2025年12月19日金曜日

江漢西遊日記六 その77

P91 東京国立博物館蔵

(読み)

頂  とあり池 尓色 \/能名 石 あり天 井  古法

ちょうとありいけにいろいろのめいせきありてんじょうこほう


眼 の画と云 画ハ見へ春゛柱  の隅ミを見る尓金

げんのえというえはみえず はしらのすみをみるにきん


箔 少 シ残 り多る有 夫 よりお室 尓参 ル二王 門

ぱくすこしのこりたるありそれよりおむろにまいるにおうもん


を入  て堂 の前 桜  さか里京  ハ春 の一 季ハ誠  ニ

をはいりてどうのまえさくらさかりきょうははるのいっきはまことに


都  乃春 ニて風 乃吹 ぬ所  ニて毎 日 能 天(テン)キ

みやこのはるにてかぜのふかぬところにてまいにちよき  てん き


ニて貴賤 皆 花 を見て楽 しむ亦 御所 の

にてきせんみなはなをみてたのしむまたごしょの


お坐しき拝 見 春る襖  金 泥 引 極 彩 色 ニ

おざしきはいけんするふすまきんでいびきごくさいしきに


花 と鳥 を模様 尓散ラし多るあり亦 人 物 或

はなととりをもようにちらしたるありまたじんぶつあるいは


孔雀  御坐間とも云 処  揚ケ多ゝみ屏  風ニて

くじゃくござまともいうところあげたたみびょうぶにて


かこひ其 後 ロ草 花 置 上(アケ)泥 引 砂 子

かこいそのうしろくさばなおき  あげ でいびきすなご

(大意)

(補足)

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう』、江漢は狩野元信のことをかならずこの言葉を使っています。

「泥引」、『でいびき【泥引き】刷毛(はけ)などで金泥・銀泥を引くこと』。

「砂子」、『すなご【砂子・沙子】① すな。まさご。

② 金銀の箔(はく)を粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・色紙・襖(ふすま)紙などに吹きつけて装飾とする。「―ノ屛風」〈日葡辞書〉』。

 金閣寺の内部を細かく観察しています。やはり絵師なのでしょうけど、抑えようもなく好奇心がまさるのでしょう。

 

2025年12月18日木曜日

江漢西遊日記六 その76

P90 東京国立博物館蔵

(読み)

入 る四条  栁   馬 場丸 亦 ヘ行ク夫 より清 水 観

いれるしじょうやなぎのばんばまるまたへゆくそれよりきよみずかん


音 開 帳  へ参 ル桜  の盛 里茶店 に休 ミ祇園

のんかいちょうへまいるさくらのさかりさてんにやすみぎおん


へ参 り二軒 茶 屋てん楽 ニて酒 を呑ミ祇園 町

へまいりにけんちゃやでんがくにてさけをのみぎおんまち


四条  へ出て帰 ル京  地ハ婦人 よし神 社 仏 閣

しじょうへでてかえるきょうちはふじんよしじんじゃぶっかく


山 をか多と里景色 よし東 都ニ異  里

やまをかたどりけしきよしとうとにことなり


廿   一 日 天 氣朝 より西 北 の方 へ行ク北 野天 神

にじゅういちにちてんきあさよりせいほくのほうへゆくきたのてんじん


北 の門 を出谷 川 尓二軒 茶 屋あり鯉 の吸 物 う

きたのもんをでたにがわににけんちゃやありこいのすいものう


なき能蒲 焼 アリ夫 より平 野の宮 三 社

なぎのかばやきありそれよりひらののみやさんしゃ


あり桜 花さかり亦 金閣寺(キンカクジノ)寺(テラ)へ行ク十  人

ありおうかさかりまた    きんかくじの   てら へゆくじゅうにん


ニて銀 二匁  出し見 物 春三 階 能額 ニハ究 意

にてぎんにもんめだしけんぶつすさんかいのがくにはくっきょう

(大意)

(補足)

「四条栁馬場丸亦ヘ行ク」、「四条栁馬場」は(しじょうやなぎのばんば)と読み、それにつづく「丸亦ヘ行ク」が意味不明です。

「廿一日」、寛政1年3月21日 1789年4月16日。

「平野の宮三社」、江戸時代から夜桜が庶民に開放されて以来、「平野の夜桜」として有名。

「究意頂」、AIによる概要です。

『金閣寺(鹿苑寺)の「究竟頂(くっきょうちょう)」は、舎利殿の最上層(第3層)を指す名称で、中国風の禅宗様仏殿造りを取り入れた究極の極楽浄土を表現した空間です。 仏舎利を安置する場所であり、内部は金箔で覆われ、後小松天皇の筆による「究竟頂」の額がかけられていました』。

 春真っ盛り。春の京都は何度も行きましたが、それでもまた行ってみたい♪

宇治方面もいいなぁ〜。

 

2025年12月17日水曜日

江漢西遊日記六 その75

P89 東京国立博物館蔵

(読み)

とぞ時 の鐘 あり宵(ヨイ)の中(ウチ)二三 町  の間  植(ウヘ)

とぞときのかねあり  よい の  うち にさんちょうのあいだ  うえ


木其 外 喰 物 諸 道 具捅 ざる様 能物

きそのほかくいものしょどうぐおけざるようのもの


小道 具等 を賣る是 ヲ夜市 と云ツて皆

こどうぐとうをうるこれをよいちといってみな


買ヒ尓行 夫 故 昼 ハ野菜 其 外 世代(セタイ)道

かいにゆくそれゆえひるはやさいそのほか   せたい どう


具賣リ歩 く者 なし此 市 所  々  尓あり

ぐうりあるくものなしこのいちところどころにあり


四条  橋 結メの町 ハ毎 夜なり其 外 寺 町

しじょうはしづめのまちはまいよなりそのほかてらまち


の丸 太町  堀 川 立 賣 の邊  なり

のまるたちょうほりかわたちうりのあたりなり


十  九日 天 氣六 右衛門 頼 ミの画認  メる

じゅうくにちてんきろくえ もんたのみのえしたためる


廿 日天 氣暖 色  小袖 一 ツニて宜 し閑院(カンニン)の宮(ミヤ)

はつかてんきだんしょくこそでひとつにてよろし   かんにん の  みや


様 へ銅 版 江戸の圖八 景 能目か年御覧 尓

さまへどうはんえどのずはっけいのめがねごらんに

(大意)

(補足)

「捅」、桶。原文の漢字の読みは(トウ)。「世代」、世帯。「橋結」、橋詰。いつもながら誤字をまったく気にしてない様子。

「十九日」、寛政1年3月19日 1789年4月14日。

「閑院(カンニン)の宮(ミヤ)」、閑院宮(かんいんのみや)。日本の皇室における宮家の一つ。世襲親王家の四宮家の一つ。家領千石。当時の主は第二代典仁親王。他三家は伏見・有栖川・桂(八条・京極)。

 

2025年12月16日火曜日

江漢西遊日記六 その74

P88 東京国立博物館蔵

(読み)

治臺 へ行ク先 日 皆 梅 の花 なりし尓今 ハ皆

じだいへゆくせんじつみなうめのはななりしにいまはみな


桃 の花 となり茶店 あり蜆  の吸 物 でんかく

もものはなとなりさてんありしじみのすいものでんがく


酒 を賣ル見渡 春処  漸  く五六 十  人 皆 京

さけをうるみわたすところようやくごろくじゅうにんみなきょう


邊の人 なり中 に妓 子など連レ来ル者 ハ他国 のい

べのひとなりなかにげいこなどつれくるものはたこくのい


なか者 ニて顔 色 毛風 俗 も違 ヒて見尓くくぞ

なかものにてかおいろもふうぞくもちがいてみにくくぞ


ある晩 景 京  へ帰 ル路 六右衛門 尓逢フ嶋 原

あるばんけいきょうへかえるみちろくえもんにあうしまばら


より文(フミ)参  多るを彼 地の風 ニて初 會 ニて毛

より  ふみ まいりたるをかのちのふうにてしょかいにても


なじミ能如 し

なじみのごとし


十  八 日 天 氣中 井老 人 の像 出来ル宵(ヨイ)六

じゅうはちにちてんきなかいろうじんのぞうできる  よい ろっ


角 堂 観 音 ハ札 所 ニて爰 ハ京  の中  央 なり

かくどうかんのんはふだしょにてここはきょうのちゅうおうなり

(大意)

(補足)

「初會ニて毛なじミ能如し」、すでに何度か説明してきましたが、今回はAIの概要です。

『「花魁 初会(しょかい)」とは、江戸時代の吉原遊廓で初めての客が**花魁(高級遊女)**と対面し、儀礼的な顔合わせや酒宴を行う最初の段階を指します。

初会の流れと特徴

顔合わせ: 客は妓楼(遊女屋)の「張見世」で花魁を選び、手配してもらいます。

引付座敷: 初めての客は「引付座敷」に通され、花魁と対面します。

儀礼: 盃を酌み交わす儀式が行われ、教養や身分が試されました。

「三回目で肌を許す」説: 初会で花魁は口を利かず、2回目(裏)で打ち解け、3回目(馴染み)で初めて肌を許すという説は有名ですが、これは伝説であり、現実には初会から関係を持つことも多かったとされます。

「裏」と「馴染み」: 2度目の来店は「裏を返す(裏)」、3度目は「馴染み」と呼ばれ、馴染みになるとより親密な関係になることが期待されました』。

「十八日」、寛政1年3月18日 1789年4月13日。

「六角堂」、赤印のところ。 


 梅が終わり、桃の花となり、次は桜です。もう西洋暦では4月もなかば。

 

2025年12月15日月曜日

江漢西遊日記六 その73

P87 東京国立博物館蔵

(読み)

昼 八ツ時 比 より荻 野左衛門  尉  方 へ行ク蘭 説 ヲ

ひるやつどきころよりおぎのさえもんのじょうかたへゆくらんせつを


話 春甚  タ奇と春酒 肴 を出し馳走 春夜

はなすはなはだきとすしゅこうをだしちそうすよる


能九  ツ時 過 尓帰 る京  住  せんと云 ヘハ甚  タよろ

のここのつどきすぎにかえるきょうずまいせんとつたえばはなはだよろ


こ婦

こぶ


十  六 日 天 氣よし暖 色  を催  ス祇園 邊  へ

じゅうろくにちてんきよしだんしょくをもよおすぎおんあたりへ


行キ大 雅堂 へ尋  る玉  瀾(ラン)も四五年 以前 ニ

ゆきたいがどうへたずねるぎょく  らん もしごねんいぜんに


死して今 ハ其 跡 ニ知らぬ名の人 居 个り

ししていまはそのあとにしらぬなのひとおりけり


十  七 日 天 氣日野中 井能婦人 来 ル中

じゅうしちにちてんきひのなかいのふじんきたるなか


井老 人 能像 を被頼  老 人 伏 見尓居ルよし

いろうじんのぞうをたのまるろうじんふしみにいるよし


伏 見ヘ行キ老 人 を寫春(ス)夫 より桃 山 宇

ふしみへゆきろうじんをうつ す それよりももやまう

(大意)

(補足)

「昼八ツ時比」、お昼の2時頃。おやつの時間はこの「八ツ」 からきてます。

「荻野左衛門尉」、荻野元凱(おぎの げんがい)だろうか?『加賀の金沢に生まれる。後に上洛し、奥村良筑の門人となり古法医学を学んだ。その後は江戸幕府からの招聘により、朝廷からの許可をもらった。これにより1794年(寛政6年)に典薬寮にて、当時の天皇だった光格天皇の皇太子の診療にあたった。1798年(寛政10年)には再度幕府からの招聘により漢方医学の教育を取り入れていた医学館で教鞭を執った。しかし元凱はその漢方に蘭方医学を用いた医学を教育を取り入れる事を希望した事が理由とされる事により、後に同学館から離れ京都に戻る。これによって「漢蘭折衷家」と呼ばれるようになった。その後は再度皇太子の診療にあたり、解剖学を学び晩年は河内国司としても活動した』。

「京住せんと云ヘハ甚タよろこ婦」、江漢はこの後、文化9(1812)年4月1日から11月21日まで京都に在住した。『江漢西遊日記三その8』でもそのことにふれています。

「大雅堂へ尋る玉瀾(ラン)も四五年以前ニ死して」、3月5日にも訪れています。玉蘭は池大雅の奥様、天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没なので「四五年以前ニ死して」は正確です。

「中井老人」、『江漢西遊日記二その44』にはじめてでてきました。当時日本一の商店主。

 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号、KEIZAI SHIRYOKAN KIYO_038_001-015Z.pdfに詳しく論じられています。

 中井老人の肖像画を往路復路でそれぞれ1枚ずつ描いたことになります。それら肖像画は個人像となっていて残念ながらネットで鑑賞することができません。

 とてもとても残念😢 

2025年12月14日日曜日

江漢西遊日記六 その72

P86 東京国立博物館蔵

(読み)

ウヅマサ聖  徳 太 子開 帳  大 井河 ニ掛 ル土橋 アリ

うずまさしょうとくたいしかいちょうおおいがわにかかるどばしあり


吐月 橋  と云 渡 しハ虚空 蔵 嵐  山 なり亦タ

とげつきょうというわたしはこくうぞうあらしやまなりまた


もと能橋 を渡 里天 龍  寺夫 より嵯峨の

もとのはしをわたりてんりゅうじそれよりさがの


釈 迦堂 茶店 ニ休 ミ裏 を出て愛 宕へ

しゃかどうさてんにやすみうらをでてあたごへ


行ク路 婦もとより五十 町  清 瀧 なと云 処  アリテ

ゆくみちふもとよりごじっちょうきよたきなどいうところありて


路 \/喰 物 アリ人 をも泊 ル女  土器(カワラケ)を投(ナケ)る

みちみちくいものありひとをもとめるおんな   かわらけ を  なげ る


妙 なり山 上  ニ至 レハ雪 消 残 ル夫 より下 り路

たえなりさんじょうにいたればゆきけしのこるそれよりくだりみち


尓して野山 を越 て北 野天 神 へ出て日暮

にしてのやまをこえてきたのてんじんへでてひぐれ


前 冨 ノ小 路尓かえりぬ

まえとみのこうじにかえりぬ


十  五日 曇  此 間  頼 ミし目鏡  箱 出来る

じゅうごにちくもりこのあいだたのみしめかがみばこできる

(大意)

(補足)

「大井河」、大堰川。「吐月橋」、渡月橋。いくらなんでも吐月とはちょっとひどすぎ、風流のかけらもない。

『おおいがわ おほゐがは 【大堰川】

京都府中東部,丹波高地の大悲山(たいひざん)に源を発し,亀岡付近(渡月橋より上流)で保津(ほづ)川と名を変え,さらに(渡月橋の)下流で桂川となり,淀(よど)川に注ぐ川。大井川。「いろいろの木の葉ながるる―しもは桂のもみぢとやみむ」〈拾遺和歌集•秋〉』。『大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来』するとありました。

「冨ノ小路」、南北の青い部分、繁華街です。

「十五日」、寛政1年3月15日 1789年4月10日。

 この日14日は、嵐山、愛宕山、北野天神などの周辺の1日観光、ずいぶんと歩いたはずです。

 

2025年12月13日土曜日

江漢西遊日記六 その71


P85 東京国立博物館蔵

(読み)

十  三 日 曇  昼 より四条  竹 田から繰 を見 物 春

じゅうさんにちくもりひるよりしじょうたけだからくりをけんぶつす


画心 紙と云 大 唐 紙 三 十  三 匁  ニ調  へ亦 能そき

がせんしというおおからかみさんじゅうさんもんめにととのへまたのぞき


目鏡 能箱 出来ル

めがねのはこできる


十  四 日曇  朝 飯 後より愛宕 ヘ参 ル三 条  ヲ

じゅうよっかくもりあさめしごよりあたごへまいるさんじょうを


西 へ行キ十  五六 町  過 シハ洛 外 なり田畑 路ニ獄

にしへゆきじゅうごろくちょうすぎしはらくがいなりたはたじにごく



門 あり者しめて見ル此 盗   ハ三 十  三 間 堂 能

もんありはじめてみるこのぬすっとはさんじゅうさんげんどうの


床(ヱン)の下 ニ住 て夜盗 なり捕  ラれて縄 をぬけ

  えん のしたにすみてやとうなりとらえられてなわをぬけ


途中  ニて逃 出し路 を通 ル醫者 能脇 差

とちゅうにてにげだしみちをとおるいしゃのわきざし


を取 ぬき身を以 て古 手屋ヘ入 衣類 を着(キ)

をとりぬきみをもってふるてやへいりいるいを  き


多ると云 産 レハ薩摩(サツマ)の者 と云 夫 より嵯峨

たるといううまれは   さつま のものというそれよりさが

(大意)

(補足)

「十三日」、寛政1年3月13日 1789年4月8日。

「竹田から繰」、このようなものだったのでしょうか、 

「画心紙」、画仙紙。

「調へ」、『ととの・える ととのへる 【整える・調える・斉える】⑦ 買う。「酒を―・へに来たほどに」〈狂言・伯母が酒•鷺流〉』

「愛宕」、観光地嵐山のさらに北西部。