2025年11月2日日曜日

江漢西遊日記六 その30

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

目つらしき本 なり法 師其 画ニ指(ユヒ)サシ平 家

めずらしきほんなりほうしそのえに  ゆび さしへいけ


投落(ホツラク)次第 を物 語(カタ)り春昔 シを思 ヒ出し目

   ぼつらく しだいをもの  がた りすむかしをおもいだしめ


尓涙  を浮 へ多り早 友 明  神 ハ向 フ地なり爰

になみだをうかべたりはやともみょうじんはむこうちなりここ


より望 ム尓十 町  許  尓見ユル瀬戸口 なり平 家

よりのぞむにじっちょうばかりにみゆるせとぐちなりへいけ


蟹 ハ世尓数 アル蟹 と違 ヒ背能甲 怒 レル顔

がにはよにかずあるかにとちがいせのこういかれるかお


色 アリ硯  石 ハ赤 キと青(アヲ)アリ此 山 能浅 村

いろありすずりいしはあかきと  あお ありこのやまのあさむら


山 ヨリ出ルとぞ又 大 積 山 ト云 よりモ出ル稲

やまよりでるとぞまたおおつぼやまというよりもでるいな


荷町  と云 処  遊 女 アリこー(ウ)シ造 り見世付 ハ

りちょうというところゆうじょありこ  う しつくりみせつけは


遊 女列(レツ)をなさ川皆 横 立 ニ居て至極 ザ川

ゆうじょ れつ をなさずみなよこだちにいてしごくざっ


トし多る所  なり

としたるところなり

(大意)

(補足)

「投落(ホツラク)」、没落。

「早友明神」、『主に北九州市門司区の和布刈(めかり)神社を指す別名です。和布刈神社は、「早鞆の瀬戸」という場所にある』。早鞆瀬戸(はやとものせと 【早鞆瀬戸】関門海峡東端の最狭部の水道。海底を国道が走り,関門橋がかかる。壇ノ浦合戦の古戦場) 

 すでに赤間関(下関)にいるので、「早友明神ハ向フ地なり」です。

「大積山」、大積山(おおつぼやま)は、現在の北九州市門司区付近にかつて存在した、赤間硯(あかますずり)の硯石の産地として知られる山。大積山産の石材は頁岩(赤色)で、赤間硯によく似た性質を持っていたとされています。

 稲荷町で遊女屋をみつけて、歴史探訪から現実にもどったようです。

 

2025年11月1日土曜日

江漢西遊日記六 その29

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

平 家一 代 の盛衰(セイスイ)合 戦 の始終  を圖(ヅ)セリ

へいけいちだいの   せいすい かっせんのしじゅうを  ず せり


是 ハ土佐光 信 の筆 又 後 ロ能山 上 ニハ

これはとさみつのぶのふでまたうしろのやまうえには


壇(タン)の浦 ニて入 水 し多る人 々 能墳 墓アリ

  だん のうらにてじゅすいしたるひとびとのふんぼあり


宝 物 ハ土 御門 の院 幷  ニ後奈良能院

ほうもつはつちみかどのいんならびにごならのいん


正親 町 の院 右 の論 旨五通 鎌 倉 能

おおぎまちのいんみぎのりんじごつうかまくらの


御教  書 二十  三 通 尊 氏 能花押 御教

みぎょうしょにじゅうさんつうたかうじのかおうみぎょう


書 二通 太 閤 秀 吉 能短 冊 吉 田卜 部

しょにつうたいこうひでよしのたんざくよしだうらべ


家證  文 大 家代 々 毛 利吉 川 小早 川

けしょうもんたいかだいだいもうりきっかわこばやかわ


数 人 の書 十  余通 古筆 能平 家物 語

すうにんのしょじゅうよつうこひつのへいけものがたり


十  二巻 是 ハ筆 者 数 人 なり皆 長 門本 ニて

じゅうにかんこれはひっしゃすうにんなりみなながとぼんにて

(大意)

(補足)

「土佐光信」、『とさみつのぶ 【土佐光信】

室町中期の大和絵画家。宮廷の絵所預りとして活躍,幕府の御用絵師となり土佐派の画壇的地位を確立。多くの寺社縁起類や肖像画を描く。作「星光寺縁起」「足利義政像」など。生没年未詳』

「論旨」、『りんじ【綸旨】〔「りんし」とも。綸言(りんげん【綸言】天子・天皇のことば。みことのり。〔「礼記緇衣」による。「綸」は組糸。天子の言は発せられた時は糸のように細いが,これが下に達した時は組糸のように太くなる意〕)の旨の意〕

① 天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。平安中期から南北朝時代に多く発行された』

「吉田卜部」、『主に「吉田兼倶」と「吉田兼好」を指し、吉田姓と卜部氏の姓が関係しています。吉田兼倶は「吉田神道」を創始した室町時代の神道家であり、卜部氏を家名とした吉田家の始祖とされる人物です。一方、吉田兼好は『徒然草』の著者で、本名は「卜部兼好」です』とAIの概要にありました。

「長門本」、『赤間神宮・宝物殿。重要文化財として室町時代に制作された「長門本 平家物語」20冊が左右に展示されている。これは阿弥陀寺本ともいい、昭和20(1945)年7月の空襲で周囲を焼失。戦後の文化財修復第1号として昭和25(1950)年に修復完了したものである』

 江漢さんが見学したものは、現在は赤間神宮宝物殿にあるようです。

日本はほぼ全土が空襲されています。いったいどれだけの文化財が焼かれてしまったことでしょうか。かくいう日本もアジアの古物を焼き払い壊しまくったのでありますが。