2025年4月7日月曜日

江漢西遊日記三 その39

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

十  五日 天 氣矢掛 を發(ハツシ)て神邊(カンナヘ)ニ至 ル能

じゅうごにちてんきやかけを  はっし て   かんなべ にいたるの


間  増 山 侯 能臣 春 木文 弥とて文 もあり

あいだましやまこうのしんはるきぶんやとてぶんもあり


画かく此 者 吾 を後 ロより呼ヒ可け之(コレ)も

えかくこのものわれをうしろよりよびかけ  これ も


主 人 能命 ニて長 﨑 へ行く者 なり同 道

しゅじんのめいにてながさきへゆくものなりどうどう


して路 十  余里行キて今 津の驛 尓

してみちじゅうよりゆきていまずのえきに


泊 ル此 路 福 山 能の城 見ユ

とまるこのみちふくやまののしろみゆ


十  六 日 天 氣能ク出  立 して二里行キて

じゅうろくにちてんきよくしゅったつしてにりゆきて


小野路 と云フ処  より舩 尓乗(ノ)る爰 ハ能 処

おのみちというところよりふねに  の るここはよいところ


尓て冨商  多 し西 能小江戸と云 とぞ東

にてふしょうおおしにしのこえどというとぞこ


風吹キて十  八 里程 走 リて小嶋 尓か〃る

ちふきてじゅうはちりほどはしりてこじまにかかる

(大意)

略

(補足)

「十五日」、天明8年九月十五日。1788年10月14日。

矢掛(画像の右上隅)・神辺・福山・今津(尾道の右上)・「小野路」尾道(画像の左下隅)、 

 矢掛から今津まで「十余里行キ」とあり、40〜50Kmを一日で歩いたのですから、健脚そのもの。

「増山侯」、増山正賢(ましやま まさかた)、伊勢長島二万石藩主。宝暦四年(1754)〜文政二年(1819)、江戸生、築地で死去。酒造統制違反となり大坂を追われた破産した木村蒹葭堂を自領に招き、窮地を救ったことは有名。風雅を愛でた文人大名で、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料。

「春木文弥」、南湖とも称し、谷文晁(1763-1840)と並び、「天下の二老」と称された春木南湖(1759-1839)は、伊勢国長島藩主・増山雪斎に抱えられ、その援助で京都、大坂、長崎に遊学、その道中日記「西遊日簿」に江漢との様子が記されています。少々長いですが引用します。

『翌十五日晴矢掛備中七日市ニテ休入口七日市川トテ舟渡シアリ

昼頃カンナベ驛ニ至故鄉ノ人司馬江漢ニ逢夫ヨリ同道ニテ大渡り川

トテ川アリ二十間斗ノ間一枚ノ橋ナリ駕ヨリ下リ渡ル山手ト云フ所ヨ

リ福山城ミエル備中備後境アリ海道/左ニ松永トテ湊アリ此日祭ニテ

角力アリニギヤカナリ此夜ハ國今ツニ泊藤屋源助尤江漢ト同宿ス

翌十六日今津出テホウシ山ヲ越テ山中ニ備後藝州境アリ山中松樹

多シ夫ヨリ尾ノ路ト云所至ル是ヨリ舟ヲカリ乘ル尤江漢同道ニテ九

時頃出帆

尾路ト云所ヨリ廣島ニ海上小島大島多クアリ誠ニ奥州松島ノ風

景如此ナラント思海上八九里ノ間人家ナキ所アリ岸穴ニ盜人今ニ住

居所モアリ其所ノ者夫ヲ其マゝ置トミエ普天ノ下ニモ如是此ナ所

アリケルニソト江漢ト語テ廣島ノ湊賣餘り至シニ俄ニ風起テ船ヲ宇島

ト云所ニ掛ル宮島アサ島眼下ニ望風景甚佳ナリ

翌十七日朝晴五ツ時過廣島ニツクネコヤ橋下ニ着御城下尤繁華ニシ奇

麗ナリ夫ヨリ江漢ト同道ニテ芸州イノロト云所ヨリ乗舟テ宮島エ行

暮七時前厳島着岸ス先明神礼拝ス丁ノ内ニ猿鹿イテ紙合羽ヲ着

シテアルケバ鹿コレヲクハントス奈良丁ノ如シ其風景相州江島/如

クニシテ廣

其夜折ヨク回樓燈明トホリ誠日本無双之勝景ナリ其夜宮島市中イヨヤ

久兵衛方ニ宿

翌十八日雨司馬氏此島ニテ風景フ寫トテ殘ル余用事アリテ別ナス

晚秋與司馬氏暫同道別干嚴島

山川好景暫同遊俱宿海天嚴島秋百八回樓分手處孤舟照見靈燈明

夫ヨリ司馬氏別テ朝六半頃舟ニノリ島々風景ヲ見ルニ太湖ノ如クナル

島アリ秋雨淋シク見ルニ鹿一疋浪打際ニ遊シ景誠ニ絶景言葉不盡此間

海上三リ餘ナリ四ッ時玖波驛ツキ夫ヨリ周防関戸驛ニ至リ岩国錦帯橋

ニ至リ名高橋ナリ』

 江漢と二人で観光する様子が映像になって、旅番組を見ているようです。

 

2025年4月6日日曜日

江漢西遊日記三 その38

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

と云フ人 の方 ヘ行く酒 菓子を出ス

というひとのほうへゆくさけかしをだす


十  四 日天 氣朝 冷 氣五  時 過 尓出  立

じゅうよっかてんきあされいきいつつどきすぎにしゅったつ


して長 田村 と云 処  尓至 リ序 助 と云 者

してながたむらというところにいたりじょすけというもの


能家 ニよる菓子茶 を出ス夫 より窟 木

のいえによるかしちゃをだすそれよりくぼき


村 と云 を過 て岡 田と云 処  尓至 ル爰 ハ伊東

むらというをすぎておかだというところにいたるここはいとう


侯 能領  地なり藩 中  ノ醫者 熊 谷 連

こうのりょうちなりはんちゅうのいしゃくまがいれん


鱗 と云 者 能処  尓至 り爰 ニて昼  喰 春サウ

りんというもののところにいたりここにてちゅうじきすそう


ザと云 処  ヨリ人 家續 きて中 原 川 を渡

ざというところよりじんかつづきてなかはらかわをわた


里往 来 ニ出ツ此 路 尓吉備公 の墳 アリ

りおうらいにいずこのみちにきびこうのつかあり


矢掛 と云 驛 尓泊 ル

やかけというえきにとまる

(大意)

略

(補足)

「十四日」、天明8年九月十四日。1788年10月13日。

足守を五時(朝八時)に出立して、長田村、窟木村(窪木村?)、岡田村と村名が続きます。 

サウザは総社、そこから矢掛という駅で泊。

「伊東侯能領地」、伊東長寛(ながとも)。明和元年(1764)生。一万三百石余。備中岡田に住す。とありました。

 一万石以上の領主が大名ですから、この当時でも大まかに260〜270くらいあったので、江漢さんゆく先々は大名だらけというわけです。

「熊谷連鱗」、熊谷連琳(れんりん)。播磨守長寛(ながとも)の時代に、武助というものが奉公に出され、立身して扶持方給人までになった。とありました。

 

2025年4月5日土曜日

江漢西遊日記三 その37

P37 東京国立博物館蔵

(読み)

庭 尓径 二尺  余  丸 柱 ラ能礎(イシツヱ)在 之 ハ備 中

にわにけいにしゃくあまりまるはしらの  いしずえ ありこれはびっちゅう


足 守 賀陽 郡 溝 手村 賀陽 寺能

あしもりかようぐんみぞてむらかようじの


趾 ヨリ掘 出ス千 年 余の物 と云 亦口(クチ)五

あとよりほりだすせんねんよのものというまた くち ご


六 寸 生(ス)焼 の器  アリ同  ク岩 下 ヨリ堀

ろくすん  す やきのうつわありおなじくいわしたよりほり


出ス

だす


十  三 日 雨天 今朝先ツ雨 ナシ晩 方 雲  晴

じゅうさんにちうてんけさまずあめなしばんがたくもりはれ


月 漸\/ 出ツ日々秋 色 を催  し衣服 う春し

つきようよういずひびあきいろをもよおしいふくうすし


主 人 能衣をかり着(キ)春る俄  尓大 ツイ立

しゅじんのいをかり  き するにわかにおおついたて


を張 蘭人物(ランシンフツ)を描(カ)ク出来よし裏 ニハ

をはる    らんじんぶつ を  か くできよしうらには


山 水 一 日 尓出来上 ル日暮 ヨリ木 下男成(ヲナリ)

さんすいいちにちにできあがるひぐれよりきのした  おなり

(大意)

略

(補足)

「口(クチ)五六寸生(ス)焼の器」、『西遊旅譚二』には同じ箇所でその器の画があります。 

「十三日」、天明8年九月十三日。1788年10月12日。

 月がやっと出たとあります。じきに満月をむかえる月です。🌔

 

2025年4月4日金曜日

江漢西遊日記三 その36

P36 東京国立博物館蔵

(読み)

能堺  尓亦 吉備津の宮 アリ此 社 内 尓

のさかいにまたきびつのみやありこのしゃないに


湯立 能釜 あり銀 二十  目納 ムレハ釜 尓

ゆだちのかまありぎんにじゅうめおさむればかまに


湯を入 火を焚く忽  ち鳴 動 春る事

ゆをいれひをたくたちまちめいどうすること


奇妙  なり夫 より宮 内 と云 処  より入 て二

きみょうなりそれよりみやうちというところよりいりてに


里あり則  チ足 守 なり木の下 侯 未 タニ

りありすなわちあしもりなりきのしたこういまだに


御着 ナシ用 人 役 黒 宮 氏へ尋  ル

おつきなしようにんやくくろみやしへたずねる


十  二日 大雨 夜 ニ入 不止(ヤマス)藩 中  の者 か王る\/

じゅうににちおあめよるにいり   やまず はんちゅうのものかわるがわる


参 リ吾カ奇談 を聞ク四五枚 画を描ク

まいりわがきだんをきくしごまいえをかく


此 地松 茸 取 多て喰(シヨク)春る尓脂(ヤニ)能香(ニホイ)

このちまつたけとりたて  しょく するに  やに の  におい


あり江戸能松 多けハ此 香  ナシ此 家 能

ありえどのまつたけはこのにおいなしこのいえの

(大意)

略

(補足)

「堺」、境。

「吉備津の宮」、『きびつじんじゃ 【吉備津神社】

岡山市吉備津にある神社。大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)をまつる。1425年再建の吉備津造りの社殿は国宝。釜鳴(かまなり)神事で有名。備中国一の宮』

「湯立能釜」、『かまなり【釜鳴り・竈鳴り】

釜で湯を沸かしたり飯を炊いたりするとき,釜がうなるような音を立てること。古くは,その鳴り具合で吉凶を占った』

「銀二十目」、『め ㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。

「銀目」、『ぎんめ【銀目】

① 江戸時代の,銀または銀貨を量る際の単位の名目。匁(もんめ)・貫(一〇〇〇匁)・分(ふん)(一〇分の一匁)などの名目があった。大坂を中心に行われた』、『匁』もんめ、② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。

「宮内」、『宮内とは江戸時代の備中国賀陽郡宮内村のことです。備中国一宮の吉備津神社の門前町が起源です。江戸時代になると、宮内村は門前町として栄え、山陽道でも屈指の遊興街を形成しました。井原西鶴の著した『好色一代男』にも備中宮内として出てきます』とありました。

「木の下侯」、木下利虎(としとら)。明和元年(1764)〜享和元年(1801)。九世足守藩主。

「用人役黒宮氏」、黒宮献子、元文5年(1740)〜寛政6年(1794)。家代々足守藩の家老。浦上玉堂や古川古松軒とも交友があった、とありました。

「十二日」、天明8年九月十二日。1788年10月11日。

 家老の家へ訪ねたり、藩中の者たちがかわるがわる訪れてきたりと、江漢さん、やはり有名人?紹介状か何か持っていたのでしょうか?

 

2025年4月3日木曜日

江漢西遊日記三 その35

P35 東京国立博物館蔵

(読み)

浦 上 方 と同 シ事 也

うらがみかたとおなじことなり


十 日雨天 絹 地尓蘭画(ヲランタヱ)ヲ認  メル粋  吾カ側(ソハ)

とおかうてんきぬぢに   おらんだえ をしたためるせがれわが  そば


を不離  歓  フ事 限 リなし明(ミン)の季唐 カ画

をはなれずよろこぶことかぎりなし  みん のりとうがえ


軸 ニして精 妙  ナル者 也 亦 文 微  明 皆ナ以 テ

じくにしてせいみょうなるものなりまたぶんちょうめいみなもって


真 物 なり之 を珍 蔵 春

しんぶつなりこれをちんぞうす


十  一 日 雨 石 関 を出  立 して行キ个る向 フへ

じゅういちにちあめいしぜきをしゅったつしてゆきけるむこうへ


兵  右衛門来 リ先 々 滞 畄  い多し候  得と云 不畄

ひょうえもんきたりさきざきたいりゅういたしそうらえというとどまらず


して行ク尓往 来 ニ非  ミカドと云 処  へ出て

してゆくにおうらいにあらずみかどというところへでて


夫 より四里を過 て足 守 ニ行ク路 吉備(キヒ)

それよりしりをすぎてあしもりにゆくみち   きび


津の宮 アリ参 詣 春又 行 て備 中  能

つのみやありさんけいすまたゆきてびっちゅうの

(大意)

略

(補足)

「十日」、天明8年九月十日。1788年10月9日。

「粋」、倅。

「粋吾カ側(ソハ)を不離歓フ事限リなし」、江漢さんウホウホ喜んでいるのがわかります。

「明(ミン)の季唐」、宋の李唐。李唐(りとう、生没年不詳)は、宋の画家。

「文微明」、文徴明『ぶんちょうめい 【文徴明】[1470〜1559]中国,明の文人。名は璧,号は衡山など。詩・書・画に長じた。師の沈周とともに南宗画風の再興に尽くした』

「ミカドと云処へ出て夫より四里を過て足守ニ行ク」、岡山駅から吉備線で西へひとつ目の駅が備前三門、六つ目が足守。 

「往来ニ非」、前後のながれから意味を考えましたが、どうもよくわかりません。

う〜ん🤔

 

2025年4月2日水曜日

江漢西遊日記三 その34

 

P34 東京国立博物館蔵

(読み)

十  六 七 能娘  出て杓  を取 其 娘  能物 云ヒ

じゅうろくしちのむすめでてしゃくをとるそのむすめのものいい


ハキ\/として甚  タ異  リ

はきはきとしてはなはだことなり


九  日雨 今 日佳節 なり藤 井を五  時 出  立 して

ここのかあめきょうかせつなりふじいをいつつどきしゅったつして


二里岡 山 ニ至 ル城  下町 能し二町  程 隔  リて

にりおかやまにいたるじょうかまちよしにちょうほどへだたりて


橋 二 ツ掛 ル石 関 町  と云 処  尓赤穂 屋喜左

はしふたつかかるいしぜきちょうというところにあこうやきざ


衛門 と云 者 吾 を知ル者 と聞 夫 ヘ参 ル父子

えもんというものわれをしるものとききそれへまいるふし


共 尓好 事の者 ニて甚  タ歓  ひ爰 尓畄(トゝマ)ル

ともにこうずのものにてはなはだよろこびここに  とどま る


其 日浦 上 兵  右衛門甚  タ好 事家ニて先ツ

そのひうらがみひょうえもんはなはだこうずかにてまず


之 ヘ尋  ル酒 飯 を出し又 石 関 尓かえ(ヱ)りぬ

これへたずねるさけめしをだしまたいしぜきにかえ   りぬ


豆 府(フ)尓かまぼこヲ入 さ以として飯 を出春

とう  ふ にかまぼこをいれさいとしてめしをだす

(大意)

略

(補足)

「杓」、酌。

「九日」、天明8年九月九日。1788年10月8日。

「佳節」、『かせつ

めでたい日。節供。唐・王維〔九月九日、山東の兄弟を憶ふ〕詩 獨り異に在りて、異客と爲る 佳にふに、倍(ますます)親を思ふ』

「浦上兵右衛門」、延享二年(1745)〜文政三年(1820)。江戸後期の著名な文人画家。浦上玉堂。玉堂へ江漢から「富岳遠望図」を送るなど、その親交はあつかった。 

 この絵は「相州鎌倉七里浜図」とまったく構図が同じですが、質はまったく異なります。当時こんな透明感のある画を描いたとはとてもおもえぬほどに素晴らしい。漁師?の老人と孫が日本昔話に出てくる今風でなんともかわいらしい。欧文でKookanのサインがあります。

 銭湯の壁絵で見てみたい。

 

2025年4月1日火曜日

江漢西遊日記三 その33

P33 東京国立博物館蔵

(読み)

の如 し樵夫 ニ之 を聞 ハ何 レ能時 作 リ多る者

のごとしきこりにこれをきけばいずれのときつくりたるもの


ニヤ知ル者 ナシあな多能方 ニハ二間 三 間

にやしるものなしあなたのほうにはにけんさんけん


一 枚 石 を以 テ造 ル者 多 し之 を塚 と申  なり

いちまいいしをもってつくるものおおしこれをつかともうすなり


爰 ハ大 路 と申  所  なりとぞ夫 ヨリ十  余町

ここはおおみちともうすところなりとぞそれよりじゅうよちょう


行キ寺 アリ観 音 堂 アリ瀧 ハ埒 もなき只

ゆきてらありかんのんどうありたきはらちもなきただ


谷 ノ流 レなり又 あとへ帰 り藤 井と云 間 ノ

たにのながれなりまたあとへかえりふじいというあいの


宿 尓泊 ル爰 ヨリ備前 岡 山 ヘ二里と云 播

やどにとまるここよりびぜんおかやまへにりというばん


州  までハ京  ニ属 して人 の物 云 事 此

しゅうまではきょうにぞくしてひとのものいうことこの


備前 ニ入 と江戸能音 ニなりぬ彼 ヒロイシ

びぜんにいるとえどのおんになりぬかのひろいし


茸 を吸 物 として其 夜酒 を呑 个り宿 尓

たけをすいものとしてそのよさけをのみけりやどに

(大意)

略

(補足)

「あな多能方ニハ」、『遠称の指示代名詞。《彼方》㋐ 遠くの方・場所をさす。あちらのほう。むこう。かなた。「山の―」「―の岸に車引立てて」〈更級日記〉』

「藤井」、地図の右上。

 お城の絵のある「松平上総介居城」が岡山城。どうしてこの名前なのか不明です。

 備前に入ると、言葉が江戸と同じ調子になるとありますが、どうなのでしょうねぇ。