P.0 表紙。「飯能市立博物館所蔵淺海公介家55号文書」
(読み)
桴 出入 諸 願 書 井 相 手方 詫 書 等 写
いかだでいりしょがんしょならびあいてがたわびしょとううつし
(大意)
桴(いかだ)訴訟の諸願書ならびに相手方の詫び書など写し
(補足)
弘化3(1846)年8月から11月の史料
桴は現在では筏と書きますが、当時は桴でした。
この地区の材木は西川材と江戸の人々に呼ばれていました。その材木を組んで川を下り江戸に運んでました。
画像の坂石・南川村・坂石・坂元・坂石町分の4つの村を流れている高麗川が実線で記されています。この上吾野4ケ村の荷主が下流の入間郡戸口村の川岸に繋留していた筏への狼藉について、争いの史料です。
当時の筏についてのその作り、筏下り、操作などはいつもながら「名栗の歴史 上」に詳しく記載されています。
筏を流してゆくにはある程度のまとまった水量がなければできませんでした。帆船が風待ちをするように筏は水かさが増すのを待たなければなりませんでした。そのためある程度のところまで下りそれ以上は無理となると適当なところで繋留し、水かさが増えるのを待ちます。
川で生計を立てている人は大勢いますから、その繋留したところの村々との争いがよくあったようです。
全文の翻刻・現代語訳・解説は以下資料にあります。
「飯能郷土館収蔵資料目録8(収蔵目録その3)
武蔵国秩父郡
南村岡部家・北川村淺海公介家
文書目録」
2018 飯能市郷土館
「諸」、うーん出だしから読めません。
約80回を予定しています。
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