2025年9月14日日曜日

江漢西遊日記五 その50

P52 東京国立博物館蔵

P53

(読み)

全 身 黒 腹 ノ方 少 シ

ぜんしんくろはらのほうすこし


白 シ鼻 ノ先 白 キハ

しろしはなのさきしろきは


瀬と云 貝 也

せというかいなり


夜半 出テ鯨  ノ背ニ登 ル

やはんでてくじらのせにのぼる


坐シタルハ余レ

ざしたるはわれ


立 タルハ又 之助

たちたるはまたのすけ


僕  弁 喜

しもべべんき

P53

十  二月 十  五日 朝 鯨

じゅうにがつじゅうごにちあさくじら


来 ルト云 知ラセ未  飯

きたるというしらせいまだめし


不喰 故 ニアツキ飯 ニ水

くわずゆえにあつきめしにみず


ヲカケ一 椀 喰ヒ舟 ニ

をかけひとわんくいふねに


乗ル鯨  所  々  ヘニケ見

のるくじらところどころへにげみ


へス晩 七  時 比 舟 ヲ生 月 へ

へずばんななつどきころふねをいきつきへ


返ヘサントスル時 大 嶋 ノ方

かえさんとするときおおしまのほう


ニテ頻 リニ印  ヲ以  マネグ

にてしきりにしるしをもってまねく


夫 より大 嶋 ノ方 コギ行 事

それよりおおしまのほうこぎゆくこと


四里程 モアラント思 ヒケリ

しりほどもあらんとおもいけり

(大意)

(補足)

「夜半出テ」、鯨の尾の上の方に、満月が出ています。明るかったでしょう。

「十二月十五日」、天明8年12月15日。西暦1789年1月10日。この日は月齢13.6で満月は12日でしたから、この画のとおりお月さんは丸く見えたはずです。

「鯨来ルト云」、「未飯不喰故」、「舟ニ乗ル」、来未乗の三文字が少しずつ違うだけで難しい。全部「来」と読んでいました。

「西遊旅譚四」にもかなり詳しく、鯨に関する記述と画があります。

『夜半出天 鯨乃背に の本゛る 鯨番人』

『鯨切解圖』

『鯨漁之圖』 

 「江漢西遊日記」、「西遊旅譚」ともに鯨に関する文章・画はかなりの頁をさいて、詳細に記述していて、江漢さんが好奇心全開、からだをはって知ろうとしているのがよくわかります。

 P52、月夜の浜によこたわる鯨。目を哀しそうに描いているのが、江漢さんらしい。

 

2025年9月13日土曜日

江漢西遊日記五 その49

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

生 月 嶋 ニテ一 里西 ノ方

いきつきしまにていちりにしのほう


松 本 と云 所  鮪 漁  アリ

まつもとというところしびりょうあり


往 て見 物 春其 時

ゆきてけんぶつすそのとき


四国 ヨリ藝 者

しこくよりげいしゃ


来 リ力  持 手津ま

きたりちからもちてづま


を見 物 春

をけんぶつす


其 所  の田 夫

そのところのでんぷ


老 若  男 女

ろうにゃくなんにょ


見 物 春

けんぶつす

(大意)

(補足)

「田夫」、農夫のことですが、いままでうん十年ずっと「たふ」と読んできてました。お恥ずかしい😞・・・

 江漢さんの描く農夫や年寄・子どもたちは、たくさんの絵師がいる中で、すぐに彼が描いたのだとわかるくらい特徴的で、表情や物腰のあたたかさが伝わってきます。着ているものなどもこのとおりだったのでしょう。継ぎ当ては当たり前、これが普段着なのでしょう。

 

2025年9月12日金曜日

江漢西遊日記五 その48

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

布(シキ)可へ舟 六 艘 ニてかこ武時 尓鮪 誠  尓小

  しき かえふねろくそうにてかこむときにしびまことにこ


魚  を掌(テノヒラ)尓春くゐ多る如 し夫 を鳶口(トビクチ)能様

ざかなを  てのひら にすくいたるごとしそれを   とびぐち のよう


なるかぎ尓て引(ヒキ)揚(アケ)る海 血(チ)能波 立ツ誠  ニ

なるかぎにて  ひき   あげ るうみ  ち のなみたつまことに


め川らしき見 物 なり之(コレ)を見終(ヲハ)里て陸(ヲカ)尓

めずらしきけんぶつなり  これ をみ  おわ りて  おか に


納屋尓至 りして其 時 四国 阿波より力  持

なやにいたりしてそのときしこくあわよりちからもち


曲  持 など春る藝 者 来 リて爰 尓居ル故 尓

きょくもちなどするげいしゃきたりてここにおるゆえに


又 之助 其 藝 を好 ミ个連ハ色 \/藝 をし个り

またのすけそのげいをこのみければいろいろげいをしけり


其 処  能者 肝 を津ぶして見 物 春夫 よりして

そのところのものきもをつぶしてけんぶつすそれよりして


宿 へ帰 りぬ往 来 皆 舟

やどへかえりぬおうらいみなふね


九  日亦 時雨 雪 霰  風 吹キ此 日絹 地尓画

ここのかまたしぐれゆきあられかぜふきこのひきぬじにえ

(大意)

(補足)

「力持」、『② 重い物を持ち上げる武芸,また見世物。また,その人』

「曲持」、『きょくもち【曲持ち】曲芸として,手・足・肩・腹などで,樽(たる)・臼(うす)・米俵・人などを持ち上げて自由にあやつる芸』

「九日」、天明8年12月9日。西暦1789年1月4日。

「誠ニめ川らしき見物なり」、「鮪冬網(志びふ由あミ)」の画のように、激しい漁をそれほど離れていない小舟から見物したのでしょうけど、それでも小舟からの見物も同じようなものだったとおもわれます。同じ小舟に亦之助や新四郎も乗っていたのかもしれません。

「西遊旅譚四」に江漢の画があります。『鮪網之圖』です。 

 こちらは「鮪漁」の画。


  前回の画は江漢の画ではなく、こちらが江漢の画。漁師たちは誰一人腰蓑などなく褌一丁にハチマキ、身につけているものはそれだけであとは裸です。こちらが実際の鮪漁の様子。

やはりすごいですね。

「鯱(シャチホコ)又タカマツ 鮪を 喰んと して人を 不恐舟乃 きハま天 き多る」とありますから、舟から落ちたらシャチにやられてしまいます。命がけ!

 

2025年9月11日木曜日

江漢西遊日記五 その47

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  此 嶋 の西 の方 松 本 と云 処  鮪 アルよし

ようかくもりこのしまのにしのほうまつもとというところしびあるよし


朝 より又 之助 新 四郎 同 道 して行ク尓鮪

あさよりまたのすけしんしろうどうどうしてゆくにしび


二百  四 十  二疋 と云 大漁(タイリヨウ)の時 ハ千 も取レるよし

にひゃくよんじゅうにひきという   たいりょう のときはせんもとれるよし


さて其 鮪 ハ山 \/能腰 を群(ムレ)て回(メグ)る者 故 山

さてそのしびはやまやまのこしを  むれ て  めぐ るものゆえやま


能腰 尓網(アミ)をしき張ル其(ソレハ)幕(マク)能如 く尓して

のこしに  あみ をしきはる  それは   まく のごとくにして


底(ソコ)なし又 鮪 見楼(ヤクラ)を建て鮪 来ル時 ハ

  そこ なしまたしびみ  やぐら をたてしびくるときは


旗(ハタ)を出して之 を知らせる口 網(アミ)の舟 之 を見

  はた をだしてこれをしらせるくち  あみ のふねこれをみ


て網(アミ)能口 をしめる網底(アミソコ)なしと雖  も鮪 下(シタ)

て  あみ のくちをしめる   あみそこ なしといえどもしび  した


をくゝ里て逃(ニグ)る事 なし爰 ニ於 て舟 四方 ヨリ

をくぐりて  にぐ ることなしここにおいてふねしほうより


あ川まりかこんで一 方 より麻綱(ヲツナ)能網 と

あつまりかこんでいっぽうより   おつな のあみと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年12月8日。西暦1789年1月3日。

 鮪漁の様子の画です。

 画の説明に「鮪冬網(志びふ由あミ)」とあります。上半身裸で腰蓑(こしみの)だけという漁師もたくさんいるのがわかります。真冬で海の上、寒いにきまっていますが、激しい動きと気合で寒さなど感じなかったのかもしれません。

 

2025年9月10日水曜日

江漢西遊日記五 その46

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

之(コレ)を鮪 舩 尓積ミ个る尓七 日め尓四五百  里

  これ をしびふねにつみけるになのかめにしごひゃくり


能海 上  を経(ヘ)て江戸尓参 り多り

のかいじょうを  へ てえどにまいりたり


七 日天 氣爰 ハ朝 茶 を土瓶 尓て煎 し夫 ヲ

なのかてんきここはあさちゃをどびんにてせんしそれを


持 出して茶 を進 メルニ茶 うけモシクシと云フ

もちだしてちゃをすすめるにちゃうけもしくしという


物 なり之(コレ)ハ赤 ヱイと云 魚  能干(ホシ)多るを打 て麻

ものなり  これ はあかえいというさかなの  ほし たるをうちてあさ


能如 し夫 ヘ酒 醤  油をかけ多るなり之(コレ)ハな

のごとしそれへさけしょうゆをかけたるなり  これ はな


まぐさき事 なし此 者 なき時 ハあ王びを煮

まぐさきことなしこのものなきときはあわびをに


多る物 なり爰 ニ目白 と云 小鳥 能ク見ル尓江戸

たるものなりここにめじろということりよくみるにえど


尓て云 朝  鮮 目白 なりここニてハ壱 州  目白 ト云う

にていうちょうせんめじろなりここにてはいっしゅうめじろという


なり

なり

(大意)

(補足)

「七日」、天明8年12月7日。西暦1789年1月2日。

「七日め尓四五百里能海上を経(ヘ)て江戸尓」到着するのは、最速でということでしょうけど、それでも信じられません。「鮪舩」はその21に出てきた五嶋鮪を江戸に運ぶ船のことですけど、うーん🤔。江漢さん長崎からでしたっけ、やはり船で江戸に荷物を宅配していました。

 

2025年9月9日火曜日

江漢西遊日記五 その45

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 て戴(イタゝ)くと云フ義なりと其 時 より鯨  を

といいて  いただ くというぎなりとそのときよりくじらを


取ル備(ソナヱ)をな春亦 春 の土用 尓漁  を止ムと朝

とる  そなえ をなすまたはるのどようにりょうをやむとあさ


飯 前 能話(ハナシ)なり夫 より新 四郎 方 ヘ行く酒

めしまえの  はなし なりそれよりしんしろうかたへゆくさけ


鴨 能吸 物 鮪 の肉 を出し日暮 て帰 ル此 海

かものすいものしびのにくをだしひぐれてかえるこのうみ


よりヱイノ尾と云フ者 天 尓登 ル事 あり是 ハ

よりえいのおをいうものてんにのぼることありこれは


龍  なりと云 登 らんと春る時 黒 雲 さか里て

りゅうなりというのぼらんとするときくろくもさがりて


海 の潮 を巻き次第 \/ 尓天 尓能ほる尓雲

うみのしおをまきしだいしだいにてんにのぼるにくも


中 よりヱいと云 魚  能尾の如 き物 ヒラ\/として

なかよりえいというさかなのおのごときものひらひらとして


見ヱ遠 さかる。故 尓ヱイの尾可゛登 ルと云 なり

みえとおざかる ゆえにえいのおが のぼるというなり


此 日新 四郎 より朝  鮮 者゛ち七 ツ入子(イレコ)を贈 る

このひしんしろうよりちょうせんば ちななつ   いれこ をおくる

(大意)

(補足)

 竜巻を「ヱイノ尾」にたとえてみているところが、おもしろい。たしかに竜巻の漏斗部分を平たいエイのからだにみたてて、細く巻き上げている部分を尾とすれば、エイが空に登っていくようにみえます。

 鯉のぼりじゃないけど、エイが空を泳いでいるなんて発想がいいですね。

 

2025年9月8日月曜日

江漢西遊日記五 その44

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

尓毛 せんをしき盃   を取 て四方 蒼 海 を

にもうせんをしきさかずきをとりてしほうそうかいを


眺 ミ外 国 尓遊 ヒ多る心  持 ぞ春る番 人 六 十  歳

のぞみがいこくにあそびたるこころもちぞするばんにんろくじゅっさい


位  能者 江戸尓十  年 居多ると云 江戸十  里

くらいのものえどにじゅうねんいたるというえどじゅうり


四方 軒 を並 へて人 家續 キ其 外 ハ田畑 ニて

しほうのきをならべてじんかつづきそのそとはたはたにて


大 根 の太(フト)サさし渡 し七 八 寸 もあると云フ

だいこんの  ふと ささしわたししちはっすんもあるという


大 笑  し希り夫 より段 \/と山 を下 り彼ノ

おおわらいしけりそれよりだんだんとやまをくだりかの


老 婆カ処  ニより瑠  球  芋 能蒸(ムシ)多るを喰ヒ

ろうばがところによりりゅうきゅういもの  むし たるをくい


益 冨 宅 へ帰 りぬ

ますとみたくへかえりぬ


六 日天 氣亦 之助 尓鯨  を取 比 時節 を聞 ニ冬

むいかてんきまたのすけにくじらをとるこのじせつをきくにふゆ


小  寒 十 日前 鯨  来 ル時 なり之 を小  寒 カグメ

しょうかんとおかまえくじらきたるときなりこれをしょうかんかぐめ

(大意)

(補足)

「瑠球芋」、琉球芋。

「六日」、天明8年12月6日。西暦1789年1月1日。

 一行が山登りの前に立ち寄った、亦之助の乳母であった老婆宅では、帰りによってくれとたのんだのでしょう、芋を蒸して待っていたようです。温かい心づかい。

 

2025年9月7日日曜日

江漢西遊日記五 その43

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

事 とて口 ニふくん多る飯 を膳(セン)一 者゛いへ吹キ出し

こととてくちにふくんだるめしを  ぜん いっぱ いへふきだし


个り亦 之助 尓あれハどふし多と聞(キゝ)个連ハ江

けりまたのすけにあれはどうしたと  きき ければえ


戸可らお出 能人 の言葉(モノイゝ)可お可しゐとて

どからおいでのひとの   ものいい がおかしいとて


能事 なりとぞ夫 より段(タン)\/山 尓登 ル尓

のことなりとぞそれより  だん だんやまにのぼるに


紫 カヤ生  シて木なし急  尓登 ル処  六 七 町

しばかやしょうじてきなしきゅうにのぼるところろくしちちょう


アリて頂(イタゝ)き尓至 ル総 て廿  町  程 あり上 ニ遠フ

ありて  いただ きにいたるすべてにじっちょうほどありうえにとう


見番 所 アリ足 軽 一 人居ル其 者 ノ云 一 年

みばんしょありあしがるひとりおるそのもののいういちねん


尓両  三 度西 の方 暮(ボツ)色(シヨク)山 を見ルと云 是 ハ

にりょうさんどにしのほう  ぼっ   しょく やまをみるというこれは


那支(カラ)能方 能山 なり日本 能地ニあら須゛

   から のほうのやまなりにほんのちにあらず


大方(ヲゝカタ)日本 ニ近 キ嶋 ならん頂  上  岩 石 の上

   おおかた にほんにちかきしまならんちょうじょうがんせきのうえ

(大意)

(補足)

「段(タン)\/」、次のページにも「段」のくずし字が同じ形で出てきます。入門古文書小辞典で調べるとまったく同じ形のくずし字がありました。ネットの日本古典籍くずし字データセットにはありませんでした。

  孩(ヤゝ)子カ岳(番岳)山頂。

 こんなに狭いので毛氈は敷けませんから、もう少し広いところで楽しんだのでしょう。

素晴らしい眺め!

 

2025年9月6日土曜日

江漢西遊日記五 その42

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

漁  の時節 と云

りょうのじせつという


五 日天 氣能クドミ多る天 氣なり爰 ニ孩(ヤゝ)子カ岳

いつかてんきよくどみたるてんきなりここに  やや こがたけ


とて此 嶋 の大 山 也 四 時 比 ヨリ酒 茶 菓子

とてこのしまのおおやまなりよつどきころよりさけちゃがし


を持ち此 山 ニ登 ル主 人 亦 之助 新 四良 吾 カ

をもちこのやまにのぼるしゅじんまたのすけしんしろうわれが


僕(ホク)と四人 小童 ニ毛 せんなと為持 村 々 を過 て

  ぼく とよにんこどもにもうせんなどもたせむらむらをすぎて


行 一 老 夫傍  ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦 之助 大 音(ヲン)

ゆくいちろうふかたわらに   へいふく しているまたのすけだい  おん


ニて通(トヲシ)と云 誠  ニ此 所  能公方 様 なり夫 より

にて  とおし というまことにこのところのくぼうさまなりそれより


行ク尓岩 を壁 となし多る家 アリ亦 之助 能産(ウ)

ゆくにいわをかべとなしたるいえありまたのすけの  う


婆(バ)能家 なりとて爰 へよる老 婆飯 を喰ヒ居

  ば のいえなりとてここへよるろうばめしをくいお


る吾 色 \/話(ハナシ)しけ連ハ老 婆何 ヤラ笑(ヲカシ)き

るわれいろいろ  はなし しければろうばなにやら  おかし き

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年12月5日。西暦1788年12月31日。

「ドミ多る天氣」、『ど・む 【曇む】色や光沢がどんよりとする。にごる。くもる。「そうじて醂(さわし)柿は,色の―・みたは甘うござり」〈狂言・合柿•鷺流〉』とあって、曇っているけどまぁまぁ良い天気ということでありましょうか。

「孩(ヤゝ)子カ岳」、『西遊旅譚四』に孩子カ岳と小童の画があります。

 このとんがった山は標高が286m、島一番の高さです。かなり急峻で危険そうにみえます。現在は番岳といわれていて、車で頂上付近までいけるようです。寛永十八(1641)年に、遠見番火立場が設置され、平戸藩士馬廻役がその番頭に任ぜられた、とありました。

「一老夫傍ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦之助大音(ヲン)

ニて通(トヲシ)と云誠ニ此所能公方様なり」、まるで時代劇を見ているようですけど、これが身分制度が厳然とあった社会の日常であったのでしょう。

 

2025年9月5日金曜日

江漢西遊日記五 その41

P42 東京国立博物館蔵

P43

(読み)

P42

孩(ヤゝ)子嶽(カタケ)

  やや こ  がたけ   


西 ノ方 暮色  一  嶋 を見ルト云

にしのほうぼしょくひとつしまをみるという


日本 ノ地ニあら春゛

にほんのちにあらず


P43

上 坐ニ置きしきへ能外 ニて挨 拶 春先ツ酒 吸

かみざにおきしきへのそとにてあいさつすまずさけすい


物 を出して飯 を出春亦 之助 三 十 歳 の者

ものをだしてめしをだすまたのすけさんじっさいのもの


ニて能 男  婦り言 語此 国 能様 ニあら須゛至  て

にてよきおとこぶりげんごこのくにのようにあらず いたって


通 人 なり夫 より程 なく同 舟  し多る新 四郎

つうじんなりそれよりほどなくどうしゅうしたるしんしろう


参 ル是 ハ此 国 能物 云 ニて人 物 も此 地の者 と

まいるこれはこのくにのものいいにてじんぶつもこのちのものと


見ユ平 戸侯 より袋  戸能画四 枚 頂(テ ウ)戴(タイ)春

みゆひらどこうよりふくろどのえよんまい  ちょう   だい す


名 印 なし則  チ予(ハカ)描き多る画なり兼 て名

めいいんなしすなわち  よが かきたるえなりかねてな


を知 け連ハいよ\/肝 を津婦し个連吾 等

をしりければいよいよきもをつぶしけれわれら


此 嶋 尓畄  里鯨  の實 談 をせんとて三 十

このしまにとどまりくじらのじつだんをせんとてさんじゅう


日 畄  ル鯨  ハ寒 中  ヨリ正  月 松 の内 を第 一 能

にちとどまるくじらはかんちゅうよりしょうがつまつのうちをだいいちの

(大意)

(補足)

「孩」、こんな漢字があるのかと探してみるとこのようにちゃんとフォントがありました。『ちのみご』と読むのだそうですけど、漢字変換で出てきませんでした。

「しきへ」、敷居。辞書にはありません。

「頂戴」、ここの「頂」のくずし字は江漢独自のもののよう。「戴」は文中では「載」。

「予」、フリガナに「ハカ」とありますが、「ヨカ」の間違い?

 西遊旅譚4に生月島之圖があり、左に孩子嶽(ややこがたけ)があります。村が嶋をほとんどしめていて、とんでもなくにぎわっているのがわかります。 


 

 

2025年9月4日木曜日

江漢西遊日記五 その40

P40 東京国立博物館蔵

P41

(読み)

誠  尓おそろしき大 浪 なり舟 を押ス者 可け声

まことにおそろしきおおなみなりふねをおすものかけごえ


アリヤ\/ \/ と云ツて軍  舩 の如 し漸  ク日暮 生 月

ありゃありゃありゃといっていくさふねのごとしようやくひぐれいきつき


ニ着(チヤク)岸(カン)春カコ能者 手も足 も皆 鮪 能血(チ)ニ

に  ちゃく   がん すかこのものてもあしもみなしびの  ち に


そミ誠  ニ軍  能如 し二時 者可里能間  おそろしき

そみまことにいくさのごとしにときばかりのあいだおそろしき


め尓逢ふ多り爰 尓鮪 師益 冨 又 左衛門 と云フ

めにあうたりここにしびしますとみまたざえもんという


者者なり其 息(ソク)亦 之助 両  人 畄主故 先

ものなりその  そく またのすけりょうにんるすゆえまず


一寸 と見世先 尓あかり火を以 テ衣服 能濡(ヌレ)

ちょっとみせさきにあがりひをもっていふくの  ぬれ


多るをか王可春殊 ニ寒 月 故 さ武し程 なくして

たるをかわかすことにかんげつゆえさむしほどなくして


主 人 帰 り又 左衛門 ハ平 戸へ参 リ多るよし倅  亦

しゅじんかえりまたざえもんはひらどへまいりたるよしせがれまた


之助 出て玄 関 様(ヨウ)の処  を開 き坐しきへ通 シ

のすけでてげんかん  よう のところをひらきざしきへとおし

P41

須草 ヨリ

すくさより


生 月 へ渡 ル

いきつきへわたる

(大意)

(補足)

「鮪師益冨又左衛門」、享保10年(1725)〜安政6年(1859)までの130年間に21,700頭を捕獲し、平戸藩への納付金も77万両、献金が15万両あった。江戸末期に不漁となり、その後、明治7年(1874)に完全に撤退した。米国を中心とした諸外国の捕鯨船が日本近海に乗り出し、このため日本近海に回遊する鯨が急速に減ったためであった、とありました。

「畄主」、当主ではありません。留守。

 鮪船の画。文中の説明どおり、「表の方尓トマを張リ二人坐」していて、「カコ六人」がきちんと描かれています。こんなに小さい船で大荒れの海を渡るのですから、事故は頻繁にあったのだろうとおもいます。奥の船もおなじように描かれています。

 「西遊旅譚四」に画があります。


 

2025年9月3日水曜日

江漢西遊日記五 その39

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

尓渡 ル尓先ツ城  下より一 里野山 を越ヘて薄 香

にわたるにまずじょうかよりいちりのやまをこえてうすか


浦 と云 処  ニ至 ル少  々  人 家アリ爰 ヨリ舩 を出春ニ

うらというところにいたるしょうしょうじんかありここよりふねをだすに


五人 にて艪(ロ)を押(ヲス)風 ありて浪 高 シ夫 故 尓

ごにんにて  ろ を  おす かぜありてなみたかしそれゆえに


須草 と云 処  へ舩 を入ル爰 ニハ家 なく岩 壁 ニして

すくさというところへふねをいるここにはいえなくいわかべにして


魚 屋アリ之(コレ)ハ生 月 より人 数 を爰 ニ置キ鯨

うおやあり  これ はいきつきよりにんずうをここにおきくじら


能来ル時 舩 を出春亦 鮪 漁  をも春先ツ爰

のくるときふねをだすまたしびりょうをもすまずここ


尓あ可里て喰  事などして風(カサ)間(マ)を待ツ尓いよ\/

にあがりてしょくじなどして  かざ   ま をまつにいよいよ


剛(ツヨシ)爰 ニて鮪 漁  五六 十  アリ其 鮪 舟 ニのりて

  つよし ここにてしびりょうごろくじゅうありそのしびぶねにのりて


生 月 ヘ渡 ル尓波 舟 能上 を飛ヒ越へる事 数(ス)

いきつきへわたるになみふねのうえをとびこえること  す


度なり表  の方 尓トマを張リ二 人坐春カコ六 人

どなりおもてのほうにとまをはりふたりざすかころくにん

(大意)

(補足)

「薄香浦」、地図の中央にあります。

「須草」、現在の地図です。薄香浦を出帆したものの、外洋にでると波高く、須草で風間待ち。 

 「生月ヘ渡ル尓波舟能上を飛ヒ越へる事数(ス)度なり」、大荒れの海、このような状況も何度か経験してきていて、以前よりいくらか落ち着いているようです。

 

2025年9月2日火曜日

江漢西遊日記五 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

魚 の店 商  人 方 へ参 ル酒 を出し鴨 の玉 子

うおのたなしょうにんかたへまいるさけをだしかものたまご


とぢ鯛 能あん可け。者んぺんを出し興  應

とじたいのあんかけ はんぺんをだしきょうおう


春此 地能鴨 一 向 油  なく味 なし鯛 ハ至  て味

すこのちのかもいっこうあぶらなくあじなしたいはいたってあじ


よし油  多 くして多 く不喰

よしあぶらおおくしておおくくわず


三 日今 日毛風 雨霰  鯨  を取ル嶋 生 月 ヘ渡海

みっかきょうもふううあられくじらをとるしまいきつきへとかい


三 里あり兎角 尓渡 ル日なし此 日画を描

さんりありとかくにわたるひなしこのひえをかき


暮 春爰 ニてハ福 禄 寿 能事 を歳徳(トク)神(シン)

くらすここにてはふくろくじゅのことをとし とく   じん


と云 ヒキカヱルをヲンゼウコと云 反皮(マムシ)を平 口 と云

というひきがえるをおんぜうこという   まむし をひらくちという


四 日天 氣風 少 しアリ山 形 新 四良 ハ六 良 と親

よっかてんきかぜすこしありやまがたしんしろうはろくろうとしん


類 の者 ニて住  居 ハ生月(イキツキ)嶋 なり此 者 と生 月 嶋

るいのものにてじゅうきょは   いきつき しまなりこのものといきつきしま

(大意)

(補足)

「興應」、饗応。

「鴨一向油なく味なし鯛ハ至て味よし油多くして多く不喰」、鴨は脂がのってなく、鯛は脂がのってとても旨いのだけど、脂が強すぎてたくさんは食べることができなかったよう。江戸では鮪のトロは猫またぎといわれて見向きもされませんでした。

「三日」、天明8年12月3日。西暦1788年12月29日。

「歳徳神」、『としとくじん【歳徳神】陰陽道(おんようどう)で,その年の福徳をつかさどる神。この神のいる方を明きのかた,または恵方(えほう)といい,万事に吉とする。恵方神。歳神。正月様』。方言ではなかったようです。

「平口」、西日本で使われる別名のようです。

 

2025年9月1日月曜日

江漢西遊日記五 その37

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

裏 ニハ紅(モミ)を付 多る綿(ハタ)入 を着(キ)多り

うらには  もみ をつけたる  わた いれを  き たり


十  二月 朔 日 天 氣西 風 亦 表  具細 工人 宇

じゅうにがつついたちてんきにしかぜまたひょうぐさいくびとう


吉 方 へ行キ屏  風尓狗  子を描(カク)酒 菓子を出タ

きちかたへゆきびょうぶにいぬのこを  かく さけかしをいだ


春舩 方 能足 軽 とも来 りてう多をう多ふ〽平

すふなかたのあしがるどもきたりてうたをうたう ひら


戸お客  ハ保うきでこざる田助 浦 尓て夜ヲ明 ス

どおきゃくはほうきでござるたすけうらにてよをあかす


〽サツ\/フレ\/六 尺  袖 よ四十  過キレハ婦里やなら

 さっさっふれふれろくしゃくそでよしじゅうすぎればふりゃなら


ぬ〽坊(ホン)山 路チヤ破 れ多衣(コロモ)か多尓掛(カゝラ)で

ぬ   ぼん やまじじゃやぶれた  ころも かたに  かから で


氣尓かゝる

きにかかる


二 日亦 朝 より風 雨雪 霰  ましる此 地海 ト

ふつかまたあさよりふううゆきあられまじるこのちうみと


山 あれ共 渓 流  谷 川 なし宇吉 を使  として

やまあれどもけいりゅうたにがわなしうきちをつかいとして

(大意)

(補足)

「十二月朔日」、天明8年12月1日。西暦1788年12月27日。

「保うき」、『② 遊里で,次々に芸妓と関係すること。また,そのような男。浮気者。「―しちやあいやよ」〈おかめ笹•荷風〉「―客」』

「う多をう多ふ」、歌詞がおもしろく、ニヤリとわらいを誘う(江漢さん自身も田助浦で一晩楽しんだ)。なので歌詞を記録したのでしょうね。

 

2025年8月31日日曜日

江漢西遊日記五 その36

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

京  都の画師應 擧 なり鯉 二 ツ藻也 亦タ

きょうとのえしおうきょなりこいふたつもなりまた


か王せミ能飛ヒタル図なり誠  尓上  手なり裏

かわせみのとびたるずなりまことにじょうずなりうら


ハ曲  水 蘭 亭 の圖之(コレ)ハ描(カキ)手別 なり風 土

はきょくすいらんていのず  これ は  かき てべつなりふうど


放 言 長 崎 と同 し水 仙 蘭 石 解 風 蘭

ほうげんながさきとおなじすいせんらんせっこくふうらん


自  ラ野ニ生  春゛人 能声 ヲあけ亦 ハ声高(コハタカ)尓

みずからのにしょうず ひとのこえをあげまたは   こわだか に


笑(ハラフ)事 をウラブと云フ

  わらう ことをうらぶという


廿   九日 天 氣此 日晩 方 より表  具細 工能

にじゅうくにちてんきこのひばんがたよりひょうぐざいくの


者 能方 へ行ク酒 肴 を出し何 カナ饗應(キヨウゝ)

もののかたへゆくしゅこうをだしなにかな   きょうおう


せんとて自分 能妹(イモト)を杓(シヤク)取 ニ出し个り其

せんとてじぶんの  いもと を  しゃく とりにだしけりその


衣服 黒 キ木綿 能色 入り尓模様(モヨウ)を染 出シ

いふくくろきもめんのいろいりに   もよう をそめだし

(大意)

(補足)

「應擧」、ご存知円山応挙。享保18(1733)年〜寛政7(1795)年。

 江漢「春波桜筆記」新画法と京都江戸、の項に次のようにあります。

『京都に円山応挙という画人がいる。生まれは丹波篠山の人である。京に出て一風を開いた。唐画でもなく和風でもなく、自分の工夫で新意を出したので、京都じゅうで妙手と讃えられ、誰もかもみなその真似をしてたいへん流行したものであった。いまになってはそれももう見あきて、すたれてしまった。』

「曲水」、『きょくすい【曲水】

① 庭園または林,山麓(さんろく)をまがりくねって流れる水。ごくすい。』

「水仙蘭石解風蘭」、水仙、闌、石斛(せっこく せき― 【石斛】ラン科の常緑多年草。山中の樹木や岩上に生え,また観賞用に栽培。茎は高さ20センチメートル)、風闌。

「廿九日」、天明8年11月29日。西暦1788年12月26日。

 「春波桜筆記」には応挙のことを上記のように記していますが、ここでは「誠尓上手なり」と、彼にしては最上の褒め言葉をもらしています。すばらしい画だったのでしょう。

 

2025年8月30日土曜日

江漢西遊日記五 その35

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

罕干世。有古法眼画其筆意如雲

雖然筆勢為妙可愛と表  具尓

        とひょうぐに


裏 書 春誠  尓傍 若  無人 也 文 吉 松  益

うらがきすまことにぼうじゃくむじんなりぶんきちしょうえき


か多わらニ者んべ里个る夜 尓入 帰 ル

かたわらにはんべりけるよるにいりかえる


廿   六 日 雨 天爰 ニ山 形 六 良 ハ鯨  津きなりし可゛

にじゅうろくにちうてんここにやまがたろくろうはくじらつきなりしが


御用 金 数 千 出しけれハ侍(サムラヒ)尓取 立 られ今

ごようきんすうせんだしければ  さむらい にとりたてられいま


ハ平 戸尓住  ス此 日彼 ガ所  ヘ参 ル酒 菓子を

はひらどにじゅうすこのひかれがところへまいるさけかしを


出春爰 ニも蔵 春る画あり山 水 二幅 明人(ミンヒト)

だすここにもぞうするえありさんすいにふく   みんびと


の画なり金碧(キンヘキ)山 水 名(メイ)アリ千 里ト亦 鶴 能

のえなり   こんぺき さんすい  めい ありせんりとまたつるの


画林 良  なとゝ云フへき者 坐しき四 枚 襖(フスマ)

えりんりょうなどというべきものざしきよんまい  ふすま

(大意)

(補足)

「誠尓傍若無人也」、表具に裏書きした「筆勢為妙可愛」は褒めているのでしょうけど、文章ではそうはなっていません。さて?

「廿六日」、天明8年11月26日。西暦1788年12月23日。前回と日付が逆のようです。

 文章後半がわかりにくい。以下のような内容でしょうか。

『明の人の山水画が二幅あって、金碧山水で千里と名がある。また、鶴の画は林良というものの名がある』。

 

2025年8月29日金曜日

江漢西遊日記五 その34

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

婦  ハ長 崎 邊  能産(ウマ)れ名ハ国 の江と云 婦  の曰 く

おんなはながさきあたりの  うま れなはくにのえというおんなのいわく


婦しきな事 ニて江戸のお方 尓逢ヒしと云フ妾(セ ウ)

ふしぎなことにてえどのおかたにあいしという  しょう


何奈以幸為妓(イカンテサイハイタリギ)得即今逢君(エタソツコンアウキミ)二 人の者 能

                               ふたりのものの


婦  ハ松 風 二 葉と云 名ハ春さましき者 歟

おんなはまつかぜふたばというなはすさまじきものか


廿   七 日 天 氣となる田助 浦 より帰 り安 兵衛可゛

にじゅうしちにちてんきとなるたすけうらよりかえりやすべえが


方 ニ居ル。周  文 吉 来ル之(コレ)ハ君 邊 を務(ツトメル)者 昼

かたにおる しゅうぶんきちくる  これ はくんぺんを  つとめる ものひる


よ里魚 の店 と云 所  商  人 の方 へ行キ襖  と

よりうおのたなというところしょうにんのかたへゆきふすまと


袋  戸を描(カク)酒 菓子を出して馳走 春る此

ふくろどを  かく さけかしをだしてちそうするこの


家 尓蔵(ソウ)春る画アリ鑑(カン)定 を乞フ如 川 周 信

いえに  ぞう するえあり  かん ていをこうじょせんちかのぶ


暮年得法眼之位階而卒此品

(大意)

(補足)

「婦ハ」「婦しきな」、婦(おんな)と変体仮名「婦」(ふ)で漢字を変えています。

「春さましき」、『すさまじ・い❷ ① 物足りずさびしい。荒涼としている。情趣がない。「白馬(あおうま)やなどいへども,心地―・じうて七日も過ぎぬ」〈蜻蛉日記•下〉「―・じきもの,昼ほゆる犬。春の網代」〈枕草子•25〉

② さむざむしい。ひえびえする。季秋「十一月十九日の朝なれば,河原の風さこそ―・じかりけめ」〈平家物語•8〉〔動詞「すさむ」の形容詞形。本来,興ざめがするさまを表す』

「廿七日」、天明8年11月27日。西暦1788年12月24日。

「如川周信」、狩野周信(かのうちかのぶ)。万治3(1660)年〜享保13(1728)年は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。江戸幕府に仕えた御用絵師で、狩野派(江戸狩野)の中で最も格式の高い奥絵師4家の1つ。

「如川周信

暮年得法眼之位階而卒此品罕干世。有古法眼画其筆意如雲 雖然筆勢為妙可愛」、『如川周信

晩年に法眼の位階を得てこの品で没す 世に稀なる。古の法眼の画あり、その筆意は雲の如し

とはいえ筆勢こそ妙にして愛すべきなり』。

 相手をした婦の名前に興ざめしてしまったように記してますけど、そんことはなかったとおもいます。楽しくすごしたにきまっています。

 

2025年8月28日木曜日

江漢西遊日記五 その33

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

クロ能事 をあざと云フ其 嫁 三 味せんを弾(ヒク)

くろのことをあざというそのよめしゃみせんを  ひく


先ツ江戸能イタコさ王き能節(フシ)なりよんヤ

まずえどのいたこさわぎの  ふし なりよんや


な婦しと云フ〽王しハ多ミ能者 ちこふよ川て

なぶしという わしはたみのものちこうよって


たもれ情(ナサケ)ありしと親(ヲヤ)尓春る〽松 尓下 り藤(フシ)

たもれ  なさけ ありしと  おや にする まつにさがり  ふじ


美(ミ)事 な物 よ人 能花 なら只(タゝ)見多者゛かり

  み ごとなものよひとのはななら  ただ みたば かり


よんヤな\/  其嫁(ヨメ)木綿 の布 子麻 の葉を

よんやなよんやなその よめ もめんのぬのこあさのはを


染 多る前 多゛れ帯 も木綿 なり二 人能連レ其

そめたるまえだ れおびももめんなりふたりのつれその


なり竒妙  なり二百  年 程 昔 しハ此 様 なるべし

なりきみょうなりにひゃくねんほどむかしはこのようなるべし


と心  能内 おかしくぞ思 ひ个る其 一 間隔(ヘタテ)て閨(ネヤ)アリ

とこころのうちおかしくぞおもいけるそのひとま  へだて て  ねや あり


夜具木綿 なれどサツパリとしてよし予(ワレ)愛(アヒス)

やぐもめんなれどさっぱりとしてよし  われ   あいす

(大意)

(補足)

「さ王き能節」、『さわぎうた【騒ぎ唄】

① 民謡で,お座敷唄のうち,テンポが速く,にぎやかで明るいもの。

② 江戸時代に遊里や酒宴の席などで,三味線や太鼓に合わせて唄ったにぎやかな唄。

③ 下座音楽の一。郭(くるわ)・茶屋など遊興の騒ぎの場面に使われる,大鼓・小鼓・太鼓の入るにぎやかなもの』

「花」、ここのくずし字、学んだはずなのですけど、初めて見るような・・・

 江漢さん、ここの雰囲気をとても気に入って、居心地がよさそうです。ごきげん♪

 

2025年8月27日水曜日

江漢西遊日記五 その32

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

小豆 嶋 屋と云 揚 屋能様 なる家 あり二 人の者

あずきしまやというあげやのようなるいえありふたりのもの


案 内 して爰 尓至 ル尓先 二階 へ登 り見る尓

あんないしてここにいたるにまずにかいへのぼりみるに


色 \/の物 有 て物 置 能様 なる坐しきなり

いろいろのものありてものおきのようなるざしきなり


此 家 爰 ニ一 軒 なり彼 二 人の者 能春ゝ免ニ

このいえここにいっけんなりかのふたりのもののすすめに


て遊 女 を呼フ尓衣装  ハち里めん模様 なり

てゆうじょをよぶにいしょうはちりめんもようなり


裏紅(モミ)なり帯 ハとん春能様 なる物 尓して一寸(チヨツト)

うら もみ なりおびはどんすのようなるものにして   ちょっと


春そを。さぐり見ル尓袷  小袖 を上 へ着(キ)多る

すそを さぐりみるにあわせこそでをうえへ  き たる


者 なり髪(カミ)結ヒ様 先ツ大 坂 風 ニて竒妙  也

ものなり  かみ ゆいさままずおおさかふうにてきみょうなり


さて其 家 の嫁(ヨメ)とて廿   一 二歳 㒵(カヲ)ハ白 けれ

さてそのいえの  よめ とてにじゅういちにさい  かお はしろけれ


ど黒子(ホクロ)能いかゐ事 ある女  なり此 国 ニてハホ

ど   ほくろ のいかいごとあるおんななりこのくににてはほ

(大意)

(補足)

「小豆嶋」、淡路島のとなりに小豆島(しょうどしま)がありますが、ここの読みはなんでしょうか?

「㒵(カヲ)ハ白けれ」、この「㒵(カヲ)」は顔のこと、古文書によく使われています。

「いかゐ事」、『厳いこと。多いこと。多いさま。たいへんなこと。「ひる見たれば,瓜が―見えたが」〈狂言記・瓜盗人〉』。『いか・い 【厳い】(形)《文ク いか・し》〔中世・近世語〕① 荒々しい。勇猛だ。恐ろしい。「かく―・う猛き身に生まれて」〈宇治拾遺物語8〉② 大きい。多い。「聞き及うだより―・い河ぢや」〈狂言記・鈍根草〉

③ (程度が)はなはだしい。大層である。「それはほんに―・いお力落しで」〈滑稽本・浮世床2〉「あつしは此家の先代には―・い世話になつたし」〈くれの廿八日魯庵〉』

 ここの遊女の頭の先から裾先までなめるように観察描写しています。好きですねぇ。でもこのような目があるから、生き生きとした人物画が描けるのでしょう。

 しかし、この頁から始まって、次の頁まるまる、さらにその次の頁までつづき、なみなみならぬ熱情を傾けています。

 

2025年8月26日火曜日

江漢西遊日記五 その31

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

見へ遥(ハルカ)尓ハ對馬 壱岐を能ぞミ是 北 能方タ

みえ  はるか にはつしまいきをのぞみこれきたのかた


なり近 ク尓小嶋 二 ツアリ二タかミと云 北 ノ方 ヨリ

なりちかくにこじまふたつありふたかみというきたのほうより


東  尓よりてマダラ嶋 あり之(コレ)ハ唐 津の領  也

ひがしによりてまだらじまあり  これ はからつのりょうなり


西 ヨリ南  尓生 月 嶋 見ユ南  能方 安万(ヤスマン)嶽

にしよりみなみにいきつきしまみゆみなみのほう   やすまん だけ


平 戸第(タイ)一 能高 山 なり西 方 日本 の地なし

ひらど  だい いちのこうざんなりにしかたにほんのちなし


朝  鮮 国 見へ春゛夫 より白 岳 を下 り田助 浦

ちょうせんこくみえず それよりしらたけをくだりたすけうら


尓至 ル城  下能裏(ウシロ)半 里あり長 崎 の方 より能舩

にいたるじょうかの  うしろ はんりありながさきのほうよりのふね


着(ツキ)なり故 ニ遊 女 あり廿   人 程 アルよし亦 地下

  つき なりゆえにゆうじょありにじゅうにんほどあるよしまたじげ


能者 とて安(ヤス)者 六 七 十  人 あるとぞ遊 女 揚 代

のものとて  やす ものろくしちじゅうにんあるとぞゆうじょあげだい 


十  七 匁  雑 用 ハ別 なりさて吾カ連レ二 人アリ

じゅうしちもんめざつようはべつなりさてわがつれふたりあり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚四」に白獄頂からの眺望図があります。 

 白獄頂にちゃんと「石の小き宮居」が描かれています。

「田助浦」、おなじく西遊旅譚四の画です。 

 いつもながら、遊郭があると江漢さんは遊女揚代から遊女の着ているもの髪形など、細かく観察して記しています。今となっては、江戸から長崎・平戸までの風土文化的な比較ができて貴重な記録であります。

 

2025年8月25日月曜日

江漢西遊日記五 その30

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

支那(カラ)ノ僧 なり故 ニ此 日をまつる俗家(ソツカ)ニても

   から のそうなりゆえにこのひをまつる   ぞっか にても


家 々 餅 を津き祝 ふ此 所  能者 短 日 と

いえいえもとをつきいわうこのところのものたんじつと


いえど喰(シヨク)を四 度春

いえど  しょく をよんどす


廿   四 日天 氣ニして町 能商  家尓行キ四 枚 襖(フスマ)

にじゅうよっかてんきにしてまちのしょうかにゆきよんまい  ふすま


裏 表  墨 画を描ク色 \/馳走 春る小野

うらおもてぼくがをかくいろいろちそうするおの


尚 益 と云 画師と共 尓帰 ル

なおますというえしとともにかえる


廿   五日 上  天 氣如春    四 時 ヨリ白 獄 ヘ登 ル其 路

にじゅうごにちじょうてんきはるのごとしよつどきよりしらたけへのぼるそのみち


一 里半 あり城  下を過 て家中  町 アリ夫 より

いちりはんありじょうかをすぎてかちゅうまちありそれより


野山 へ出テ野馬 を見ル絶頂ニ至リ石ノ小キ宮

のやまへでてのうまをみるぜっちょうにいたりいしのちいさきみや


居ありカヤ生  シて木なし眼 下尓大 嶋 宅 しま

いありかやしょうじてきなしがんかにおおしまたくしま

(大意)

(補足)

「家々餅を津き祝ふ」、冬至の日に餅をついて祝う風習でしょうか。現在残っている風趣はゆず湯かな。「此日」は「廿三日」、天明8年11月23日で西暦1788年12月20日ですから、旧暦だとこの頃が冬至となります。

「廿四日」、天明8年11月24日。西暦1788年12月21日。

「白獄」、現在の地図で赤い印のところが白岳(公園)。

 古地図でも全く同じ。


  一番北に位置するのが(的山)大島、その手前が度島。

 平戸文化観光商工部観光課HPに「標高250mだが、ここからは平戸島の北部、生月島、度島、的山大島、壱岐がキレイに見渡せる地元の人しか知らない隠れた絶景スポット。車で行けるが、途中、離合が困難な箇所があるため十分お気をつけて運転を」とありました。

「宮居」、『みやい ―ゐ【宮居】① 神が鎮座すること。また,その所。神社。「神代よりつもりの浦に―して」〈千載和歌集神祇〉② 皇居を定めること。また,その所。皇居。「乙訓に―し給ふ」〈平家物語5〉』

 どこへいっても、江漢さん近所の名所観光だけでなく、山々のてっぺんをめざし、その眺望を望んで画にしています。健脚のなせる技なのでしょうけど、やはり風景が大好きで得意な絵師ということであります。

 

2025年8月24日日曜日

江漢西遊日記五 その29

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

桜  ハ八重一 重能まし里

さくらはやえひとえのまじり


サツマ桜  と云

さつまざくらという


此 塔 ハ此 地の者 冨人 ニして娘  ヲ

このとうはこのちのものふじんにしてむすめを


支那(カラ)へ嫁セし尓支那より是 を建 ルと云

   から へかせしにからよりこれをたてるという


亦 爰 尓半 田助 右衛門と云 者 甚  タ冨人 ニして

またここにはんだすけえもんというものはなはだふじんにして


右 の堂 塔 を建て亦 自身 能家 能前 ヲ

みぎのどうとうをたてまたじしんのいえのまえを


大 石 を以 テ往 来 能路 を五六 十 間 能間  を

おおいしをもっておうらいのみちをごろくじっけんのあいだを


しき津免今 尓其 まゝ在 今 其 末 甚  タ

しきつめいまにそのままありいまそのすえはなはだ


能貧 乏 となり居(スヱ)へ風呂(フロ)屋をしてかなしき

のびんぼうとなり  すえ へ   ふろ やをしてかなしき


暮(クラ)しなり此 日冬 至なり寺 々 開基(キ)ハ皆

  くら しなりこのひとうじなりてらでらかい き はみな

(大意)

(補足)

「此塔」、コルネリアの塔として知られているとありました。コルネリアは、亡父第5代平戸オランダ商館長コルネリウス・ファン・ナイエンローデの50回忌の1682年、供養塔を西の久保本成寺境内に建立した。これが『コルネリアの塔』である。そのあと、瑞雲寺境内に移された。 

 江漢さん、年よりや子ども、またここのように落ちぶれてしまった人たちには「かなしき暮らしなり」とそのまなざしはやさしくあたたかい。

 画に「年号 天和トアル」。天和年間は延宝の後、貞享の前、1681年から1684年までの期間、江戸の大火(八百屋お七の火事)などがあった。将軍は徳川綱吉。

 

2025年8月23日土曜日

江漢西遊日記五 その28

 

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

観 音 院 聖  護院 御願  所  奉 施入

かんのんいんしょうごいんおねがいどころほうしいる


鐘 一 口 應 永 十  二年 未十  二月 之 ハ彫

かねひとくちおうえいじゅうにねんみじゅうにがつこれはほり


付 てあり傍   尓観 音 堂 アリ小松 の茂 盛

つけてありかたわらにかんのんどうありこまつのしげもり


能所 持と云フ 本 所  寺ニ在

のしょじという ほんじょうじにあり


石 塔 高 サ

せきとうたかさ


二丈  余

にじょうあまり


大 石 を以 テ

おおいしをもって


造 ル

つくる


正  面 ニハ康 永 五年 亦 弘安

しょうめんにはこうえいごねんまたこうあん


壬   ノ年 トアル

みずのえのとしとある

(大意)

(補足)

ここに記されている内容にちかい事柄をネットで探しました。このような小論文『明治廃仏毀釈と肥前平戸松浦藩「本成寺」について 三浦成雄』がありました。

 本成寺跡の大五輪塔 塔高五メートル 

 彫られている元号も一致しています。 

 本所寺が本成寺であるかどうかはわかりませんけど、江漢さんは字をよく間違えるので、さてどうでしょうか。

 

2025年8月22日金曜日

江漢西遊日記五 その27

P27 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 処  屏(ヘ ウ)風岩 アリ山 上  尓長  者 と云 者 アリ

というところ  びょう ぶいわありさんじょうにちょうじゃというものあり


四 ツありし尓一 ツハ堀 て門 より金 多 く出多り

よっつありしにひとつはほりてもんよりきんおおくでたり


亦 海 邊尓穴 二 ツ並  てアリ一 ツハ上ミ十  五日

またうみべにあなふたつならびてありひとつはかみじゅうごにち


水 湧(ワク)一 ツハ下モ十  五日 水 湧クと云 深 キ事 ハ

みず  わく ひとつはしもじゅうごにちみずわくというふかきことは


一 向 知レ春となり亦 国 分 寺ノ跡 岩 屋アリ

いっこうしれずとなりまたこくぶんじのあといわやあり


石 を畳(タゝン)で家 を造 ル亦 針 尾の瀬戸

いしを  たたん でいえをつくるまたはりおのせと


より真 珠 を出春

よりしんじゅをだす


廿   三 日 曇 ル四 時 比 より安 兵衛案 内 して

にじゅうさんにちくもるよつどきころよりやすべえあんないして


観 音 院 此 寺 内 ニ鐘 アリ播 州  尾 上能

かんのんいんこのてらうちにかねありばんしゅうおのえの


鐘 と同 物 ニして天 人 を鋳多り平 戸嶋

かねとどうぶつにしててんにんをいたりひらどじま

(大意)

(補足)

「堀て」、掘て。土(つちへん)と扌(てへん)の違いですけど、どちらも意味はおなじようなもの。御城のまわりの堀(ほり)と穴を掘(ほ)る、のように使い分けられそう。

「廿三日」、天明8年11月23日。西暦1788年12月20日。

「四時比より」、朝10時頃より。

「尾上能鐘」、天明8年九月朔日、江漢西遊日記三 その26 に出てきました。

 西遊旅譚四に図があります。 

「岩屋アリ」、山石屋ではありません。

 壱岐の島のことを興味深く語っていますが、足を運ぶことはなかったようです。

 

2025年8月21日木曜日

江漢西遊日記五 その26

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

兵衛とて足 軽 舩 方 能頭  役 夫 故 西 国

べえとてあしがるふなかたのかしらやくそれゆえさいごく


諸 大 名  より付 届  あ里故 ニ軽(カル)き者 なれ共

しょだいみょうよりつけとどけありゆえに  かる きものなれども


勝 手よし夫 故 小坐しき寄麗(キレイ)ニして在

かってよしそれゆえこざしき   きれい にしてある


故 ニ宮 能町  より爰 ニ移 ル安 兵衛ハ六 十  余  能

ゆえにみやのちょうよりここにうつるやすべえはろくじゅうあまりの


老 人 ニて悴  もあり孫 もアリ皆 \/出て敬 尊

ろうじんにてせがれもありまごもありみなみなでてけいそん


春其 坐しき尓白 張リ能小襖  あり先ツ之(コレ)

すそのざしきにしろはりのこぶすまありまず  これ


ニ墨 画を描(カ)く安 兵衛話  尓壱岐能国 ハ五

にぼくがを  か くやすべえはなしにいきのくにはご


万 石 能処  と云 爰 より十  三 里を隔(ヘタツ)嶋 なり

まんごくのところというここよりじゅうさんりを  へだつ しまなり


京  大 坂 邊 能流人 の来ル嶋 なり寺 ハ

きょうおおさかへんのるにんのくるしまなりてらは


五十  ケ寺あると云 冨 貴なる者 あり八 幡

ごじゅっかじあるというふうきなるものありはちまん

(大意)

(補足)

「寄麗(キレイ)」、綺麗。

「悴」、倅。悴は「かじかむ。やつれる。スイ」

 お殿様じきじきもらったお菓子をみなにみせびらかし、またそのときの様子を語って聞かせたのがきいたのか、宿もランクアップして、江漢さんはご満悦であります。


 

2025年8月20日水曜日

江漢西遊日記五 その25

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

今 日の様 子ヲ者なし殿(トノ)様 身(ミツ)可ら薄 茶 を

きょうのようすをはなし  との さま  みず からうすちゃを


多て此 菓子を下タされ多ると話(ハナシ)聞カ春れ

たてこのかしをくだされたると  はなし きかすれ


ハ亭主(テイシユ)肝 を津婦゛し此 様 なる事 竟 ニうけ

は   ていしゅ きもをつぶ しこのようなることついにうけ


多ま王ら春゛殿 様 のあれへお出 ニてお逢(アヒ)と

たまわらず とのさまのあれへおいでにてお  あい と


云フ事 希しから須゛重 き事 なりあな多

いうことけしからず おもきことなりあなた


様 のお宿 仕    候  得ハ即  ち殿 様 お入 あるも

さまのおやどつかまつりそうらえばすなわちとのさまおいりあるも


同 前 ありか多き事 なり此 菓子ハ誠  ニい多

どうぜんありがたきことなりこのかしはまことにいた


だく事 能ならぬ者 ニて疫病(ヤクヒヨウ)除 尓なり申

だくことのならぬものにて   やくびょう よけになりもうす


とて涙(ナミタ)を流 して恐(オソ)れ个る

とて  なみだ をながして  おそ れける


廿   二日 天 氣此 宿 餘 りあしく故 尓小崎 安(ヤス)

にじゅうににちてんきこのやどあまりあしくゆえにおざき  やす

(大意)

(補足)

「希しから須゛」、『けしから◦ず 【怪しからず】① 普通ではない。「かく―◦ぬ心ばへは使ふものか」〈源氏物語•帚木〉⑤ 格別である。「一夜―◦ず摂して候ひしよ」〈謡曲・鵜飼〉』

「即」、吊のようなかたちのくずし字もあるようです。

「同前」、同然。

「廿二日」、天明8年11月22日。西暦1788年12月19日。

 江漢さん、宿の主人に、殿様に招かれたときのことをはなしながら、どうですわたしはこのように名のある画人なのですよとまわりのひとたちに知らしめ、鼻高々である一方、どこか冷めた目で、殿様を神のように崇める宿の主人や町の人々を、なにそんなにたいしたことではないのですよと、涙を流して恐れている主人に、言葉がないようでもあります。

 身分社会の形苦しさや馬鹿らしさに、どこかで江漢さんはそんな社会のすみづらさを感じているようでもあります。


 

2025年8月19日火曜日

江漢西遊日記五 その24

P24 東京国立博物館蔵

(読み)

同  く禮 をな春失 禮 を春る者 あれハ切捨(キリステ)

おなじくれいをなすしつれいをするものあれば   きりすて


と云 事 とぞ

ということとぞ


廿   一 日 亦 雨 夜 ニ入 大 風 雨晩 八 時 ヨリ客

にじゅういちにちまたあめよるにいりだいふううばんやつどきよりきゃく


家ヘ参 ル町 能中 尓門 玄 関 付 なり八 時 比 ニて

かへまいるまちのなかにもんげんかんづけなりやつどきころにて


侯 馬 ニてお入 り小納 戸方 平 兵衛案 内 ニて

こううまにておはいりこなんどかたへいべえあんないにて


門 の入 口 ニて出向 ヒ直 尓お逢ヒあり子小性

もんのいりぐちにてでむかいじかにおあいありここしょう


七 人 次 能者 四人 紅 毛 書 物 数 々 拝 見

しちにんつぎのものよにんこうもうしょもつかずかずはいけん


夫 より席 画ヲ認  メ酒 肴 菓子薄 茶 ハ自

それよりせきがをしたためしゅこうかしうすちゃはじ


身 茶 室 ニて被下  夜 能四 時 過 ニ旅 宿 尓

しんちゃしつにてくださるよるのよつどきすぎにたびやどに


帰 りぬ町 中  大 さ王き春る旅(リヨクワン)の主 人 云 曰(イハク)

かえりぬまちじゅうおおさわぎする  りょか ん のしゅじんいう  いわく

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年11月21日。西暦1788年12月18日。

「晩八時」、午後の2時なので、晩ではありません。

「客家」、松浦静山の書斎である楽歳堂(らくさいどう)のこと。松浦史料博物館HPに『静山は平戸城内に楽歳堂(らくさいどう)という現在の博物館のような施設を設置しました。そこに当時としても貴重な文物を収蔵します。対象は国内、海外の様々な分野に及んでいます』とあります。

 文章後半は江漢さんの自慢話。いつもながら、このようなときは謙虚さなど、これっぽっちもうかがえません。

 静山、このとき31歳でした。