2025年3月30日日曜日

江漢西遊日記三 その31

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

爰 より舟 尓能里て三 里あり山 の腰 を行

ここよりふねにのりてさんりありやまのこしをゆく


風 なくして波 平  カなり坂越(サコシ)と云 処  舩 着

かぜなくしてなみたいらかなり   さこし というところふなつき


なり商  家軒 を並  て能 処  なり町 能後(ウシ)

なりしょうかのきをならべてよきところなりまちの  うし


ろハ山 なり山 尓観 音 堂 アリランカン尓より

ろはやまなりやまにかんのんどうありらんかんにより


海 を望 ム詩なと作 リて帰 りぬ

うみをのぞむしなどつくりてかえりぬ


六 日雨 画を認  メル暑 ウスシ

むいかあめえをしたためるしょうすし


七 日天 氣よし明日出  立 せんとて所  々

なのかてんきよしあすしゅったつせんとてところどころ


暇  乞 ニ行キ出  立 能仕度 春る

いとまごいにゆきしゅったつのしたくする


八 日天 氣明 六 時 尓魯庵 方 を出て

ようかてんきあけむつどきにろあんかたをでて


八木山 と云 を越 ルニ其 比 秋 なれハ松 山

やきやまというをこゆるにそのころあきなればまつやま

(大意)

(補足)

 赤穂城(地図の左隅)の南側が御崎、そこから船に乗って、坂越の船着き場(右上)へ、 

そこから山を少々登って、大避神社(おおさけ)(右隅)が観音堂のようです。 

 ランカンによって海を望んだのはこんな景色だったでしょう。生島が望めます。 

「望ム」、「暇乞」、何度も出てきているので読めます。

「六日〜八日」、天明8年九月六日〜八日。1788年10月5日〜7日。

「八木山」(ヤキヤマ)、地図で備前市とある色のかわっているところ。

 赤穂を出立してからずっと山路です。高速ならあっという間。

 

2025年3月29日土曜日

江漢西遊日記三 その30

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

取リ角(スミ)桜  大 手外 堀 アリて能 城 なり

とり  すみ やぐらおおてそとぼりありてよきしろなり


五 日天 氣尓て新 塩 濱 と云 処  ニ参 ル之 ハ

いつかてんきにてしんしおはまというところにまいるこれは


新 規尓取 立テし塩 濱 也 とぞ塩 濱 は田

しんきにとりたてししおはまなりとぞしおはまはた


能如 ク尓して四面 ニ溝(ミソ)あり其 溝 へ自   ラ塩

のごとくにしてしめんに  みぞ ありそのみぞへおのずからしお


能さして且 て潮 を扱ミて濱 ヘうつ事 ナシ

のさしてかってしおをくみてはまへうつことなし


潮 を煮る所  アリ一 間 四方 ニして厚 サ六 七

しおをにるところありいっけんしほうにしてあつさろくしち


寸 所  々  縄(ナワ)尓て約(ツリ)て薄ス鍋 なり赤 穂

すんところどころ  なわ にて  つり てうすなべなりあこお


塩 日本 第 一 也 其(コゝニ)冨人 の家 アリ夫 ヨリ

しおにほんだいいちなり  ここに ふじんのいえありそれより


三崎 大 明  神 の祠  アリ社  古 ヒ大 松 廻 り

みさきだいみょうじんのほこらありやしろふるびおおまつまわり


海 岸 波 あらく嶋 数 \/見ヘてヨキ景色(ケシキ)

かいがんなみあらくしまかずかずみえてよき   けしき

(大意)

(補足)

「角(スミ)桜」、角櫓。「自ラ塩能さして」、自ラ潮能さして。「扱ミて」、汲ミて。「約(ツリ)て」、釣て。

「五日」、天明8年九月五日。1788年10月4日。

「三崎大明神」、赤穂市御崎の温泉街に位置する伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)のことでしょうか。

 赤穂のお城は、伊能図では森和泉守居城と記されています。 

 塩田は御城の南側、河口付近です。

 

2025年3月28日金曜日

江漢西遊日記三 その29

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

結メして其 節 能懇 意なり故 ニ爰 ニ至 ル

つめしてそのせつのこんいなりゆえにここにいたる


三 日曇  て後 天 氣画二三 紙描(カク)夫 ヨリ

みっかくもりてのちてんきえにさんし  かく それより


同 藩 の者 能処  ヘ参  酒 肴 を出春宿

どうはんのもののところへまいるしゅこうをだすやど


ヨリ六 月 十  九日 出の状  を見ル

よりろくがつじゅうくにちでのじょうをみる


四 日天 氣甚  タ暑 シ衛守 と云 人 織 部

よっかてんきはなはだあつしえもりというひとおりべ


と二 人太夫(カロウ)なり爰 ニ至 ル尓酒 肴 ヲ出シ

とふたり   かろう なりここにいたるにしゅこうをだし


話 ス此 家 城  内 ニて至  て古 シ昔 シ麻 野

はなすこのいえじょうないにていたってふるしむかしあさの


家能時 の小野氏の屋しきと云 亦 大 石

けのときのおのしのやしきというまたおおいし


氏能屋しき趾 アリ之 ハ焼 て門 能ミ残 ル

しのやしきあとありこれはやけてもんのみのこる


瓦  を見ル尓二 ツ巴  アリ城 ハ一 方 ハ海 をか多

かわらをみるにふたつどもえありしろはいっぽうはうみをかた

(大意)

(補足)

「江戸結メ」、江戸詰メ。

「三日」、天明8年九月三日。1788年10月2日。

「麻野家」、浅野家。

「大石氏能屋しき趾アリ之ハ焼て門能ミ残ル」、画像は20190126 あこう路地さんぽ(旧城下町地区)資料より、 

『浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早かごで駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が叩いたと言われています。 

享保14年(1729)、建物の大半が火災に遭いましたが、長屋門だけが焼失をまぬがれ、その後建て替え等を経て数少ない江戸時代建築として非常に価値が高く、現在も城内に残っています』。

 門の瓦を拡大すると、二つ巴が確認できます。

 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)でしたので、江漢が訪れたときより、約85年前です。江漢さんのおじいさんぐらいの時代。まだ関係者や浪士の家族や親族がいたはずで、まだまだ生々しい出来事であったとおもいます。

 

2025年3月27日木曜日

江漢西遊日記三 その28

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

なり御影(カケ)石 是(コレ)なり此 宝 殿 ハ神 代

なりみ  かげ いし  これ なりこのほうでんはじんだい


造 リ多る者 ニて一 向 訳(ワケ)知レ春゛夫 より豆メ

つくりたるものにていっこう  わけ しれず それよりまめ


﨑 ヘ出ル市能河 能前 より姫 路能天 主

さきへでるしのかわのまえよりひめじのてんしゅ


見ヘる下(シモ)の手と云 処  キタナキ家 尓泊(トマ)る

みえる  しも のてというところきたなきいえに  とま る


昨 夜もノミ尓せ免られ篤 と不眠  困  入ル

さくやものみにせめられとくとねむれずこまりいる


二 日朝 ヨリ雨天 二里行 ていかるガへ至 里

ふつかあさよりうてんにりゆきていかるがへいたり


片 嶋 と云 処  より赤穂(アカウ)尓入 雨 も小降(フリ)ナリ

かたしまというところより   あこう にいるあめもこ  ぶり なり


松 山 を過キ城  下ニ至 ル爰 迄 三 里の路

まつやまをすぎじょうかにいたるここまでさんりのみち


なり入 口 河 アリて橋 を渡 リ市中  人

なりいりぐちかわありてはしをわたりしちゅうじん


家皆 瓦  屋町 尓魯庵 と云 醫ハ江戸

かみなかわらやまちにろあんといういはえど

(大意)

(補足)

「豆メ﨑ヘ出ル市能河能前より姫路能天主見ヘる」、現在の地図ですけど、確かに姫路城が見えます。

「二日」、天明8年九月二日。1788年10月1日。

「赤穂」、伊能図で確かめるも、いかるガ、片嶋、松山という地名が見当たりません。 


 ここ赤穂で街歩きするようです。

 

2025年3月25日火曜日

江漢西遊日記三 その27

P27 東京国立博物館蔵

(読み)略

石能宝

殿

石山

石山

四間四方

四間四方

一枚石也

(大意)

(補足)

 石の宝殿の画は現在のいろいろな写真とまったく同じです。 

岩山から切り出したもののようで、変わりようもなかったのでしょう。

Googleマップでこの石の表面までアップで近づくことができました。

 場所は昨日の「尾上の鐘」(おのえのかね)から加古川を渡ったところ。 

 この日記を旅案内として一緒に旅行している気分なのですけど、当時から237年もたっていて、そのあいだに大きな社会変革が何度かあったのに、ほぼほぼ地名などもまた観光地もたどれるというところが、おもしろい。

 

2025年3月24日月曜日

江漢西遊日記三 その26

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

入 田舎 路 ナリ尾 上の鐘 を見る其(コレ)世尓

いるいなかみちなりおのえのかねをみる  これ よに


有ル鐘 と異 ナリ龍  頭能処  尓穴 アリ是 ハ

あるかねとことなりりゅうずのところにあなありこれは


黄 色 能音 ニし多る者 と云 廻 里ニ天 人 を

おうしきのおとにしたるものというまわりにてんにんを


鋳付 多り夫 より高 砂子能松 住 吉 能

いつけたりそれよりたかさごのまつすみよしの


宮 曽根の松 ハ

みやそねのまつは


天 満 宮 の社

てんまんぐうのやしろ


の内 ニあり石 の

のうちにありいしの


宝 殿 ハ奇妙

ほうでんはきみょう


なる者 なり其

なるものなりその


近 邊 皆 山 石

きんぺんみなやまいし

(大意)

(補足)

「尾上の鐘」(おのえのかね)、神功皇后(じんぐうこうごう)(仲哀天皇の皇后)がもちかえったという朝鮮鐘。重要文化財。現存。

 江漢画と比べると似ているようなそうでないような。

「黄色能音」、黄鐘(おうしき)の音。『① 日本音楽の音名。十二律の八番目の音。中国十二律の林鐘(りんしよう)に相当し,音高は洋楽イ音にほぼ等しい』

 尾上の鐘の音がネットにあるのではないかと探しましたが、ありませんでした。他のお寺などの鐘の音はいろいろあるのですけど。

 

2025年3月23日日曜日

江漢西遊日記三 その25

P25 東京国立博物館蔵

(読み)

石 塔 ハ路 ノ者゛多尓あり竪(タテ)九  尺  余  文字ナシ

せきとうはみちのば たにあり  たて きゅうしゃくあまりもじなし


只 梵(ホン)字アル能ミ此 日

ただ  ぼん じあるのみこのひ


天 氣能 三 月 能

てんきよくさんがつの


如 し楽 しミ深カし

ごとしたのしみふかし


西 谷 と云 処  ヌリ屋と云フ

にしたにというところぬりやという


旅 舎 ニ泊 ル

りょしゃにとまる


九月 朔 日 天 氣須磨寺 アリ人 丸 能祠(ホコラ)

くがつついたちてんきすまでらありひとまるの  ほこら


門 尓碑アリ寛 文 四年 甲  辰 明 石城  主

もんにひありかんぶんよねんきのえたつあかしじょうしゅ


日向   守 源    信 之 と誌 ス夫 より姫 路

ひゅうがのかみみなもとののぶゆきとしるすそれよりひめじ


能城 を過 て加子(コ)川 と云フを渡 里左  尓

のしろをすぎてか  こ かわというをわたりひだりに

(大意)

(補足)

「九月朔日」、天明8年九月朔日。1788年9月30日。

「人丸」、柿本人麻呂。

「須磨寺」、画像のほぼ中央、屋根の左端が赤いところ。その右によったところに西代村があります(現在は西代(にしだい)駅がある)。西谷というのはここのことかも?

「姫路能城を過て加子(コ)川と云フを渡里」、加古川を渡る手前にあるのは明石城。

 江漢さん、西国への旅ははじめて。簡単な旅地図をもっているでしょうけど、ちょっと方向音痴なところがありそうです。

 

2025年3月22日土曜日

江漢西遊日記三 その24

P24 東京国立博物館蔵

(読み)

卅    日 能 天 氣彼岸 能中  日 なり爰 を出  立

さんじゅうにちよきてんきひがんのちゅうにちなりここをしゅったつ


して燕子花  能名 所 アリ芭蕉  塚 村 上 帝

してかきつばたのめいしょありばしょうづかむらかみてい


の社  アリ摂 津ノ国 播 州  と能堺 イ須摩能大

のやしろありせっつのくにばんしゅうとのさかいすまのだい


裏能址 テツカイガ峰(ミネ)ヒヨ鳥 越 ヘ夫 より東

りのあとてっかいが  みね ひよとりこえへそれよりひがし


垂(タル)水(イ)西 タルイ仲哀(アイ)王(テン)皇(コウ)の陵  千壺(ツボ)

  たる   い にしたるいちゅうあい   てん   こう のりょうせん つぼ


処  山 ニ能ほり見ル尓生 焼 のつ保゛径 リ一 尺  余

ところやまにのぼりみるになまやきのつぼ わたりいっしゃくあまり


能物 数 \/アリ皆 破 レ多り夫 より舞 子可゛

のものかずかずありみなやぶれたりそれよりまいこが


濱 ハ松 原 ニして右 ハな多゛らかなる山 なり左  ハ

はまにまつばらにしてみぎはなだ らかなるやまなりひだりは


波 打 向  尓淡 路嶋 見ヘ遥(ハル\/)向  尓ハ伊豫山 を

なみうちむこうにあわじしまみえ  はるばる むこうにはいよさんを


見ル海 中  嶋 \/見ヘて能 景 なり敦 盛 の

みるかいちゅうしまじまみえてよきけいなりあつもりの

(大意)

(補足)

「卅日」、天明8年八月卅日。1788年9月29日。

「彼岸能中日なり」、1755年以降は春・秋の彼岸は現在と同じようなので、どうして旧暦8月30日が中日なのか、わかりません。

「須摩能大裏」、須磨の内裏。

「テツカイガ峰」、鉄拐峰(てっかいがみね)。神戸市西部、須磨(すま)区と垂水(たるみ)区の境界にある六甲(ろっこう)山地の山。

「仲哀(アイ)王(テン)皇(コウ)の陵」、仲哀天皇の稜。わが国で4番目に大きい前方後円墳。

「敦盛の石塔」。敦盛塚と同じ。五輪塔。

 

2025年3月21日金曜日

江漢西遊日記三 その23

P23 東京国立博物館蔵

(読み)

新 兵衛と云 人 の方 ニ泊 ル

しんべえというひとのかたにとまる


廿   八 日 天 氣筑 嶋 清 盛 の塚 を見 夫 ヨリ

にじゅうはちにちてんきちくしまきよもりのつかをみるそれより


湊(ミナト)川 を過 て楠 能碑を見 碑より少 シ

  みなと かわをすぎてくすのひをみるひよりすこし


山 尓ニ入 リ廣厳(カン)寺ハ楠 寺 なり碑を石

やまに はいりこう がん じはくすでらなりひをいし


摺 ニして賣ル楠 の弓 矢亦タ像 アリ寺 ハ

ずりにしてうるくすのゆみやまたぞうありてらは


禅 宗  ニて和尚  雅人 ニて共 ニ布 引 の瀧

ぜんしゅうにておしょうがじんにてともにぬのびきのたき


を望 武和尚  詩作 アリ共 ニ興  して寺 ニ帰 ル

をのぞむおしょうしさくありともにきょうじててらにかえる


廿   九日 天 氣和尚  能像 を描(カキ)遣  ス草

にじゅうくにちてんきおしょうのぞうを  かき つかわすそう


画二三 枚 なり酒 素 めんを出し馳走 スル

がにさんまいなりさけそうめんをだしちそうする

(大意)

(補足)

「廿八日」、天明8年八月廿八日。1788年9月27日。

「湊(ミナト)川を過て楠能碑」、南北朝時代に足利尊氏と楠木正成が戦った「湊川の戦い」で有名。

「清盛の塚」「楠能碑」「廣厳(カン)寺」は神戸近在にあり、みな近い。「布引の瀧」は新幹線新神戸駅のすぐ北側。

「草画」、『そうが さうぐわ【草画】大まかな筆づかいで描いた絵。主に,南画系の墨画・淡彩画をいう』。

「素めん」、ちょうどこの頃に「灘目(なだめ、なだもく)素麺」があって、これがのちに「揖保乃糸」になっていったらしい。

 現在の神戸市周辺の観光です。半日散歩して仕上げは冷たい灘の酒と素麺、わたしもしてみたい。

 

2025年3月20日木曜日

江漢西遊日記三 その22

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

板 じき能上 ニあら武しろをしき能ミと蚊(カ)ニ

いたじきのうえにあらむしろをしきのみと  か に


せめられ難 ぎし漸   風 なお里て阿志川 能

せめられなんぎしようやくかぜなおりてあじがわの


河口 まで舩 出春と亦 風 悪 くなり舩 又

かこうまでふねだすとまたかぜわるくなりふねまた


爰 ニかゝる乗 合 能者 色 \/氣をもミ又 大

ここにかかるのりあいのものいろいろきをもみまたおお


坂 へ返 ル者 もアリ下賤 どもさ王く夫 故 武り尓

さかへかえるものもありげせんどもさわぐそれゆえむりに


舩 を出春風 アラク波 高 し皆 〃 舩(フネ)ニ酔ふ

ふねをだすかぜあらくなみたかしみなみな  ふね によう


中 ニ婦人 小児 を連 ル者 アリ小 児声(コヱ)を揚 て

なかにふじんこどもをつれるものありこども  こえ をあげて


啼 さけぶ吾 もいかんとせん迷 ひ漸 \/摩耶

なきさけぶわれもいかんとせんまよいようようまや


山 下 を打 過キぬ爰 ハ摩耶おろしとて灘(ナタ)也

さんしたをうちすぎぬここはまやおろしとて  なだ なり


程 なく北 風 吹 出し兵(ヘ ウ)庫(コ)磯 の町 尼 可崎 ヤ

ほどなくきたかぜふきだし  ひょう   ご いそのまちあまがさきや

(大意)

(補足)

「阿志川」、安治川。

「下賤ども」、なんともひどい言いようですが、当時の身分社会にあって、また江漢は特に自負心の強い有名を求める人であったようですから(それでも老人や子どもにはやさしい)、このような言葉を使うことも全く気にしなかったはずです。

「摩耶山」、現在では人気のハイキングコース。北西に神戸、東には六甲山。 


 なんとか神戸に着いたようです。

 

2025年3月19日水曜日

江漢西遊日記三 その21

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

春江戸吉 原 能川岸(カシ)見世能様 なり紅(アカキ)キ

すえどよしわらの   かし みせのようなり  あかき き


衣(イルイ)以 て打 かけ顔 色 能く見へると雖   甚  タ

  いるい もちてうちかけかおいろよくみえるといえどもはなはだ


似せ物 ニて大 笑  なり

にせものにておおわらいなり


廿   六 日

にじゅうろくにち


墨 画少 し認  メル氣分 あしゝ

ぼくがすこししたためるきぶんあしし


廿   七 日 雨 降 ケンカ堂 ヨリ鯛 と蛤   を贈 ル京

にじゅうしちにちあめふるけんかどうよりたいとはまぐりをおくるきょう


大 坂 ニてハ者まく里貴  シ明日ハ出  立 せんとて

おおさかにてははまぐりたっとしあすはしゅったつせんとて


所  々  暇  乞 ニ行ク又 色 \/拂  等 済ム其 晩

ところどころいとまごいにゆくまたいろいろはらいとうすむそのばん


方 西 国 橋 と云フより乗リ合 舩 ニのる其 夜

がたさいごくばしというよりのりあいふねにのるそのよ


天 氣風 ホ あしく舩 出デ春゛宵 より夜明 て

てんきかぜとうあしくふねいでず よいよりよあけて


五時前 迄 舩 中  ニ居ル一 向 不眠  其 上(ウヘ)下タハ

ごじまえまでせんちゅうにおるいっこうねむれずその  うえ したは

(大意)

(補足)

「雖」、『いえども』。「口」+「虫」+「隹」。訓読みは学んでいないと読むのは不可能。

「甚タ似せ物ニて大笑なり」、こちらは江戸吉原、有名な葛飾応為「吉原格子先之図」の画ですが、これが本物であるという江戸っ子の自負が江漢さんあったのでしょう。 

 どちらも、同じようなものにみえますけど・・・。応為は北斎の娘。大好きな絵師です。

「廿六日」、天明8年八月廿六日。1788年9月25日。

 10日間ほど楽しんだ大阪も出立せんと、夜半に乗り合い舟に乗ったものの、天気悪しく出ることできず、朝8時まで船中でうつらうつら。さてさてどうなることやら。

 

2025年3月18日火曜日

江漢西遊日記三 その20

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   四 日天 氣少  〃  不快 アンマノ曰  堀 江白 人 一

にじゅうよっかてんきしょうしょうふかいあんまのいわくほりえはくじんひと


坐と云 ハ二匁  なり二 坐と云 ハ三 匁  なり道 とん

ざというはにもんめなりふたざというはさんもんめなりどうとん


堀 ハ三 匁  八 分花 なり亦 新 町 ニ見世を張リ居

ぼりはさんもんめはちぶはななりまたしんまちにみせをはりお


るハ六 字と申  六 十  四 文 花 なりせん香 一 本 を

るはろくじともうしろくじゅうよんもんはななりせんこういっぽんを


三 つ尓折リて其 一 本 多川間なりとぞ尤  モ何 レ

みっつにおりてそのいっぽんたつまなりとぞもっともいずれ


毛雑 用 ハ別 なり蝋 燭 の代 迄 取ルなり惣(ソウ)

もざつようはべつなりろうそくのだいまでとるなり  そう


拂 ヒ能時 尓二割 引 ニして拂 ふ此 地の風 なり

はらいのときににわりびきにしてはらうこのちのふうなり


廿   五日 天 氣順  ケイ町 の夜市 ハ両  側 能

にじゅうごにちてんきじゅんけいまちのよいちはりょうがわの


家 見世を開 きおよそ十  余町  行 当 リハ

いえみせをひらきおよそじゅうよちょうゆきあたりは


新 町 ヘ至 ルかえり尓彼 六 字能見世付 を見 物

しんまちへいたるかえりにかのろくじのみせつきをけんぶつ

(大意)

(補足)

「廿四日」、天明8年八月廿四日。1788年9月23日。

「匁」、『もんめ【匁】② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1』。三匁、三匁八分、六十四文と貨幣単位がでてきますが、どうもよくわかりません。ここは大阪なので銀使いなことだけは確かですけど。

「花」、『㋐ 芸人などに与える金品。また,芸娼妓や幇間(ほうかん)の揚げ代。花代。〔「纏頭」とも書く。花の枝に贈り物を付けたところから〕

㋑ 芸娼妓や幇間の花代を計算するために用いる線香。また,それで計る時間。「―を恨み,鶏を惜(にく)み」〈洒落本・南遊記〉』

「順ケイ町の夜市」、筒井順慶(戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名)の屋敷跡といわれ、新町橋の西にあり、対岸の遊郭瓢箪町とともに通年賑わった、とありました。 

                                                        浪花名所図会「順慶町夜見世之図」

「新町」、『大阪市西区中央部の地名。寛永年間(1624〜1644)の新地で,公許遊郭が置かれ,京の島原,江戸の吉原とともに知られた』

「見世付」、『遊女屋の表に面した格子の部屋をさし、客は格子越しに好みの女性を品定めした』

               浪花百景「新町店津起」

 江戸と大阪の遊郭の比較、江漢さん興味津々です。

 

2025年3月17日月曜日

江漢西遊日記三 その19

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

廣 し地代 家賃 安(ヤス)き所  と云 夫 よりして

ひろしちだいやちん  やす きところというそれよりして


妙  国 寺ニ至 リ蘇鉄 を見ル返 リ尓蛤   一 升

みょうこくじにいたりそてつをみるかえりにはまぐりいっしょう


求 メし尓一 升  四 十  文 なり

もとめしにいっしょうよんじゅうもんなり


廿   二日 天 氣飯 後 より蒹 葭堂 吉 右衛門

にじゅうににちてんきめしのちよりけんかどうきちえもん


へ行 亦 油  屋吉 右衛門とて犬 蒹 葭と云 人

へゆきまたあぶらやきちえもんとていぬけんかというひと


是 ハ大 家ニてケンカと同 道 して行ク酒

これはたいかにてけんかとどうどうしてゆくしゅ


肴 を出し色 々 珍 物 見 物 して帰 ル今 夜

こうをだしいろいろちんぶつけんぶつしてかえるこんや


ケンカニ泊 ル

けんかにとまる


廿   三 日 天 氣少 シ冷 氣伏 見六 右衛門かえるとて

にじゅうさんにちてんきすこしれいきふしみろくえもんかえるとて


画認  メ贈 る

えしたためおくる

(大意)

(補足)

「妙国寺ニ至リ蘇鉄」、現在は国指定天然記念物。江戸期の『和泉名所図会』(いずみめいしょずえ)には「大枝22本、小枝78本、総まわり25尺、高さ22尺余り、枝葉6から7間は一面の蒼色ですいらんの如し」と記され、古くから堺の名木の一つとして知られていた。

「廿二日」、天明8年八月廿二日。1788年9月21日。

「油屋吉右衛門」、江戸時代における顕微鏡の製作は顕微鏡の活用が進む中で,国産顕微鏡づくりへの挑戦も始まっていて,天明元年(1781年) 大阪には反射鏡と集光器のつ いた倍率100倍の顕微鏡があった,これは木村兼葭堂のもっているオランダ渡りの顕微鏡を真似て,服部永錫 (通称油屋吉右衛門)が数人の職人とともに作ったものという記録がある。と医器学Vol.74,No,7(2004)にありました。

 江漢さん、22日23日と観光はせずに、蒹葭堂宅に泊まり歓談、また画を認めました。

 

2025年3月16日日曜日

江漢西遊日記三 その18

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

側 傘   を造 ル職(シヨク)人 なり夫 ヨリ畑(ハタ)の路 へ

がわからかさをつくる  しょく にんなりそれより  はた のみちへ


出テ此 邊 綿 を畑  ニうゆ夫 より左右

でてこのへんわたをはたけにうゆそれよりさゆう


料  理やあり石 能鳥 居ソリ橋 クツレテ

りょうりやありいしのとりいそりはしくずれて


石 能杭(クヒ)能こる宮 居三 殿 あり石 灯 籠

いしの  くい のこりみやいさんでんありいしどうろう


多 し夫 ヨリ濱 邊へ行キ松 原 能中 ヲ通 リて

おおしそれよりはまべへゆきまつばらのなかをとおりて


茶 ヤあり爰 ニて酒 を呑 蛤   あり亦 元 へ帰 り

ちゃやありここにてさけをのむはまぐりありまたもとへかえり


往 来 を少 シ行キ難 波屋能笠 松 ヲ見て

おうらいをすこしゆきなんばやのかさまつをみて


一 里程 亦 行キ堺  と云 処  ニ至 ル両  側 能きを

いちりほどまたゆきさかいというところにいたるりょうがわのきを


並ラへて家ヱ至  テ大 キシウドン蕎麦屋アリ

ならべていえいたっておおきしうどんそばやあり


中 庭 アリ石 灯 籠 萩 垣 なとありて内 至  テ

なかにわありいしどうろうはぎがきなどありてうちいたって

(大意)

(補足)

「大坂を出離レの町両側傘を造ル職(シヨク)人なり」、浪速区報No.106(2025年2月号)の記事にこのようなものがありました。

『長町

日本橋は、現在の堺筋にあたる紀州街道沿いに架けられた公儀橋でした。少なくとも鎌倉時代頃までは海辺で「名呉の浜」と呼ばれ、堺筋あたりが海岸線で恵美須町交差点付近が港だったといわれています。陛地化に伴い「名呉町」と称され、細長いまちの形から「長町」と改められました。その後、1792(寛政4)年に長町1〜5丁目を「日本橋」と改称、さらに1872(明治5)年に「日本橋」と旧日長町6〜9丁目はすべて「日本橋筋」と改称されました。1980(昭和55)年に日本橋に改称』

『~盛んだった番傘作り~

長町の東も西も、昔は畑でした。

住吉街道と紀州街道の間に、油を搾って大阪のまちに売りに行って生計を立てていた方が多くおられました。油を搾って出た粕(カス)は畑に捨てに行っていたんですが、このあたりは砂地ですので、その砂地と油粕が合わさって良い畑ができたんです。そこで難波葱や金時にんじん、(かぶら)などを作っていました。明治の時代になって難波駅ができたときは、「葱(ねぎ)畑のなかの難波駅」と言われたそうですよ。江戸時代、うちの寺の西側で畑を作っていた人たちの農開期の手間仕事として番傘作りが盛んでした。番傘は傘張りをして油を塗って作ります。「浪花百景」の中に、油を塗って干してあった傘が突然の風で飛ばされていく様子が描かれています。傘に塗る油は、長町の油屋さんの粕油です。燃やすしかないような油を手に入れて、傘に塗ってそれを乾燥させるんです。そのまとめ役をしていたのが、「御蔵跡」のあたりにあった傘屋さんたちです。

油紙も和紙に油を塗って作って、大阪のまちの中に売りに行きました。江戸時代に、折りたたんで荷物の中に入れておいて雨が降ったら広げて着る、油紙で作られた携帯用の雨ガッパが流行りました。油紙は本来、書状などの大切なものが濡れてしまわないように作られたものですが、水をはじくという特性からカッパを作ったんですね。当時の大阪のまちの人の発想はすごいと思います』

 摂津名所図会二にこんなほほえましい画があります。広重「長町裏遠見難波蔵(浪花百景)」にもあります。 

「宮居」、『みやい ―ゐ【宮居】

① 神が鎮座すること。また,その所。神社。「神代よりつもりの浦に―して」〈千載和歌集•神祇〉』

「難波屋能笠松」、『江戸期には長柄の杓に茶碗をのせて客に対応することで評判であった小町茶屋があり、茶屋の難波屋はその南側に位置し「あんもち」などで繁盛した。付近には大小2本の老松があり、地を這うばかりに四方に枝先を広げ、その姿が笠に似ているところから「笠松」と呼ばれた』 

広重「安立町難波屋乃ま川(アンリュウマチナニワヤノマツ)」。浪花名所図会。

 左下に「九丁」とあり、その前には「八丁」とありますが、それらの前後にはありません。

 大阪から堺の地図、

 当時は片側がずっと浜辺で遠くに淡路島が見え(日記にはでてきてませんけど)、きれいだったことでしょう。

 

2025年3月15日土曜日

江漢西遊日記三 その17

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

参 ル妓 子小梅 お浅 を呼ヒ大 酔 春其 夜

まいるげいここうめおあさをよびおおよいすそのよ


爰 ニ泊 ル村 ハ大 坂 の者 ニて親 兄  弟 なし年ン

ここにとまるむらはおおさかのものにておやきょうだいなしねん


明け前 ニて三 十  両  出し被下  候  得ハ年 も春ミ

あけまえにてさんじゅうりょうだしくだされそうらえばねんもすみ


江戸なりとも長 崎 ヘなり共 津れていて

えどなりともながさきへなりともつれていて


下タされと云 そおかし

くだされというぞおかし


廿   一 日 天 氣此 節 角 力あり町 中  角 力

にじゅういちにちてんきこのせつすもうありまちじゅうすもう


能太 鞁廻 る其 太 鞁小  キ也 音 カチ\/と云

のたいこまわるそのたいこちいさきなりおとかちかちという


道 とん堀 時 ハドラをなら春亦 太 鞁也

どうとんぼりときはどらをならすまたたいこなり


四時より住 吉 へ行 ンとして日本 橋 通 リ堺

よじよりすみよしへゆかんとしてにほんばしとおりさかい


春じ直(マツスク)尓行キ大 坂 を出離 レの町 両

すじ  まっすぐ にゆきおおさかをではなれのまちりょう

(大意)

(補足)

「候得ハ」、似たような用例に、候而者(そうらいては):~しては、候得共(そうらえども):~ですが、候ハヽ(そうらわば):~したならば、などいろいろあります。

「廿一日」、天明8年八月廿一日。1788年9月20日。

「太鞁」、太鼓。

 ほんとかうそか(きっと本当のことだとおもいますが)、村を年明け前にひかせるには(よく時代小説や時代劇にでてきます)30両という大金が必要なことがわかります。


 

2025年3月14日金曜日

江漢西遊日記三 その16

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

ぬゐ多るあり又 ハ腰 より下 色 能か王り多る

ぬいたるありまたはこしよりしたいろのかわりたる


あり春べて男 女 共 尓小婦りニて風 俗 等

ありすべてだんじょともにこぶりにてふうぞくなど


都  と甚  タおも武き違 ヒぬ

みやことはなはだおもむきちがいぬ


廿 日天 氣此 日伏 見より六 右衛門 参 る

はつかてんきこのひふしみよりろくうえもんまいる


共 尓浮 フ瀬と云 茶 やヘ参 ル爰 ハ年 々 お

ともにうかぶせというちゃやへまいるここはねんねんお


らん多゛人 此 茶 ヤへ参 ルよし大 坐しき

らんだ じんこのちゃやへまいるよしおおざしき


二 間あり山 岸 ニ家 を造 ル向  ハ畑  見へるなり

ふたまありやまぎしにいえをつくるむこうははたけみえるなり


赤 前 多れの中 居数 人 出杓(シヤク)を取 夫 より

あかまえだれのなかいすうにんで  しゃく をとるそれより


清 水 観 音 へ参  亦 天 王 寺ヘ行ク見 物 しかへり

きよみずかんのんへまいるまたてんのうじへゆくけんぶつしかえり


尓亦 道 とん堀 竹 荘  へあかり彼 村 と云 白 人

にまたどうとんぼりたけしょうへあがりかのむらというはくじん

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年八月廿日。1788年9月19日。

「浮フ瀬と云茶や」、『料亭「浮瀬亭」跡(大阪聖光学院敷地内)

夕陽の名所であり、四天王寺支院である新清水寺の有栖山清光院の北隣で大阪星光学院校地西に当たる当地には、かつて江戸時代大坂を代表する料亭「浮瀬亭」がありました。

浮瀬亭は、その素晴らしい眺望とともに「浮瀬」という奇杯を所蔵していたことで多くの文人墨人をひきつけました。(後略)』 

『浮瀬(う可むせ)浮瀬(う可むせ)尓て酒(し由)を 春ゝめ相坂(あふさ可)の しミ川尓よりて 相坂(あふさ可)の水尓 紅葉(もミぢ)の かけミれハ 今や照(てる)らん 酒(さけ)春起の 顔(可ふ)』

「清水観音」、「清水寺」のことでしょう。左下に「う可むせ」とあります。 

 二枚の画像ともに「摂津名所図会2」NDL蔵。

こんなところでいっとき過ごしてみたいものです。

 江漢が浮瀬の様子を記した通り、「大坐しき二間」で楽しそうな宴会をしています。清水坂にそって「山岸ニ家を造」ってあり、正門の「向ハ畑見へ」ています。

 一緒に旅している感じで楽しいですね。

 

2025年3月13日木曜日

江漢西遊日記三 その15

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

坂 風 ニてめ川らし夫 より白 人 来 ル爰 ニてハ

さかふうにてめずらしそれよりはくじんきたるここにては


お山 を白 人 と呼フ江戸深 川 能如 キ処  ニて

おやまをはくじんとよぶえどふかがわのごときところにて


帯 付 常 の女  能風 なり總 て江戸の女  と

おびつけつねのおんなのふうなりすべてえどのおんなと


顔 色 も違 ヒぬ鼻 筋 皆 とをりて長(ナカ)なり

かおいろもちがいぬはなすじみなとおりて  なが なり


の顔 多 し此 女  廿   一 二と見ヘ名ハ村 と云フ

のかおおおしこのおんなにじゅういちにとみえなはむらという


服 ハ花 色 里ん春゛で帯 ハシユス能白 キ尓墨

ふくははないろりんず でおびはしゅすのしろきにぼく


画を織里多る者 也 尤  モ衣装  ハ色 \/時 の

がをおりたるものなりもっともいしょうはいろいろときの


流 行 あり妓 子ハ八重(ハブタエ)地をあさぎニ染メ

りゅこうありげいこは   はぶたえ ぢをあさぎにそめ


惣 模様 或  ハ津まあかり半 ゑ里能処

そうもようあるいはつまあがりはんえりのところ


まて模様 あり帯 ハ緋ジユス金 糸(シ)ニて

までもようありおびはひじゅすきん  し にて

(大意)

(補足)

「白人」、『はくじん② 〔「白人(しろうと)」を音読みした語〕

㋐ 近世,上方で,私娼。また,公認の遊里以外の地にいた遊女。しろと。はく。「―芸子の今様めけるは,南北に風情をたたかはす」〈滑稽本・風流志道軒伝〉

㋑ 技芸などに熟達していない人。素人(しろうと)。「京の色里にて手弱き客を―と言へり」〈浮世草子・新吉原常々草〉』

「鼻筋皆とをりて」、やはり「と」と「を」はそっくりです。

「里ん春゛」、『綸子とは、経糸(たていと)、緯糸(よこいと)どちらも よらない糸を使用した織物で、後染め用の生地です。綸子は、織り方によって地紋が浮き出るのが特徴で、縮緬(ちりめん)よりも薄手ですが、光沢があり手触りが柔らかく滑らかです。振袖などの着物以外にも、襦袢や帯揚げなどにも利用されます。また、生地が薄いため、裏地のついた袷(あわせ)仕立てのほか、真夏以外の暑い時期に着用できる、裏地の無い単衣(ひとえ)仕立てにも利用できます』とありました。

「シユス」、『繻子とは、繻子織りの略称で、織り方の基本とされているものです。手触りが滑らかで光沢があるのが特徴で、足袋や帯によく利用されます』とありました。

「八重(ハブタエ)」、羽二重。

「あさぎ」、『あさぎ【浅葱】〔「葱(き)」はネギの古名。薄い葱の葉の色の意。「浅黄」は当て字〕① わずかに緑色を帯びた薄い青。また,青みをおびた薄い緑色。あさぎ色。「―袴(ばかま)」「―帽子(ぼうし)」』

 「廿一二と見ヘ名ハ村」という女の衣装を細かく観察し、さらに妓子にも目を輝かして江漢さんなめるように着物の品定めをしています。画を描いてくれればよかったのにとおもいます。

 

2025年3月12日水曜日

江漢西遊日記三 その14

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

十  九日 天 氣芝 居近 所 至  て繁 昌  の

じゅうくにちてんきしばいきんじょいたってはんじょうの


処  二三 町  の内 裏 店 アリ其 外 ハあまりなし

ところにさんちょうのうちうらだなありそのほかはあまりなし


時 ハたゐこを打ツ又 ハ鳴 子をなら春風

ときはたいこをうつまたはなるこをならすふ


呂屋近 所 ニハ見得春゛路 巾 至  テせ者゛し

ろやきんじょにはみえず みちはばいたってせば し


傘   をさして二 人並 ンで行カ連春゛江戸能如

からかさをさしてふたりならんでゆかれず えどのごと


く商  人 見世尓色 々 を並 ヘる此 節 辻 \/尓ハ

くしょうにんみせにいろいろをならべるこのせつつじつじには


なつめをうる其 日も暮レて日暮 よりして

なつめをうつそのひもくれてひぐれよりして


道 とん堀 芝 居ある処  ノ竹 やと云フ茶 や

どうとんぼりしばいあるところのたけやというちゃや


へ行キ小梅 と云 妓子(ケイコ)又 おあさと云フと二 人

へゆきこうめという   げいこ またおあさというとふたり


呼ヒ色 \/酒 肴 を出し三 味せんう多ハ大

よびいろいろしゅこうをだししゃみせんうたはおお

(大意)

(補足)

「十九日」、天明8年八月十九日。1788年9月18日。

「時ハたゐこを打ツ又ハ鳴子をなら春」、江戸ではお寺の鐘が順繰りに鳴り広がってゆくところ、大阪ではということ。江戸でも太鼓(御城の太鼓の音が聞こえてくる)で知らせるときもあったような。「セコーミュージアム銀座」のHPが詳しいです。

「色々を並ヘる」ここの「を」は「と」で、「おあさと云フと」の「と」は「を」のほうがよさそうです。ふたつは似ていて微妙。

 大阪の街なかの様子、読んでいて楽しいですね。237年前とはおもえません。

 

2025年3月11日火曜日

江漢西遊日記三 その13

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

四五町  過 て権 現 の祠  ニ参 ル夫 より天 満橋

しごちょうすぎてごんげんのほこらにまいるそれよりてんまばし


を渡 リて城 見ヘ能 景色 なり田沼 屋しき能

をわたりてしろみえよきけしきなりたぬまやしきの


跡 と云 処  あり夫 より大 手ノ前 へ出で此 路 ニ

あとというところありそれよりおおてのまえへいでこのみちに


て美人 蕉  を見ル植 木やなり芭蕉  ノ

てびじんしょうをみるうえきやなりばしょうの


如 くタンドクニ似テ中 ヨリ至  て紅(アカキ)色 ナル

ごとくたんどくににてなかよりいたって  あかき いろなる


花 出ツ花 ハ葉能巻キハノ如 キ者 なり至

はないずはなははのまきはのごときものなりいたっ


て寒 氣をおそると云フ往 来 春る婦人

てかんきをおそるというおうらいするふじん


夏月 ハう春絹 呂ノ類  を以  帽 子として

かげつはうすきぬろのたぐいをもってぼうしとして


之 をか武る冬 ハ綿 ニて作 ル女  能髪 能

これをかむるふゆはわたにてつくるおんなのかみの


風 東 都と甚  タ異  リ

ふうとうととはなはだことなり

(大意)

(補足)

「天満橋を渡リて城見ヘ能景色なり」、こんな眺めだったのだとおもいます。 

歌川国員(うたがわ くにかず)。浪花百景「天満橋風景」(大阪市立図書館蔵)。

「能景色」の「能」のくずし字は、変体仮名「能」(の)のかたちとはことなっています。

「田沼屋しき能跡」、天明6年(その2年後に死去)に失脚し、五万七千石に及んだ領地、屋敷の大半を没収された。

「美人蕉」、いまではよく目にすることができますが、当時は珍しかったのかも。 

 江漢さんの大阪見物日記が続きます。当時の民衆の普段の姿が記されていてとても貴重です。

 

2025年3月10日月曜日

江漢西遊日記三 その12

P12 東京国立博物館蔵

(読み)

の夜多か能事 なり夜多かハ大 坂 可よし亦 日

のよたかのことなりよたかはおおさかがよしまたに


本 橋 出テ道 とん堀 ヘ行キ芝 居坐五軒

ほんばしでてどうとんぼりへゆきしばいざごけん


あり茶 屋ヘあかり丸 山 可画を見酒 を出ス

ありちゃやへあがりまるやまがえをみさけをだす


妓 子二 人呼ヒ一 興  して返 る

げいこふたりよびいっきょうしてかえる


十  八 日 曇 リて後 天 氣四時比 より北 堀 江

じゅうはちにちくもりてのちてんきよじころよりきたほりえ


蒹 葭堂 へ参 ル吾カ造 ル銅 板 両  国 の圖を

けんかどうへまいるわがつくるどうはんりょうごくのずを


見セける尓誠  尓日本 創 製 なりと云ツて感

みせけるにまことににほんそうせいなりといってかん


心 春る菓子酒 等 出し七 時過 ニ中 津町  へ

しんするかしさけとうだししちじすぎになかつちょうへ


かえり亦 亭 主 と北 の方 十  四五町  程 行 て天

かえりまたていしゅときたのほうじゅうしごちょうほどゆきててん


神 橋 ヘ出渡 リて天 満 宮 ヘ参 ル夫 より東  ノ方 へ

じんばしへでわたりててんまんぐうへまいるそれよりひがしのほうへ

(大意)

(補足)

「丸山」、円山応挙(1733〜1795)。この日記は1788年なので応挙は存命中。

「十八日」、天明8年八月十八日。1788年9月17日。

「四時比より北堀江蒹葭堂へ参」り「七時過ニ中津町へかえ」ったので、朝10時頃から夕方4時頃までほぼ半日お邪魔していたことになります。自慢の銅版画「両国の図」を見せ、お褒めに預かり、気分もよろしかったようです。

 

2025年3月9日日曜日

江漢西遊日記三 その11

P11 東京国立博物館蔵

(読み)

太夫 ハ不揚 と春武なり亦 太夫 を借リて

たゆうはあげずとすむなりまたたゆうをかりて


見ル尓ハ僅(ワツカ)能物 入 ニて二十  五六 人 出てるかゐ

みるには  わずか のものいりにてにじゅうごろくにんいでるかい


と里装  束 ニてツイ立 能陰(カケ)より出客  ノ前

とりしょうぞくにてついたての  かげ よりできゃくのまえ


ニて盃   を手ニ取 酒 を呑ムま袮方 をして

にてさかずきをてにとりさけをのむまねかたをして


立 能くなり其 内 我カ氣ニ入 多るを揚 る事

たちのくなりそのうちわがきにいりたるをあげること


なり之 ハ江戸尓なき事 也 夜 ニ入 个連ハ先

なりこれはえどになきことなりよるにいりければまず


宿 ヘかえり夫 より硝石板(ヒイトロイタ)を造 ルと云 者 能

やどへかえりそれより    びいどろいた をつくるというものの


方 を尋 子其 路 石 屋アル処  を通 ル何 ヤラ

かたをたずねそのみちいしやあるところをとおるなにやら


マゝ焚(タキ)女  と云 風 俗 ニて路次の入 口 など尓

まま  たき おんなというふうぞくにてろじのいりぐちなどに


立チ居る何ンシヤと聞 ハあれハソウカとて江戸

たちいるなんじゃときけばあれはそうかとてえど

(大意)

(補足)

「かゐと里装束」、『かいどりすがた【搔取姿】褄(つま)(着物の裾(すそ)の左右両端の部分。また,竪褄(たてづま)のこと)をとって裾をからげた姿。「逃ぐる―のうしろ手」〈徒然草•175〉』

「硝石板(ヒイトロイタ)を造ル」、「大阪ガラス発祥之地」の碑。 大阪市北区にある大阪天満宮の正門の西側に「大阪ガラス発祥之地」の碑があります。その碑によると、江戸中期の宝暦年間(1751~1764)に大阪天満宮の前でガラスの製造を始めた長崎の商人・播磨屋清兵衛が、「大阪 ガラス商工業ノ始祖」だとされています。播磨屋清兵衛は、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、大阪に持ち込んだのです。とありました。

「ソウカ」、『そうか【総嫁・惣嫁】江戸時代,京坂地方で夜,街頭に立って客を引いた下級の娼婦。辻君(つじぎみ)。そうよめ』

「二十五六人出てるかゐと里装束ニてツイ立能陰(カケ)より出客ノ前ニて盃を手ニ取酒を呑ムま袮方をして立能くなり」、まるで時代劇の一場面を見ているような描写です。

 

2025年3月8日土曜日

江漢西遊日記三 その10

P10 東京国立博物館蔵

(読み)

宿 ニ至 ル嶌 能内 清水 町  筋 中 津町  と

やどにいたるしまのうちしみずちょうすじなかつちょうと


云フ処  丸 屋清 兵衛方 ニ至 ル此 者 案内 ニて

いうところまるやせえべえかたにいたるこのものあないにて


どうとん堀 芝 居ノ邊  を通 リ北 堀 江蒹(ケン)

どうとんぼりしばいのあたりをとおりきたほりえ  けん


葭(カ)堂 ヘ参 リ又 米 市 場テンマヤ加助 米 師ヘ参

  か どうへまいりまたこめいちばてんまやかすけこめしへまいる


夫 より新 町 を見 物 春皆 揚 屋ニて其 内

それよりしんまちをけんぶつすみなあげやにてそのうち


吉 田屋と云フハ名 家なり夕霧(ユウキリ)能文 を珍

よしだやというはめいかなり   ゆうぎり のふみをちん


蔵 春爰 ハ江戸吉 原 同 前 能処  ニて太夫

ぞうすここはえどよしわらどうぜんのところにてたゆう


あり揚 代 七 拾  五匁  雑 用 共 なり揚 屋

ありあげだいななじゅうごもんめざつようともなりあげや


ニ中 居とて若 キ女  緋ちりめん紫   縮 緬 の

になかいとてわかきおんなひちりめんむらさきちりめんの


前 ヒ多゛れ尓て出て取 持 妓子(ゲイコ)数 人 よびて

まえひだ れにてでてとりもつ   げいこ すうにんよびて

(大意)

(補足)

「丸屋清兵衛」、未詳だが、木村蒹葭堂とかなり親しかったらしく、「蒹葭堂日記」に頻繁に顔を見せている、とありました。

「蒹葭堂」、元文元年(1736)〜享和二年(1802)。この地に来ると誰もが訪れる有名人。

「夕霧」、延宝六年(1678)正月六日没。浪華の名妓扇屋夕霧。江戸の高尾、京の芳野と並び称された。 

著者豊国 出版者魚栄 出版年月日 文久1(1861)。

鬼貫(おにつら)の句「古能塚(つ可)者 柳(や奈ぎ) 奈久帝も 哀(あハれ)那り」。

「吉原同前」、同然。

 江漢さん、このあと10日間ほど、大阪を楽しむことになります。

 

2025年3月7日金曜日

江漢西遊日記三 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

壱 人 前 百  文 二 人して四人 前 借ル夜 ハ五時過

いちにんまえひゃくもんふたりしてよにんまえかるよるはごじすぎ


ニ舟 を出春段 々 と下 リ舟 ニて淀 能方 ニ趣  ク

にふねをだすだんだんとくだりふねにてよどのほうにおもむく


月 出 漸  ク照ラして淀 能城 水 車  大 橋 を越

つきいでようやくてらしてよどのしろみずぐるまおおはしをこ


へ山 崎 山 右 尓見ヘ夫 より程 なく牧方(ヒラカタ)ニ至 ル

へやまざきやまみぎにみえそれよりほどなく   ひらかた にいたる


此 河 中 物 賣 舟 酒 汁 飯 一 向 ニあじなき

このかわなかものうりふねさけしるめしいっこうにあじなき


物 をうる尓クラワン\/  と云フ此 云ヒ方 爰 能

ものをうるにくらわんくらわんというこのいいかたここの


名 物 なり夫 より守口(モリクチ)など云フ処  を経て

めいぶつなりそれより   もりぐち などいうところをへて


程 なく大 阪 八 軒 と云フ処  尓舟 を津ける

ほどなくおおさかはちけんというところにふねをつける


明 て五時比 なり

あけてごじごろなり


十  七 日 天 氣日本 橋 かな物 屋と云 旅 人

じゅうしちにちてんきにほんばしかなものやというたびにん(やど)

(大意)

(補足)

「壱人前」、「壱」のくずし字は頻出なのですけど、どうも苦手です。t+z のような感じ。

「段々」、PCのくずし字検索ではありませんでしたが、くずし字辞典にはちゃんとこのくずし字がありました。

「淀能城水車」、このことでしょうか。月明かり(ほぼ満月なのでとても明るい)でよく見えたのでしょう。

「伏見」から「枚方」までの航路。 

「物売舟」、こんな舟にのったのでしょう。こんな舟で川下りしてみたいものです。 

「守口」、「大阪八軒」は大阪城側の天神橋左側の船着き場。 

 夜の五時(8時)に舟を出して、明けて五時(8時)の12時間の船旅でした。淀川の下りで、距離はおよそ40km程度、もっと速いのかと思ったら、意外と遅い。

「十七日」、天明8年八月十七日。1788年9月16日。

 ようやく、大阪に到着しました。ほぼ四ヶ月かかっています。