2019年9月30日月曜日

桴出入諸願書井相手方詫書等写 その1




 P.0 表紙。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」

(読み)
桴  出入 諸 願 書 井  相 手方 詫 書 等 写
いかだでいりしょがんしょならびあいてがたわびしょとううつし

(大意)
桴(いかだ)訴訟の諸願書ならびに相手方の詫び書など写し

(補足)
弘化3(1846)年8月から11月の史料
桴は現在では筏と書きますが、当時は桴でした。
この地区の材木は西川材と江戸の人々に呼ばれていました。その材木を組んで川を下り江戸に運んでました。

 画像の坂石・南川村・坂石・坂元・坂石町分の4つの村を流れている高麗川が実線で記されています。この上吾野4ケ村の荷主が下流の入間郡戸口村の川岸に繋留していた筏への狼藉について、争いの史料です。




 当時の筏についてのその作り、筏下り、操作などはいつもながら「名栗の歴史 上」に詳しく記載されています。

 筏を流してゆくにはある程度のまとまった水量がなければできませんでした。帆船が風待ちをするように筏は水かさが増すのを待たなければなりませんでした。そのためある程度のところまで下りそれ以上は無理となると適当なところで繋留し、水かさが増えるのを待ちます。
川で生計を立てている人は大勢いますから、その繋留したところの村々との争いがよくあったようです。

 全文の翻刻・現代語訳・解説は以下資料にあります。
「飯能郷土館収蔵資料目録8(収蔵目録その3)
武蔵国秩父郡
南村岡部家・北川村淺海公介家
文書目録」
2018 飯能市郷土館


「諸」、うーん出だしから読めません。

約80回を予定しています。


2019年9月29日日曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その19







 P.17 P18 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
慶應二寅年
けいおうにとらどし

六月
ろくがつ

組頭
くみがしら

平七
へいしち

〃 太右衛門
どう たえもん

〃 林次郎
どう むらじろう

〃 判兵衛
どう はんべえ

名主
なぬし

栄太郎
えいたろう


P.18
御郡代
ごぐんだい

御役所
おやくしょ


(大意)


(補足)
「慶應」、「慶」の「广」が「艹」になってます。
名主のところだけ実印がありません。


2019年9月28日土曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その18




 P.16 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
右 者今 般 被仰渡    候   趣   具  二読 聞
みぎはこんぱんおおせわたされそうろうおもむきつぶさによみきかせ

候   處  小前 一 統 承  知奉畏      候   二付
そうろうところこまえいっとうしょうちおそれたてまつりそうろうにつき

村 役 人 共 一 同 奥 書 印 形  仕
むらやくにんどもいちどうおくがきいんぎょうつかまつり

帳  面 奉差上      候   以上
ちょうめんさしあげたてまつりそうろういじょう

秩 父郡 北 川 村
ちちぶぐんきたがわむら


(大意)
 右はこのたび仰せ渡されました内容をつぶさに読み聞かせ
ましたところ、小前一同畏れ多く承りましたので
村役人一同保証承認し押印し
帳面を差し上げます。

秩父郡北川村


(補足)
 どうもわたしがよく理解してなかったようです。
「尤請書者不及候」は寺社についてのことのようで、
「小前一同村役人宅江打寄セ具二
訓読致し承知之上ハ銘々印形
為致し書付早々役所江可差出候」とありますので小前一同についてははっきりと差し出せと記してありました。
また、名前に肩書がなかったのも、小前一同に読み聞かせたことが明らかだからでした。

「小前一統」、一同ではなく一統となってます。
「帳面」、「帳」が読めそうで読めませんでした。
「北川村」、老眼鏡がないと「小川村」になってしまう。



2019年9月27日金曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その17







 P.14 P.15 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
初太郎
はつたろう

国二郎
くにじろう

磯五郎
いそごろう

善吉
ぜんきち

輸吉
わきち

林五郎
りんごろう

作右衛門
さくえもん

与吉
よきち

P.15
畄五郎
とめごろう

伊之助
いのすけ

栄次郎
えいじろう

宮五郎
みやごろう

九市
くいち

竹次郎
たけじろう

百姓代 政五郎
ひゃくしょうだい まさごろう


(大意)



(補足)
「国二郎」、「国三郎」かもしれません。
「宮五郎」、「宮」のくずし字は独特。「亠」みたいな形+「五」のくずし字みたいな形
「竹」、いままでほとんど意識してきませんでしたが、「竹」だけのくずし字はこれが初めてかもしれません。辞書で調べても形がこれまた独特です。「升」のような字。

「百姓代 政五郎」とありますので今までの人たちは百姓だったのでしょう。


2019年9月26日木曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その16







 P.12 P.13 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
元吉
もときち

半次郎
はんじろう

常吉
つねきち

寅吉
とらきち

初五郎
はつごろう

輪七
わしち

元右衛門
げんえもん

辰五郎
たつごろう


P.13
丑太郎
うしたろう

仙太郎
せんたろう

弥吉
やきち

重吉
しげきち

福次郎
ふくじろう

丈五郎
じょうごろう

庄次郎
しょうじろう

文右衛門
ぶんえもん


(大意)


(補足)
「輪」、偏の判別はわかりにくものですが、この「車」偏も読めません。

寅吉、辰五郎、丑太郎など干支がついた名前や、一郎、次郎、五郎など漢数字などが含まれた名前からその干支の年に生まれたあるいは長男や次男として生まれたと考えるのは早計で、代々受け継がれてきた名前であったり、百姓株を買ってその名前をなのったり、養子で迎えられその名前をもらったりと、いろいろな場合があったようです。


2019年9月25日水曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その15








 P.10 P.11 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
佐兵衛
さへい

常太郎
じょうたろう

忠七
ただしち

常右衛門
じょうえもん

五郎兵衛
ごろべえ

銀次郎
ぎんじろう

伊之松
いのまつ

国太郎
くにたろう

P.11
長吉
ちょうきち

惣兵衛
そうべえ

喜左衛門
きざえもん

作次郎
さくじろう

佐市
さいち

駒次郎
こまじろう

忠次郎
ちゅうじろう

彦右衛門
ひこえもん

仲次郎
ちゅうじろう(なかじろう)


(大意)



(補足)
今回は8名+9名で計17名の連名連印です。

実印の使われ方を調べてみると、
今回のような請書など書状の押印
寺社の宗門改めの際や人別改などの押印
田畑売買のとき土地の広さの数字のところへの押印
などがあるようです。

 また、各百姓家では代々(続くところは)実印も引き継がれていたようで、きっと現代の何代も続いている農家ではその実印があるはずです。(襲印慣行)



2019年9月24日火曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その14







 P.8 P.9 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
友次郎
ゆうじろう

権次郎
ごんじろう

吉兵衛
きちべえ

文次郎
ぶんじろう

鉄太郎
てつたろう

寄吉
よせきち

槇次郎
まきじろう

情五郎
じょうごろう


P.9
宇太郎
うたろう

与七
よしち

松太郎
まつたろう

常七
じょうしち(つねしち)

藤吉
とうきち

忠助
ただすけ

彦次郎
ひこじろう

金次郎
きんじろう


(大意)



(補足)
1頁8名ずつで16名の連名押印です。
肩書がありませんが、読み聞かせたのが「百姓」なので省いたのかもしれません。
与七の実印をよくみると、なんとも複雑怪奇な柄模様となってます。偽物対策でしょうか。
「常七」、「道」のくずし字にちょっと似ています。

 同じ名前の人がいません。いたとしたら実印で区別するのでしょうか。


2019年9月23日月曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その13




 P.7 すべて。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
難有   承  伏 仕    候、   依之 御請 印 形
ありがたくしょうふくつかまつりそうろう、よっておうけいんぎょう

致  置 候   以上
いたしおきそうろういじょう


茂七
もしち

安兵衛
やすべえ

寅五郎
とらごろう

忠五郎
ただごろう

鉄之助
てつのすけ

庄次郎
しょうじろう



(大意)
ありがたく承りましたので、ここに請印を
致します、以上。

名前は略

(補足)
この頁に6名分の名前があります。このあと8頁にわたり名前と実印が続きます。

「御請」、「御」がわかりづらい。
「忠五郎」、「忠」が読めませんでした。
役所からの書付には文面の最後に「尤請書者不及候」とありましたが、結局は何十名もの連名で請書をしたためてます。どういうことなのでしょうか。わかりません。

 この書面は控えですが、控えにも実印が押印されています。
名前の手跡は同一人物です。村役人の担当の者が全員の名前を記し、読み聞かせたあと、または回覧するなりして実印を順に押印するという流れだったはずです。
役人へ提出する書付と村の控えの2通を用意しておいて、この作業をしたのでしょう。



2019年9月22日日曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その12




 P.6 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
六 月 廿   二日  郡 代 所
ろくがつにじゅうににち ぐんだいしょ

前 書 被仰渡之   趣   被讀聞   一 同
ぜんしょおおせわたされおもむきよみきかされいちどう


(大意)
6月22日 郡代所
前書の通り仰せ渡された内容を読み聞かせ、一同


(補足)
 変事出来は6月13日でした。この書付の日付は22日ですので役所が素早い対応をしているのがわかります。

「被」は極端にくずし簡略化されて「与」のような「5」のような形です。



2019年9月21日土曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その11




 P.6 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
為致 し書 付 早 々 役 所 江可差出   候、
いたせしかきつけそうそうやくしょへさしだしべくそうろう

且 亦 寺社 へも申  通 し候   様 可致   候、
かつまたじしゃへももうしとおしそうろうよういたすべくそうろう

尤   請 書 者不及  候、  以上
もっともうけしょはおよばずそうろういじょう


(大意)
書面を早々に役所へ差し出すようにする。
また寺社へも申し聞かせ話を通しておくようにすること。
もっとも請書を差し出すことはしなくてよい。以上。


(補足)
「寺」、「土」+「寸」。「寸」を含むくずし字はこの部分が「ち」or「る」のようなくずし字になる。「守」など。
「致」がこの書付に何度も出てきました。この言い回しが癖なのでしょう。


2019年9月20日金曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その10




 P.5 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
候   様 可心掛    候、  右 之趣   於村々    致承知
そうろうようこころがけべくそうろうみぎのおもむきむらむにおいてしょうちいたし

小前 一 同 村 役 人 宅 江打 寄セ具  二
こまえいちどうむらやくにんたくへうちよせつぶさに

訓 読 致 し承  知之上 ハ銘 々 印 形
くんどくいたししょうちのうえはめいめいいんぎょう



(大意)
心がけるべきである。以上のことを村々で承知し
小前一同を村役人宅へ集めつぶさに
読み聞かせ、承知したならば各人それぞれが署名押印し


(補足)

「相救い」「打寄せ」など「打〜」「相〜」など動詞についての言葉は現代でも日常用語で使用されてます。

「於村々」(むらむらにおいて)としましたが、そのまま(おもむきをむらむら)かもしれません。


2019年9月19日木曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その9




 P.5 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
者 共 二おゐてハ私欲 二不迷  家事
ものどもにおいてはしよくにまよわずかじ

質 素節 験(ママ)ヲ相 守  無益 之雑 費ヲ
しっそせつやく  をあいまもりむえきのざっぴを

省 キ夫々  施行 致 し困 窮  之者 共 相 救 ひ
はぶきそれぞれせこういたしこんきゅうのものどもあいすくい


(大意)
者たちは私欲に迷うことなく家庭内では
質素節約に励み無駄な出費を
省き、それぞれが施しを行うことにより生活困窮者たちを救うよう


(補足)
「不迷」、老眼でボケて「早速」に見えてしまいます。
「節験」、原文のママだとこうなりますが、節約、倹約、節減・・・、なんの書き間違えでしょう。
「守」、くずし字は「ち」のような「る」のような。


2019年9月18日水曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その8




 P.4 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
其 日暮 し之者 共 及難渋      候   趣   相 聞、
そのひぐらしのものどもなんじゅうにおよびそうろうおもむきあいきき

右 者天 然 之義二而無拠     候得共   歎  敷
みぎはてんねんのぎにてよんどころなくそうらえどもなげかしき

次第 二有之  候   間、 融 通 相 付 候   身柄 之
しだいにこれありそうろうあいだゆうずうあいつきそうろうみがらの



(大意)
その日暮らしの者たちは生活に困り苦しんでいるということを聞いている。
そのようなことは自然によるものでどうしようもない事柄であるとはいえ、嘆かわしい
ことである。なんとかやりくりできそうな身分の(者たちは)


(補足)
「暮し」、よくみるくずし字は二文字に見えるのですが、ここではそんなことはなく一文字です。
「拠」、実際は「扌」+「處」。
「歎敷」(なげかしき)(なげかしく)(なげかわしく)など読みはよくわかりません。
「有之」、頻出用語ですが、ここのはわかりにくい。


2019年9月17日火曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その7




 P.4 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
打 殺  切 殺  候   共 不苦  候   間、 役 人 共 主 立
うちころしきりころしそうろうともくならずそうろうあいだやくにんどもおもだって

手筈 取 極  置、手抜  無之  様 可致  候、
てはずとりきわめおきてぬかりこれなくよういたすべそうろう

一、  米 價を始  諸 色 格 外 高 直二至 り詰
ひとつ べいかをはじめしょしきかくがいたかねにいたりつめ


(大意)
打ち殺そうと切り殺そうともかまわないので、村役人たちがおもだって
手はずをしっかりとととのえておき、手抜かりのないようにしておくこと。
ひとつ 米の価格をはじめ諸物価ことのほか高値になりつめ


(補足)
「殺」が続けて出てきてます。パッと見た目「殺」にはみえません。二番目の「殺」のあとに「、」があるように見えます。なので「候」としました。
「取」、ずいぶんと小さい。
「可致候」、この「致」はわかりずらい。
「色」、いままで何度も出てきたはずですがあまり注意してませんでした。
くずし字は「々」の下に「五」のくずし字。
「格外」、今でも「規格外」のように使いますが、はじめて出てきた単語です。


2019年9月16日月曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その6





 P.3 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
發 起押 来  何 様 猛 威ヲ振 ひ候   共
ほっきおしきたりなにざまもういをふるいそうろうとも

差 加  り候   ハ勿 論、聊    動 揺 不致
さしくわわりそうろうはもちろんいささかもどうよういたさず

村 方 丈 之カ  ヲ以  相 防、 若 手余 り候  ハヽ
むらかただけのちからをもってあいふせぎもしてあまりそうらわば


(大意)
発起して押寄せ、どのような激しい勢いであったとしても
仲間に加わることはもちろん少しも動じることなく
村のものだけの力でこれらを防ぎ、もしも手にあまるようなときには


(補足)
「發起」、「発」の旧字「發」のくずし字。「起」の「走」は流れてませんが、一行目行末「趣」ではながれてました。流れないほうが多そうです。
「何」、これ一字だけ見つめてもすぐにはわかりにくそう。
「勿」、一画目「ノ」がでかい。
「聊」(いささか)、よくでてきます。
「丈」、〜だけ(限定の意)の音の当て字でしょうか。

 読みやすい安定した手跡が続きます。


2019年9月15日日曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その5




 P.3 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
施行の書付差入候者も有之趣
せこうのかきつけさしいれそうろうものもこれあるおもむき

相聞候、悪徒之申聞を用ひ施行等
あいききそうろうあくとのもうしききをもちいせこうとう

致候儀一切不相成候、向後悪徒共
いたしそうろうぎいっさいあいならずそうろうこうごあくとども


(大意)
渡すとの書面を差出した者もいたと
聞いている。悪党どもの言うことをうけいれ施しなど行う
ことは一切してはならぬ。今後悪党どもが


(補足)
「悪」のくずし字、筆順どおりの筆の運びにくずされてますが、なかなか特徴的で「心」が小さい。
「趣」、「走」の最後の右に流れる一画がちゃんと伸びています。
「用」、一画目の「ノ」がない。
「致」、この「致」は読みづらい。


2019年9月14日土曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その4




 P.2 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
御人 数 為差出  夫々  差 押  或  者打  擲
おにんずうさしださせそれぞれさしおさえあるいはちょうちゃく

候   二付   追々穏   二相 成 候   哉二相 聞 候   右 様
そうろうにつきおいおいおだやかにあいなりそうろうやにあいききそうろうみぎさま

悪 徒共 申  威二泥 ミ無拠     米 金 等
あくとどももうすいになじみよんどころなくこめかねとう


(大意)
人を差し出させ、それぞれ差し押さえたり打ちたたいた
りして、しだいに落ち着いていったと聞いている。このような
悪いやからどもが言う脅かしに困り果て仕方なく米や金などを


(補足)
「御人数」、この字はなんだろうと悩んだら「御」でした。頻出でたくさん目にしているのにわかりませんでした。それとも異なる漢字?
「穏ニ」、くずし字辞典を引くと、そこのくずした例は読めるのですが、ここのものと似たようなくずし字はありませんでした。
「相成候哉二」、「候哉二」が難しい。
「悪統」、ここのある「統」のくずし字は辞書にはありませんでした。「徒」のくずし字に読めます。「悪徒共」(あくとども)でも意味は通じます。
「泥ミ」(なじみ)、(どろ)とはわかりましたが、(なじみ)とは読めませんでした。辞書は引いてみるものです。

 それにしても、墨の濃淡が激しいです。なので少し書いては墨汁を含ませすぐにかすれだす、を何度も行ってます。これほど達筆なのに、筆が上等なものではないのかそれと墨の品質がいまひとつなのか、くだらぬことを妄想してしまいます。あっ、もうひとつありました、硯も関係していそうです。



2019年9月13日金曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その3




 P.2 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
騒  立 既 二  
さわぎたてすでに

御城  下近 邊 迄 罷  越 及暴行     候   義
ごじょうかきんぺんまでまかりこしぼうこうにおよびそうろうぎ

不恐 上   不届  至極 二付 不取放
かみをおそれずふとどきしごくにつきとりはなさず


(大意)
騒ぎを拡大させ既に
御城下(江戸)近くまで押寄せ暴行に及んでいる。
御上を恐れぬ不届きこの上ない行いであり、そのまま見過ごすことはできず



(補足)
1行目の「既ニ」のあと改行して2行目「御城下」に続いています。平出(へいしゅつ)。
3行目「不恐」の次が一文字分空白があります。欠字(けつじ)。
ともに敬意を表すための文章作法です。

 楷書にちかい漢字がおおく読みやすいです。



2019年9月12日木曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その2




 P.1 4行目〜6行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
猛 威ヲ振 ひ及剛、    談不伏   者 者家財
もういをふるいごうにおよび、だんふくさずものはかざい

等打 毀 し及乱妨、     又者 村 役 人 共 江
とうちこわしらんぼうにおよび、またはむらやくにんどもへ

申  聞  人 足 為差出  味方 二引 入、 手廣 二
もうしきかせにんそくさしださせみかたにひきいれ、てびろに


(大意)
猛烈な勢いで力ずくにおよび従わぬものは家財
など打毀し乱暴におよんだ。また、村役人たちへ
言い聞かせ人足を用意させ自分たち仲間へ引き入れ、騒ぎを拡大させ


(補足)
「猛威」、くずしてはいますが、ほぼ原型を保っています。
「剛」の偏がちゃんと「岡」のくずし字です。冂(けいがまえ)は冖(わかんむり)のように上部に位置してしまっています。
「財」と「乱」の偏のくずし字がほとんど同じです。漢字の読みはたいてい旁側の部品の読みになるので偏はいわば飾りみたいなものなのでしょうか。
「乱妨」、「妨」が「坊」や「放」に見えなくもない。


2019年9月11日水曜日

郡代役所より仰渡ニ付請書 その1




 表紙



 P.1 1行目〜3行目。「飯能市立博物館所蔵浅海公介家114号文書」

(読み)
秩 父郡
ちちぶぐん

北 川 村
きたがわむら


此度 山 寄 村々  之者 共 人 気騒  立 宿 村
こたびやまよりむらむらのものどもひとけさわぎたてやどむら

所 之富家を目掛 貧 民 共 へ米 金
しょのふかをめがけひんみんどもへこめかね

施行 或  は質 品 無銭 二而差 戻 し候   様
せこうあるいはしちしなむせんにてさしもどしそうろうよう


(大意)
秩父郡
北川村

このたび山間の村々の者どもが集団で騒ぎ立て宿場や村
の富裕な家を目指し、困窮民へ米やカネを
施し、あるいは質品を無銭で取り戻すよう


(補足)
 今回は上名栗村の東側村々、坂元・坂石・北川・南川村などの武州一揆の古文書です。



 この仰せ渡し書の日付は変事出来より約10日後の6月22日となっています。


「北川村」、小川村ではありません。「北」のくずし字は全く別物です。
「人気」(じんき、にんき、ひとけ)と読みがいろいろあって、どれなのでしょう。
「富」のくずし字がわかりずらい。くずし字辞典にのってません。
「富家」(ふうか、ふか、ふけ)、読みがこれまたいろいろ。
「貧」、「分」+「貝」。ちゃんと「分」のくずし字「彡」+「、」になってます。
「施行」、「行」は簡単なようで難しい。


 墨の濃淡がはっきりしていて、どこで墨汁をつけているかがよくわかります。




2019年9月1日日曜日

乍恐以書付御訴奉申上候 中村家文書No380 その4




 16行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵中村家文書」

(読み)
入 間郡 小谷田村 字 午 澤 酒 造  渡世 勘兵衛 野澤送
いるまぐんこやたむらあざうまさわさけずくりとせいかんべいのざわおくり

勘左衛門  右 両  家江酒 食  焚 出シ申  付 夫 ゟ 同 郡 扇
かんざえもんみぎりょうけへしゅしょくたきだしもうしつけそれよりどうぐんおおぎ

町 谷宿  江参 リ家 数 凡  五軒 程 打 毀  猶 所  沢 宿  へ
まちやしゅくへまいりいえすうおよそごけんほどうちこわしなおところざわしゅくへ

押 寄セ候   趣   ニ御座候   追々  村々  人 足 催 足 致シ半数
おしよせそうろうおもむきにござそうろうおいおいむらむらにんそくさいそくいたしはんすう

ニテ(宵) 明り 字 午 澤 河 原ニ而勢 揃 ひ致 し候   節
にて(よい)あかりあざうまさわかわらにてせいぞろいいたしそうろうせつ

十三日    七 ツ時 頃 ゟ 追々  山 方 村々  人 数 相 集三千
じゅうさんにちななつどきころよりおいおいやまかたむらむらにんずうあいあつまりさんぜん

弐百  八 拾  人 与申  事 ニ而
にひゃくはちじゅうにんともうすことにて


(大意)
入間郡小谷田村字午澤で酒造を生業にしている勘兵衛と
勘左衛門の両家へ酒食を要求しました。それから同郡の
扇町屋宿へ押しかけ家5軒程を打毀し引き続き所沢宿へ
押寄せたようでございます。次々と村々で人数を要求し半数が
暮れ方午澤河原に勢揃いしましたときには
13日7ツ時(4時)頃で、それより次々と山里、近隣村中より人が集まり
その数3280人とのことでした。


(補足)
「字午澤」、この後の行にも「字午澤河原」とあるので地名でしょうが、ちょっと調べたところでは現在では見当たりませんでした。

「野澤送」、このように読めますが意味がサッパリです。
「勘左衛門」、前行末尾の「勘」と似ています。でも間違っていそう。名前は難しい。
「(宵)明り」、(宵)のところはわかりません。
「十三日」、よく読めないのですが次が「七ツ時頃ゟ」と読めますので、日付なのではと。
「三千弐百八拾人」、眉唾ものです。拾の位まで記してあるところが一層怪しい。「凡三千人程」とあれば、まぁ信じたくもあります。

 書状控えはここで終わっています。
この後の逆さまのところは「打毀壱件」と書いてあるのでしょうか。後世の人が書状の内容をメモ書きしたものでしょう。

 徒党の者共が家を数軒打毀しながら途中、押し入った家で飯を食わせろ酒を出せと強要したとの内容でした。
「夫ゟ」が多用され、次々と徒党の者共が相当の速さで移動していった様子がわかります。

 手跡は細筆で書き慣れた感じで流れるような趣です。