云ふ

をもらうこうさくのいうしゃんすをしゃんすをという


何(ナン)能事 歟と思 ヒし尓相思(シヤンス)とて唐 音 ニ

  なん のことかとおもいしに   しゃんす とてとうおんに


て色 情  を云フ事 とぞ

てしきじょうをいうこととぞ


七 日天 氣風 立 おらん多正  月 十  五日 立 色 \/

なのかてんきかぜたつおたんだしょうがつじゅうごにちたついろいろ


調  求  多る物 荷こしらへし此 便 ニ江戸へ遣  春

しらべもとめたるものにごしらへしこのびんにえどへつかわす


べしとて頼 ム

べしとてたのむ

(大意)

(補足)

「相思(シヤンス)」、発音を調べると、シャンスーときこえます。しかし意味は色情ではなく、漢字二文字そのままでお互いに思い合うでありました。

「七日」、天明8年11月7日。西暦1788年12月4日。

 お土産をいっぱいかっているので、どう運ぶのかとおもっていたら、船便で江戸へおくるとは、送料けっこう高いはず。宅配はこの時代から当たり前のようでした。


 

2025年8月2日土曜日

江漢西遊日記五 その7

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

ヤギ豕(ブタ)ニハ鳥 を飼(カイ)賣ルなり夫 より幸

やぎ  ぶた にわとりを  かい うるなりそれよりこう


作 方 へ返 り枕(マクラ)元(モト)へ火者゛ち二 ツ置キドンス

さくかたへかえり  まくら   もと へひば ちふたつおきどんす


縮 面 能夜具を着(キ)て彼ノおらん多二階 ニ

ちりめんのやぐを  き てかのおらんだにかいに


休 ミ个る

やすみける


六 日曇 ル寒 し朝 起キ勝 手ノ方 を見ル尓皆

むいかくもるさむしあさおきかってのほうをみるにみな


何尓毛かもおらん多風 なり夫 より二階 尓

なにもかもおらんだふうなりそれよりにかいに


登 り倚子(イス)尓よりヤギ小鳥 を焼 てボウ

のぼり   いす によりやぎことりをやきてぼう


トルを付 喰フ飯 のさ以ヤギ尓油  醤(セウ ユ)ヲ付 焼ク

とるをつけくうめしのさいやぎにあぶら  しょうゆ をつけやく


晩 甲  子祭  小豆 飯 出来ル幸 作 悴  定

ばんきのえねまつりあずきめしできるこうさくせがれさだ


之助 定 五良 参 ル亦 細 工場と云 処  あり

のすけさだごろうまいるまたさいくばというところあり

(大意)

(補足)

「六日」、天明8年11月6日。西暦1788年12月3日。

「ボウトル」、boter。オランダ語でバター。

「甲子祭」、『きのえねまつり【甲子祭り】、きのえねまち【甲子待ち】に同じ。甲子の日の前夜,子の刻(午前零時頃)まで起きていて,二股大根・黒豆などを供え,大黒天をまつる風習。江戸時代,商家で行われた。きのえね祭り』

 江漢さん、絵の修業よりも、オランダ船に乗船したり唐船をまじかでみて写生したり、ヤギや鶏、また豚も食ったり、それもバターを付けてと、こちらのほうの修行に忙しそうです。文字通り血となり肉となる修行。

 

2025年8月1日金曜日

江漢西遊日記五 その6

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

べしと云 夫 尓決 春

べしというそれにけっす


五 日天 氣亦 \/平 戸屋しき三平 次方 へ

いつかてんきまたまたひらどやしきさへいじかたへ


参 ル酒 吸 物 を出ス亦 鶏肉(ケイニク)を喰フ皮(カワ)骨(ホネ)

まいるさけすいものをだすまた   けいにく をくう  かわ   ほね


共 尓切 タル者 なり江戸能鶏 肉 ハ皮 武き

ともにきりたるものなりえどのけいにくはかわむき


皮 至  てコハシ骨(ホネ)至  てか多し肉 も筋 多 く

かわいたってこわし  ほね いたってかたしにくもすじおおく


して剛(コワシ)爰 ニて喰ヒ多るハ魚  能煮タル如 く箸(ハシ)ニテ

して  こわし ここにてくいたるはさかなのにたるごとく  はし にて


肉 骨 を能ク離(ハナ)ル肉 至  てや王らかなり帰 リ

にくほねをよく  はな るにくいたってやわらかなりかえり


て幸 作 ニ話(ハナシ)个連ハ何ンぞ鶏 尓か王る事 なし

てこうさくに  はなし ければなんぞとりにかわることなし


酒 ニて半 時 煮多る者 と云 浦 上 ニて賣ルなり

さけにてはんときにたるものといううらがみにてうるなり


五文 銭 を出セハ羽(ケ)を引 テうる此 浦 上 ト云 処  ハ

ごもんぜにをだせば  け をひきてうるここうらがみというところは

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年11月5日。西暦1788年12月2日。

 江戸の鶏肉の食べ方や、皮や骨が硬いこと、肉も筋が多くこれまた固いこと、興味深いはなしであります。

 

2025年7月31日木曜日

江漢西遊日記五 その5

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

能音 数  して山 \/尓小玉(コダマ)能響(ヒゝキ)亦稲(イナ)津ま

のおとあまたしてやまやまに   こだま の  ひびき また いな づま


能如 ク光 りて春ざまし石 火矢能音 も

のごとくひかりてすざましいしひやのおとも


段(タン)\/と遠 くなり个連ハ幸 作 申  ニハお

  だん だんととおくなりければこうさくもうすにはお


らん多今 夜舩 を出シ多りと云フ東(トヲ)風 を

らんだこんやふねをだしたりという  とお ふうを


待 て舩 を出春なり

まちてふねをだすなり


四 日雨天 是 まで稲 部半 蔵 方 ニ居ル明日

よっかうてんこれまでいなべはんぞうかたにおるあす


出  立 春ト偽  り幸 作 方 へ行 居ル平 戸屋しき

しゅったつすといつわりこうさくかたへゆきおるひらどやしき


畄主居江戸ニて知ル人 故 尓尋  ル畄主居(ルスイヤク)

るすいえどにてしるひとゆえにたずねる    るすいやく


三平 治と云 人 申  ニハ在 所 用 舩 五六 日 中  ニ

さへいじというひともうすにはざいしょようふねごろくにちじゅうに


爰 もとへ来ル故 其 舩 ニ乗り平 戸へ渡 ル

ここもとへくるゆえそのふねにのりひらどへわたる

(大意)

(補足)

「小玉(コダマ)」、谺。

「段(タン) \/」、フリガナもなく、この二文字だけ読めと言われても、無理。

「四日」、天明8年11月4日。西暦1788年12月1日。

「行居ル」、「参」を書き直して「居」にしています。書き改めるほどの違いがあったのでしょうけど、どなかた説明してください。

 いよいよ平戸へ、船の手配をし始めました。

 

2025年7月30日水曜日

江漢西遊日記五 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

十 間 土蔵 付 之(コレ)ニて一 年 借り代 十  両  位 ヒ

じっけんどぞうつき  これ にていちねんかりだいじゅうりょうくらい


土蔵 なきハ五六 両  なり此 地ハ借  家ニて竃

どぞうなきはごろくりょうなりこのちはしゃくやにてかまど


金 とて一 年 尓三 十  匁 宛 上 ヨリ被下  と云 地主

かねとていちねんにさんじゅうもんずつかみよりくださるというじぬし


ハ三 四百  目上 ヨリ被下  亦 勝 屋町  ニおらん多

はさんしひゃくめかみよりくださるまたかつやちょうにおらんだ


舩 の圖唐 人 屋しき能づなど賣ル者 之(コレ)も二

ふねのずとうじんやしきのずなどうるもの  これ もに


人 扶持ヲ取 と云 総 て此 類 イ多 し是 ハ昔 シ唐

にんぶちをとるというすべてこのたぐいおおしこれはむかしとう


人 おらん多尓直 商  ヒせし時 尓其 後直キ尓

じんおらんだにじかあきないせしときにそのごじきに


交 易 春る事 を禁 し多る尓其 者 共 渡世(トセイ)

こうえきすることをきんじたるにそのものども   とせい


なり兼 故 ニ其 者 を色 \/役(ヤク)人 として扶持を

なりかねゆえにそのものをいろいろ  やく にんとしてふちを


下 され多り此 日おらん多乗 切り夜 ニ入 石 火矢

くだされたりこのひおらんだのりきりよるにいりいしひや

(大意)

(補足)

「おらん多舩の圖唐人屋しき能づなど賣ル者」、長崎絵(ながさきえ)は、江戸時代に長崎で版行された浮世絵版画である。長崎版画ともいわれる。18世紀半ばから幕末にかけて版行された。

「三四百目」、『め。㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』

「役(ヤク)人」、役が彼にみえます。

 江漢さん、長崎絵にはあまり関心がなさそうです。江戸の錦絵に比べると、紙が粗悪で色使いも数色で、華やかさにかけたところがあるのでしょうけど、絵師たちの腕が今ひとつだったこともあるかもしれません。

 

2025年7月29日火曜日

江漢西遊日記五 その3

P3 東京国立博物館蔵

(読み)

二 日天 氣陬防能社  へ参 詣 春此 地の大 社

ふつかてんきすわのやしろへさんけいすこのちのたいしゃ


なり利助 方 へ行ク江戸會 所 も参 ル酒 吸 物

なりりすけかたへゆくえどかいしょもまいるさけすいもの


蕎麦を出ス義太夫 浄  瑠理を聞ク長 崎 人

そばをだすぎだゆうじょうるりをきくながさきじん


能浄  畄里を初 メてきく

のじょうるりをはじめてきく


三 日天 氣近 日 此 地を出  立 せんとて舩 ニ乗り

みっかてんききんじつこのちをしゅったつせんとてふねにのり


かえるべしとて聞ク尓大 坂 迄 舩 賃 雑 用 共 ニ

かえるべしとてきくにおおさかまでふなちんざつようともに


一 人 前 七 十  五匁  と云 ボーフラスコ壱 本 ニ付キ

いちにんまえななじゅうごもんめというぼーふらすこいっぽんにつき


六 十  四 文 六 七 本 買フ唐 人 の帽 子亦 下官(クワン)

ろくじゅうよんもんろくしちほんかうとうじんのぼうしまたげ  か ん


能タツ帽 其 比 嶋 縮 面 ヤスシ四五疋 買

のだつぼうそのころしまちりめんやすししごひきかう


三 日天 氣よし松 十  郎 家 ハ四 軒 口 奥 行キ

みっかてんきよしまつじゅうろういえはよんけんぐちおくゆき

(大意)

(補足)

「二日」、天明8年11月2日。西暦1788年11月29日。

「陬防」、諏訪。「浄瑠理」、「浄畄里」、浄瑠璃。「嶋縮面」、縞縮緬。誤字ではありますが、この日記全般にわたって言えることでもあるのですけど、意識的に異なる漢字を当てはめているようにおもえます。

 熟語でも単語でも言い回しでも、おなじ音の文字が続くと、変体仮名を使ったり、同じ音の漢字を当てはめたりと、おなじ文字の繰り返しは野暮という気持ちがあるように見受けられます。

「大坂迄舩賃雑用共ニ一人前七十五匁」、『江戸時代中後期において、金一両は銀六〇匁に相当。金一両は現代で約75,000円』とあって、しかし金一両の価値は江戸時代の中でも大きく変動していて、実際どのくらいであったかを換算するのは難しい。何が買えたかを調べるほうが金銭感覚としてわかりやすい。単純に計算すると約¥94000円。一気に大阪まで行けて便利だけどやはり運賃はそれなりで高い。

「疋」、『① 布帛(ふはく)(綿・麻布と絹布。織物。)の長さの単位に用いる。「幾―ともえこそ見わかね秋山の紅葉の錦」〈後撰和歌集•秋下〉』。一疋(びき)は布地二反。

 街なかの観光が続きます。

 

2025年7月28日月曜日

江漢西遊日記五 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

を吾カ前 へ差 出しご自由 ニお取 と云 故

をわがまえへさしだしごじゆうにおとりというゆえ


ニ肴  を取 喰ヒ个れハあと尓て聞ケハ肴  を取り

にさかなをとりくいければあとにてきけばさかなをとり


喰フハ甚  タ失 禮 とぞ先 主 人 能方 ヘ硯  蓋

くうははなはだしつれいとぞまずしゅじんのほうへすずりばこ


を返 シ取 て下 されと云 ハ左様 ならハ御免 と云

をかえしとってくだされといえばさようならばごめんといい


て主 人 肴  を取 てくれる是 長 崎 の禮 なり

てしゅじんさかなをとってくれるこれながさきのれいなり


十  一 月 朔 日 天 氣長 崎 ハ暖(アタゝ)なる土地ニて

じゅういちがつついたちてんきながさきは  あたた なるとちにて


此 節 綿 入 小袖 ノ上 へ袷  小袖 を重  其 上 へ

このせつわたいれこぞでのうえへあわせこそでをかさねそのうえへ


薄 き綿 入 羽織 ニて宜 し手足 ツメタキ事

うすきわたいれはおりにてよろしてあしつめたきこと


なし冬 中  コタツハなき者 多 し爰 ハ至  て

なしふゆじゅうこたつはなきものおおしここはいたって


せまき処  ニて空 腹 ニなりても途中  ニ喰 店 ナシ

せまきところにてくうふくになりてもとちゅうにくうみせなし

(大意)

(補足)

「十一月朔日」、天明8年11月1日。西暦1788年11月28日。

「袷小袖」、文章では「彳」+「合」になっていいますけど、ながれから「袷」でしょう。

 江漢さん、長旅の疲れを、長崎ではどこへゆくということもなく、飲み食いのんびりと過ごしている模様です。

 

2025年7月27日日曜日

江漢西遊日記五 その1

P1 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 天 氣昼 ヨリ勝 木利 助 方 ヘ参 ル同 道 シテ

にじゅうくにちてんきひるよりかちきとしすけかたへまいるどうどうして


ブタ煮て商  フ家 アリと云 故 尓行 シニなし夫

ぶたにてあきなういえありというゆえにゆきしになしそれ


より何 ヤラ埒 もなき人 能家 尓入 り寺 能隠 居

よりなにやららちもなきひとのいえにはいりてらのいんきょ


能様 なる者 と酒 を呑ミ利助 大 酔 して夜半

のようなるものとさけをのみりすけおおよいしてやはん


宿 へ帰 ル尓利助 ハう多をう多ひ酔 てた王ひなし

やどへかえるにりすけはうたをうたいよいてたわいなし


一 向 尓帰 り路 知れ春゛夜半 路 を聞ク人 なし誠

いっこうにかえりみちしれず やはんみちをきくひとなしまこと


尓迷 惑 し然  共 生 酔(ナマヨイ)本 性  多か王春゛とて

にめいわくししかれども    なまよい ほんしょうたがわず とて


竟 尓宿 ニ帰 りぬ夜更(ヨフケ)个連ハ利助 方 ニ泊 ル

ついにやどにかえりぬ   よふけ ければりすけかたにとまる


晦 日天 氣玉 屋と云 ビイドロ細 工能処  へ行キ板 ヒイ

みそかてんきたまやというびいどろざいくのところへゆきいたびい


トロノ伝 授 春酒 吸 物 硯  婦多を出春硯蓋(フタ)

どろのでんじゅすさけすいものすずりぶたをだす   ふた

(大意)

(補足)

「廿九日」、天明8年10月29日。西暦1788年11月26日。

「晦日」、『みそか【晦日・三十日】

① (「晦日」と書く)暦の月の最後の日。月末。

② 日の数三〇。また,連続したその期間。さんじゅうにち。「日の経ぬる数を,けふいくか,はつか,―と数ふれば」〈土左日記〉

③ 暦の月の三〇番目の日。さんじゅうにち。「十一月の―ばかりより急ぎ給ふ」〈落窪物語〉』

「ビイドロ細工能処へ行キ板ヒイトロノ伝授春」、長崎ではビイドロ絵(ガラス絵)はおそくとも安永(1772〜80)の頃には始められ、長崎人制作の絵が唐人屋敷やオランダ屋敷へ持ち込まれたといわれている。ここで伝授された江漢は、はやくも帰路、2月9日には岡山の知人宅でビイドロ絵をかいている。とありました。

「硯蓋」、『すずりぶた【硯蓋】

① 硯箱の蓋。昔は,いろいろの物をのせるのにも用いた。

② 祝いの席などで,口取りの肴(さかな)をのせる盆状の器。また,それに盛った肴。八寸』

 長崎へは画の修行のためでありましたが、じつはさほどの学びもありませんでした。しかしまずは一番最初のビイドロ絵をものにして、満足であったはずであります。

 

2025年7月26日土曜日

江漢西遊日記四 その69

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

氣能毒 ニぞんじ白 砂糖 三 俵  宛 奇(キ)心 い多

きのどくにぞんじしろざとうさんぴょうずつ  き しんいた


春べし然 し住  僧 能身持 不宜     ハ無用 尓

すべししかしじゅうそうのみもちよろしからざればむように


い多春べしと通 詞ヨリ住  寺尓申  聞ケル僧

いたすべしとつうじよりじゅうじにもうしきけるそう


頭  を低(タレ)耻(ハチ)入 个り惣 て此 長 崎 能寺 ゝ ハ

かしらを  たれ   はじ いりけりすべてこのながさきのてらでらは


とかく妾  を招(カゝ)へ肉 喰  など恒 と春故 ニヤ

とかくめかけを  かか えにくしょくなどつねとすゆえにや


かく云 しなり唐 人 能墓(ハカ)アル故 一 年 尓何ン

かくいいしなりとうじんの  はか あるゆえいちねんになん


貫 目と定 メ砂糖 を寄心 春る事 なり

かんめとさだめさとうをきしんすることなり


唐 人 塚 能前 ニて衣類 金 銀 を描(カキ)多るを

とうじんづかのまえにているいきんぎんを  かき たるを


板 行 ニ押(ヲシ)多る紙 を燃(モス)盃   をチユポイと云フ

はんこうに  おし たるかみを  もす さかずきをちゅぽいという


目か年など見ル事 をハカン\/と云フ

めがねなどみつことをばかんかんという

(大意)

(補足)

「奇(キ)心」、寄進。

「住寺」、住持。

「招(カゝ)へ」、抱え。

「寄心」、寄進。

 江漢さんは坊様が大嫌い。当時長崎には生臭坊主がゴロゴロしていたのでありましょう。

 これで第四冊がおわります。次回から「江漢西遊日記五」となります。

 

2025年7月25日金曜日

江漢西遊日記四 その68

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

管弦(クワンゲン)能氣取 なり寺 能門 ニ至 ルと止メる也

   か んげん のきどりなりてらのもんにいたるととめるなり


誠  尓飴 賣 能如 し唐 人 下官 ノ者 多 し其

まことにあめうりのごとしとうじんげかんのものおおしその


内 能キ人 ハ十  人 之(コレ)を船 頭 と呼フ宋 敬 庭

うちよきひとはじゅうにん  これ をせんどうとよぶそうけいてい


と云 人 尓知己(シルヒト)ニなる是 ハ五十  位  尓見へ髭(ヒケ)少々

というひとに   ひるひと になるこれはごじゅうくらいにみえ  ひげ ショウショウ


あり其 餘 ハひげなし亦 西 湖と云 人 ハ四十  位

ありそのほかはひげなしまたせいこというひとはしじゅうくらい


ニして是 は肥(コヘ)多る人 なり顔 色 利口 そふ尓見

にしてこれは  こえ たるひとなりかおいろりこうそうにみ


由予カ製 春る銅 版 画能覗(ノソキ)目か年を見セ

ゆよがせいするどうはんがの  のぞき めがねをみせ


けれハ皆 々 感 心 春るシツポコ臺 四人 結(ツメ)ニて

ければみなみなかんしんするしっぽこだいよにん  つめ にて


吾 も共 尓喰ヒ个り住  僧 唐 人 尓無心 を申  故

われもともにくいけりじゅうそうとうじんにむしんをもうすゆえ


数 十  人 呼(ヨヒ)多り唐 人 の云フニハ寺 も大 破ニ及 べ里

すうじゅうにん  よび たりとうじんのいうにはてらもたいはにおよべり

(大意)

(補足)

「宋敬庭」、宋敬亭。南京船主。平賀源内が明和元(1764)年に秩父で石綿を発見し、すぐに火浣布(かかんふ)をつくった。宋敬亭はこれを非常に珍しがり、注文したが、まだ小片しかつくれず源内を困らせた、とありました。

「西湖」、費 晴湖(ひ せいこ、生没年不詳)は清の商人・画家。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。わが国の画壇に寄与すること甚だ大きかった、とありました。

「結(ツメ」、詰め。

 

2025年7月24日木曜日

江漢西遊日記四 その67

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

済マぬうちハ舩 を神 崎 能沖 尓掛 十  一 月 ニ至

すまぬうちはふねをこうさきのおきにかけじゅういちがつにいた


里おらん多かひ多ん乗 切 して東風を待

りおらんだかぴたんのりきりしてこちをまち


て出  舩 春

てしゅっこうす


廿   八 日 朝 曇  五  時 より唐 人 通 詞清 川

にじゅうはちにちあさくもりいつつどきよりとうじんつうじきよかわ


榮 左衛門 下通 詞吉 嶋 佐十  良 と共  大 波

えいざえもんげつうじきちじまさじゅうろうとともにおおなみ


戸より屋根舟 ニ能里稲 作 悟真 寺へ唐 人

どよりやねふねにのりいなさくごしんじへとうじん


六 十  人 程 佛 参 春舟 向  地能岸 尓着(ツク)と

ろくじゅうにんほどぶっさんすふねむかうちのきしに  つく と


寺 より笛 太 鞁を打ツ者 をやとゐて唐 人

てらよりふえたいこをうつものをやといてとうじん


能先 ヘ立チ笛 多ゐこをなら春此 者 一 向 尓

のさきへたちふえたいこをならすこのものいっこうに


下人 ニて羽織 もき春゛埒 もなき体(テイ)ニて林(ハヤス)

げにんにてはおりもきず らちもなき  てい にて  はやす

(大意)

(補足)

「済」のくずし字、読めませんでした。

「廿八日」、天明8年10月28日。西暦1788年11月25日。

「唐人通詞」、職務は世襲で、ほとんどが明末清初の日本への政治的亡命者か、海寇(かいこう。海上から侵入する賊。海賊)のながれであったといわれる、とありました。ウィキペディアに詳説あり。

「唐人六十人程佛参」、唐人は、当時長崎の人からアチャサンとよばれ、仏参は「阿茶さんの寺参り」といわれていた。それは、唐人屋敷に閉じ込められた彼らの数少ないレクリエーションでもあり、しばしば黙許された。辮髪異装の行列は、まことに豪華でかつ悠長なもだったらしい。彼らはお詣りのあと、市中の茶屋で遊興した。とありました。

 江漢さんはこの行列を見たものとおもわれます。

「林(ハヤス)」、囃す。


2025年7月23日水曜日

江漢西遊日記四 その66

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

中  足 ハ履(クツ)なし春足 なり之 ハ柱  ヘ能ほり

ちゅうあしは  くつ なしすあしなりこれははしらへのぼり


帆綱 を渡 ル故 なる歟此 者 陸 ヘあから春゛只

ほづなをわたるゆえなるかこのものおかへあがらず ただ


舩 中  能ミ尓暮 春事 なり此 マタロス帆綱 より

せんちゅうのみにくらすことなりこのまたろすほづなより


帆津な尓渡 里軽 王さをし水 中  へも入  事 妙

ほづなにわたりかるわざをしすいちゅうへもはいることたえ


なり黒  坊ハ其 王ざ一 向 尓出来春゛石 火矢ハ

なりくろんぼはそのわざいっこうにできず いしひやは


毎 朝 一 ツ放 ツ事 也 亦 祝  事ニハ二 ツ三 ツも放 ツ

まいあさひとつはなつことなりまたしゅくじにはふたつみっつもはなつ


是 ハ日本 火を打ツて浄(キヨ)メル如 し舩 を動  春

これはにほんひをうって  きよ めるごとしふねをうごかす


為(タメ)尓打ツなど云フハ長 崎 者 能うそ話 しなり

  ため にうつなどいうはながさきもののうそばなしなり


舩 ハ六 月 着  岸 して八 月 出  舩 春ると雖  モ新(シン)

ふねはろくがつちゃくがんしてはちがつしゅっこうするといえども  しん


かひ多ん古 かび多ん能勘 定  其 外 取 合 とくと

かぴたんふるかぴたんのかんじょうそのほかとりあいとくと

(大意)

(補足)

「勘定」、『⑦ 考え定めること。かんてい。「ただ身ひとりの上を―すべし」』

「舩ハ六月着岸して八月出舩春る」、季節風の関係で大型帆船はほとんどがこの時期しか航海できませんでした。

「長崎者能うそ話しなり」、自分はオランダ船に乗り、カピタンとも友人でいろいろ聞き及んでいるので、地元の人も知らないことを知っているのだと鼻高々自慢しています。彼の辞書には謙虚という言葉はなさそうです。船に乗れるよう手配してくれたのは長崎者ですよ。

 

2025年7月22日火曜日

江漢西遊日記四 その65

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

あり綱 ハ表  と艫(トモ)の方 ヘハ餘 里張ら春゛左右 へ

ありつなはおもてと  とも のほうへはあまりはらず さゆうへ


数 十  春じ尓張ル事 剛(キヒシ)く其 綱 ニ横 尓亦 張りて

すうじゅうすじにはること  きびし くそのつなによこにまたはりて


者しごとして登 ル帆を掛 ルケタハ揚ケおろしをせツ

はしごとしてのぼるほをかけるけたはあげおろしをせず


帆ハ此 ケタニ巻く久 しく舩 かゝ里春る時 ハ帆を

ほはこのけたにまくひさしくふながかりするときはほを


者川し帆亦 長カなり尓非 ス四方(カク)なり中 ノ柱

はずしほまたながなりにあらずし  かく なりなかのはしら


尓三 ツ先 の柱  尓二 ツ矢帆一 ツ亦 二 ツとも能方 ニハ

にみっつさきのはしらにふたつやほひとつまたふたつとものほうには


大 キなる帆一 ツ是 ハ向 フ風 ニ乗ル開 き帆なり

おおきなるほひとつこれはむかうかぜにのるひらきほなり


年 々 舩 違 ヒぬ表  尓獅子(シシ)を黄尓ぬりて

ねんねんふねちがいぬおもてに   しし をきにぬりて


あり舩 中  を働  く者 をマタロスと云 是 ハおら

ありせんちゅうをはたらくものをまたろすというこれはおら


ん多地方 能者 なり衣類(イルイ)ハ蘭 人 の如 く寒

んだちほうのものなり   いるい はらんじんのごとくかん

(大意)

(補足)

「マタロス」、オランダ語 matroos 、船員。「西遊旅譚三」に図あり。 

 左のマタロスの顔を拡大してみると、いかにも紅毛碧眼っぽく描いていて、瞳が特徴的です。右の船員が手にしているものは拡声器か?

 オランダ船も唐船も当時の錦絵にたくさん描かれています。

 

2025年7月21日月曜日

江漢西遊日記四 その64

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

能り一 里沖 神﨑(カウサキ)尓蘭 舶 ふなかゝ里して

のりいちりおき   こうさき にらんせんふながかりして


其 舩 能そバへ乗り付 其 高 キ事 二丈  程 モ

そのふねのそばへのりつけそのたかきことにじょうほども


あらんと見へ縄 者゛しこを登 ル事 至  て武ツカし

あらんとみえなわば しこをのぼることいたってむつかし


登 り津くして下 を見れハ屋根ニ能ぼりて見

のぼりつくしてしたをみればやねにのぼりてみ


見おろ春如 しさて大 舶 なか\/書 ニも辞(コトハ)

みおろすごとしさておおふねなかなかしょにも  ことば


ニも述へか多し舩 チヤンニて黒 ぬ里闌 干(ランカン)能ミ

にものべがたしふねちゃんにてくろぬり    らんかん のみ


黄色 なり石 火矢筒 一 方 ニ二十  五頂 いて

きいろなりいしひやつついっぽうににじゅうごいだいて


六 十  程 あり艫(トモ)能方 屋形 ありヒイドロ障子(ショウシ)

ろくじゅうほどあり  とも のほうやかたありびいどろ   しょうじ


ニして海 を望 武帆柱 ラ三 カ所 尓立ツ帆綱(ツナ)ハ

にしてうみをのぞむほばしらさんかしょにたつほ  づな は


誠  尓くも能巣能如 し綱(ツナ)毎(コト)セビとて万 力 車

まことにくものすのごとし  つな   ごと せびとてまんりきしゃ

(大意)

(補足)

「ふなかゝ里して」「武ツカし」「津くして」、「し」が他の文字とかさなっています。

「二丈程」、約6m。

「チヤン」、チャン〔「青」の中国音からか〕→瀝青(れきせい)『れきせい歴青・瀝青】

天然に産する固体,半固体などの炭化水素類の一般的総称。普通,天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなどをいう。道路舗装用材料・防水剤・防腐剤などに用いる。ビチューメン。チャン』のことだとおもわれます。『チャンぬり【チャン塗り】

瀝青(れきせい)を塗ること。「―の油かはらけ,しぼかみのたばこ入」〈浮世草子・日本永代蔵6〉』

「望武」、ひさびさの「望」のくずし字、忘れていてすぐには読めませんでした。

「セビ」、西遊旅譚三の図の説明の中に「万力車。長崎にニテハセビト云。ヲランダニテハカツトロルト云」とあります。

 西遊旅譚三に蘭舶の詳細な図があります。

 船の中央で縄バシコを登っている人が描かれています。

「石火矢筒一方ニ二十五頂いて六十程あり」、画にもあるとおり、荷を運ぶ商船とは名ばかりで、実際は軍船であったのが当時の船でありました(宣教師もほとんどが軍人でした)。自分の船を守るだけではなく、海上で他国の船にであって、自分の船のほうが強そうだとみれば海賊行為に及び、荷を奪っていました。

 また本国で英仏蘭のいずれかが戦争状態であると、アジアの航路でそれらの国が出会うと即、大砲の打ち合いとなって戦闘となるのでした。それらに関するたくさんの記録や本も出版されています。

 江漢さん「石火矢筒」の数をちゃんとあわせたように描いています。ふだんの風景画とはまったくことなる筆運び、タッチです。

 

2025年7月20日日曜日

江漢西遊日記四 その63

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

牛 なり蘭 人 鉄 槌(テツツイ)を以 テひ多以を打 殺(コロス)又

うしなりらんじんてっつい     をもってひたいをうち  ころす また


四足 を志バ里横 ニして能どを切り殺 春夫 ヨリ

しそくをしばりよこにしてのどをきりころすそれより


後 足 を志バ里車  ニて引 あけるニ口 よりして

あとあしをしばりくるまにてひきあげるにくちよりして


水 出ツ足 能処  ヨリ段 \/と皮 をひらき殊\/

みずでずあしのところよりだんだんとかわをひらきことごと


く肉 を塩 ニ春彼 国 ニてハ牛  肉 を上  喰  と春る

くにくをしおにすかのくににてはぎゅうにくをじょうしょくとする


中  以下ハパンとて小麦 ニて製(セイ)春物 なり之 を食

ちゅういかはぱんとてこむぎにて  せい すものなりこれをくう 


寒  国 ニして米 を不   生故 なり

さむしくににしてこめをしょうぜずゆえなり


廿   七 日 とかく雨 折 \/時雨(シクレ)なり朝 五  時 比 吉

にじゅうしちにちとかくあめおりおり   しぐれ なりあさいつつどきころよし


雄息(ソク)定  之助 おらん多通 詞ニて其文(フン)箇(コ)

お  そく じょうのすけおらんだつうじにてその ぶん   こ


持 となり紅 毛 舩 へ荷積ミ水 門 より小舟 尓

もちとなりこうもうせんへにづみすいもんよりこぶねに

(大意)

(補足)

「ひ多以」「志バ里」、変体仮名が目立ちます。

「段\/」、くずし字辞典にはここのような形のものはありませんでした。

「殊\/く」、悉く。ことごとく。

「廿七日」、天明8年10月27日。西暦1788年11月24日。

「文箇」、文庫。

「紅毛舩」、『こうもうせん【紅毛船】江戸時代,オランダ船の俗称。幕末には広く諸外国の船をいう』

 

2025年7月19日土曜日

江漢西遊日記四 その62

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

妙  なる人 と云 とぞ西 国 長 崎 近 邊 能大 名  衆

みょうなるひとというとぞさいごくながさききんぺんのだいみょうしゅう


一 代 ニ一 度此 嶋 へお入  有 とぞ其 外 ハなら春゛

いちだいにいちどこのしまへおはいりありとぞそのほかはならず


廿   六 日 少  々  雨天 向  地稲 佐悟真 寺ニ行キ

にじゅうろくにちしょうしょううてんむかいちいなさごしんじにゆき


唐 人 おらん多能墳(ハカ)を見る皆 臥(フシ)多るまゝ

とうじんおらんだの  はか をみるみな  ふし たるまま


尓葬(トムロウ)蘭 人 ヅール。コツプ。と云 人 能塚 石 ヲ

に  とうろう らんじんずーる こっぷ というひとのつかいしを


カマボコ形リ尓して何 やラ蘭 字を彫り

かまぼこなりにしてなにやららんじをほり


金 箔 を入レ上 ニ砂 時計 を彫ル是 ハ漏(ロウ)

きんぱくをいれうえにすなどけいをほるこれは  ろう


刻 ツキ多る譬 へなり宿 ヘ帰 りて牛 能生 肉 ヲ

こくつきたるたとえなりやどへかえりてうしのなまにくを


喰フ味  ヒ鴨(カモ)能如 しおらん多此 節 出  舩 前 ニ

くうあじわい  かも のごとしおらんだこのせつしゅっこうまえに


ニて牛 を数 \/死して塩 ニ春其 牛 皆赤(アカ)

にてうしをかずかずししてしおにすそのうしみな あか

(大意)

(補足)

「廿六日」、天明8年10月26日。西暦1788年11月23日。

「悟真寺」夜景で有名な稲佐山の麓、浄土宗・悟真寺の境内にあり、歴代住職によって守られてきた世界的にも珍しい国際墓地。元和から寛永初年にかけて、長崎で病死した唐人の墓地として境内に百間四方の土地を設定して、朱印をえたとされる。西遊旅譚三に図があります。 

「蘭人ヅール。コツプ。」、Hendrik Godfried Duurkoop(ヘンドリック・ゴドフリート・デュールコープ、ドルヌム(ドイツ)、1736年5月5日-1778年7月27日)。ドゥールコープは日本でいわゆるオランダ人墓地に埋葬された。1778年、彼は確かにそこに埋葬された最初の人ではなかったが、彼の墓石は現在、この場所で最も古い墓標となっている。と、オランダ版のウィキペディアにありました。西遊旅譚三の図。 

「漏(ロウ)刻」、『ろうこく【漏刻・漏剋】

水時計の一種。水を入れた器(漏壺(ろうこ))から常時一定量の水を落とし,その水位変化によって目盛りが時刻を示す装置。時の刻み』

 鴨と牛肉は見た目も味も確かに似ています。しかし牛肉は鴨肉とちがって、やはり獣臭い。個人的には鴨肉に軍配があがります。

 出島の図に、左上の部分に牛が引っ張られている画がありました。

 

2025年7月18日金曜日

江漢西遊日記四 その61

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

え津き入 ル事 なりとて此 かひ多んハ当 年 初 メ

へつきいれることなりとてこのかぴたんはとうねんはじめ


て参  候   者 ニて餘 リ懇 意ニなし夫 より出嶋 を出テ

てまいりそうろうものにてあまりこんいになしそれよりでじまをいで


个る吾 等ニ付 添ヒ来 ル者 三 人 皆 長 崎 者 ニて

けるわれらにつきそいきたるものさんにんみなながさきものにて


一 向 おらん多人 をミ多る事 なし尤  も此 出嶋

いっこうおらんだじんをみたることなしもっともこのでじま


蘭 人 居所  ハ一 向 入 ル事 なら春吾 カ蘭 人 と物

らんじんいどころはいっこうはいることならずわれがらんじんともの


談  ヲ春るを見て誠  ニ肝(キモ)を津婦し其 上 かひ多ん

かたるをするをみてまことに  きも をつぶしそのうえかぴたん


と知ル人 なりとあれハ何 と云 人 と者なし合へり

としるひとなりとあればなんというひととはなしあえり


とぞ長 崎 の者 ハ唐 人 ハ見れど蘭 人 ハ見多

とぞながさきのものはとうじんはみれどらんじんはみた


る事 なし佛 参 など皆 駕籠ニ能りて行ク

ることなしぶっさんなどみなかごにのりてゆく


故 なり夫 故 尓訳(ワケ)を知らぬ者 ハ今 ニても奇(キ)

ゆえなりそれゆえに  わけ をしらぬものはいまにても  き

(大意)

(補足)

 右側の頁の左下隅にあるのは「卅」。十(10)廿(20)卅(30)。丁数です。

「参候」、小さく「人」のような形の字が「候」のくずし字というか略字。「丶」のときもあります。

「夫より出嶋を出テ个る」、西遊旅譚三に出島の画があります。 

 方角が入っているので、長崎の街に対してどのような位置にあるかがわかります。

「尤も」、このくずし字もよく出てきます。

 出島に入って、オランダ人と歓談したり、さらにはカピタンと知り合いでいかにも親しそうに話す様子を見て、まわりの通詞などが驚き、江漢さんが鼻高々で胸をはってそり返っている姿が目に浮かびます。

 

2025年7月17日木曜日

江漢西遊日記四 その60

P70 東京国立博物館蔵

(読み)

ツキ来 ル者 ヘ与 ヘ个り此 かひ多んハ江戸ヘ五度

つききたるものへあたえけりこのかぴたんはえどへごど


参  多る者 ニて知ル者 なり名ヨハン。ネス。カスパル。

まいりたるものにてしるものなりなよはん ねす かすぱる


ロンベルグと云 亦 一 人能かひ多んハ二階 住居(スマイ)ニ

ろんべるぐというまたひとりのかぴたんはにかい   すまい に


てハなし路 ニ花 畠  と云 アリ地(イケ)能上 ニ橋 アリ

てはなしみちにはなばたけというあり  いけ のうえにはしあり


其 上 ニ涼 ミ所  アリ玄 関 能様 なる処  より入 て

そのうえにすずみどころありげんかんのようなるところよりいりて


坐しきへ通 り夫 より玉 津きと云 処  を見 物

ざしきへとおりそれよりたまつきというところをけんぶつ


春是 ハ碁双 六 なと春る様 なる者 ニて戯(タワムレ)

すこれはごすごろくなどするようなるものにて  たわむれ


なり四 尺  尓七 尺  程 ニ羅紗 を張りて机(ツクエ)の如 シ

なりよんしゃくにななしゃくほどにらしゃをはりて  つくえ のごとし


夫 ニ玉 を置き馬 を打 ムチ能如 キ棒(ホウ)ニて

それにたまをおきうまをうつむちのごとき  ぼう にて


津くる也 四所 ニ玉 能落 ル所  ありてそれ

つくるなりししょにたまのおちるところありてそれ

(大意)

(補足)

「玉津き」、『「射玉為賭図」石崎融思 1797年11月11日制作』とあるので、江漢がみたのはこの画と同じものかもしれません。 

「かひ多ん」、江戸時代,長崎の出島に置かれたオランダ商館の館長。慶長14(1609)年〜安政3(1856)年までの166代を数える。カピタンは毎年正月、長崎より江戸におもむき、将軍に拝謁し、土産ものと海外事情を記した「風説書」提出した。貿易許可の謝意を表すためでありました。

 ビリヤード台についての細かい文章の説明はありますが、画にするほどの興味はひかなかったようで、西遊旅譚にも画は描かれていませんでした。

 

2025年7月16日水曜日

江漢西遊日記四 その59

P69 東京国立博物館蔵

(読み)

其 内 より出で手ニ長 ヒキセルを持チ吾 等ニ

そのうちよりいでてにながいきせるをもちわれらに


向  て挨 拶ツ春松 十  郎 通 辯 して云 ニハナント。

むかいてあいさつすまつじゅうろうつうべんしていうにはなんと


リツパ。尓ケツコーカとあちら可ら自慢(シマン)して

りっぱ にけっこーかとあちらから   じまん して


云フなり彼 等日本 をバ物 をかさら春゛至  て素

いうなりかれらにほんをばものをかざらず いたってそ


なる国 風 と思 ヒ云フなるべし夫 よりこちらからも

なるこくふうとおもいいうなるべしそれよりこちらからも


是 ハ目を驚(ヲトロ)可し多る事 と返 答 春夫 より

これはめを  おどろ かしたることとへんとうすそれより


黒  坊 二 人銀 能盆 の上 尓金 を焼 付し多る

くろんぼうふたりぎんのぼんのうえにきんをやきふしたる


コツプとフラスコと能せ傍  ラ尓立ツ其 コツプ

こっぷとふらすことのせかたわらにたつそのこっぷ


ニて酒 を呑ムアネイス。ウヱインと云 焼酎(セ ウチ ウ)也

にてさけをのむあねいす うえいんという   しょうちゅう なり


是 ハウイキヨウニて造 ル酒 なり剛(ツヨイ)酒 故 ニ吾 ニ

これはういきょうにてつくるさけなり  つよい さけゆえにわれに

(大意)

(補足)

「アネイス。ウヱインと云焼酎」、フランスではパスティス、アニゼット、ギリシャではウゾ、トルコではラクと呼ばれる酒のことか、食前酒。

 カピタンの云う「ナント。リツパ。尓ケツコーカ」は「どうです、とても立派でよい部屋でしょう」と手振り身振りで部屋を指し示し、江漢一同はお世辞もあるでしょうけど、結構本気で驚きながら「どこを見ても驚いています」というような会話でしょうか。

「ウイキヨウ」、『ういきょう ―きやう【茴香】セリ科の多年草。南ヨーロッパ原産で,古く日本に入り栽培される。芳香があり,高さ1~2メートル。葉は複葉で小葉は糸状の裂片となる。六月ごろ,枝頂に黄色の小花を多数つけ,秋,円柱状の小果を結ぶ。乾燥した果実を健胃薬・香味料などにする。フェンネル。〔「茴香の花」は 夏〕』

 少々長くなりますが、オランダはこの頃より危機に陥ります。このような状況です。

『18世紀末のフランス革命に始まる動乱の中でオランダも危機を迎え、1795年に連邦共和国は滅亡、新たに成立したバタヴィア共和国は東インド会社を経営不振を理由として廃止した。さらに1806年からは本国は実質的にフランスの支配を受けた。1808年8月にはフランスと敵対していたイギリスの軍艦がオランダの艦船を追って長崎に強制入港するというフェートン号事件が起きた。1811年からはバタヴィアをイギリスに占領され、オランダ国家とその植民地が消滅するという事態となった。しかし、長崎のオランダ商館は江戸幕府に対して、東インド会社の解散やオランダ国家の変動を知らせず、出島は当時世界で一ヶ所だけオランダの国旗を掲げ続けていた』。

 

2025年7月15日火曜日

江漢西遊日記四 その58

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

綿 能赤 キ色 能物 ニて包 ミ髭(ヒゲ)ハなし辞(コトハ)

めんのあかきいろのものにてつつみ  ひげ はなし  ことば


ハ天 竺 ことハニして蘭 人 ニも不通  甚  タキタナ

はてんじくことばにしてらんじんにもつうじずはなはだきたな


キ者 なり夫 よりかび多ん部屋へ行ク畳(タゝミ)

きものなりそれよりかぴたんべやへゆく  たたみ


二十  デ ウも敷(シキ)四方 ランマ下 尓ビイドロ尓描(カキ)

にじゅうじょうも  しき しほうらんましたにびいどろに  かき


多る額 を掛ケ並 ヘ下 ニハ倚子(イス)を並 ヘ倚子毎(コト)

たるがくをかけならべしたには   いす をならべいす  ごと


尓唾子(タコ)とて津ハ吐キ之 ハ銀 ニて竪(タテ)二尺(シャク)程 ニて

に   だこ とてつばはきこれはぎんにて  たて に  しゃく ほどにて


花瓶(クワヒン)能如 し畳  能上 ニ毛 せんの如 キ花 を

   か びん のごとしたたみのうえにもうせんのごときはなを


織(ヲリ)多る物 をしき天 上  ノ中 尓ビイドロニて作 る

  おり たるものをしきてんじょうのなかにびいどろにてつくる


瑠理(ルリ)燈 を釣リ向 フ尓紅 キ幕(マク)能下ケ多る書

   るり とうをつりむこうにあかき  まく のさげたるしょ


斉(サイ)能如 キ処  アリ障子(ショウジ)皆 ビイドロヲ以 テ張ルかひ多ん

  さい のごときところあり   しょうじ みなびいどろをもってはるかぴたん

(大意)

(補足)

「髭」、「長」も「此」も、単独で使うときと同じくずし字になっています。

「かび多ん部屋」、西遊旅譚三に詳細なカピタン部屋の画があります。 

 ここの文章に説明されている物はすべて描きこまれていて、順に目を移してゆくとこれまた現在のカメラのパンでながしてゆくようであります。

「倚子」、椅子。

「唾子」、『だこ【唾壺】

① 唾を吐き入れるつぼ。たんつぼ。② タバコ盆の灰吹き。吐月峰(とげつぽう)』

「ビイドロ」、ガラスのこと。

「天上」、天井。

「瑠理(ルリ)燈」、『るりとう 0【瑠璃灯】

① ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊灯籠(つりどうろう)。「亭(ちん)に雪舟の巻竜銀骨の―をひらかせ」〈浮世草子・日本永代蔵•3〉

② 歌舞伎・文楽で用いる照明具。面に直角な板をつけた四角い小板にろうそくを立てたもの。大道具に打ちつけたり,並べて下げたりする。多分に装飾的』

 カピタン部屋の見取り図は、江漢さんは西洋画から学んだ遠近法をとりいれて、精緻そのもの。しかしどことなくまだ自分のものになってないような感じで全体に硬い。