P18 東京国立博物館蔵
(読み)
側 傘 を造 ル職(シヨク)人 なり夫 ヨリ畑(ハタ)の路 へ
がわからかさをつくる しょく にんなりそれより はた のみちへ
出テ此 邊 綿 を畑 ニうゆ夫 より左右
でてこのへんわたをはたけにうゆそれよりさゆう
料 理やあり石 能鳥 居ソリ橋 クツレテ
りょうりやありいしのとりいそりはしくずれて
石 能杭(クヒ)能こる宮 居三 殿 あり石 灯 籠
いしの くい のこりみやいさんでんありいしどうろう
多 し夫 ヨリ濱 邊へ行キ松 原 能中 ヲ通 リて
おおしそれよりはまべへゆきまつばらのなかをとおりて
茶 ヤあり爰 ニて酒 を呑 蛤 あり亦 元 へ帰 り
ちゃやありここにてさけをのむはまぐりありまたもとへかえり
往 来 を少 シ行キ難 波屋能笠 松 ヲ見て
おうらいをすこしゆきなんばやのかさまつをみて
一 里程 亦 行キ堺 と云 処 ニ至 ル両 側 能きを
いちりほどまたゆきさかいというところにいたるりょうがわのきを
並ラへて家ヱ至 テ大 キシウドン蕎麦屋アリ
ならべていえいたっておおきしうどんそばやあり
中 庭 アリ石 灯 籠 萩 垣 なとありて内 至 テ
なかにわありいしどうろうはぎがきなどありてうちいたって
(大意)
略
(補足)
「大坂を出離レの町両側傘を造ル職(シヨク)人なり」、浪速区報No.106(2025年2月号)の記事にこのようなものがありました。
『長町
日本橋は、現在の堺筋にあたる紀州街道沿いに架けられた公儀橋でした。少なくとも鎌倉時代頃までは海辺で「名呉の浜」と呼ばれ、堺筋あたりが海岸線で恵美須町交差点付近が港だったといわれています。陛地化に伴い「名呉町」と称され、細長いまちの形から「長町」と改められました。その後、1792(寛政4)年に長町1〜5丁目を「日本橋」と改称、さらに1872(明治5)年に「日本橋」と旧日長町6〜9丁目はすべて「日本橋筋」と改称されました。1980(昭和55)年に日本橋に改称』
『~盛んだった番傘作り~
長町の東も西も、昔は畑でした。
住吉街道と紀州街道の間に、油を搾って大阪のまちに売りに行って生計を立てていた方が多くおられました。油を搾って出た粕(カス)は畑に捨てに行っていたんですが、このあたりは砂地ですので、その砂地と油粕が合わさって良い畑ができたんです。そこで難波葱や金時にんじん、(かぶら)などを作っていました。明治の時代になって難波駅ができたときは、「葱(ねぎ)畑のなかの難波駅」と言われたそうですよ。江戸時代、うちの寺の西側で畑を作っていた人たちの農開期の手間仕事として番傘作りが盛んでした。番傘は傘張りをして油を塗って作ります。「浪花百景」の中に、油を塗って干してあった傘が突然の風で飛ばされていく様子が描かれています。傘に塗る油は、長町の油屋さんの粕油です。燃やすしかないような油を手に入れて、傘に塗ってそれを乾燥させるんです。そのまとめ役をしていたのが、「御蔵跡」のあたりにあった傘屋さんたちです。
油紙も和紙に油を塗って作って、大阪のまちの中に売りに行きました。江戸時代に、折りたたんで荷物の中に入れておいて雨が降ったら広げて着る、油紙で作られた携帯用の雨ガッパが流行りました。油紙は本来、書状などの大切なものが濡れてしまわないように作られたものですが、水をはじくという特性からカッパを作ったんですね。当時の大阪のまちの人の発想はすごいと思います』
摂津名所図会二にこんなほほえましい画があります。広重「長町裏遠見難波蔵(浪花百景)」にもあります。
「宮居」、『みやい ―ゐ【宮居】
① 神が鎮座すること。また,その所。神社。「神代よりつもりの浦に―して」〈千載和歌集•神祇〉』
「難波屋能笠松」、『江戸期には長柄の杓に茶碗をのせて客に対応することで評判であった小町茶屋があり、茶屋の難波屋はその南側に位置し「あんもち」などで繁盛した。付近には大小2本の老松があり、地を這うばかりに四方に枝先を広げ、その姿が笠に似ているところから「笠松」と呼ばれた』
広重「安立町難波屋乃ま川(アンリュウマチナニワヤノマツ)」。浪花名所図会。
左下に「九丁」とあり、その前には「八丁」とありますが、それらの前後にはありません。
大阪から堺の地図、
当時は片側がずっと浜辺で遠くに淡路島が見え(日記にはでてきてませんけど)、きれいだったことでしょう。