2025年11月26日水曜日

江漢西遊日記六 その54

P64 東京国立博物館蔵

(読み)

必有大過人者惜乎載筆者無所考

信不能発揚其盛美大徳耳

 右故河摂泉三州守贈正三位近

 衛中将楠公賛明徴士舜水朱

 之瑜字魯璵之所撰勒代碑文

 以垂不朽

右ハ兵庫(ヘウゴ)湊川(ミナトカワ)楠義士ノ碑

明ノ舜水ノ文也

(大意)

必ずや人を超えた者がいるはずだが、惜しむべきことに著者を考証する手がかりがない。

その盛大な美徳を発揚することができなかったに違いない。

 右は故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公が賛め、明の徴士舜水朱之瑜(字は魯璵)が撰し、碑文を代わって刻んだものである。

 不朽を垂れるためである。

(補足)

 現在も神戸、湊川神社の楠木正成公御墓所に嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)が現存しています。表面は水戸光圀自筆。 

 裏面の拓本です。 

 江漢さんはせっせとこれらの漢文を写しとったのですけど、忍耐強くなければできないことです。ざっとみたところ、写し間違いはなさそう。

 

2025年11月25日火曜日

江漢西遊日記六 その53

P63 東京国立博物館蔵

(読み)

王室還於舊都諺云前門拒狼後

門進虎廟謨不蔵元兇接踵構殺

国儲傾移鐘篋功垂成而震主策

雖善而弗自古未有元帥妬前庸

臣専断而大将能立功於外者卒之以身

許国之死靡佗観其臨終訓子従容

就義託孤寄命言不及私自非精忠

貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤

忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王

公大人以及里之士交口誦説之不衰其

(大意)

王室は旧都に還る。諺に云う「前門で狼を拒み、

後門で虎を入れる」と。廟謨は元凶を蔵さず、

相次いで殺し合いを構える。

国庫は傾き、鐘篋は傾く。功は垂れ成すも、主を震わせる策。

善くとも自ら為さず。古より元帥が前の庸臣を妬むことなし。

臣が専断し、大将が外で功を立てる者は、ついに身を以て終える。

許国に死を捧げ他を顧みず、臨終に子に訓示し従容と

義に就き孤児を託し命を寄せる、私事に及ばず自らを非ず

忠誠を貫くとはかくのごとく、整然として暇あるものか

父子兄弟世々篤く

忠貞節孝一門に集う、盛なりかな

今に至るまで王公大人、及び里の士が口を揃えて称え

その誉れ衰えざる

(補足)

 この部分も前回と同じく、大意はDeepL翻訳の直訳をそのままコピーしたものです。

「前門拒狼後門進虎」、『前門に虎(とら)を拒(ふせ)ぎ後門(こうもん)に狼(おおかみ)を進む〔趙弼「評史」に見える中国の諺(ことわざ)〕

一つの災難から逃れたと思ったら,別の災難に遭うことのたとえ。前門の虎,後門の狼。』

 江漢さんの日記では誤字がたくさんあります。しかしこういった石碑の漢文を書写するのは、大丈夫なようであります。

 

2025年11月24日月曜日

江漢西遊日記六 その52

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

楠ノ碑

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無

日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則

乱賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱

正或者忠勇節烈国士無双蒐其

行事不可概見大抵公之用兵審強

弱之勢於幾先決或敗之機於呼

吸知人善任體士推誠是以諜無

不中而戦無不克誓心天地金石不

渝不為利回不為害状故能興復


(大意)

楠の碑

忠孝は天下に著しく、日月が天に麗し。

天地に日月なきがられば、晦蒙し否塞す。人心が廃し忠孝を失うがられば、

乱賊相次ぎ乾坤反復す。余、楠公の諱は

正あるいは忠勇節烈国士無双と聞く。

その行いは概見せざるべからず。大抵、公の用兵は強

弱の勢いを幾先決し、あるいは敗の機を呼息に知ること。

人を知り善く任じ、士を推し、

正または忠勇節烈国士無双その行いを

概ね見ることはできない大抵公の用兵は強弱の勢いを

幾先決し敗れの機を呼息に知り人を知り善く任じ

士を推し誠を体すゆえに諜報は中まず戦いは

克まず心を天地に誓い金石に渝せず利に回らず

害に為さず故に興復を成し遂げ


(補足)

 以下AIによる概要によります。AIは平気でとんでもない間違いをしますけど、この解釈は大丈夫そうです。

『この文章は、南北朝時代の武将・楠木正成を称賛する「楠ノ碑」の碑文の一部です。忠孝を重んじ、智・仁・勇を兼ね備えた武将として、その武勇や人徳が称えられており、「天下を照らす日月のように麗しい天道に対し、忠孝を廃せば世は乱賊の時代となる」といった格言が記されています。 

碑文の冒頭部分: 「忠孝著乎天下日月麗乎天天地無 日月則晦蒙否塞人心廃忠孝則 乱賊相尋乾坤反覆」とあり、これは「忠孝が世に著しいように、天地には日月が輝いている。日月がなければ世は暗くなるが、人の心に忠孝がなくなれば乱賊がはびこり、天地がひっくり返る」というような意味合いになります。

楠木正成の人物像: 「余聞楠公諱 正或者忠勇節烈国士無双蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱の勢於幾先決或敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以諜無不中而戦無不克誓心天地金石不渝不為利回不為害状故能興復」と続きます。これは、「楠木正成公は、忠義勇節に優れた、国士無双の人物である。その行事を全て見尽くすことはできないが、兵法は強弱の形勢を瞬時に見抜き、敗れる機を呼吸のように知り、人にはよく従い、士を大切にする。ゆえに、いかなる策も外れず、いかなる戦いにも必ず勝った。心には天地金石の誓いを持ち、利にも害にも屈しなかった。だからこそ、幕府を興復することができた」と讃えられています。

湊川神社の「楠ノ碑」: 湊川神社の境内にある、徳川光圀が建立したとされる「楠ノ碑」は、正成公の功績を称える碑文が刻まれています。』

 なお大意はDeepL翻訳の直訳をそのままコピーしたものです。

 

2025年11月23日日曜日

江漢西遊日記六 その51

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

茶 屋

ちゃや


布 引 の瀧 山 の

ぬのびきのたきやまの


中  段 より見ル

ちゅうだんよりみる


女  瀧 アリ少 シ小 サシ

おんなだきありすこしちいさし

(大意)

(補足)

「布引の滝」で検索すると、神戸、京都、鳥取などいくつかが候補にあがりますけど、ここはもちろん神戸の滝です。しかし江漢さんの画と現在の滝の写真がずいぶんとことなっていて、二百年ちょっとのあいだにくずれたのかもしれません。

 

2025年11月22日土曜日

江漢西遊日記六 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

あり楠 の碑を石 摺 ニして賣ル亦  清盛 ノ石

ありくすのひをいしずりにしてうるまたきよもりのいし


塔(ハカ)アリ布 引 の瀧 ハ摩耶山 ノ下 ニアリ山 ノ中  腹

  はか ありぬのびきのたきはまやさんのしたにありやまのちゅうふく


より望  て能キ瀧 ナリ岡 本 と云 処  其 比 梅 さか

よりのぞみてよきたきなりおかもとというところそのころうめさか


里兵  庫の者 梅 見ニ行ク夫 より西 の宮 ニ泊 ル

りひょうごのものうめみにゆくそれよりにしのみやにとまる


以上  十  里の路 也

いじょうじゅうりのみちなり


十  七 日 雨 大 降 大 坂 迄 五里駕籠ニ能る

じゅうしちにちあめおおぶりおおさかまでごりかごにのる


晩 七 ツ時 比 丸 清 方 ニ著ク宿 元 の状  正  月 二 日

ばんななつどきころまるせいかたにつくやどもとのじょうしょうがつふつか


出無事ナルヨシ安心(アンシン)春る

でぶじなるよし   あんしん する


十  八 日 天 氣北 堀 江蒹 葭堂 ヘ行ク色\/

じゅうはちにちてんききたほりえけんかどうへゆくいろいろ


談 話春昼 過 帰 ル晩 方 丸 庄。 治兵衛。扇 久。

だんわすひるすぎかえるばんがたまるしょうじへえ せんきゅう

(大意)

(補足)

「布引の瀧ハ摩耶山ノ下ニアリ」、日記では「耶」が「邪」。 

 古地図の左下の神戸村をでてすぐ左上が布引の滝、その右上に摩耶山があります。そのまま街道に沿って中央辺りが岡本村になり、さらにすすんで古地図の右側が西宮宿です。

「以上十里の路也」ですから、40kmすすんだことになります。

「十七日」、寛政1年2月17日 1789年3月13日。

「大坂迄五里駕籠ニ能る」、20kmを二人でかつぎとおすのは難しいでしょうから、きっと交代のかつぎ手がふたりいたとおもいます。

「北堀江蒹葭堂ヘ行ク」、長崎へ行くときも何度か立ち寄ってます。

 帰りは駕籠をよく使ってます。一刻も早く江戸へ帰りたい気持ちでいっぱいなようです。

 

2025年11月21日金曜日

江漢西遊日記六 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

屋庄  左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ

やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには


市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も

しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも


あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里

ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり


大 久保へ三 里半 五十 町  又 一 里程 行キ明

おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか


石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿  なり爰 ヨリ

しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより


淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心  持 春る

あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする


十  六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して

じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして


舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の

まいこがはまふうけいよし   あつもり のせきとうの


前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵  庫ニ至  楠

まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす


能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物

の  ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ

(大意)

(補足)

地名がたくさんでてきます。

「姫路」より「加古川」へ、

「大久保(大窪)」より「明石」で泊、

「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、

「敦盛墓兵庫津神戸」、

「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』

「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。

「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。

 

2025年11月20日木曜日

江漢西遊日記六 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日曇  北 風 さ武し三ツ石 を明 七 ツ時 尓

じゅうよっかくもりきたかぜさむしみついしをあけななつどきに


出  立 して有年(ウネ)迄 三 里山 路 なり漸  く尓して

しゅったつして   うね までさんりやまみちなりようやくにして


夜明 多り有年河 舟 渡 し正  条  より駕

よあけたりうねかわぶねわたししょうじょうよりか


籠ニて姫 路ニ泊  爰 より丹 波へ出テ夫 より

ごにてひめじにとまるここよりたんばへでてそれより


京  へ行ク心  得なれと兎角 故郷  へかえ里度

きょうへゆくこころえなれどとかくこきょうへかえりたし


妻 子ある故 歟夫 故 ニ所  々  行キ残 し多る所  多 シ

さいしあるゆえかそれゆえにところどころゆきのこしたるところおおし


今 更 思 ヘハ残 念 なり姫 路皮 四五枚 買(カフ)

いまさらおもえばざんねんなりひめじかわしこまい  かう


商  人 の云 京  光 代 寺当 月 八 日消  失 と云

しょうにんのいうきょうこうだいじとうげつようかしょうしつという


去 年 能大 火尓焼 残 里多る処  なり

きょねんのたいかにやけのこりたるところなり


十  五日 天 氣無風 五  時 過 尓出  立 して表

じゅうごにちてんきむふういつつどきすぎにしゅったつしておもて

(大意)

(補足)

「十四日」、寛政1年2月14日 1789年3月10日。

「明七ツ時」、夜明け前4時。真冬の4時に出立するなんて、よほど先を急ぎたいのでね。

「三ツ石」「有年(ウネ」、現在の地図です。右側の竜野の河よりが正条(しょうじょう)。 

「正条」、「姫路」、右端にお城の絵があって、そこが姫路。左側の揖保川の左に正条村。

「姫路皮」、『姫路はわが国の皮革のふるさととして著名である』とあって、わたしはまったく知りませんでした。

「光代寺」、高台寺。実際は「2月9日、高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失した」とあります。消失してからまだ5日しかたってないのに、もう姫路まで届いてます。

「去年能大火」、『天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災』。

 江漢さん、再三「兎角故郷へかえ里度妻子ある故歟」とこぼしていますが、そんなことはなく、普段の江戸の生活が恋しいだけだとおもいます。