2025年11月22日土曜日

江漢西遊日記六 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

あり楠 の碑を石 摺 ニして賣ル亦  清盛 ノ石

ありくすのひをいしずりにしてうるまたきよもりのいし


塔(ハカ)アリ布 引 の瀧 ハ摩耶山 ノ下 ニアリ山 ノ中  腹

  はか ありぬのびきのたきはまやさんのしたにありやまのちゅうふく


より望  て能キ瀧 ナリ岡 本 と云 処  其 比 梅 さか

よりのぞみてよきたきなりおかもとというところそのころうめさか


里兵  庫の者 梅 見ニ行ク夫 より西 の宮 ニ泊 ル

りひょうごのものうめみにゆくそれよりにしのみやにとまる


以上  十  里の路 也

いじょうじゅうりのみちなり


十  七 日 雨 大 降 大 坂 迄 五里駕籠ニ能る

じゅうしちにちあめおおぶりおおさかまでごりかごにのる


晩 七 ツ時 比 丸 清 方 ニ著ク宿 元 の状  正  月 二 日

ばんななつどきころまるせいかたにつくやどもとのじょうしょうがつふつか


出無事ナルヨシ安心(アンシン)春る

でぶじなるよし   あんしん する


十  八 日 天 氣北 堀 江蒹 葭堂 ヘ行ク色\/

じゅうはちにちてんききたほりえけんかどうへゆくいろいろ


談 話春昼 過 帰 ル晩 方 丸 庄。 治兵衛。扇 久。

だんわすひるすぎかえるばんがたまるしょうじへえ せんきゅう

(大意)

(補足)

「布引の瀧ハ摩耶山ノ下ニアリ」、日記では「耶」が「邪」。 

 古地図の左下の神戸村をでてすぐ左上が布引の滝、その右上に摩耶山があります。そのまま街道に沿って中央辺りが岡本村になり、さらにすすんで古地図の右側が西宮宿です。

「以上十里の路也」ですから、40kmすすんだことになります。

「十七日」、寛政1年2月17日 1789年3月13日。

「大坂迄五里駕籠ニ能る」、20kmを二人でかつぎとおすのは難しいでしょうから、きっと交代のかつぎ手がふたりいたとおもいます。

「北堀江蒹葭堂ヘ行ク」、長崎へ行くときも何度か立ち寄ってます。

 帰りは駕籠をよく使ってます。一刻も早く江戸へ帰りたい気持ちでいっぱいなようです。

 

2025年11月21日金曜日

江漢西遊日記六 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

屋庄  左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ

やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには


市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も

しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも


あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里

ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり


大 久保へ三 里半 五十 町  又 一 里程 行キ明

おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか


石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿  なり爰 ヨリ

しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより


淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心  持 春る

あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする


十  六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して

じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして


舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の

まいこがはまふうけいよし   あつもり のせきとうの


前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵  庫ニ至  楠

まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす


能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物

の  ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ

(大意)

(補足)

地名がたくさんでてきます。

「姫路」より「加古川」へ、

「大久保(大窪)」より「明石」で泊、

「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、

「敦盛墓兵庫津神戸」、

「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』

「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。

「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。

 

2025年11月20日木曜日

江漢西遊日記六 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日曇  北 風 さ武し三ツ石 を明 七 ツ時 尓

じゅうよっかくもりきたかぜさむしみついしをあけななつどきに


出  立 して有年(ウネ)迄 三 里山 路 なり漸  く尓して

しゅったつして   うね までさんりやまみちなりようやくにして


夜明 多り有年河 舟 渡 し正  条  より駕

よあけたりうねかわぶねわたししょうじょうよりか


籠ニて姫 路ニ泊  爰 より丹 波へ出テ夫 より

ごにてひめじにとまるここよりたんばへでてそれより


京  へ行ク心  得なれと兎角 故郷  へかえ里度

きょうへゆくこころえなれどとかくこきょうへかえりたし


妻 子ある故 歟夫 故 ニ所  々  行キ残 し多る所  多 シ

さいしあるゆえかそれゆえにところどころゆきのこしたるところおおし


今 更 思 ヘハ残 念 なり姫 路皮 四五枚 買(カフ)

いまさらおもえばざんねんなりひめじかわしこまい  かう


商  人 の云 京  光 代 寺当 月 八 日消  失 と云

しょうにんのいうきょうこうだいじとうげつようかしょうしつという


去 年 能大 火尓焼 残 里多る処  なり

きょねんのたいかにやけのこりたるところなり


十  五日 天 氣無風 五  時 過 尓出  立 して表

じゅうごにちてんきむふういつつどきすぎにしゅったつしておもて

(大意)

(補足)

「十四日」、寛政1年2月14日 1789年3月10日。

「明七ツ時」、夜明け前4時。真冬の4時に出立するなんて、よほど先を急ぎたいのでね。

「三ツ石」「有年(ウネ」、現在の地図です。右側の竜野の河よりが正条(しょうじょう)。 

「正条」、「姫路」、右端にお城の絵があって、そこが姫路。左側の揖保川の左に正条村。

「姫路皮」、『姫路はわが国の皮革のふるさととして著名である』とあって、わたしはまったく知りませんでした。

「光代寺」、高台寺。実際は「2月9日、高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失した」とあります。消失してからまだ5日しかたってないのに、もう姫路まで届いてます。

「去年能大火」、『天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災』。

 江漢さん、再三「兎角故郷へかえ里度妻子ある故歟」とこぼしていますが、そんなことはなく、普段の江戸の生活が恋しいだけだとおもいます。

 

2025年11月19日水曜日

江漢西遊日記六 その47

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

云フ処  まで皆 々 送 ル㐂左衛門 甚  タ別 レをおしミ

いうところまでみなみなおくるきざえもんはなはだわかれをおしみ


両  眼ニ涙(ナミタ)を浮 へ个里㐂左衛門 云 ニハ当 春  ハ参(サン)

りょうめに  なみだ をうかべけりきざえもんいうにはとうしゅんは  さん


宮 い多し必  ス大 坂 ニて御目ニかゝるべしと約(ヤク)シ

ぐういたしかならずおおさかにておめにかかるべしと  やく し


个る可゛其 後ニ聞 ハ参 宮 して返 りて死し多るを

けるが そのごにきくはさんぐうしてかえりてししたるを


云フ吾 尓別 レをおしミ多る前 表  なるや此 日

いうわれにわかれをおしみたるぜんぴょうなるやこのひ


南  風 暖 氣麦 畑  尓ひ者゛り啼 て空 ニ舞(マ)ひ

みなみかぜだんきむぎばたけにひば りなきてそらに  ま い


藤 井よりひと市 ニて駕籠尓乗ル吉 井川 能

ふじいよりひといちにてかごにのるよしいかわの


邊  ニて昼  喰  春加々戸伊(イン)部を越ヘ片 上 ヨリ又

あたりにてちゅうしょくすかがど  いん べをこえかたがみよりまた


駕籠ニ能里三 里能間  八木山 路 山 中  夜 ニ入

かごにのりさんりのあいだやぎやまみちさんちゅうよるにいり


三ツ石 松屋 と云 能 家 ニ泊 ル晩 方 寒 シ

みついしまつやというよきいえにとまるばんがたさむし

(大意)

(補足)

「藤井よりひと市」、「伊(イン)部を越ヘ片上」、古地図の左隅が岡山、左斜め上の街道をすすんで、藤井村、河の手前に一日市村があります。さらにそのまま街道のさき、青い入江のところが片上村でその手前に伊部村があります。 

 現在の地図です。

 縮尺があります。ざっと40数キロの行程、駕籠を使ったとはいえ強行軍であります。

「南風暖氣麦畑尓ひ者゛り啼て空ニ舞(マ)」う時期になりました。


 

2025年11月18日火曜日

江漢西遊日記六 その46

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

鮮(スクナ)し

十  二日 曇 ル泰 清 院 ニて逢フ尾州  の人 参 ル

じゅうににちくもるせいたいいんにてあうびしゅうのひとまいる


銅 版 を見セ个連ハ肝 を津婦゛春此 地白 魚

どうはんをみせければきもをつぶ すこのちしらうお


沢 山 平 皿 ニ三 盃 喰フ亦 灰 貝 と云 ハ石 灰

たくさんひらさらにさんばいくうまたはいがいというはせっかい


能替 り尓なるシックイ也 此 貝 サルボウ貝 ニ似

のかわりになるしっくいなりこのかいさるぼうがいにに


て裏 ノ方 まてウネあり此 肉 を喰フ之 ハ他 ニ

てうらのほうまでうねありこのにくをくうこれはほかに


なきと云フ卜 助 も来 ル夜 九  ツ時 過 迄 話 ス雨

なきというぼくすけもきたるよるここのつどきすぎまではなすう


天 ニても明日出  立 せんとて荷こしらへ春る

てんにてもあすしゅったつせんとてにごしらへする


十  三 日 雨 ヤマズ朝 五  時 過 少  々  ヤム故 ニ爰

じゅうさんにちあめやまずあさいつつどきすぎしょうしょうやむゆえにここ


を出  立 して裏 路 お城 の邊  を通 り松 本 と

をしゅったつしてうらみちおしろのあたりをとおりまつもとと

(大意)

(補足)

「十二日」、寛政1年2月12日 1789年3月8日。

「尾州」、「尾張(おわり)国」の通称で、現在の愛知県西部から岐阜県西濃地域一帯を指します、とAIの概要より。

「白魚」、好物と見えて以前の日記でも腹いっぱい食ってました。

「灰貝」、フネガイ科の二枚貝で、殻を焼いて貝灰(かいばい)にしたことから名づけられました。厚い殻には放射状に18本ほどの強い肋があり、灰黄色の殻皮で覆われています。肉は食用、とこれもAIの概要より。

「夜九ツ時過迄」、夜中の0時。「過迄」のふたつのくずし字に注意。

「朝五時」、朝8時頃。

「松本」、どの辺まで見送りをしたのかと、岡山の東周辺を探したのですが見つかりませんでした。

「銅版を見セ个連ハ肝を津婦゛春」 、江漢さんまたしても、ドヤ顔が目にうかびます

 

2025年11月17日月曜日

江漢西遊日記六 その45

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

新 太郎 少  将  熊 沢 と謀(ハカツ)て寺 \/を破却(ハキヤク)

しんたろうしょうしょうくまさわと  はかっ ててらてらを   はきゃく


春と云フ今 ハ如舊(モト)となれ里玉 嶋 在 の人 云

すといういまはもとのごとしとなれりたましまざいのひという


玉 嶋 ハ舩着(ツキ)ニて頗  ル好 事能人 あり何ンと

たましまはふな つき にてすこぶるこうずのひとありなんと


我 等と一 所 尓玉 し満へお出 と申  あと戻 り

われらといっしょにたましまへおいでともうすあともどり


なり不行 兎角 長 旅 して吾 宿 ニ妻 子アレ

なりゆかずとかくながたびしてわれやどにさいしあれ


ハ帰 り度 思 フ人 ハ出  家ニなるべし吾 も出  家

ばかえりたくおもうひとはしゅっけになるべしわれもしゅっけ


ならハ何ン十  年 も玉 嶋 ハおろ可何 ク迄 も死

ならばなんじゅうねんもたましまはおろかいずくまでもし


まて遊 歴 せんニ残 念 なる事 也 尾州  能人

までゆうれきせんにざんねんなることなりびしゅうのひと


とて泰 清 院 と云フ寺 ニて逢フ吾カ名ヲ聞

とてせいたいいんというてらにてあうわがなをきき


甚  タ懼(ヲソ)ル何(イツ)方 へ行キても吾カ名ヲ不知 者

はなはだ  おそ る  いず かたへゆきてもわがなをしらずもの

(大意)

(補足)

「舊」、旧の旧字体。

「玉嶋」、倉敷の西側、川向う。

「泰清院」、清泰院(せいたいいん)のまちがいと参考書にはありました。清泰院(せいたいいん)は備前岡山藩主池田忠継・忠雄の菩提寺。

「吾カ名ヲ不知者」、次頁に「鮮(スクナ)し」と続きます。

 ほんとにこの江漢さんって、自尊心旺盛目立ちたがりやで、外面だけでなく心の内でも、満足しきって、よしよしとうなずいているでしょうねぇ。

 自分が出家していれば、何十年も津々浦々どこまでも遊歴するだろうナンテこと言ってますけど、無理ですって(カッコつけているだけです)、すぐにホームシックになってしまうのに・・・

 

2025年11月16日日曜日

江漢西遊日記六 その44

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

九  日雨 蝋 画をビイドロニ認  メル倅  㐂左衛門 ハ

ここのかあめろうがをびいどろにしたためるせがれきざえもんは


好 事者 ニて吾 を信 春る事 如神    親 七 郎 治

こうずものにてわれをしんずることかみのごとしおやしちろうじ


六 十  余の人 ニて書 も讀メ甚  タ風 流  人 ニて

ろくじゅうよのひとにてしょもよめはなはだふうりゅうじんにて


夜 の八 時 まで話  春同 家若 林  朴(ホク)助 と

よるのやつどきまではなしすどうけわかばやし  ぼく すけと


云 人 来 ル

いうひときたる


十 日雨天 山 川 金 左衛門 岡 山 の家中  来 ル

とおかうてんやまかわきんざえもんおかやまのかちゅうきたる


十  三 年 以前 江戸勤 番 ニて逢ツ多る人 画ヲ

じゅうさんねんいぜんえどきんばんにてあったるひとえを


多能し武人 也 昼 より卜 助 方 ヘ行キ夫 より

たのしむひとなりひるよりぼくすけかたへゆきそれより


備 中  玉 嶋 能人 卜 助 方 ニ居て㐂左衛門 と共

びっちゅうたましまのひとぼくすけかたにいてきざえもんととも


尓羅漢 寺其 餘 の寺 を見 物 春昔 し

にらかんじそのほかのてらをけんぶつすむかし

(大意)

(補足)

「九日」、寛政1年2月9日 1789年3月5日。

「十三年以前江戸勤番ニて逢ツ多る人」、参勤交代は諸藩の財政を壊滅的にした元凶であり、同時に武家制度をも崩壊させた原因のひとつとなったのではありますが、江戸の文化を日本全国に広め、また諸国の地方文化を江戸にもたらしもしました。

 

2025年11月15日土曜日

江漢西遊日記六 その43

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

八ツ時 過 尓なる宿 能主 人 料  理人 二 人ニ

やつどきすぎになるやどのしゅじんりょうりにんふたりに


て町 ハツレ迄て送 ル爰 より二里宮 内 ヘ出テ

てまちはずれまでおくるここよりにりみやうちへでて


往 来 なり亦 二里行 て岡 山 石 関 町  着

おうらいなりまたにりゆきておかやまいしせきちょうちゃく


林  氏尓至 ル親 七 郎 治倅  㐂左衛門 出て

はやししにいたるおやしちろうじせがれきざえもんでて


能ク\/御帰 リ此 間  中  指 ヲ屈 シ占   などして

よくよくおかえりこのあいだじゅうゆびをくっしうらないなどして


お待 申  とて早 々 喰  事を出し湯ニ入 り亦

おまちもうしとてそうそうしょくじをだしゆにはいりまた


奥 能坐しきへ行キコタツをして當 リな

おくのざしきへゆきこたつをしてあたりな


から父子咄 春寒 氣津よけ連ハ寛(ユル)\/

がらふしはなすかんきつよければ  ゆる ゆる


と御滞 畄  あれとさて何 方 ヘ行キても尊

とごたいりゅうあれどさていずかたへゆきてもそん


敬(ケウ)されるも婦しきなる事 かな

  けい されるもふしぎなることかな

(大意)

(補足)

 足守から4里の徒歩で岡山石関町へ、16Kmも歩くなんて、それも寒中です。

どこへ行っても大切にもてなされ尊敬されているようだと、至極満足げな江漢さん、湯につかりながらも、幸せそうです。どうしてそんなに尊敬されるのだろうと、わかっているくせに自尊心をくすぐられて、ニヤニヤ顔が目に浮かびます。

 

2025年11月14日金曜日

江漢西遊日記六 その42

 

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

六 日天 氣鴨 鹿 料  理申  付 酒 を呑ミ宿 能

むいかてんきかもしかりょうりもうしつけさけをのみやどの


倅  浄  瑠璃をか多り一 興  春夫 より亦 御殿

せがれじょうるりをかたりいっきょうすそれよりまたごでん


へ行キ初 午 趣 好 を春夜 八 時 ニ帰 る

へゆきはつうましゅこうをすよるやつどきにかえる


七 日曇 ル八 時 此 より雪 降 出ス庭 の中(ウチ)色 \/

なのかくもるやつどきころよりゆきふりだすにわの  うち いろいろ


かざり物 田舎(イナカ)者 見 物 尓来ル雪 故 皆\/

かざりもの   いなか ものけんぶつにくるゆきゆえみなみな


かえる其 日も夜 の八 時 旅 宿 へ帰 ル

かえるそのひもよるのやつどきたびやどへかえる


八 日天 氣寒 く氷 ル今 日四 時 出  立 せんとて

ようかてんきさむくこおるきょうよつどきしゅったつせんとて


お暇  乞 ニ罷  出ル足 守 侯 お逢 金 五百  疋 ト

おいとまごいにまかりでるあしもりこうおあいきんごひゃっぴきと


八 丈  嶋 一 反 被 下 夫 より所  々  暇  乞 ニ参 り宿 へ

はちじょうじまいったんくださりそれよりところどころいとまごいにまいりやどへ


ハ庄  屋方 より蕎麦(ソバ)を贈 ル段 \/暇(ヒマ)取 漸  く

はしょうやがたより   そば をおくるだんだん  ひま どりようやく

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年2月6日 1789年3月2日。

「倅」、原文では「亻」が「忄」。「璃」、原文では「理」。

「夜八時」、夜中の2時。「七日曇ル八時」、こっちは昼の2時。「今日四時」、朝の10時頃。

「暇乞」、くずし字は二文字で覚えます。

「罷出」、これもセットで覚えます。

「八丈嶋」、島をもらうわけがないので、これは「縞」。

「被下」、これもセットで覚えます。

「段\/」、学んでなければ読めません。

 寒さが一番厳しい折、ましてや「寒く氷ル」という、夜中の2時まで歓談していたわけですけど、寒くなかったのかぁといらぬ心配をしてしまいます。

 

2025年11月13日木曜日

江漢西遊日記六 その41

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

个連ハ田夫田畑 の間  へタイ松 を持チ数 \/出シ

ければたふたはたのあいだへたいまつをもちかずかずだし


路 を照 し田夫の家 ニハあんどんを門(カト)口 ニ出シ

みちをてらしたふのいえにはあんどんを  かど ぐちにだし


又 タヒ松 を持 セ城  下迄テ連(ツレ)行 ハ尚 \/あり

またたいまつをもたせじょうかまで  つれ ゆくはなおなおあり


か多く思 フよし老 人 ハ数 珠を以 テ拝(ヲカム)なり

がたくおもうよしろうじんはじゅずをもって  おがむ なり


誠  尓愚直(クチヨク)なる者 ニて上ミ尓居ル者 之 を憐(アハレム)

まことに   ぐちょく なるものにてかみにいるものこれを  あわれむ


べし

べし


五 日雨 昼 より天 氣昼 過 御殿 へ出テ小襖

いつかあめひるよりてんきひるすぎごてんへでてこふすま


二組(クミ)桜  尓小鳥 流  尓鮎 の画なり明日出  立ツ

に  くみ さくらにことりながれにあゆのえなりあすしゅったつ


せんと申  上ケ个連ハ初 午 見 物 して八 日ニ出  立

せんともうしあげければはつうまけんぶつしてようかにしゅったつ


スべしと鹿 の肉 鴨 一 羽を下タさる

すべしとしかのにくかもいちわをくださる

(大意)

(補足)

「五日」、寛政1年2月5日 1789年3月1日。

「鹿の肉鴨一羽を下タさる」、鹿肉鴨肉を頂いたものの、江漢さんが料理をするわけではなく、この日記にも料理人が困っている様子がかかれています。春波楼筆記にはこのようにあります。 

 江漢が鹿の生血をすすりのんだいきさつは、この日記と春波楼筆記ではことなって記されていますが、どちらにしろこれらのことは事実であったようです。

 

2025年11月12日水曜日

江漢西遊日記六 その40

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

入ルセコ能者 数 十  人 タイコ。ドラを打ツて山 能根

いるせこのものすうじゅうにんたいこ どらをうってやまのね


を追フ鹿 一 疋 池 の邊  ニ出後(ウシロ)の山 尓入 時 ニ鉄 砲

をおうしかいっぴきいけのあたりにで  うしろ のやまにいるときにてっぽう


雨(アメ)の如 く鹿 鉄 砲 ニあ多り藪(ヤフ)の内 ニ入ル予レ走

  あめ のごとくしかてっぽうにあたり  やぶ のうちにいるわれはしっ


て鹿 の耳 元 をツキ破 里生 血を吸ヒ个連ハ皆

てしかのみみもとをつきやぶりなまちをすいければみな


々 肝 を津ぶ春鹿 の生 血ハ生 を養  フ良  薬 と

みなきもをつぶすしかのなまちはせいをやしなうりょうやくと


聞 个連ハなり夫 より日も晩 景 ニなり个連ハ爰 ヨリ

ききければなりそれよりひもばんけいになりければここより


お帰 りとて同 勢 の中 ニ入 り返 ル路 田畑 の間  を通

おかえりとてどうせいのなかにはいりかえるみちたはたのあいだをとお


るに先 ヘ立ツ多る人 吾カう王さヲ春あれハ江

るにさきへたつたるひとわがいわさをすあれはえ


戸能江 漢 と云フ者 なり鹿 の耳 元 を裂(サキ)て

どのこうかんというものなりしかのみみもとを  さき て


血を吸ヒ个りおそろしき者 なりと云 日も暮レ

ちをすいけりおそろしきものなりというひもくれ

(大意)

(補足)

「養フ」、養のくずし字はいままで見なかったような気がします。忘れてたのかな?

 生血(なまち)を吸った噂がすぐにひろまりましたが、江漢さんはちっともいやがってはなさそう。目立つこと、人と違うことをすること、うわさをされること、どれも彼にとっては飯よりも好きなことであります。

 

2025年11月11日火曜日

江漢西遊日記六 その39

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

へ一 里黒 宮 發 起して温 泉 場  と春未 タ浴(ヨク)

へいちりくろみやほっきしておんせんじょうとすいまだ  よく


春る人 なし爰 より五六 町  を過 て中 山 と云 処

するひとなしここよりごろくちょうをすぎてなかやまというところ


岩 石 聳  多る處  なり見 物 春帰 りて直  ニ御

がんせきそびえたるところなりけんぶつすかえりてちょくにご


殿 ヘ参 ル夜 ノ八ツ時 尓返 ル

てんへまいるよるのやつどきにかえる


四 日上  天 氣暖 氣四 時 より狩 尓お出之(コレ)

よっかじょうてんきだんきよつどきよりかりにおで  これ


あり予 カ旅 宿 能前 の町 を過キ一 里程 を

ありわれがたびやどのまえのまちをすぎいちりほどを


行 て供(トモ)尓歩(カチ)立 ニて山 深 く入り兎  一 疋 を

ゆきて  とも に  かち だてにてやまぶかくいりうさぎいっぴきを


得ル鹿 三 ツ出个連ど取レ春゛夫 より山 を下

えるしかみっつでけれどとれず それよりやまをくだ


里何 とか云フ里 ニ至 り冨家能商  人 方 を膳 所

りなんとかいうさとにいたりふけのしょうにんかたをぜんしょ


とし爰 ニて昼  食  春夫 よりして亦 向 フ能山 ニ

としここにてちゅうしょくすそれよりしてまたむこうのやまに

(大意)

(補足)

「中山」、『岡山県の吉備の中山にある「天柱岩(てんちゅうがん)」「鏡岩(かがみいわ)」「穴観音(あなかんのん)」「吉備中山岩石群」などの岩石群。これらの岩石は、古くから神座や祭祀の場として信仰されてきた』。

「四日」、寛政1年2月4日 1789年2月28日。

「夜ノ八ツ時」、夜中の2時。ずいぶんと遅くまで、お殿様の御殿にいたようです。

 

2025年11月10日月曜日

江漢西遊日記六 その38

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

御猟  あり鹿 三 疋 其 肉 を下 さる

ごりょうありしかさんびきそのにくをくださる


二月 朔  日昼 より雨 此 所  ニてハ一ト夜正

にがつついたちひるよりあめこのところにてはひとよしょう


月 とて昨 日 餅 を搗き今朝雑 煮ヲ喰

がつとてさくじつもちをつきけさぞうにをくう


町  家袴  上 下 ニて禮 尓出ル武家ニなし

ちょうかはかまかみしもにてれいにでるぶけになし


昨 日 能鹿 肉 を料  理人 尓申  付 候得ハ  殊(コト)

さくじつのしかにくをりょうりにんにもうしつけそうらえば  こと


能外 困 りける爰 ハ吉備津の宮 能氏 子ニて

のほかこまりけるここはきびつのみやのうじこにて


毛者 をきろふ夜 ニ入 雨 益 々 ふる

けものをきらうよるにいりあめますますふる


二 日雨 ヤマス画ヲ認  メル町  家ヘハ家中  能者 コ

ふつかあめやまずえをしたためるちょうかへはかちゅうのものこ


ズ夫 故 徒 然 ニて暮 春

ずそれゆえつれずれにてくらす


三 日天 氣となる暖 色  を催  春柏井(カシイ)と云 処

みっかてんきとなるだんしょくをもよおす   かしい というところ

(大意)

(補足)

「二月朔日」、寛政1年2月1日 1789年2月25日。天明9年は1月25日までで、翌日1月26日は寛政1年になってました。

「一ト夜正月」、『「一夜正月(いちやしょうがつ)」または「重ね正月(かさねしょうがつ)」は、2月1日を指す言葉で、特に厄年の人が、その年の厄を早くやり過ごすために、仮に一つ歳を重ねるという意味で祝う習慣です。本来の正月である1月1日に対して、2月1日を2度目の元日と見なすことで、年齢を一つ多く数え、厄年を乗り越えようとする風習で、地域によっては「歳重ね(としがさね)」とも呼ばれます』とAIの概要にありました。

「候得ハ」、頻出です。三文字セットでおぼえます。

「毛者」、もちろん獣です。

「吉備津の宮」、吉備津彦神社正面山が左端にあります。

 江漢さんは新しもの好きですから、鹿肉だろうがなんだろうがモリモリ食べたはず。獣肉は食べないと言われてますけど、食べる人がまたは常食する人が少なかっただけで、食べていたにきまっています。

 

2025年11月9日日曜日

江漢西遊日記六 その37

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

ワキ哥 興  ニ入 ておもしろしさて大 坂 より西 ノ

わぎうたきょうにいりておもしろしさておおさかよりにしの


方 酒 を出春尓肴  さし身硯  婦多ニて吸 物

ほうさけをだすにさかなさしみすずりぶたにてすいもの


ハ酒 数(ス)古ん呑 多る上 尓出春なり此 日も寒

はさけ  す こんのみたるうえにだすなりこのひもさむ


き日ニて一 向 尓あ川き物 を出さづ漸  く仕

きひにていっこうにあつきものをださずようやくし


舞 比 尓吸 物 を出し个連夫 より横 路 へ

まいころにすいものをだしけれそれよりよこみちへ


入 ル行ク事 二里あり足 守 尓至  黒 宮 を

はいるゆくことにりありあしもりにいたるくろみやを


吊(トムロウ)酒 飯 出春夜 尓入 能ク寝る

  とむろう さけめしだすよるにいりよくねる


廿   九日 天 氣寒 し旅 宿 を町 の備前 屋と云

にじゅうくにちてんきさむしたびやどをまちのびぜんやという


尓移 春小坐しきコタツあり

にうつすこざしきこたつあり


卅    日 天 氣よし御殿 へ出ルお逢ヒあり前 日

さんじゅうにちてんきよしごでんへでるおあいありぜんじつ

(大意)

(補足)

「数(ス)古ん」、『こん【献】(接尾)助数詞。

① 杯をさす度数を数えるのに用いる。「一―献(けん)ずる」

② 吸い物・肴・銚子をととのえて膳をすすめる度数を数えるのに用いる。「一―にうちあはび,二―にえび,三―にかいもちひにてやみぬ」〈徒然草216〉』。なんのことかとおもいました。数献(すうこん)の意でした。

「吊(トムロウ)」、吊(つ)る、がどうして訪れるの意味で使われるのか、江漢さんはこの日記でずっとこの漢字を使っています。

「卅日」、天明9年1月30日。1789年2月24日。

 足守藩は緒方洪庵生誕の地です。文化7年7月14日〈1810年8月13日〉〜文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)。江戸時代後期の武士(足守藩士)。残念ながら江漢さんが訪れたときはまだ生まれていませんでした。もし会えていれば、うまがあって話が盛り上がったことでありましょう。


 

2025年11月8日土曜日

江漢西遊日記六 その36

 

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣寒 サ薄 し備 中  足 守 ハ木 下

にじゅうしちにちてんきさむさうすしびっちゅうあしもりはきのした


侯 の領  地なり爰 より西 ノ方 九月 十  一 日 長

こうのりょうちなりここよりにしのほうくがつじゅういちにちなが


崎 へ参 り可け寄(ヨリ)多る尓領  主 江戸より御帰 りなし

さきへまいりかけ  より たるにりょうしゅえどよりおかえりなし


此 節 御着(チヤク)と申  事 故 明日など参 らんと思 フ

このせつお  ちゃく ともうすことゆえあすなどまいらんとおもう


廿   八 日 天 氣昼 より曇 ル㐂左衛門 同 道 ニて四

にじゅうはちにちてんきひるよりくもるきざえもんどうどうにてよつ


時 比 石 関 町  を出て行ク事 二里宮 内 と云フ処

どきころいしせきちょうをでてゆくことにりみやうちというところ


アリ遊 女 ある所  茶 屋あり菊 屋と云 揚 屋ナリ

ありゆうじょあるところちゃやありきくやというあげやなり


爰 尓至 り妓二 人呼フ大 坂 風 なり嶋 ちりめん

ここにいたりぎふたりよぶおおさかふうなりしまちりめん


毛(モウ)留(ル)能帯 ニ髪 大 嶋 田木櫛 横 尓さし

  もう   る のおびにかみおおしまだきぐしよこにさし


竿(コウカヒ)可んざしベツ甲(カウ)也 大 坂 のウタ江戸能サ

  こうがい かんざしべっ  こう なりおおさかのうたえどのさ

(大意)

(補足)

「廿七日」、天明9年1月27日。1789年2月21日

「備中足守」、現在の地図。左上に足守小学校とあります。 


 古地図の中央付近に木下肥後守在所と足守があります。また右下に宮内村があります。


「毛(モウ)留(ル)」、モールの当て字だとおもいます。『モール(ポルトガルmogol)

① 〔インドのムガル帝国に由来するという。「莫臥児」とも書く〕緞子(どんす)に似た浮き織りの織物。たて糸に絹糸を,よこ糸に金糸・銀糸・色糸を用いて花紋などを織りだしたもの。金糸を用いたものを金モール,銀糸を用いたものを銀モールという。名物裂(ぎれ)として茶人に愛好された。モール織り。② 金・銀あるいは色糸をからませた飾り撚(よ)りの糸。モール糸。』

「菊屋と云揚屋」で「妓二人呼フ」、微に入り細に入り、どうしても妓二人を入念に観察してしまう絵師としての職人魂、いやはやスキですねぇ〜。


2025年11月7日金曜日

江漢西遊日記六 その35

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

喰  事して酒 能肴  さし身を出タ春其 切 身

しょくじしてさけのさかなさしみをいだすそのきりみ


歯尓当 りてゴリ\/と云フさし身能氷 り多るなり

はにあたりてごりごりというさしみのこおりたるなり


当 春  へ可けて能寒 サ四十  年 此 方 能寒 氣

とうしゅんへかけてのさむさしじゅうねんこのかたのかんき


と申  事 なりとぞ江戸ハ此 様 尓なしと又 火事

ともうすことなりとぞえどはこのようになしとまたかじ


もあまり大 火ハなしと申  参 り候   主 人 話 シなり

もあまりたいかはなしともうしまいりそうろうしゅじんはなしなり


㐂左衛門 親 ハ七 十  ニ近 キ人 ニて至  て好 事家

きざえもんおやはしちじゅうにちかきひとにていたってこうずか


なり夜 四 時 過キ迄 話 し津き春゛

なりよるよつどきすぎまではなしつきず


廿   六 日 寒 風 後 雪 となる寒 ニ当 里多るや

にじゅうろくにちかんぷうのちゆきとなるかんにあたりたるや


氣分 不勝  画二三 紙認  メ昼 喰 尓白 魚 を

きぶんすぐれずえにさんししたためひるめしにしらうおを


平皿(サラ)尓盛り出春一 升  三 匁 と云フ

ひら さら にもりだすいっしょうさんもんという

(大意)

(補足)

「当春へ可けて能寒サ四十年此方能寒氣」、やはり1789年前後数十年は異常気象であったようで、この日記の随所にその様子が記されています。

「夜四時過キ迄」、夜10時すぎ。「過」と「迄」のくずし字の違いに注意です。

「廿六日」、天明9年1月26日。1789年2月20日

「一升三匁」、岡山は白魚の産地で、簡単に非常にたくさんとれたそうです。その値段でしょう。

 

2025年11月6日木曜日

江漢西遊日記六 その34

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

行 尓寒 風 骨 をとふ春片 上 ヘ五里岡

ゆくにかんぷうほねをとうすかたかみへごりおか


山 へ七 里何 分 岡 山 ヘ行キ度 三 里能ま王

やまへしちりなにぶんおかやまへゆきたくさんりのまわ


里と云フさていなか路 風 烈 しく風 を防 き

りというさていなかみちかぜはげしくかぜをふせぎ


休 ムべき所  なし誠  尓烈 風 骨 肉 を透(トヲス)とハ

やすむべきところなしまことにれっぷうこつにくを  とおす とは


此 事 なり三 里を過 て奥 能郷 と云フ処  ニて

このことなりさんりをすぎておくのごうというところにて


一 軒 家アリ爰 ニて酒 を買 て呑 少 シいきをして

いっけんやありここにてさけをかいてのむすこしいきをして


夫 より走 りて川 あり舟 ニて渡 ル又 大 キなる

それよりはしりてかわありふねにてわたるまたおおきなる


樋 アリ漸  く尓して岡 山 石 関 町 赤穂(アカウ)屋㐂左

おけありようやくにしておかやまいしぜきまち   あこう やきざ


衛門 方 へ行く親 子出テ只 今 お帰 りカとて奥 能

えもんかたへゆくおやこでてただいまおかえりかとておくの


離(ハナレ)坐しきへともなゐコタツをして当(アテ)湯ニ入 ル

  はなれ ざしきへともないこたつをして  あて ゆにはいる

(大意)

(補足)

「片上」、画像の右上に赤穂線備前片上の駅があります。

「奥能郷」、邑久。上の画像で赤穂線邑久駅(おくえき)があります。

「岡山石関町」、 

「赤穂(アカウ)屋㐂左衛門」、往路の9月9、10日に泊まっている。江漢は後年、喜左衛門に頼まれて洋画を送っています。

 江漢さん「いなか路風烈しく風を防き休ムべき所なし誠尓烈風骨肉を透」という真冬の旅路、喜左衛門さん方でこたつ、あたたかい湯でほっとしたようです。

 

2025年11月5日水曜日

江漢西遊日記六 その33

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

舩 著(ツキ)なり保 命 酒 能名 物 あり蕎麦(ソバ)ヤ酒

ふな  つき なりほうめいしゅのめいぶつあり   そば やさか


屋湯やあり酒 など呑 又 舩 尓能る舩 中  さて\/

やゆやありさけなどのみまたふねにのるせんちゅうさてさて


寒 し難 渋  春る陸(オカ)へ上(アカ)らんと思 へども岡 山 ヘ

さむしなんじゅうする  おか へ  あが らんとおもえどもおかやまへ


いなか路 十  八 里あるとぞ

いなかみちじゅうはちりあるとぞ


廿   四 日天 氣風 アリ誠  尓舩 走 ル事 疾(ハヤ)し二十

にじゅうよっかてんきかぜありまことにふねはしること  はや しにじゅう


四五里過 て備前 能牛窓(ウシマド)と云 処  ニ懸(カケル)家

しごりすぎてびぜんの   うしまど というところに  かける いえ


千 軒 ある処  なり此 追 手尓てハ明日ハ大 坂 ヘ

せんけんあるところなりこのおってにてはあすはおおさかへ


著 と雖   餘 りなんぎ故 尓爰 ニてあがる泊  屋

つくといえどもあまりなんぎゆえにここにてあがるとまりや


一軒(ケン)アリ泊 る

い  けん ありとまる


廿   五日 天 氣大 西 風 烈 シ朝 五  時 ニ出  立 して

にじゅうごにちてんきおおにしかぜつよしあさいつつどきにしゅったつして

(大意)

(補足)

「保命酒」、『広島県福山市名産の薬味酒である。生薬を含むことから「瀬戸内の養命酒」などと言われることもあるが、養命酒とは異なり医薬品ではない』とあり、ウィキペディアに詳しく記されています。

「廿四日」、天明9年1月24日。1789年2月18日。

「牛窓」、現在の地図で右下の白いところに牛窓神社があります。

古地図と比べても、大きな川二本があって、それほど変わってないようにはみえます。

「西遊旅譚五」に「備前牛窓」の画があります。 

 風にめぐまれ超特急で大阪に到着するとおもいきや、船中あまりの寒さに難渋して、備前牛窓で陸に上がり一軒家に泊まり、翌日「大西風烈シ」の中、岡山に向けて朝8時頃出発しました。

 牛窓村が「家千軒ある処なり」とあって、かなり大きな村です。ほんとかな?

牛窓から岡山へは西に向かいます。

 

2025年11月4日火曜日

江漢西遊日記六 その32

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

と聞 个連ハ婦なまん中(チ ウ)なりと云 此 舩 へ

とききければふなまん  じゅう なりというこのふねへ


呼フ尓二百  文 なりと或  ハ畏(ヲソ)ル同 郷  ならん

よぶににひゃくもんなりとあるいは  おそ るどうきょうならん


能詩あり和漢 同 し事 也 扨 々 珍(メツラ)しき事

のしありわかんおなじことなりさてさて  めずら しきこと


かなとて一 眠  して夜明 多り

かなとてひとねむりしてよあけたり


廿   一 日 曇  て風 アリ舩 走 ル事 早(ハヤ)シ忽  チ上  関

にじゅういちにちくもりてかぜありふねはしること  はや したちまちかみのせき


能沖 を乗り三 十  五里走 ルヌワと云 嶋 ニ掛

のおきをのりさんじゅうごりはしるぬわというしまにかかる


廿   二日 天 西 風 夜半 舩 を出して藝 州  の内

にじゅうににちはれにしかぜやはんふねをだしてげいしゅうのうち


ミタライと云 処  を見て走 里備 後能鞆(トモ)と

みたらいというところをみてはしりびんごの  とも と


云フ処  ニ泊 ス舩 頭 爰 ヘ碇(イカリ)を頼 ム故 舩 よりあ可゛る

いうところにはくすせんどうここへ  いかり をたのむゆえふねよりあが る


予(ワレ)も共 尓小舟 尓能里上(アカル)爰 ハ福 山 能領  地ニテ

  われ もともにこぶねにのり  あがる ここはふくやまのりょうちにて

(大意)

(補足)

「婦なまん中(チウ)」、『ふなまんじゅう ―まんぢゆう【船饅頭】

近世,江戸隅田川に浮かべた小舟の中で色を売った私娼。船君』、と辞書にはありましたが、日本津々浦々どこにでもあったようです。

「或ハ畏(ヲソ)ル同郷ならん」、この詩のようです。 

「廿一日」、天明9年1月21日。1789年2月15日

「上関(かみのせき)」「怒和(ぬわ)」、たった1日で35里(約140km)。そして翌日、西風で一気に福山へ。船は今の新幹線でした。


 「ミタライ」、御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(広島県呉市)の港町。

 来るときは今津(福山と尾道の中間辺り)に9月15日に泊り、そこから下関に10月2日についています。17日かかったのがわずか2日!

 

2025年11月3日月曜日

江漢西遊日記六 その31

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日ハラ\/雪 霰  降ル爰 尓筑 前 若 松 舩 ハ

はつかはらはらゆきあられふるここにちくぜんわかまつふねは


百  石 積ミ能小舩 米 を積ミ外 尓能り合 ナ

ひゃっこくつみのこぶねこめをつみほかにのりあいな


シ舩 賃 四十  目古 キ蒲とん壱 貫 二百  ニて

しふなちんしじゅうめふるきふとんいっかんにひゃくにて


借り大 坂 迄 かり切 乗里出し个連ど瀬

かりおおさかまでかりきりのりだしけれどせ


戸口 潮 さし込ミ帆を十  分 尓張レとも舩ネ

とぐちしおさしこみほをじゅうぶんにはれどもふね


あと戻 里春る故 尓陸(ヲカ)へ上 り風呂尓者いり

あともどりするゆえに  おか へあがりふろにはいり


舩 頭 と同  く何 ヤラ埒 もなき人 能家 ニ行

せんどうとおなじくなにやららちもなきひとのいえにゆく


雪 アラレ降 寒 し七 ツ時 比 又 舩 ニ能り彼(カ)能

ゆきあられふるさむしななつどきころまたふねにのり  か の


借(カリ)り多るキタナキ蒲とんをかぶ里寝ルと

  かり りたるきたなきふとんをかぶりねると


女  能声 ニて何 ヤラ物 云フ舩 頭 尓あれハ何 シヤ

おんなのこえにてなにやらものいうせんどうにあれはなんじゃ

(大意)

(補足)

「廿日」、天明9年1月20日。1789年2月14日

「四十目」、『㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。『もんめ【匁】② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。③ (「文目」と書く)銭を数える単位。銭一枚を一文目とした。文。 』。

「貫」、『② 銭(ぜに)を数える単位。一〇〇〇文(もん)を一貫とする。ただし,江戸時代には実際は九六〇文を,明治時代には一〇銭のことをいった。貫文』

 大阪までの船を貸し切って40目、きたない蒲とんが壱貫二百とありますが、金額の比較が、よくわかりません。

「借リ」、どうみても「備」にみえます。

 

2025年11月2日日曜日

江漢西遊日記六 その30

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

目つらしき本 なり法 師其 画ニ指(ユヒ)サシ平 家

めずらしきほんなりほうしそのえに  ゆび さしへいけ


投落(ホツラク)次第 を物 語(カタ)り春昔 シを思 ヒ出し目

   ぼつらく しだいをもの  がた りすむかしをおもいだしめ


尓涙  を浮 へ多り早 友 明  神 ハ向 フ地なり爰

になみだをうかべたりはやともみょうじんはむこうちなりここ


より望 ム尓十 町  許  尓見ユル瀬戸口 なり平 家

よりのぞむにじっちょうばかりにみゆるせとぐちなりへいけ


蟹 ハ世尓数 アル蟹 と違 ヒ背能甲 怒 レル顔

がにはよにかずあるかにとちがいせのこういかれるかお


色 アリ硯  石 ハ赤 キと青(アヲ)アリ此 山 能浅 村

いろありすずりいしはあかきと  あお ありこのやまのあさむら


山 ヨリ出ルとぞ又 大 積 山 ト云 よりモ出ル稲

やまよりでるとぞまたおおつぼやまというよりもでるいな


荷町  と云 処  遊 女 アリこー(ウ)シ造 り見世付 ハ

りちょうというところゆうじょありこ  う しつくりみせつけは


遊 女列(レツ)をなさ川皆 横 立 ニ居て至極 ザ川

ゆうじょ れつ をなさずみなよこだちにいてしごくざっ


トし多る所  なり

としたるところなり

(大意)

(補足)

「投落(ホツラク)」、没落。

「早友明神」、『主に北九州市門司区の和布刈(めかり)神社を指す別名です。和布刈神社は、「早鞆の瀬戸」という場所にある』。早鞆瀬戸(はやとものせと 【早鞆瀬戸】関門海峡東端の最狭部の水道。海底を国道が走り,関門橋がかかる。壇ノ浦合戦の古戦場) 

 すでに赤間関(下関)にいるので、「早友明神ハ向フ地なり」です。

「大積山」、大積山(おおつぼやま)は、現在の北九州市門司区付近にかつて存在した、赤間硯(あかますずり)の硯石の産地として知られる山。大積山産の石材は頁岩(赤色)で、赤間硯によく似た性質を持っていたとされています。

 稲荷町で遊女屋をみつけて、歴史探訪から現実にもどったようです。

 

2025年11月1日土曜日

江漢西遊日記六 その29

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

平 家一 代 の盛衰(セイスイ)合 戦 の始終  を圖(ヅ)セリ

へいけいちだいの   せいすい かっせんのしじゅうを  ず せり


是 ハ土佐光 信 の筆 又 後 ロ能山 上 ニハ

これはとさみつのぶのふでまたうしろのやまうえには


壇(タン)の浦 ニて入 水 し多る人 々 能墳 墓アリ

  だん のうらにてじゅすいしたるひとびとのふんぼあり


宝 物 ハ土 御門 の院 幷  ニ後奈良能院

ほうもつはつちみかどのいんならびにごならのいん


正親 町 の院 右 の論 旨五通 鎌 倉 能

おおぎまちのいんみぎのりんじごつうかまくらの


御教  書 二十  三 通 尊 氏 能花押 御教

みぎょうしょにじゅうさんつうたかうじのかおうみぎょう


書 二通 太 閤 秀 吉 能短 冊 吉 田卜 部

しょにつうたいこうひでよしのたんざくよしだうらべ


家證  文 大 家代 々 毛 利吉 川 小早 川

けしょうもんたいかだいだいもうりきっかわこばやかわ


数 人 の書 十  余通 古筆 能平 家物 語

すうにんのしょじゅうよつうこひつのへいけものがたり


十  二巻 是 ハ筆 者 数 人 なり皆 長 門本 ニて

じゅうにかんこれはひっしゃすうにんなりみなながとぼんにて

(大意)

(補足)

「土佐光信」、『とさみつのぶ 【土佐光信】

室町中期の大和絵画家。宮廷の絵所預りとして活躍,幕府の御用絵師となり土佐派の画壇的地位を確立。多くの寺社縁起類や肖像画を描く。作「星光寺縁起」「足利義政像」など。生没年未詳』

「論旨」、『りんじ【綸旨】〔「りんし」とも。綸言(りんげん【綸言】天子・天皇のことば。みことのり。〔「礼記緇衣」による。「綸」は組糸。天子の言は発せられた時は糸のように細いが,これが下に達した時は組糸のように太くなる意〕)の旨の意〕

① 天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。平安中期から南北朝時代に多く発行された』

「吉田卜部」、『主に「吉田兼倶」と「吉田兼好」を指し、吉田姓と卜部氏の姓が関係しています。吉田兼倶は「吉田神道」を創始した室町時代の神道家であり、卜部氏を家名とした吉田家の始祖とされる人物です。一方、吉田兼好は『徒然草』の著者で、本名は「卜部兼好」です』とAIの概要にありました。

「長門本」、『赤間神宮・宝物殿。重要文化財として室町時代に制作された「長門本 平家物語」20冊が左右に展示されている。これは阿弥陀寺本ともいい、昭和20(1945)年7月の空襲で周囲を焼失。戦後の文化財修復第1号として昭和25(1950)年に修復完了したものである』

 江漢さんが見学したものは、現在は赤間神宮宝物殿にあるようです。

日本はほぼ全土が空襲されています。いったいどれだけの文化財が焼かれてしまったことでしょうか。かくいう日本もアジアの古物を焼き払い壊しまくったのでありますが。