2019年9月1日日曜日

乍恐以書付御訴奉申上候 中村家文書No380 その4




 16行目〜最後まで。「飯能市立博物館所蔵中村家文書」

(読み)
入 間郡 小谷田村 字 午 澤 酒 造  渡世 勘兵衛 野澤送
いるまぐんこやたむらあざうまさわさけずくりとせいかんべいのざわおくり

勘左衛門  右 両  家江酒 食  焚 出シ申  付 夫 ゟ 同 郡 扇
かんざえもんみぎりょうけへしゅしょくたきだしもうしつけそれよりどうぐんおおぎ

町 谷宿  江参 リ家 数 凡  五軒 程 打 毀  猶 所  沢 宿  へ
まちやしゅくへまいりいえすうおよそごけんほどうちこわしなおところざわしゅくへ

押 寄セ候   趣   ニ御座候   追々  村々  人 足 催 足 致シ半数
おしよせそうろうおもむきにござそうろうおいおいむらむらにんそくさいそくいたしはんすう

ニテ(宵) 明り 字 午 澤 河 原ニ而勢 揃 ひ致 し候   節
にて(よい)あかりあざうまさわかわらにてせいぞろいいたしそうろうせつ

十三日    七 ツ時 頃 ゟ 追々  山 方 村々  人 数 相 集三千
じゅうさんにちななつどきころよりおいおいやまかたむらむらにんずうあいあつまりさんぜん

弐百  八 拾  人 与申  事 ニ而
にひゃくはちじゅうにんともうすことにて


(大意)
入間郡小谷田村字午澤で酒造を生業にしている勘兵衛と
勘左衛門の両家へ酒食を要求しました。それから同郡の
扇町屋宿へ押しかけ家5軒程を打毀し引き続き所沢宿へ
押寄せたようでございます。次々と村々で人数を要求し半数が
暮れ方午澤河原に勢揃いしましたときには
13日7ツ時(4時)頃で、それより次々と山里、近隣村中より人が集まり
その数3280人とのことでした。


(補足)
「字午澤」、この後の行にも「字午澤河原」とあるので地名でしょうが、ちょっと調べたところでは現在では見当たりませんでした。

「野澤送」、このように読めますが意味がサッパリです。
「勘左衛門」、前行末尾の「勘」と似ています。でも間違っていそう。名前は難しい。
「(宵)明り」、(宵)のところはわかりません。
「十三日」、よく読めないのですが次が「七ツ時頃ゟ」と読めますので、日付なのではと。
「三千弐百八拾人」、眉唾ものです。拾の位まで記してあるところが一層怪しい。「凡三千人程」とあれば、まぁ信じたくもあります。

 書状控えはここで終わっています。
この後の逆さまのところは「打毀壱件」と書いてあるのでしょうか。後世の人が書状の内容をメモ書きしたものでしょう。

 徒党の者共が家を数軒打毀しながら途中、押し入った家で飯を食わせろ酒を出せと強要したとの内容でした。
「夫ゟ」が多用され、次々と徒党の者共が相当の速さで移動していった様子がわかります。

 手跡は細筆で書き慣れた感じで流れるような趣です。


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