2025年9月7日日曜日

江漢西遊日記五 その43

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

事 とて口 ニふくん多る飯 を膳(セン)一 者゛いへ吹キ出し

こととてくちにふくんだるめしを  ぜん いっぱ いへふきだし


个り亦 之助 尓あれハどふし多と聞(キゝ)个連ハ江

けりまたのすけにあれはどうしたと  きき ければえ


戸可らお出 能人 の言葉(モノイゝ)可お可しゐとて

どからおいでのひとの   ものいい がおかしいとて


能事 なりとぞ夫 より段(タン)\/山 尓登 ル尓

のことなりとぞそれより  だん だんやまにのぼるに


紫 カヤ生  シて木なし急  尓登 ル処  六 七 町

しばかやしょうじてきなしきゅうにのぼるところろくしちちょう


アリて頂(イタゝ)き尓至 ル総 て廿  町  程 あり上 ニ遠フ

ありて  いただ きにいたるすべてにじっちょうほどありうえにとう


見番 所 アリ足 軽 一 人居ル其 者 ノ云 一 年

みばんしょありあしがるひとりおるそのもののいういちねん


尓両  三 度西 の方 暮(ボツ)色(シヨク)山 を見ルと云 是 ハ

にりょうさんどにしのほう  ぼっ   しょく やまをみるというこれは


那支(カラ)能方 能山 なり日本 能地ニあら須゛

   から のほうのやまなりにほんのちにあらず


大方(ヲゝカタ)日本 ニ近 キ嶋 ならん頂  上  岩 石 の上

   おおかた にほんにちかきしまならんちょうじょうがんせきのうえ

(大意)

(補足)

「段(タン)\/」、次のページにも「段」のくずし字が同じ形で出てきます。入門古文書小辞典で調べるとまったく同じ形のくずし字がありました。ネットの日本古典籍くずし字データセットにはありませんでした。

  孩(ヤゝ)子カ岳(番岳)山頂。

 こんなに狭いので毛氈は敷けませんから、もう少し広いところで楽しんだのでしょう。

素晴らしい眺め!

 

2025年9月6日土曜日

江漢西遊日記五 その42

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

漁  の時節 と云

りょうのじせつという


五 日天 氣能クドミ多る天 氣なり爰 ニ孩(ヤゝ)子カ岳

いつかてんきよくどみたるてんきなりここに  やや こがたけ


とて此 嶋 の大 山 也 四 時 比 ヨリ酒 茶 菓子

とてこのしまのおおやまなりよつどきころよりさけちゃがし


を持ち此 山 ニ登 ル主 人 亦 之助 新 四良 吾 カ

をもちこのやまにのぼるしゅじんまたのすけしんしろうわれが


僕(ホク)と四人 小童 ニ毛 せんなと為持 村 々 を過 て

  ぼく とよにんこどもにもうせんなどもたせむらむらをすぎて


行 一 老 夫傍  ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦 之助 大 音(ヲン)

ゆくいちろうふかたわらに   へいふく しているまたのすけだい  おん


ニて通(トヲシ)と云 誠  ニ此 所  能公方 様 なり夫 より

にて  とおし というまことにこのところのくぼうさまなりそれより


行ク尓岩 を壁 となし多る家 アリ亦 之助 能産(ウ)

ゆくにいわをかべとなしたるいえありまたのすけの  う


婆(バ)能家 なりとて爰 へよる老 婆飯 を喰ヒ居

  ば のいえなりとてここへよるろうばめしをくいお


る吾 色 \/話(ハナシ)しけ連ハ老 婆何 ヤラ笑(ヲカシ)き

るわれいろいろ  はなし しければろうばなにやら  おかし き

(大意)

(補足)

「五日」、天明8年12月5日。西暦1788年12月31日。

「ドミ多る天氣」、『ど・む 【曇む】色や光沢がどんよりとする。にごる。くもる。「そうじて醂(さわし)柿は,色の―・みたは甘うござり」〈狂言・合柿•鷺流〉』とあって、曇っているけどまぁまぁ良い天気ということでありましょうか。

「孩(ヤゝ)子カ岳」、『西遊旅譚四』に孩子カ岳と小童の画があります。

 このとんがった山は標高が286m、島一番の高さです。かなり急峻で危険そうにみえます。現在は番岳といわれていて、車で頂上付近までいけるようです。寛永十八(1641)年に、遠見番火立場が設置され、平戸藩士馬廻役がその番頭に任ぜられた、とありました。

「一老夫傍ラ尓平伏(ヘイフク)して居ル亦之助大音(ヲン)

ニて通(トヲシ)と云誠ニ此所能公方様なり」、まるで時代劇を見ているようですけど、これが身分制度が厳然とあった社会の日常であったのでしょう。

 

2025年9月5日金曜日

江漢西遊日記五 その41

P42 東京国立博物館蔵

P43

(読み)

P42

孩(ヤゝ)子嶽(カタケ)

  やや こ  がたけ   


西 ノ方 暮色  一  嶋 を見ルト云

にしのほうぼしょくひとつしまをみるという


日本 ノ地ニあら春゛

にほんのちにあらず


P43

上 坐ニ置きしきへ能外 ニて挨 拶 春先ツ酒 吸

かみざにおきしきへのそとにてあいさつすまずさけすい


物 を出して飯 を出春亦 之助 三 十 歳 の者

ものをだしてめしをだすまたのすけさんじっさいのもの


ニて能 男  婦り言 語此 国 能様 ニあら須゛至  て

にてよきおとこぶりげんごこのくにのようにあらず いたって


通 人 なり夫 より程 なく同 舟  し多る新 四郎

つうじんなりそれよりほどなくどうしゅうしたるしんしろう


参 ル是 ハ此 国 能物 云 ニて人 物 も此 地の者 と

まいるこれはこのくにのものいいにてじんぶつもこのちのものと


見ユ平 戸侯 より袋  戸能画四 枚 頂(テ ウ)戴(タイ)春

みゆひらどこうよりふくろどのえよんまい  ちょう   だい す


名 印 なし則  チ予(ハカ)描き多る画なり兼 て名

めいいんなしすなわち  よが かきたるえなりかねてな


を知 け連ハいよ\/肝 を津婦し个連吾 等

をしりければいよいよきもをつぶしけれわれら


此 嶋 尓畄  里鯨  の實 談 をせんとて三 十

このしまにとどまりくじらのじつだんをせんとてさんじゅう


日 畄  ル鯨  ハ寒 中  ヨリ正  月 松 の内 を第 一 能

にちとどまるくじらはかんちゅうよりしょうがつまつのうちをだいいちの

(大意)

(補足)

「孩」、こんな漢字があるのかと探してみるとこのようにちゃんとフォントがありました。『ちのみご』と読むのだそうですけど、漢字変換で出てきませんでした。

「しきへ」、敷居。辞書にはありません。

「頂戴」、ここの「頂」のくずし字は江漢独自のもののよう。「戴」は文中では「載」。

「予」、フリガナに「ハカ」とありますが、「ヨカ」の間違い?

 西遊旅譚4に生月島之圖があり、左に孩子嶽(ややこがたけ)があります。村が嶋をほとんどしめていて、とんでもなくにぎわっているのがわかります。 


 

 

2025年9月4日木曜日

江漢西遊日記五 その40

P40 東京国立博物館蔵

P41

(読み)

誠  尓おそろしき大 浪 なり舟 を押ス者 可け声

まことにおそろしきおおなみなりふねをおすものかけごえ


アリヤ\/ \/ と云ツて軍  舩 の如 し漸  ク日暮 生 月

ありゃありゃありゃといっていくさふねのごとしようやくひぐれいきつき


ニ着(チヤク)岸(カン)春カコ能者 手も足 も皆 鮪 能血(チ)ニ

に  ちゃく   がん すかこのものてもあしもみなしびの  ち に


そミ誠  ニ軍  能如 し二時 者可里能間  おそろしき

そみまことにいくさのごとしにときばかりのあいだおそろしき


め尓逢ふ多り爰 尓鮪 師益 冨 又 左衛門 と云フ

めにあうたりここにしびしますとみまたざえもんという


者者なり其 息(ソク)亦 之助 両  人 畄主故 先

ものなりその  そく またのすけりょうにんるすゆえまず


一寸 と見世先 尓あかり火を以 テ衣服 能濡(ヌレ)

ちょっとみせさきにあがりひをもっていふくの  ぬれ


多るをか王可春殊 ニ寒 月 故 さ武し程 なくして

たるをかわかすことにかんげつゆえさむしほどなくして


主 人 帰 り又 左衛門 ハ平 戸へ参 リ多るよし倅  亦

しゅじんかえりまたざえもんはひらどへまいりたるよしせがれまた


之助 出て玄 関 様(ヨウ)の処  を開 き坐しきへ通 シ

のすけでてげんかん  よう のところをひらきざしきへとおし

P41

須草 ヨリ

すくさより


生 月 へ渡 ル

いきつきへわたる

(大意)

(補足)

「鮪師益冨又左衛門」、享保10年(1725)〜安政6年(1859)までの130年間に21,700頭を捕獲し、平戸藩への納付金も77万両、献金が15万両あった。江戸末期に不漁となり、その後、明治7年(1874)に完全に撤退した。米国を中心とした諸外国の捕鯨船が日本近海に乗り出し、このため日本近海に回遊する鯨が急速に減ったためであった、とありました。

「畄主」、当主ではありません。留守。

 鮪船の画。文中の説明どおり、「表の方尓トマを張リ二人坐」していて、「カコ六人」がきちんと描かれています。こんなに小さい船で大荒れの海を渡るのですから、事故は頻繁にあったのだろうとおもいます。奥の船もおなじように描かれています。

 「西遊旅譚四」に画があります。


 

2025年9月3日水曜日

江漢西遊日記五 その39

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

尓渡 ル尓先ツ城  下より一 里野山 を越ヘて薄 香

にわたるにまずじょうかよりいちりのやまをこえてうすか


浦 と云 処  ニ至 ル少  々  人 家アリ爰 ヨリ舩 を出春ニ

うらというところにいたるしょうしょうじんかありここよりふねをだすに


五人 にて艪(ロ)を押(ヲス)風 ありて浪 高 シ夫 故 尓

ごにんにて  ろ を  おす かぜありてなみたかしそれゆえに


須草 と云 処  へ舩 を入ル爰 ニハ家 なく岩 壁 ニして

すくさというところへふねをいるここにはいえなくいわかべにして


魚 屋アリ之(コレ)ハ生 月 より人 数 を爰 ニ置キ鯨

うおやあり  これ はいきつきよりにんずうをここにおきくじら


能来ル時 舩 を出春亦 鮪 漁  をも春先ツ爰

のくるときふねをだすまたしびりょうをもすまずここ


尓あ可里て喰  事などして風(カサ)間(マ)を待ツ尓いよ\/

にあがりてしょくじなどして  かざ   ま をまつにいよいよ


剛(ツヨシ)爰 ニて鮪 漁  五六 十  アリ其 鮪 舟 ニのりて

  つよし ここにてしびりょうごろくじゅうありそのしびぶねにのりて


生 月 ヘ渡 ル尓波 舟 能上 を飛ヒ越へる事 数(ス)

いきつきへわたるになみふねのうえをとびこえること  す


度なり表  の方 尓トマを張リ二 人坐春カコ六 人

どなりおもてのほうにとまをはりふたりざすかころくにん

(大意)

(補足)

「薄香浦」、地図の中央にあります。

「須草」、現在の地図です。薄香浦を出帆したものの、外洋にでると波高く、須草で風間待ち。 

 「生月ヘ渡ル尓波舟能上を飛ヒ越へる事数(ス)度なり」、大荒れの海、このような状況も何度か経験してきていて、以前よりいくらか落ち着いているようです。

 

2025年9月2日火曜日

江漢西遊日記五 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

魚 の店 商  人 方 へ参 ル酒 を出し鴨 の玉 子

うおのたなしょうにんかたへまいるさけをだしかものたまご


とぢ鯛 能あん可け。者んぺんを出し興  應

とじたいのあんかけ はんぺんをだしきょうおう


春此 地能鴨 一 向 油  なく味 なし鯛 ハ至  て味

すこのちのかもいっこうあぶらなくあじなしたいはいたってあじ


よし油  多 くして多 く不喰

よしあぶらおおくしておおくくわず


三 日今 日毛風 雨霰  鯨  を取ル嶋 生 月 ヘ渡海

みっかきょうもふううあられくじらをとるしまいきつきへとかい


三 里あり兎角 尓渡 ル日なし此 日画を描

さんりありとかくにわたるひなしこのひえをかき


暮 春爰 ニてハ福 禄 寿 能事 を歳徳(トク)神(シン)

くらすここにてはふくろくじゅのことをとし とく   じん


と云 ヒキカヱルをヲンゼウコと云 反皮(マムシ)を平 口 と云

というひきがえるをおんぜうこという   まむし をひらくちという


四 日天 氣風 少 しアリ山 形 新 四良 ハ六 良 と親

よっかてんきかぜすこしありやまがたしんしろうはろくろうとしん


類 の者 ニて住  居 ハ生月(イキツキ)嶋 なり此 者 と生 月 嶋

るいのものにてじゅうきょは   いきつき しまなりこのものといきつきしま

(大意)

(補足)

「興應」、饗応。

「鴨一向油なく味なし鯛ハ至て味よし油多くして多く不喰」、鴨は脂がのってなく、鯛は脂がのってとても旨いのだけど、脂が強すぎてたくさんは食べることができなかったよう。江戸では鮪のトロは猫またぎといわれて見向きもされませんでした。

「三日」、天明8年12月3日。西暦1788年12月29日。

「歳徳神」、『としとくじん【歳徳神】陰陽道(おんようどう)で,その年の福徳をつかさどる神。この神のいる方を明きのかた,または恵方(えほう)といい,万事に吉とする。恵方神。歳神。正月様』。方言ではなかったようです。

「平口」、西日本で使われる別名のようです。

 

2025年9月1日月曜日

江漢西遊日記五 その37

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

裏 ニハ紅(モミ)を付 多る綿(ハタ)入 を着(キ)多り

うらには  もみ をつけたる  わた いれを  き たり


十  二月 朔 日 天 氣西 風 亦 表  具細 工人 宇

じゅうにがつついたちてんきにしかぜまたひょうぐさいくびとう


吉 方 へ行キ屏  風尓狗  子を描(カク)酒 菓子を出タ

きちかたへゆきびょうぶにいぬのこを  かく さけかしをいだ


春舩 方 能足 軽 とも来 りてう多をう多ふ〽平

すふなかたのあしがるどもきたりてうたをうたう ひら


戸お客  ハ保うきでこざる田助 浦 尓て夜ヲ明 ス

どおきゃくはほうきでござるたすけうらにてよをあかす


〽サツ\/フレ\/六 尺  袖 よ四十  過キレハ婦里やなら

 さっさっふれふれろくしゃくそでよしじゅうすぎればふりゃなら


ぬ〽坊(ホン)山 路チヤ破 れ多衣(コロモ)か多尓掛(カゝラ)で

ぬ   ぼん やまじじゃやぶれた  ころも かたに  かから で


氣尓かゝる

きにかかる


二 日亦 朝 より風 雨雪 霰  ましる此 地海 ト

ふつかまたあさよりふううゆきあられまじるこのちうみと


山 あれ共 渓 流  谷 川 なし宇吉 を使  として

やまあれどもけいりゅうたにがわなしうきちをつかいとして

(大意)

(補足)

「十二月朔日」、天明8年12月1日。西暦1788年12月27日。

「保うき」、『② 遊里で,次々に芸妓と関係すること。また,そのような男。浮気者。「―しちやあいやよ」〈おかめ笹•荷風〉「―客」』

「う多をう多ふ」、歌詞がおもしろく、ニヤリとわらいを誘う(江漢さん自身も田助浦で一晩楽しんだ)。なので歌詞を記録したのでしょうね。