2018年8月17日金曜日

紙漉重宝記 その7




P.3 紙漉重宝記譜言 l.3〜l.6まで

(読み)
経文   の裏 を用 由といふ 其 後 紙 を製 春流といへども 今 乃
きやうもんのうらをもちゆという。そのゝち可ミをせいするといえども、いまの


布 目 土 手本 能古゛とし 然 る越慶雲   和銅の 頃 柿  本  人 麻呂石見 の
ぬのめ・つちて本んのご とし。し可るをけいうん・王どうのころ可きのもとのひとまろい王ミの


国 の守 護多りしと記 民 をして此 製 を教 へ漉 しむるより 此 職  を
く尓のし由ごたりしとき、多ミをしてこのせいををしへ春可しむるより、このしよくを


こ能地丹伝 ふ事 久し
このちにつ多うことひさし。


(大意)
経文の裏を用いたという。其後、紙を漉くようにはなったのだが、今の
布目の跡がついたものや、土が混じった手本紙のよう(に粗雑なもの)だった。
しかし慶雲・和銅の頃、柿本人麻呂が(石見)国の守護であったとき、人びとにこの紙の
製法を教え、漉かせたことにより、この職業がこの地に伝わり長い歴史をもつ。


(補足)
 その5のところで「る」を合字としました。ここでも5行目に「漉しむるより」の「る」の
上部がやはり欠けています。しかし、このような「る」のくずし字もあるので、合字ではないかもしれません。「ろ」も上部が欠けているときがあります。

 石見の国は現在の島根県です。もちろん今でも石州半紙として有名で和紙を生産しています。

 たった7回目で、変体仮名はだいたいでそろった感があります。
変体仮名の歴史を調べてみると、明治新政府は試行錯誤をしながら大変な苦労をしています。
さらに言文一致の表記についても一定の記法を確定しなければならず、長い期間が必要でした。

 江戸時代後期の頃、女子や庶民が読むものは、簡単な漢字と変体仮名のものがほとんどでした。
維新後、学校整備や教材の作成、教師の育成などしなければならないことは山程あり、ひとつずつ片付けていったとしても、それがうまくいくとも限らず、その混乱ぶりはまさに「難想像」の状況でした。しかし「教育は国家百年の大計」の志だけは失いませんでした。

 本日はここまで

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