2025年12月8日月曜日

江漢西遊日記六 その66

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

尓て呼 れ酒 出 馳走 ニなり帰 ル文 策 と物

にてよばれさけだすちそうになりかえるぶんさくともの


語 りして夜 五  時 尓寝ル此 文 策 と云 醫者

がたりしてよるいつつどきにねるこのぶんさくといういしゃ


ハ相 馬能人 ニて此 伏 見ニ滞 畄  して居(イ)し

はそうまのひとにてこのふしみにたいりゅうして  い し


なり

なり


四 日天 氣後 曇  冨士の画出来上 ル昼 比

よっかてんきのちくもりふじのえできあがるひるごろ


隣 家佐兵衛方 へ文 策 と行ク酒 を呑ミ又

りんかさへえかたへぶんさくとゆくさけをのみまた


九  兵衛処  へ茶 尓参 ル帰 りて茶 尓おかされ

きゅうべえところへちゃにまいるかえりてちゃにおかされ


二 人共 夜半 迄 不眠

ふたりともやはんまでねむれず


五 日曇  京  へ行ク三 里あり宗 林 寺門

いつかくもりきょうへゆくさんりありそうりんじもん


前 大 雅堂 能跡 へ行ク其 外 所  々  へ尋  る返

ぜんたいがどうのあとへゆくそのほかところどころへたずねるかえり

(大意)

(補足)

「四日」、寛政1年3月4日 1789年3月30日。

「茶尓おかされ二人共夜半迄不眠」、むかしもいまもお茶で眠れなくなってしまうのは時代をこえてのアルアル。

「宗林寺門前大雅堂」、京都市のHPより。

『池大雅(1723~76)の家は北山深泥池村で代々農業を営んだが,父が京都に出て銀座の下役になった。大雅は少年時代より書を学び,南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘町(玉瀾)と結婚し,この地真葛原(知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯)に草庵を結んだ。与謝蕪村(1716~83)とともに日本的な独自の文人画を大成した。この石標は池大雅の住居跡を示すものである』。 

 池大雅や蕪村も、江漢さんと同時代の人だったのですね、へぇ〜、です。


 

2025年12月7日日曜日

江漢西遊日記六 その65

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤  へ出て

このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて


伏 見京  町 ニ帰 ル

ふしみきょうまちにかえる


二 日雨天 四ツ時 より京  の方 へ行ク深 草 と云

ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという


処  焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十  三

ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん


軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条  橋 へ出寺 町

げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち


通 りを行キ四条  より三 条  芝 居の前 へ出て

とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて


麩(フ)屋町  へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して

  ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして


知音 院 へ参  祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル

ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる


三 日天 氣寒  日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の

みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの


冨士を描ク昼 比 より隣  九  兵衛方 ひゐな祭 り

ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり

(大意)

(補足)

「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。

「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。

『深草の焼き物について

深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。 

深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。

深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。

「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。

「文束」、文策。

「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』

「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。

 この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。


 

2025年12月6日土曜日

江漢西遊日記六 その64

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

行ク尓六 地蔵 小畑 村 を過 黄 檗 山 ニ至 ルニ

ゆくにろくじぞうこはたむらをすぎおうばくさんにいたるに


入 口 門 尓第 一 義と云 額 山 門 尓萬 福 寺

いりぐちもんにだいいちぎというがくさんもんにまんぷくじ


本 堂 尓大 王 殿 裏 尓威徳 荘 厳 と在

ほんどうにだいおうでんうらにいとくそうごんとあり


霊 峰 沙 門 即 非敬 書 誠  唐 めき多る処

れいほうしゃもんそくひけいしょまことからめきたるところ


なり夫 より三 宝 堂 橋 寺 恵心 寺恵心

なりそれよりさんぽうどうはしでらえしんじえしん


僧 都自作 の像 あり寛 仁 元 年 六 月 十

そうずじさくのぞうありかんにんがんねんろくがつとお


日卒 春今年 迄 七 百  七 十  三 年 ニなる橋

かそっすことしまでななひゃくななじゅうさんねんになるはし


あり損 春舟 渡 し即 宇治河 是 也 渡 り

ありそんすふなわたしそくうじがわこれなりわたり


て松 あり扇  の芝 と云 左  ニ釣 殿 鳳 凰

てまつありおおぎのしばというひだりにつりどのほうおう


堂 前 ニ池 アリ其 上 の瀬を山 吹 の瀬と云

どうまえにいけありそのうえのせをやまぶきのせという

(大意)

(補足)

「小畑村」、小幡(こはた)村か。

「萬福寺 霊峰沙門即非敬書」で調べると、AIの概要は次の通り。

『京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)と、江戸時代前期に活躍した中国出身の高僧である即非如一(そくひにょいち)禅師に関わる言葉です。具体的には、即非禅師が揮毫(きごう)した書の落款(らっかん、署名)や題名の一部と考えられます。 内訳は以下の通りです。

萬福寺: 1661年に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創された、黄檗宗の大本山です。

即非(そくひ): 即非如一禅師(1616年-1671年)のことです。隠元禅師の弟子として来日し、長崎の崇福寺の住職を務めた後、萬福寺の第2代住持となりました。

霊峰沙門(れいほうしゃもん): 霊峰は即非禅師の別号(呼び名)の一つ、沙門は出家修行者を意味します。

敬書(けいしょ): 恭しく(うやうやしく)書いた、という意味です』。AIは信用できないので、個別に調べてみると、まぁ、あっているようです。

「七百七十三年」、この日は西暦で1789年3月27日。寛仁(かんにん)元年は西暦1017年なので引き算をすると、772年前となります。

 恵心寺と平等院は宇治川をはさんで向かいあっていますので、江漢さんは恵心寺から川を渡って、平等院へ行ったようです。そこの「扇の芝」は『治承4年(1180年)の宇治川の戦いで平氏軍に敗れた源頼政が、平等院に逃げ込み、自刃した場所と伝えられています。伝説によると、頼政は西方極楽浄土を願って大きな軍扇(ぐんせん)を敷き、その上で切腹したことから「扇の芝」と呼ばれるようになりました』とあります。

「釣殿」、『つりどの【釣り殿】

寝殿造りの南端の,池に臨んで建てられた周囲を吹き放ちにした建物。魚釣りを楽しんだところからの名という。納涼・饗宴に用いられた』。

 宇治の平等院鳳凰堂は江漢さんの好みではなかったようで、画を残していません。大和巡りはせずに伏見京町へ帰ってしまいました。

 もう50数年前のことでしょうか、もしかしたら大阪万博1970年のときだったかもしれません。父と京都旅行をして萬福寺を訪問しました。真夏の暑い盛り、汗だくでしたが境内は日陰も多く、涼しかった。そこで見た、鉄眼和尚の一切経の版木は感動的でした。ずっと見ていたら、係員の方がガラスケースの中につまれていた真っ黒な版木を取り出して持たせてくれました、重たかった。これは世界にこれ1枚しかないのだとおもうと、いっそうずしりと両手にそのおもみがしみました。版木の漢字の彫りは、たくさん刷っただろうに角がまだしっかりとたっていて、丈夫なのだなとおもったものです。中国ではもうこの一切経の版木はとっくに失われていて、世界でもここにしかない貴重なものということです。 

2025年12月5日金曜日

江漢西遊日記六 その63

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

鍋 嶌 黒 田と呼フ古  へ能屋しき能跡 と

なべしまくろだとよぶいにしえのやしきのあとと


見ユ其 畑  のウ子\/尓梅 桃 を植 て其

みゆそのはたけのうねうねにうめももをうえてその


比 梅 能花 さか里なり臺 より見下 セハ皆

ころうめのはなざかりなりだいよりみおろせばみな


梅 村 小倉 能沼 堤  向 フ方 ハ春 日山 八幡

うめむらおぐらのぬまつつみむこうかたはかすがやまやわた


山 遥  尓吉 野能方 金 剛 山 を望 ム左  ハ黄檗(ヲーハク)

やまはるかによしののほうこんごうさんをのぞむひだりは   おうばく


山 宇治の方 なり臺 を下 レハ御香 の宮

さんうじのほうなりだいをおりればごこうのみや


とて鎮 守 なり門 ハ古  へ能臺 所  能門 と云フ

とてちんじゅなりもんはいにしえのだいどころのもんという


画馬堂 尓大 釜 ニ菊 桐 の紋 アリ

えまどうにおおがまにきくきりのもんあり


三 月 朔 日 天 氣寒 シ宇治の方 へ行ク尓宮

さんがつついたちてんきさむしうじのほうへゆくにみや


乃前 を通 り梅 畑  を過 て城  址を左  ニ見テ

のまえをとおりうめばたけをすぎてじょうしをひだりにみて

(大意)

(補足)

「ウ子\/」、いままでずっとこの「ウ子」の「子」を「ネ」としてきましたが、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「子」が字の形として正解のようです。

「小倉」、巨椋。この古地図を見ると大池の右に小倉村とありますので、正しいのかも。


 「御香の宮」、『御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は京都市伏見区に鎮座し、安産・子育ての社として古くより信仰を集めています』とありました。
 

「画馬堂」、絵馬堂。

「三月朔日」、寛政1年3月1日 1789年3月27日。

 見学するところ、見学したいところがたくさんあるのでしょう。精力的に近辺を歩き回っています。

2025年12月4日木曜日

江漢西遊日記六 その62

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

てハ遠 し堤  湖   能半(ナカハ)尓あり太 閤 之(コレ)を

てはとおしつつみみずうみの  なかば にありたいこう  これ を


築(キツカ)レしとぞ岸 \/尓疎栁  植(ウユ)栁 キ䇭(コリ)

  きづか れしとぞきしきしにそやなぎ  うゆ やなぎ  ごり


を作 ル堤  長 サ三 十 町  其 半  尓漁 村 両

をつくるつつみながささんじっちょうそのなかばにぎょそんりょう


三 軒 アリ京  町 近 江屋ニ至 ル

さんげんありきょうまちおうみやにいたる


廿   九日 雨天 夜 尓入 イヨ\/降ル此 日偶 然

にじゅうくにちうてんよるにいりいよいよふるこのひぐうぜん


として暮 春

としてすごす


三 十  日 雨 ヤム曇 ル隣 家九  兵衛と云 人 亦

さんじゅうにちあめやむくもるりんけきゅうべえというひとまた


佐兵衛と共 尓宇治見臺 と云 所  へ登 ル太

さへえとともにうじみだいというところへのぼるたい


閤 庭 の跡 と云 其 行 路を昔 シ大 和街

こうにわのあとというそのこうろをむかしやまとかい


道 と云 今 ハ左右 畑  なり其 畑  の名あり

どうといういまはさゆうはたけなりそのはたけのなあり

(大意)

(補足)

「廿九日」、寛政1年2月29日 1789年3月25日(どこかで1日ずれていました)。

「栁キ䇭(コリ)」、柳行李。

「偶然」、寓然。

「宇治見臺」、AIの概要がしばらく考えてました。

『京都の伏見(現在の京都市伏見区桃山町付近)にあったとされる歴史的な眺望地(展望台)の名称です。現在の宇治市内の正式な住所や地名としては存在しません。 

 江戸時代の紀行文などによると、宇治見台は豊臣秀吉が築いた伏見城の庭園跡の一角にあったとされ、そこから宇治方面の眺めを楽しんだことが記されています。

 司馬江漢の『江漢西遊日記』にも、寛政元年に宇治見台からの眺望を楽しんだという記述があります。 

 現在、宇治市内で眺めの良い場所としては、宇治川や平等院を一望できる大吉山(仏徳山)展望台などが知られています』とありました。

 「西遊旅譚五」にそこからの眺望の画があります。「堤湖能半(ナカハ)」とあるように、なるほど湖を左右に分けています。 

 季節季節できれいだったでしょね。

 

2025年12月3日水曜日

江漢西遊日記六 その61

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣六 過 ニ大 坂 丸 清 方 を出  立

にじゅうしちにちてんきむつすぎにおおさかまるせいかたをしゅったつ


して安 道 寺町 筋 を東  能方 へ行キ山 ニ

してあんどうじまちすじをひがしのほうへゆきやまに


入 クラガリ峠  を越へ亦 向 フ能山 ニ至 りモ

いるくらがりとおげをこえまたむこうのやまにいたりも


ロノ木山 より南 都塔 及 ヒ大 仏 殿 見(ミ)

ろのきやまよりなんととうおよびだいぶつでん  み


え(ヘ)る山 を下 レハ春 日能社  誠  尓大 社 ナリ

え   るやまをくだればかすがのやしろまことにたいしゃなり


亦 大 佛 を見る猿 沢 の池 の邊  尓泊 ル

まただいぶつをみるさるさわのいけのあたりにとまる


廿   八 日 曇 ル椿 木町  古梅 園 へ参 り天 覧 能

にじゅうはちにちくもるつばきちょうこばいえんへまいりてんらんの


墨 を見る亦 墨 の形  を見る妙  工 なり夫 より

すみをみるまたすみのかたちをみるみょうこうなりそれより


南 都を出テ七 里伏 見尓至 ルニ其 路 小倉

なんとをでてしちりふしみにいたるにそのみちおぐら


堤  アリ是 ハ京  より南 都ヘ宇路を廻 里

つつみありこれはきょうよりなんとへうじをめぐり

(大意)

(補足)

「廿七日」、寛政1年2月27日 1789年3月22日。

「クラガリ峠」、暗峠。大阪を出立してほぼ真東へ。

 更に東へ、 

 猿沢の池です。 

 猿沢の池は春日大社、大仏の西にあります。見学してから西へ戻ったのでしょうか?なんか変です。

「椿木町古梅園」、「椿木町」ではなく「椿井町(つばいちょう)」のようです。古梅園は今でもあって、「1577年(室町時代末期)創業で、440年以上の歴史を持つ老舗の墨メーカーです。徳川幕府の御用達も務めた歴史を持ち、「奈良墨」の代名詞とも言える存在です」とありました。

「小倉堤」、『おぐらのいけ 【巨椋池】

京都市伏見区・宇治市・久世郡にまたがってあった周囲約16キロメートルの湖沼。一九三三(昭和八)~41年干拓によって消滅。現在は水田・住宅地帯。巨椋の入江。おぐらいけ』のようです。

「宇路」、宇治。

 かなりの道を、それも暗峠(くらがりとおげ)という非常に難所の山越えをしてからも、歩み続けています。健脚!

 

2025年12月2日火曜日

江漢西遊日記六 その60

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

なんぎ春る

なんぎする


廿   五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京  壬(ミ)

にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう  み


生寺 開 帳  壬生狂  言 を見ル夫 より清 水

ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず


寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を

でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを


出春尼 五同 道 なり

だすあまごどうどうなり


廿   六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂

にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう


へ暇  乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別

へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ


ニ贈 ル明  朝  奈良ノ方 へ出  立 せんと思 フ

におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう


ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時

なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき


過 帰 ル甚  タ別 レをおし武

すぎかえるはなはだわかれをおしむ

(大意)

(補足)

「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。

「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。

「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。