2024年11月23日土曜日

江漢西遊日記一 その10

P10P11 東京国立博物館蔵

(読み)

生  して木なし

しょうじてきなし


熱 海より日金 地蔵 堂

あたみよりひがねじぞうどう


まて五十  町  登 ル亦 爰

までごじゅっちょうのぼるまたここ


より五六 町  能ほりて

よりごろくちょうのぼりて


圓(マル)山 アリ

  まる やまあり


坊 舎 三 軒 肉 喰

ぼうしゃさんげんにくじき


妻 躰 なり

さいたいなり


地蔵 堂 昔 シハ六 角

じぞうどうむかしはろっかく


今 ハ四角 トナル

いまはしかくとなる


二十  八 年 過 ルうち尓

にじゅうはちねんすぐるうちに


山 奥 まても

やまおくまでも


開 け多り

ひらけたり


P11

坊 舎 立 場

ぼうしゃたてば


<冨士の画>

(大意)

(補足)

 今でいえばちょうど梅雨時六月上旬。

冨士の眺めがよい。

「二十八年過ルうち尓」、この旅は天明8(1788)年4月中旬出発で、その後江漢は4,5回この近辺を旅していて、頭注(やフリガナもきっとそうだろうと考えます。手もとにあるこの日記を読み返すたびに加えていったという雰囲気)は文化12(1815)年頃に書かれているので、約28年過ぎている。江漢さんは計算間違いや誤字脱字や思い込みが激しい人柄だったようですけど、この部分は正しそう。

 やわらかい線でやさしい絵になっています。うす〜く彩色したらきれいだろうな、とは素人の所見。


 

2024年11月22日金曜日

江漢西遊日記一 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

五六 町  小路 ヲ登 ル尓山 頂  春こし平 ラカなる

ごろくちょうこみちをのぼるにさんちょうすこしたいらかなる


所  あり石碑(ヒ)あり眺  望 を誌 ス

ところありせき ひ ありちょうぼうをしるす 


[箱 根ヨリ越 ル立 場トナル日金 越ヘトテ駕(カ)ゴ往 来 ス]

 はこねよりこゆるたてばとなるひがねごえとて  か ごおうらいす


伊豆国賀茂郡日金頂所観望者

十国五嶋自子至卯相模国武蔵国

安房国上総国下総国自辰至甲其

国所隷之南五箇嶋及遠江国自

酉至玄駿河国信濃国甲斐国天

明三年八月東都林居士應熱海

長渡邊房求之需建之


此 眺  望 誠  尓日本 第 一 也 此 邊 能山 ハカヤ

このちょうぼうまことににほんだいいちなりこのへんのやまはかや


(大意)駄文のつづき

 円山頂上からの眺めを描いている。

「円山頂きより西を望む。箱根山より三嶋、沼津、狩野河、冨士河見へる。」

その風景、230年前が昨日のようで、全く変わらない。

きっと千年前も二千年前も同じだったに違いない。


 私も何度かここを訪れたが、30年ほど前のここからの眺めは忘れられない。

ちょうど日没時、夕焼けが駿河湾も紅色にし、狩野川・富士川付近の家々からは夕餉の煙が立ち上り、聞こえるのは風の音と、カヤがこすれあう音のみ。

ただただ立ちすくんで眺めるのみであった。


 江漢先生もいたく感激している。

「此眺望誠に日本第一也」


 ところで、一緒に登ったご婦人はどうしたかというと、

登りきった地蔵堂にお地蔵さんが祀ってある「誠にキタナイ」お堂が3軒あったのだが、

まぁどうしようもないので、毛せんなどをしき、べんとうをひらき、ご婦人と一緒に食事をしたようだ。


 文中、坊舎三軒のあと、「肉食妻躰」とわざわざ記している。

当時の知識人と言われる人たちは、神社仏閣・石碑などには敬意を払い興味があったが、そこに住まう坊さんは嫌いだったようである。


 江漢さん、「肉食妻躰」の坊さんを蔑んでいたのだろう。

彼にとっては、見て見ぬふりできぬことだったに違いない。


 さて、其後はどうしたものか記されてない。


(補足)

 江漢さん、石碑を見つけると書き写すのが好きなようで、このあとの日記でも、たびたび記しています。

 石碑文の意味は大雑把に「伊豆国賀茂郡日金の頂上からは十国五嶋を望める。子(北)から卯(東)の方角には、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国。辰(東南東)から甲(申の誤記(西南西))には、それらの国の南にある五つの島々及び、遠江国。酉(西)から玄(亥の誤記(北北西))には、駿河国・信濃国・甲斐国。天明三年八月、熱海里正の渡邉氏の求めに応じて建てた」。

 この碑文はネットで調べることができて、江漢さんは一部をとばしてしまったり、写し間違いしたようです。

「東都林居士(諸島出雲光英源清候等)應熱海(里正)渡邊房求之需建之」が正しそう。

 更に調べると、写真もあってちょっと拝借(申し訳ありません)。

 わたしもここに何度も行っているのだけれど、この石碑は記憶がありません。

 

2024年11月21日木曜日

江漢西遊日記一 その8

P8 東京国立博物館蔵

(読み)

湯の権 現 来能宮 へ参  夫 より渚  邊を歩

ゆのごんげんきのみやへまいりそれよりなぎさべをほ


春熱 海一 村 所  々  尓湯涌く処  あり海 中  ニ

すあたみいっそんところどころにゆわくところありかいちゅうに


湧 処  アリ故 尓名ツク

わくところありゆえになづく


七 日天 氣自楽(ジラク)亭 ニ居ル婦人 従  者 と吾

なのかてんき   じらく ていにいるふじんじゅうしゃとわれ


従  者 と七 八 人 して日金 山 の頂   ニ圓 山 アリ

じゅうしゃとしちはちにんしてひがねさんのいただきにえんざんあり


之 ヱ登  ン事 を約 し即 五十  町  登 り峠  尓

これえのぼらんことをやくしそくごじゅっちょうのぼりとうげに


地蔵 堂 アリ坊 舎 三 軒 肉 食 妻 躰 なり

じぞうどうありぼうしゃさんげんにくじきさいたいなり


地蔵 ハ丈 六 の坐像 にして銅 佛 也 坊 舎 誠  尓

じぞうはたけろくのざぞうにしてどうぶつなりぼうしゃまことに


キタナキ処  然  共 夫 へ毛 せんなどしき遍んとう

きたなきところしかれどもそれへもうせんなどしきべんとう


を開 き彼 婦人 と共 尓食  事春亦 爰 より

をひらきかのふじんとともにしょくじすまたここより


頭注[廿   八 年 以前 ト違 ヒ坊 舎 一 軒 ハヱンガワ

   にじゅうはちねんいぜんとちがいぼうしゃいっけんはえんがわ


折 回 シ甚   ヨシ花 コザナドシキ茶 等 ヲ出ス]

おりまわしはなはだよしはなござなどしきちゃなどをだす


(大意)駄文のつづき

湯の権現来の宮へお参りし、その後は熱海の浜を散歩した。

浜のあちこちで湯が湧き出し、海中で湧いているところもあって

江漢先生、熱海の名前の由来に納得した様子である。


 この来の宮神社、現在でも熱海から一駅のJR来宮駅の裏にある。


5月7日(西暦6月10日)

 晴天。

先日から自楽亭に宿泊しているご婦人とお供のもの、江漢さんと従者あわせて7,8人で日金山の頂きにある円山へ登ろうということになった。

50町というから、約5.4Kmの険しい山路を登った


 正確には日金山地蔵堂まで50町、さらにここから5,6町登って円山である。

28年前と比べると、ずいぶん開けたものだと江漢、挿絵の中に記している。


 そして、28年以前とは違って、誠にキタナキ坊舎のうち一軒は、建物のまわりに縁側があり、雰囲気がよいではないか。それに花ゴザなんて敷いているし、お茶など出している。ここはもう箱根越えの駕籠かき人の休憩所になっている。日金越え駕籠が往来して当時とはずいぶん変わってしまったものだ、と日記に頭注がある。


 江漢は41歳で体力は心配ないだろうが、ご婦人は50歳ぐらいである。

地図で確認するとやはり山奥。

たいしたものだ。

(補足)

「渚邊」、読み不明。

「妻躰」、妻帯。

「遍んとう」、ちょっと読みを悩みましたが、変体仮名「遍」(へ)でべんとう(弁当)。

 

2024年11月20日水曜日

江漢西遊日記一 その7

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

三 日雨天 自楽 亭 と云 離 レ坐しき尓松 平

みっかうてんじらくていというはなれざしきにまつだいら


長 門候 能お部屋と見ヱて五十  位  能婦人

ながとこうのおへやとみえてごじゅうくらいのふじん


下女 壱 人侍  ヒ二 人下男 二 人連レ同 宿  しぬ

げじょひとりさむらいふたりげなんふたりつれどうしゅくしぬ


爰 より地引 をして得多るとて鯛 二 ツサヨリ

ここよりじびきをしてえたるとてたいふたつさより


二 ツ贈 ル即 生  写  尓春より春

ふたつおくるそくしょううつしにす???


四 日朝 ヨリ天 氣従  者 ヨンゲル尓画を描(カヽ)せ

よっかあさよりてんきじゅうしゃよんげるにえを  かか せ


楽  ム亦 灸  治を春る宿 より柏  餅 をおくる

たのしむまたきゅうじをするやどよりかしわもちをおくる


[ヨンゲルとハ従  者 ノ事 也 若 ヒ者 ト云フヲランタ辞  なり]

 よんげるとはじゅうしゃのことなりわかいものというおらんだことばなり


五 日節 句なり四時ヨリ雨 後 大 雨 額 一 面

いつかせっくなりよじよりあめのちおおあめがくいちめん


竪(タテ)物 一 幅 出来ル半 太夫 父子禮 ニ来る

  たて ものいっぷくできるはんだゆうふしれいにくる


六 日天 氣西 南 ノ風 漸  く此 日単  物 をきる

むいかてんきせいなんのかぜようやくこのひひとえものをきる


(大意)駄文のつづき

5月3日

 雨天である。

梅雨寒だったのだろうか。


 この日、VIPが泊まる自楽亭と云う離れ坐しきに下見のためか、

50歳位の婦人、下女1人、侍2人、下男2人がやってきて同宿した。

松平長門侯のお部屋見のようだ。

長門の37万石クラスの大大名だ。


 地引網をして魚がとれた。

鯛二匹、サヨリ二匹をもらい、すぐ刺し身にして食うかとおもいきや、

即写生するところが絵描き江漢である。


5月4日

 朝より晴天である。

暇で気分もよかったのだろう。

「従者ヨンゲルに画を描せ楽」しんだ。


 頭注に「ヨンゲルとは、従者の事也。若ひ者と云ふヲランダ辞なり」

と注記している。

この日記の注記はほとんどが後の文化12年(1815年)、江漢亡くなる3年前のものである。


 画を教え疲れると、こんどはお灸をしてもらった。

まさに温泉湯治である。


 しばらくすると、端午の節句は明日であるが柏餅が宿よりふるまわれ、

いやぁ、実に愉快愉快、江漢先生気分は上々である。


5月5日(西暦6月8日)

 節句である。

昼前10時頃から雨が降り、その後大雨になった。


 額一面と竪物一幅が出来上がり、お礼に半太夫と息子が一緒にやって来た。


5月6日

 晴天となり、西南の風で暖かくなり、久しぶりに単衣だけで過ごせた。


(補足)

「自楽亭」、「二楽亭」のことらしい。 

 賓客用の離れ。今井氏の屋敷から独立した建物で、北西に糸川を背にし東南に海を望めるようにして建てられていた。今井氏は、一般座敷・一碧楼・二楽亭があり、他に今井氏自身の立派な住居があった。とありました。

「松平長門候」、毛利治親(はるちか)。宝暦4(1754)年〜寛政3(1791)年。長門・周防両国において36万9410石を領し、長門萩城に住す、とありました。

「より春」、このぶぶん不明。

「竪物」、『たてもの 【竪物】竪表具(書画などを裂(きれ)や紙を貼り合わせた表具を使って縦長の軸物に表装すること)にした軸物』

「宿より柏餅をおくる」「鯛二ツサヨリ二ツ贈ル」、「もらった。いただいた。」の意ですけど、当時はこのように使ったのか、江漢独自の使い方なのかは不明。

 

2024年11月18日月曜日

江漢西遊日記一 その6

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 朝 ヨリ雨 降ル後 天 氣熱 海より十  八

にじゅうくにちあさよりあめふるのちてんきあたみよりじゅうはっ


町  小田原 ノ方 山 路 ヲ越ヘて瀧 の湯あり同

ちょうおだわらのほうやまみちをこえてたきのゆありどう


宿  の者 と行ク誠  尓此 様 なる深 山 幽 谷 ニ至 ル

しゅくのものとゆくまことにこのようなるしんざんゆうこくにいたる


事 初 メテなり故 尓め川らしくおもしろし

ことはじめてなりゆえにめずらしくおもしろし


五月 朔  日朝(アサ)雨 晩 天 氣脇 本 陣 渡 辺 彦 左

ごがつついたち  あさ あめばんてんきわきほんじんわたなべひこざ


衛門 方 へ行ク爰 ニモ一 色 桜 あり海 を望 ム日金

えもんかたへゆくここにもいっしきろうありうみをのぞむひがね


山 へ登 らん事 を話 ス

さんへのぼらんことをはなす


二 日曇 ル終  日 画を認   ル半 太夫 幷   同 宿  能

ふつかくもるしゅうじつえをしたためるはんだゆうならびにどうしゅくの


者 集  リ吾カ話 シを聞ク氣候 寒 シ綿 入 ニ

ものあつまりわがはなしをきくきこうさむしわたいれに


袷  を重  テきる

あわせをかさねてきる


(大意)駄文の続き

 昨日は、旅に出て、初めてウンチクをたれようとしたのに出鼻をくじかれたが、

熱海の湯と付近の景色に好奇心全開する。


4月29日

 前日と同じ日付になっているが、日記はこうなっている。

日記を書いていると日付の間違いは誰でもあることだ。


 しかし江漢先生、漢字をよく間違える。

そして、其の間違えた漢字をずっと使っている。

間違えたのではなく、間違えて覚えてしまいそれが正しい漢字だと信じている。


 いったん回復したとおもった天気は、また朝から雨である。

しかし後に晴れ。


 湯治場で顔見知りになった者と、山路を越えて滝の湯と云うところへ出かけた。

熱海から小田原の方へ十八町というから、約2Km弱。


「誠に此様なる深山幽谷に至る事初めてなり。故にめずらしくおもしろし」

きっと現在の奥湯河原だろう。

何度か行ったことがあるが、江漢ならずとも良いところだ。


5月1日(西暦1788年6月4日)

 朝方は雨降り、晩に晴れた。

「脇本陣渡辺彦左衛門方へ行く」とある。

この方、熱海温泉を開発したいわば地元の名士。


 先日の今井氏のところの離れは一碧楼だったが

渡辺氏のところにも「爰にも一色桜あり」であった。

そこから海を望み、初島を眺めたことだろう。

江漢さん、VIP待遇されているのだ。


 当主と近くの日金山(十国峠)からの眺めが絶景であることをきき、そこに登ってみたいなど歓談した。


5月2日

 曇りである。

湯疲れがでたのか、天気のせいか此の日は終日画を描いていたようだ。

渡辺氏や今井氏に所望されたのかもしれない。


 今井半太夫さんや湯治客が集まって、江漢の話しを聞いた。

此の日は寒く、江漢さん綿入れに袷を重ねてきて、話した。

次第に顔面紅潮し、鼻高々って感じで得意満面だったに違いない。


(補足)

「十八町」、江漢は「町」を、「可」に似たくずし字をずっと使っています。

「朝(アサ)」、こんな漢字にまでフリガナをふっているのは、上の「朔」にひきずられて間違えてしまったからだろうとおもわれます。このようなかたちの訂正がこのあと何度もでてきます。

「望ム」、くずし字がとても「望」に見えません。このあとでもでてきます。

「聞ク」、「聞」のくずし字は特徴的、「冖」+「夕」のようなかたち。

「渡辺彦左衛門」、熱海を開拓し、その基礎を築いた草分けは今井半大夫、渡邉彦左衛門、芥川五郎右衛門の3軒といわれた。

「日金山」、前回のブログの熱海の画像にのっています。

 「氣候寒シ綿入ニ袷を重テきる」、現在の6月上旬頃にもかかわらず着込んでいる。この異常気象は世界的なもので、翌年7月のフランス革命もこのことがその原因のひとつといわれています。

 

2024年11月17日日曜日

江漢西遊日記一 その5

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

昼  夜三 度宛 半 太夫 庭 ヨリ湧 出て一 村 ニ樋

ちゅうやさんどずつはんだゆうにわよりわきでていっそんにひ


を以 テかける塩 氣あつて熱 湯 なり江戸へ快   く

をもってかけるしおけあってねっとうなりえどへこころよく


して長 﨑 の方 へおも武く事 を申  遣  ス湯入 の者

してながさきのほうへおもむくことをもうしつかわすゆいりのもの


浅 草 へかへる人 尓多能武

あさくさへかえるひとにたのむ


頭注[熱 海ヘハ其 後四五度モ行ク一 昨 年 半 太 夫方

   あたみへはそのごしごどもゆくいっさくねんはんだゆうかた


ニて入  湯 セし時 二代 目也 前 の半 太夫 ハ甚  タおもしろ

にてにゅうとうせしときにだいめなりまえのはんだゆうははなはだおもしろ


き人 なりき]

きひとなりき


廿   八 日 曇  て少  々  雨 此日初   て海 岸 を歩ス不

にじゅうはちにちくもりてしょうしょうあめこのひはじめてかいがんをほすふ


漁  とて魚  春くなし

りょうとてさかなすくなし


廿   九日 朝 雨 七 時比 天 氣トナル今 井ニ一 碧 桜 ト

にじゅうくにちあさあめしちじころてんきとなるいまいにいっぺきろうと


云 有 画など認  メ持参 し多る蘭 器蘭 書 ナト

いうありがなどしたためじさんしたるらんきらんしょなど


取 出し皆 々 尓見せける尓事(コウ)好(ヅ)なる者 もなし

とりだしみなみなにみせけるに  こう   ず なるものもなし


見 物 山 の如 jし

けんぶつやまのごとし

(大意)駄文の続き

4月27日

 朝から雨だ。

江漢、湯治場は初めてで興味津々である。

「塩気ありて熱湯なり」」

湯に指を突っ込んでぺろっと舐めたのだろう。


 これより27年後文化12年に、此の日の日記の頭注に次のように書き込んでいる。

「熱海へは其後四五度も行く。一昨年半太夫方にて入湯せし時、二代目也。前の半太夫は、甚だおもしろき人なりき。」


 よっぽど気に入ったとみえ、4,5回も行っている。

江戸から約108Km、駕籠に乗ることもあったろうが、基本は歩きだ。

いやはや、当時の人達のなんと健脚なこと、真似はできない。


 湯につかり隣の人と、とりとめのないはなしをしてたときのことだ。

その人どうやら浅草に帰るらしい。

申し訳ないが、ひとつ手紙を書くので江戸までお願いできますかと云い終わらない内に

おやすいことでと、はなしはまとまった。


 手紙は「快くして長崎の方へおもむく事を遣す。」

3年経たねば帰国せずとの固い決心なぞどこ吹く風、おもいっきり優柔不断・朝令暮改、揺れに揺れる心境だったが、やっとやっとやぁ〜っと、西へ向かう決心がついたようである。


 さぁゆくぞと決心を繰り返し、約2週間後に手紙で其の決心を伝えているわけだが、

受け取った奥方、どんな気持ちだったろう。

しょうがない人ねぇ、か。


 まぁ、とにかく江漢先生、手紙を書くことによって退路をふさぎ、

今度こそ決心を固めたようだ。


4月28日

 昨日に引き続き、曇って小雨降るなか、初めて海岸を散歩した。

地元の漁師さんか、魚屋さんとでも世間話をしたのだろうか

不漁で魚が少ないと記している。


4月29日(西暦6月3日)

 朝から雨がまだ降っていたが、夕方4時頃やっと天気になった。

一碧楼という宿の離れに出かけて、画を描いたり、

天秤棒で担いできたオランダの品々を自慢げに、

江漢先生たくさんの湯治客などに見せびらかすのだが、

どうも興味深げに見てくれる人はなく、がっかり。


 旅に出て、初めてウンチクをたれようとしたのに出鼻をくじかれたが、

熱海の湯と付近の景色に好奇心全開する。

(補足)

頭注「一昨年」、文化十(1813)年のこと。

「一碧桜」、延宝年間(1673〜1680)に建てられた湯店の離れで、茶人向きに数寄をこらしたうえ、熱海の眺望をほしいままにするように造られていた。

 

2024年11月16日土曜日

江漢西遊日記一 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

熱 海路也 熱 海まで七 里左  ハ大 海 浪 打

あたみじなりあたみまでしちりひだりはおおうみなみうち


右 ハ山 也 石 橋 山 真 田ノ塚 あり米 神 村 立

みぎはやまなりいしばしやまさなだのつかありこめかみむらたて


場あり皆 山 坂 路 ニして真奈鶴 なと云 石

ばありみなやまさかみちにしてまなずるなどいういし


をきり出春海 上  ニハ大 嶋 初 嶌 見ヘ山 ハ雲 を

をきりだすかいじょうにはおおしまはつしまみえやまはくもを


吐き誠  尓初 メて見多る故 ニや不快 全快  春夫 ヨリ

はきまことにはじめてみたるゆえにやふかいぜんかいすそれより


根府川 番 所 を越へ江の浦 土肥なと云フ

ねぶがわばんしょをこええのうらどいなどいう


処  を過 て熱 海ニ至 ル尓皆 山 路 左  ニ海 を見て

ところをすぎてあたみにいたるにみなやまみちひだりにうみをみて 


風 景 よし熱 海今 井半 太夫 方 ニ至 ル其 比ロ

ふうけいよしあたみいまいはんだゆうかたにいたるそのころ


入  湯 能者 多 し江戸ハ二十  七 里隔  ルなり

にゅうとうのものおおしえどはにじゅうしちりへだたるなり


廿   七 日 朝 ヨリ雨天 湯 治場尓ハ初 メテなり此 湯ハ

にじゅうしちにちあさよりうてんとうじばにははじめてなりこのゆは

(大意)駄文の続き。

 国府津、小田原とすすみ、真鶴を過ぎ、熱海へと行く。

真鶴は江戸城の石垣に使われ、江戸っ子にも知名度が高かった。

鎌倉時代から現在も良質な石を切り出している。

なので、ダンプカーが多く注意が必要な道路です。

 現在では真鶴道路があり、週末は渋滞の名所となっている。

当時は山の上に路があり、険しかった。

この旧道、実際車で走っても路は狭く険しく、海原を楽しむ余裕などない。

波しぶきを浴びながら真鶴道路、眺めはすこぶるよい。

 日記に、

「海上には大嶋、初嶋見へ、山は雲を吐き、誠に初めて見たる故にや、不快全快す。」

とあるとおり、現在でもそのままである。

 今井半太夫方、今で言う高級旅館に泊まった。

「其比ろ入湯の者多し。」とあり、

当時から有名な温泉だったことがわかる。

「江戸から二十七里隔たるなり」とのことである。

4月27日(西暦6月1日)

 朝から雨だ。

江漢、湯治場は初めてで興味津々である。

(補足)

「立場」、『たてば【立て場・建場】① 江戸時代,街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所。明治以後は人力車などの集合所・発着所をいった』

「誠尓」、江漢のこの日記で一番使われている表現かも。「成」のくずし字が特徴的。これに「土」偏がつくと「城」、これもほどほどでてきます。

「熱海」、江戸時代には湯戸制度により、27軒の湯戸が通りをはさんで軒をつらねる湯治場であった。「近世熱海の空問構造と温泉宿「湯戸」の様相」に詳しく記されています。


「石橋山」「米神村」、

「初嶋」、


「今井半太夫」、熱海村名主。大名投宿の本陣に指定されていた熱海最大最上の宿で、江戸でも評判であった。初代半太夫は熱海を開発し、温泉場発展の基礎を開いた。以後、湯戸27軒の最高責任者であった。

 今年の7月、湯河原温泉泊の予定が、流れてしまってとても残念でありました😢

 

2024年11月15日金曜日

江漢西遊日記一 その3

P3 東京国立博物館蔵

(読み)

戸塚 と程  谷の間 タのなわ手蝉 なく之 ハ麦 能

とづかとほどがやのあいだのなわてせみなくこれはむぎの


赤(アカ)る武時 初 メて啼く蝉 と云フ夫 より藤 沢

  あか るむときはじめてなくせみというそれよりふじさわ


なり毎 \/藤 沢 迄 ハ来 リシ尓爰 より先 ハ初 メ

なりまいまいふじさわまではきたりしにここよりさきははじめ


てなり甚  タ珍  しく小松 原 右 ハ山 左  ハ海 也

てなりはなはだめずらしくこまつばらみぎはやまひだりはうみなり


場入(ハニ ウ)川 大 山 見得て風 景 よし氣分 も

   ばにゅう かわおおやまみえてふうけいよしきぶんも


能ク大 磯 の驛 尓泊 ル七 時比 なり

よくおおいそのえきにとまるしちじころなり


廿   六 日 天 氣よし大 磯 を出  立 して小磯

にじゅうろくにちてんきよしおおいそをしゅったつしてこいそ


なと云 処  を過 て程 なく酒  川 かち渡 し夫 ヨリ

などいうところをすぎてほどなくさかわがわかちわたしそれより


国府津と云 処  を越 れハ小田原 なり大 久保

こうずというところをこゆればおだわらなりおおくぼ


侯 能領  地ウイロウ能少 シ先キ左 リニ入る

こうのりょうちういろうのすこしさきひだりにいる

(大意)駄文の続き。

4月25日。

 天気はよいが、気分は相変わらず晴れぬまま、朝8時に戸部は善三郎宅を出立した。

戸塚、保土ヶ谷と途中蝉の声を聴きながら東海道を下り藤沢に着く。

ここから先は、江漢にとって未経験の地の旅となる。

 街道は松並木があり、右には山、左は海原が広がり、馬入川を越えて大山など丹沢山系が見える。目の前に広がる景色に心のもやもや胸のふさがりがすっ飛んでしまったのだろう、「気分能く」とのたまわっている。

 気分良く、左手にずっと海原を見ながら、午後4時頃に大磯に着き、泊まった

4月26日。(西暦5月31日)

 今日も天気がよい。

宿を出てすぐ、江漢、手びさしをし、首を振り、左に海原、右に山々を眺め、気分良く出発した。

すぐに酒匂川となる。

歌川広重の「東海道五十三次之内・小田原酒匂川かち渡し」に河を渡る様子が詳しい。

 渡り方は松竹梅があったようで、

松 駕籠ものせることが出来るくらいの丈夫な台で20人くらいで担ぐ。大きなお神輿みたいな感じ。

竹 蓮台という梯子みたいなもの。4人程度で担ぐ。

梅 肩車そのもの。

 当然値段も担ぎ方に反映する。

江漢さんたちはきっと、荷物もあったので竹コースだったろう。

ちなみに、

「天明8年6月26日 ・・・大井河漲り、八十八文、川連台にて渡る。・・・」

とあるから、

川を渡るときは、竹コースであったはずだ。

(補足)

「なわ手」、『なわて なは―【畷・縄手】① 田の中の細道。あぜ道。なわてじ。なわて道。② まっすぐな長い道』

「程谷」、保土ヶ谷。

「赤(アカ)る武」、江漢は「む」は、変体仮名「武」(む)を用いています。

「場入(ハニウ)川」、馬入川

「酒川」、酒匂川(さかわかわ)

「大磯の驛」、この旅以降はここを定宿としたようで、大磯山城屋。「七時」は16時頃。

「廿六日」、西暦5月31日。

「大久保侯」、当時は大久保出羽守忠真。天明8年襲封、11万3000石余を領し、小田原に住す、とありました。

「啼く蝉」、この時期になく蝉ときたらニイニイゼミしかおもいうかびませんけど、アブラゼミでは早すぎるし。

 

2024年11月14日木曜日

江漢西遊日記一 その2

P2 東京国立博物館蔵

(読み)

薬 種 屋能親 類 ニて吾 十  七 年 以前 一 面 の

やくしゅやのしんるいにてわれじゅうしちねんいぜんいちめんの


識(シキ)ニて此 度 尋  吊   尓妻 死して娘  壱 人を

  しき にてこのたびたずねとぶらうにつまししてむすめひとりを


愛(アイ)春山 水 の画一 枚 を贈 ル善 三 郎(ロウ)案内 して

  あい すさんすいのがいちまいをおくるぜんさぶ  ろう あないして


一 本 松 と云 処  ハ後 ロノ山 ナリ冨士大 山 見へ眼 下ニ

いっぽんまつというところはうしろのやまなりふじおおやまみえがんかに


前 の海 州干幷(カンベン)天 向  地ハの毛本 目 海 を

まえのかいす   かんべん てんむこうちはのげほんもくかいを


隔 て向 フ国 ハ上總 房 州  なり夫 より臺 の

へだてむかうくにはかずさぼうしゅうなりそれよりだいの


茶 ヤニて蕎麦ヲ喰ヒ善 三 郎 能云 夫 ニてハ長

ちゃやにてそばをくいぜんさぶろうのいうそれにてはなが


崎 迄者ハおぼつかなし爰 ヨリ伊豆熱 海ニ湯

さきまではおぼつかなしここよりいずあたみにとう


治して江戸ヘお帰 りと云

じしてえどへおかえりという


廿   五日 天氣能  氣分 あしく朝 五時出  立 して

にじゅうごにちてんきよしきぶんあしくあさごじしゅったつして

(大意)

 略ではつまらないので、前回と今回の分を駄文にしてみました。


 時は天明8年4月23日昼過ぎのことである。

曇り空の下、一人の男が弟子を連れ、江戸から西国へ旅立った。

その男、名前は安藤峻。司馬江漢である。

従僕は天秤棒で前後に、わけの分からぬ荷物を山盛りにのせていた。


 世情は不安定である。

天明の大飢饉はいまだ終わらず、前年5月には、江戸でも幕府開闢以来最大の米騒動が起きている。

3年経たなければ帰らぬと決心し、長崎に向かったものの、神奈川は藤沢より西への旅はしたことがない。

41歳にして初めての大旅行であった。

家には妻と子を残し、そしてその旅が初めてとくれば、心中、期待よりも不安のほうがはるかに大きく、気分は塞いだ。


 勇んで旅立ったものの、何のことはない。

横浜は戸部というところの、十七年来の知り合いの家に早くも泊めてもうことになる。

そこの主人善三郎さんと、裏山の一本松というところに登る。


 現在この地に一本松という地名はないのだが、

一本松小学校という明治44年創立の横浜市立の学校が、山ひとつむこうにある。

その校歌一番に、

「西は遥かに富士の嶺

 秀麗千古み国を鎮め

 東は近く金港の

 百舟千舟み国を富ます」 

とあり、高台からの眺めはよかったのだろう。

すぐ向かいは野毛山があり、明治のお雇い外国人パーマーがここまで水道を引いている。

現在でも、野毛山公園の地下は、巨大な貯水タンクがあり現役の水道施設である。


 近くの茶屋で蕎麦を食い、善三郎がしょげて滅入っている江漢にこんなことを言っている。蕎麦をすする音もさぞかし元気がなかったのだろう。

「夫にては長崎迄はおぼつかなし。爰より伊豆、熱海に湯治して江戸へお帰り」


 江漢が、肩を落とし背を丸め、膳三郎の助言を素直に聞き入れていそうな様子が目にうかぶ。


(補足)

「案内」、「案」は「安」+「木」で、「安」は「あ」となってます。

「干幷(カンベン)天」、江漢はおそらく戸部村の背後の松林の(画像の緑色の部分の) 

山に登ったのだろう。眼下に大岡川の河口があり、その向こう岸に弁天様の木立ち

が見えたはず。そして野毛は手前、本牧は遠い。と手もとの本にはありました。

「長崎」、「長」のくずし字は「ム」の三画目で左上に筆をはこび、そのまま「ち」のようになり、この日記ではすべてこのくずし字になってます。また日記では「崎」ではなく「﨑」。

「迄」、「占」+「辶」。「過」と間違いやすい、こちらは「る」+「辶」。

「天氣能氣分あしく」、ここの「能」は変体仮名「能」(の)ではなく、「よし」の意味。

「朝五時」、現在の朝八時。

 すっかりジジイのわたくしは一本松小学校・老松中学校の卒業生で、どちらも松があることから、このあたりの山は松が生い茂っていたのかもしれません。

 

2024年11月13日水曜日

江漢西遊日記一 その1

表紙 東京国立博物館蔵

P1

(読み)

表紙

江 漢 西 游 日 記一

こうかんさいゆうにっきいち

P1

天 明 戊   申 四月 二十  三 日 昼 過ぎ、江戸芝

てんめいつちのえさるしがつにじゅうさんにちひるすぎ えどしば 


神 僊 坐を出  立 して金 川 尓至 ル其 日

しんせんざをしゅったつしてかながわにいたるそのひ


曇  て雨 なし従  者 ニハ宿(ヤト)ニ居タル弟子なり

くもりてあめなしじゅうしゃには  やど にいたるでしなり


歳 二十 位  の者 ニて松 前 能産 れなり吾

としはたちくらいのものにてまつまえのうまれなりわれ


此 度 能旅 行 者じめてなり是 ヨリ肥州

このたびのりょこうはじめてなりこれよりひしゅう


長 崎 ノ方 其 外 諸 国 を巡  覧 して三 年 を

ながさきのほうそのほかしょこくをじゅんらんしてさんねんを


経されハ帰 るまじと思 ひ立 し尓や又 ハ宿 ニ

へさればかえるまじとおもいたちしにやまたはやどに


妻 子を置 多る故 ニヤ胸(ムネ)塞(フサカリ)氣分 あしく夫

さいしをおきたるゆえにや  むね   ふさがり きぶんあしくそれ


故 金 川 ニ滞 留  して河 内屋善 三 郎 と云

ゆえかながわにたいりゅうしてかわちやぜんさぶろうという


人 を吊  フ是 ハ江戸橋 本 丁  河内屋と云フ

ひとをとぶらうこれはえどばしほんちょうかわちやいう

(大意)

(補足)

 司馬江漢(1747〜1818)41歳のときの自筆の旅行記です。

 天明8年4月23日はグレゴリオ暦(西暦)1788年5月28日ですので旅行の出発日としては申し分なし。

 この旅行記は江漢存命中には出版されることなく原稿を手もとにずっとおいていたようです。しかし、完成原稿のように整然と書かれていてこのまま版元で出板できるようなつもりでいたようでもあります。

 6巻まであり、江戸長崎の往復旅日記を少々長くなりますが読みすすめていきます。

先の「時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)」は奇しくも天明8年に発刊されていて、当時の気候変動や政治事情を同じくし、そのような中、江漢はのんびりと旅行して日記に各地の様子を記しているわけであります。

「神僊坐」、新銭座町。浜御殿(浜離宮)に近い。この画像の中央。

現在の港区浜松町一丁目の一角。当時、「宿あり」とか「門廻り」とよばれていた者の住む下町の裏長屋の密集地である。江漢はここに育ち、長くここに住んだ。と手もとの本にありました。

「金川」、神奈川。

「胸」のここの漢字は、右半分は『「匈」と「月」』のようです。違うかも・・・

「気分」、気は旧字体の氣。分のくずし字は「ミ」+「丶」のようなかたち。

「吊フ」(とぶら)フと読むようです。辞書では「とぶら・う とぶらふ 【訪ふ】」です。

 道中記はじまりはじまり〜。

 

2024年11月12日火曜日

時代世話二挺鼓 その28

P20 国立国会図書館蔵

(読み)

ひてさとハ奈ん

ひでさとはなん


奈くまさ門 を

なくまさかどを


たいぢせしも

たいじせしも


あさくさく王ん於んの

あさくさか んのんの


里しやう奈りと

りしょうなりと


かのゝこ本う个ん

かののこほうけん


もとのぶ尓つ奈ぎ

もとのぶにつなぎ


馬 をゑ可ゝせ

うまをえがかせ


ゑまを

えまを


本うのう

ほうのう


する

する


又 将 門 可連いをハ

またまさかどがれいをば


かん多゛め うしんといふ

かんだ みょうじんという


そのころ可ん多゛に

そのころかんだ に


与奈\/七 与うの本しの

よなよなしちようのほしの


ひ可りを者奈せしハ

ひかりをはなせしは


此 将 門 の多満しゐ也

このまさかどのたましいなり


二冊 毛の尓

にさつものに


志由びよくこぢつけて

しゅびよくこじつけて


めて多し

めでたし


\/

めでたし


京  傳 作

きょうでんさく


哥 麿 門 人

うたまろもんじん


行 麿 画

ゆきまろが

(大意)

 秀郷は難なく将門を退治したものの、浅草観音のおかげと狩野の古法眼元信につなぎ馬を描かせ、絵馬を奉納した。

 また、将門の霊を祀(まつ)ったのが神田明神というところである。その頃、神田に夜な夜な七曜の星の光を放つは、この将門の魂なのである。

 二冊ものに、首尾よくなんとかまとめられて、めでたしめでたし。

京傳作

哥麿門人

行麿画

(補足)

「里しやう」、『りしょう ―しやう【利生】

〘仏〙 仏神が人々を救済し,悟りに導くこと。祈念などに応じて,利益(りやく)を与えること。また,その利益。仏の恵み』

「も」の変体仮名がここでは3種類かたちをかえてでてます「たいぢせしも」「もとのぶ」「二冊毛の尓」。

「馬」のくずし字は頻出で特徴的なのでしっかりおぼえます。

「かのゝこ本う个んもとのぶ」、狩野元信(1434~1530)。室町時代の御用絵師。狩野派の祖・狩野正信の子(長男または次男とされる)で、狩野派2代目。京都出身。幼名は四郎二郎、大炊助、越前守、さらに法眼に叙せられ、後世「古法眼」(こほうげん)と通称された。

「つ奈ぎ馬」、『つなぎうま【繫ぎ馬】② 家紋の一。杭(くい)につないだ馬の姿を図案化したもの』。将門の家紋。この紋は、先祖である平将門が天から授かった黒馬が暴れ去ろうとするところを家臣総出で繋ぎ止めたという伝説に由来する、ネットから拝借。

 浅草観音堂の中に古法眼元信の筆と俗に伝える絵馬があって、古い時代のものであり、この馬が夜ごとに抜け出して草を食ったという伝説が『江戸名所図会』にのっている。それを奉納したのは秀郷であると、京伝がこじつけているとありました。

 つなぎ馬の絵馬(法眼元信筆)を肩にかつぎ奉納しようとする秀郷、それまではずっと鎧姿でありましたが、熨斗目(のしめ)・麻裃の礼装で威儀をただしています。

 右手が衣装に隠れてしまってますが扇を握っているようにも見えます。

 

2024年11月11日月曜日

時代世話二挺鼓 その27

P18P19 国立国会図書館蔵

P19

(読み)

ひてさと可

ひでさとが


ふせ

ふせ


せい

ぜい


これを

これを


ミて

みて


あいつの

あいずの


のろしと

のろしと


こゝろへ

こころえ


よせ

よせ


き多る

きたる


ミん奈

みんな


いそけ\/

いそげいそげ


あ連\/

あれあれ


あい川の

あいずの


のろし可

のろしが


あ可る

あがる


かう

こう


らち可

らちが


あ可奈いてハ

あかないでは


のろし\/

のろしのろし

(大意)

 秀郷が伏せ勢はこれを見て、合図の狼煙(のろし)とおもい、押し寄せてきた。

伏せ勢「みんな急げいそげ。あれだあれっ、合図の狼煙(のろし)が上がったぞ。こうも決着がつかないとは、遅い遅い(狼煙と鈍(のろ)い洒落)」

(補足)

「伏せ勢」、『伏兵(① 奇襲を目的として,ひそかに隠れている軍勢)に同じ』

提灯の「俵」は何度か出てきていますが、藤原秀郷の異名「俵藤太」。

 伏せ勢二人はどことなく稚拙な感じですけど、髷もちゃんと描いています。

 

2024年11月10日日曜日

時代世話二挺鼓 その26

P18P19 国立国会図書館蔵

P19

(読み)

阿ゝらふしぎや

あぁらふしぎや


ところてんの

ところてんの


可ん者゛んしやア

かんば んじゃぁ


袮へ可

ねぇか


ひでさとハこれをミて

ひでさとはこれをみて


者しめて者奈ひと

はじめてはなびと


いふものをあんじ

いうものをあんじ


出春

だす


こいつ可きん玉 多゛

こいつがきんだまだ


と壱 両  三 分可゛

といちりょうさんぶが


ものハある

ものはある


よひ出しの

よびだしの


女 郎 を

じょろうを


可川ても

かっても


二分のこる

にぶのこる

(大意)

秀郷「あぁら不思議や、心太(ところてん)の看板じゃぁねぇか」

 秀郷はこれを見て花火というものをはじめて考え出した。

秀郷「こいつ(七ツの心)が金玉(一分金)だと、一両三分にはなる。よび出しの女郎を買っても二分残る」

(補足)

「ところてんの可ん者゛ん」、漢字で「心太」とあてるので、「心」と、ところてんの麺の様子が血潮に似てるので看板になりそうだとしたのか?

「よひ出し」、『よびだし【呼び出し】

⑤ 近世後期,吉原の上級の遊女。張見世に並ばず,茶屋へ出て客を待つ。

⑥ 近世,深川の岡場所で,茶屋へ呼ばれて客の相手をする私娼』。価は一両一分なので二分残る。

 なぜ、ここでよび出しについてふれたのかという理由がこのように記されてました。

 田沼一派の勘定組頭、土山宗次郎孝之が、吉原京町大文字屋のよび出し誰が袖を、巨費を投じて身請けして世評に上がったのを暗示するためと思われる。

 誰が袖は政演(京伝)の錦絵にも描かれた有名な遊女だけに、世人の耳をそばだてたのである。

 なお土山は取調べ中に逃亡し捕らわれて死刑に処され、誰が袖が再び遊女になったのを、京伝は黄表紙『奇事中洲話(きじもなかずは)』の題材としている。

 秀郷、刀を左手にして不自然ですが、これは将門にあわせて、見得を切っているのだとおもわれます。両足の指をおもいっきり踏ん張っているのがわかります。

 

2024年11月9日土曜日

時代世話二挺鼓 その25

P18P19 国立国会図書館蔵

P18

(読み)

将 門 ハ大 ひのやさき尓可ゝりて

まさかどはだいひのやさきにかかりて


よハりし所  をひてさと

よはりしところをひでさと


す可さ須立 よ川てくひを

すかさずたちよってくびを


者年个れハふしきやきり口

はねければふしぎやきりくち


よりちしほこくうへ

よりちしおこくうへ


ふきあけ七 ツの

ふきあげななつの


多満しいとひ出る

たましいとびでる


「多満しい

 たましい


七 人

しちにん


つ連尓て

づれにて


とひ行

とびゆき


さき本うの

さきぼうの


多満しゐ

たましい


まちやれ奈

まちやれな


つきゑゝを

つきええを


志ら袮へ

しらねぇ


本゛ん\/

ぼ んぼん

\/\/\/\/

\/

(大意)

 将門は観世音菩薩の矢先にあたって弱っているところを、秀郷すかさず近寄り首をはねると、不思議なことに、切り口より血潮虚空へ吹上げ、七ツの魂が飛び出た。

 魂が七人連れで飛んで行く。

魂「先棒の魂、ちょっと待ってくれや、付きえぇをしらねぇのか」

ボンボンボンボンボンボンボン(「心」の飛び出す音)

(補足)

「大ひ」、『だいひ 1【大悲】〘仏〙

① 衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心。

② 観世音菩薩の別名』

「七ツの多満しい」、七ツの玉が、田沼の七曜星の紋をいよいよ強く暗示しているとありました。

「さき本う」、『さきぼう ―ばう【先棒】

② 物事を先頭に立って行う人。

③ 駕籠(かご)の棒の前の方を担ぐ人。先肩(さきかた)。 ↔後棒(あとぼう)』

田沼一味の処分に先後のあったことを暗に示しているのだろうとありました。

 将門、首をはねられながらも歌舞伎の見得を決めているような仕草(左手に刀、右手は手のひらがパー)です。そしてはねられた首の将門の目は「にらみ」で、胴体と離れながらも決めています。

 

2024年11月8日金曜日

時代世話二挺鼓 その24

P16P17 国立国会図書館蔵

P17

(読み)

ひてさとハうちもの王ざ

ひでさとはうちものわざ


尓て可奈ふましと日ころ

にてかなうまじとひごろ


袮んするあさくさのく王ん

ねんずるあさくさのか ん


せ於んを袮んし个れハふしきや

ぜおんをねんじければふしぎや


うんち う尓く王ん於んあらハれ給 ひ千

うんちゅうにか んのんあらわれたまいせん


のやさきをそろへてい可け給 ふ

のやさきをそろえていかけたもう


く王ん於んさ満もすゞ可山 この可多

か んおんさまもすずかやまこのかた


久 しくやを者奈ち給 ハぬ由へ

ひさしくやをはなちたまわぬゆえ


千 のやさき九  十  三 すし

せんのやさききゅうじゅうさんすじ


まて者つ連し可のこりの

まではずれしがのこりの


七 すし

ななすじ


七 人 の

ななにんの


まさ可ど可

まさかどが


こめ

こめ


可ミ尓

かみに


あ多る

あたる


とゝん

ととん


可川ちりと

かっちりと


いふ於と可

いうおとが


せぬ可ら者り合 可゛

せぬからはりあいが


ない

ない

(大意)

秀郷は打物業ではかなわないと、日頃信心する浅草の観世音を念ずると、不思議なことに雲中に観音あらわされ、千の矢先をそろえてお射掛けなされた。

 観音様も鈴鹿山以来久しく矢を放たれなかったため、千の矢先のうち九十三(本当は九百九十三)筋までがはずれたが、残りの七筋が七人の将門のこめかみ(将門の急所)に命中した。

観音様「どどん、かっちり、という音がしないから、張り合いがない」

(補足)

「うちもの王ざ尓て可奈ふまし」、謡曲「船弁慶」の「弁慶中を押し隔て、打物業(わざ)にて叶うまじと、珠数さらさらと押しもんで」のもじり。

「うちもの王ざ」、『うちものわざ【打ち物業】刀や槍を持って戦うこと。また,その技術』

「千のやさき」、謡曲「田村(能の一。二番目物。世阿弥作か。旅の僧が清水寺で坂上田村麻呂の霊にあい,その東夷征伐の戦いのさまを見る)」の「一たび放せば千の矢先」をきかせている、とありました。

「すゞ可山」、坂上田村麻呂は伊勢鈴鹿山の悪魔を退治した。

「とゝん可川ちり」、盛り場にある土弓(どきゅう)は、矢が的に当たると「カチリ」、はずれると的の外側に張った皮にあたって「ドドン」と鳴る。

 秀郷の装束の腰回りのヒラヒラ部分は草摺(くさずり)というそうです。細かく描いています。

 秀郷の背後には松の木があります。

 

2024年11月7日木曜日

時代世話二挺鼓 その23

P16P17 国立国会図書館蔵

(読み)

P17

女 郎 やてさへ

じょろうやでさえ


やりときてハきの奈い

やりときてはきのない


もの多尓此 うへ

ものだにこのうえ


とん奈やり可てやうも

どんなやりがでようも


志れぬ

しれぬ

P16

此 とき

このとき


まさ門

まさかど


うへ多

うえだ


そろいの

そろいの


きものを

きものを


ちやくせし由へ

ちゃくせしゆえ


これを

これを


うへ多゛の

うえだ の


七 本ん

しちほん


やりと

やりと


いふ

いう

(大意)

秀郷「女郎屋でさえ、遣りときては気に入らないものなのに、この上どんな槍がでてくるかわかったものじゃない」

このとき将門は上田紬の揃いの着物を着ていたので、これを上田の七本槍という。


(補足)

「女郎やてさへやりときてハ」、遊郭の約束事として①遣手婆の指示②一人の女郎に馴染客が重なって「もらい」(他の客の相手をしている芸者・娼妓などを自分の座敷に呼びとること。「はじめてなれば―もならず」〈浮世草子・好色一代男•7〉)がかかったときは、譲らねばならなかった。

 手もとの本には、なぜここで上田なのかが次のように記されています。

田租を定めるため,田を等級分け(上・中・下田(じょうちゅうげでん))したうちの最上のもの。地味の肥えた田の意で、田沼が何度も加増を受けて五万七千石になるまでを風刺したのだろう。随筆「翁草」によると適当な上田がないときは、権力のない大名の土地を無理に取り上げ、代わりに幕府領地の悪い土地を替え地として与え、「田沼家繁栄について、かやうの表立たぬ他家の難儀あまた有とぞ」とある。田沼の腹心たちはそれを推進し、自分たちも加増を受けて甘い汁を吸ったので、一味を「上田そろい」の共犯者の七本槍としたのだろう。

「七本んやり」、『昔,合戦のとき,槍で巧名を立てた七人の勇士。特に,賤ヶ岳の七本槍は有名』とあるように、この言葉からはあっぱれ見事勇姿たち!の喝采をおくる言葉でしょうけど、ここではもちろん大いに皮肉っています。

 

2024年11月6日水曜日

時代世話二挺鼓 その22

P16P17 国立国会図書館蔵

P16

(読み)

ひで

ひで


さと

さと


いまハ

いまは


やくそく

やくそく


のとを

のとお


里多いり

りだいり


を个川

をけっ


し与し

しょし


うり

うり


すへと

すえと


いふふ多を

いうふだを


者りて

はりて


可へらん

かえらん



のゝ

のの


志り

しり


个れハ

ければ


まさ


かど


大 可ん

だいかん


しやく

しゃく


尓天

にて


七 人 の

しちにんの


す可゛多

すが た


尓於の

におの


\/

おの


やりを

やりを


引ツ

ひっ


さけ

さげ


ひて

ひで


さと尓ついて

さとについて


可ゝる

かかる

(大意)

秀郷「今は約束どおり、内裏からあなたを追い出して、『売据え』という札を貼って帰りましょう」とやかましく言ったので、将門は大激怒して七人の姿になり、おのおの槍を引っさげ、秀郷に突いてかかった。

(補足)

「うりすへ」、『うりすえ ―すゑ 【売り据え】

家屋などを,造作をそのままで売り払うこと。「造作付―ありと」〈滑稽本・浮世床•初〉』

 将門「槍を引っさげて」とありますが、絵にはなく、どうなっているのか・・・ウ~ン🤔。

 

2024年11月5日火曜日

時代世話二挺鼓 その21

P14P15 国立国会図書館蔵

(読み)

P15

なんとどうて

なんとどうで


こさりま春

ござります


き川いもの可へ

きついものかえ


かうし多

こうした


ところハ

ところは


いゝ男  て

いいおとこで


ごさへ

ござえ


しやう

しょう


志ん

しん


そう可゛

ぞうが


ミると

みると


ちき尓

じきに


本れ

ほれ


や春

やす

P14

まさ可ど

まさかど


八 角 め可年尓天

はっかくめがねにて


ひてさとを

ひでさとを


ミれバ

みれば


なる本とハ ッ尓

なるほどやっつに


ミ由る由へ

みゆるゆえ


きもをつぶ春

きもをつぶす

(大意)

秀郷「どうだ、これはどうでござります、見事なもでしょう。こうした姿はいい男でござりましょう。」「新造が見れば、すぐに惚れるやす」

 将門が八角眼鏡で秀郷を見ると、なるほど八つに見えたので、肝をつぶしてしまった。

(補足)

「き川い」、もう何度も出てきた表現です。『⑥ 大したものだ。素晴らしい。「お娘御の三味線は―・いものでござる」〈咄本・鯛の味噌津〉』

 秀郷の煙管をくわえ立膝の仕草は歌舞伎でよく見られるもの、当時の人たちはひいきの歌舞伎役者を思い描いたはず。

 八人の秀郷、判で押したようにそっくりですが、小さな目のほんの少しの違いで大きく表情が変化しているのがおもしろい。

 

2024年11月4日月曜日

時代世話二挺鼓 その20

P14P15 国立国会図書館蔵

(読み)

ひでさと

ひでさと


これを

これを


ミてい王く

みていわく


王れハ

われは


志ん王尓

しんのうに


まさりて

まさりて


す可多可

すがたが


八 ツあり

やっつあり


於まへの

おまえの


目尓ハ

めには


見へまい

みえまい


此 め可年で

このめがねで


ミ給 へと

みたまえと


こま可多の

こまがたの


め可゛年や二て

めが ねやにて


可いし

かいし


八 角 め可゛年

はっかくめが ね


尓天

にて


す可多を

すがたを


ミせる

みせる

(大意)

 秀郷、これを見て曰く「おれは親王より多く、姿が八つある。お前には見えまい。この眼鏡で見てご覧なされ」と、(浅草は)駒形の眼鏡屋で買った八角眼鏡をかけさせて姿を見せた。

(補足)

「こま可多」、浅草寺の雷門の南側、赤茶正方形の小さいお堂。

「め可゛年や」、買物独案内より。出店もあった。

 
 将門の左目ををふさぐ手がなんとも小さくてかわいらしい。

 八角眼鏡は実際にこの絵のようなものだったらし。

 

2024年11月3日日曜日

時代世話二挺鼓 その19

P12P13 国立国会図書館蔵

(読み)

志ん王 の

しんのうの


土用

どよう


本しを

ぼしを


ミるやう多

みるようだ


志ん王

しんのう


いのちを

いのちを


あげ

あげ


まきの

まきの


じやう

じゃぁ(「う」は誤刻?)


袮へ可

ねえか

P13

ことしハくげ可

ことしはくげが


あ多り多ハへ

あたりだわえ


志可し

しかし


奈可尓

なかに


多いふん

だいぶん


あ多り可

あたりが


ミへる

みえる

(大意)

秀郷「土用干しで内裏人形の親王をたくさん見ているようだ。〽親王命を揚げ巻の〜じゃぁねぇか」

将門「今年は公卿が当たり年だわぇ。しかし、公卿の中にはだいぶ腐りかけたものもいるようだ」

(補足)

「出目」ではなく「土用」。「土用本し」、夏の土用の頃に衣類や本を干して風を通し,虫のつくのを防ぐこと。内裏人形も干した。

「志ん王いのちをあげまきの」、河東節「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」の終りの部分「しんぞ命をあげ巻の、これ助六が前わたり、風情なりける次第なり」のもじり。

「ことしハくげ可あ多り多」、「ことしや南瓜(かぼちゃ)の当たり年」のもじり。不器量な娘が結婚するのをひやかす言葉、とありました。

「あ多り」、『⑪ 果物などの傷や腐ったところ。「―のある桃」〈滑稽本・浮世風呂•4〉』幕府高官が罪に問われることの多いことを暗示している、とありました。

 秀郷はこれみよがしに「俵」石山人書とある扇をこちらに見せつけています。

天明三(1783)年に羽左衛門が石山人の寿の字の団扇を七千本くばったと伝えられ、このようなことがはやったのだろうと、ありました。

 

2024年11月2日土曜日

時代世話二挺鼓 その18

P12P13 国立国会図書館蔵

(読み)

将 門 ひてさと尓

まさかどひでさとに


志つけられぐ川と

しつけられぐっと


せきこんて

せきこんで


うぬ可゛で尓者゛けを

うぬが でにば けを


あらハし

あらわし


王れまことハ

われまことは


す可゛多可゛七 ツ

すが たが ななつ


ある可らかく

あるからかく


者や王さ也

はやわざなり


なんじハ

なんじは


よもや

よもや


この


ま年ハ

まねは


でき

でき


まいと

まいと


七 ツの

ななつの



可多

がた



あら

あら


ハし

わし






「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


「何 ときめ う可

 なんときみょうか


「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


「何 と

 なんと


きめ う可

きみょうか


(大意)

 将門、秀郷にやり込められ、ひどくあせってしまい、みずから化けている姿をあらわし、

「おれは本当は姿が七ツあるから、このような早業ができるのだ。お前はよもやこのまねはできまい」と七ツの姿をあらわしてみせる。

将門の分身「どうだ見事であろう」以下同台詞六ツ略。

(補足)

「志つけられ」、『しつ・ける【仕付ける・躾ける】⑥ やっつける。「千代歳さまに―・けられて無念な,敵取つて下んせ」〈浄瑠璃・冥途の飛脚•中〉』

「せきこんて」、『せきこ・む【急き込む】ひどく心がせく。あせってことをする。「―・んで話す」』

 ここでも分身たちは微妙に(とくに表情を)変化させていて(左端分身は笏を振り上げている)、単純な分身の術より迫力ありです。

 この黄表紙、ここまで読んできておもったのですけど、この本の摺りはどうやら初版に近いものではないかと。文章もですが、どの彫りも線がくたびれてなく鮮明でクッキリです。

 

2024年11月1日金曜日

時代世話二挺鼓 その17

P11 国立国会図書館蔵

(読み)

や可ら

やがら


むせ う尓

むしょうに


う川可゛

うつが


いゝ

いい


どう

どう


ち う

ちゅう


双 六 と

すごろくと


羽左衛門 可゛

うざえもんが


志よさでハ

しょさでは


ミ多可

みたが


や可ら

やがら


可年ハ

かねは


めの

めの


まハり

まわり


そう奈

そうな


こと多

ことだ

(大意)

将門「八がら(の鉦)無性に打つがいい」

道中双六と羽左衛門の所作では見たことがあるが、八がら鉦は目の回りそうな芸事だ。

(補足)

「や可らむせう尓」、やたら無性に、の洒落。

「どうちう双六」、手もとの本には、東海道道中双六の袋井の絵に、両手に撥を持って立つ者と、坐して太鼓を打つ者が描いてあるとあります。

「羽左衛門」、九代目市川羽左衛門(1724〜85)。所作事の名人とされた。

 八がら鉦には、「八がらがねよくよくみれば手が弐本」、「八がらがねただ見てとおるものでなし」などがあります。また「八がら鉦」で検索するとたくさんヒットします。