2025年3月31日月曜日

江漢西遊日記三 その32

P32 東京国立博物館蔵

(読み)

松 多けを生  して人 能取 多る跡 あり吾

まつたけをしょうじてひとのとりたるあとありわれ


毛取 ベシとて心  を付 レとも皆 人 の取 多る

もとるべしとてこころをつけれどもみなひとのとりたる


あと能ミ一 向 ニなし人 能取 多るを落 シ

あとのみいっこうになしひとのとりたるをおとし


多るを一 ツひろゐ个る此 路 山 中  せ者゛き

たるをひとつひろいけるこのみちさんちゅうせば き


小路 ニして漸 \/往 来 伊部(インベ)と云 処  ヘ出ケリ

こみちにしてようようおうらい   いんべ というところへでけり


いんべハ焼 物 を賣ル見世アリ備前 焼

いんべはやきものをうるみせありびぜんやき


是 なり爰 を過 て加々戸と云フ処  ニ至 リて

これなりここをすぎてかがとというところにいたりて


大 瀧 路 と云 碑アリさらハ瀧 を見んとて

おおたきみちというひありさらばたきをみんとて


小路 ニ入 ル両  方 大 山 其 山 能腰 尓石 を積

こみちにはいるりょうほうおおやまそのやまのこしにいしをつ


ミ其 上 ニハ草 木生  シ口 一 方 ニアリ穴 蔵

みそのうえにはくさきしょうじくちいっぽいにありあなぐら

(大意)

(補足)

「伊部(インベ)」、「加々戸」香登(かがと)、伊能図では2つの村が街道にあります。

 現在は香登駅があり、無人駅のようです。 

 香登駅の1時方向に大瀧山西法院がありますが、これが大瀧路と関係しているかどうか、ちょっと不明です。

 松茸一つ拾ってうれしそう♫

 

2025年3月30日日曜日

江漢西遊日記三 その31

P31 東京国立博物館蔵

(読み)

爰 より舟 尓能里て三 里あり山 の腰 を行

ここよりふねにのりてさんりありやまのこしをゆく


風 なくして波 平  カなり坂越(サコシ)と云 処  舩 着

かぜなくしてなみたいらかなり   さこし というところふなつき


なり商  家軒 を並  て能 処  なり町 能後(ウシ)

なりしょうかのきをならべてよきところなりまちの  うし


ろハ山 なり山 尓観 音 堂 アリランカン尓より

ろはやまなりやまにかんのんどうありらんかんにより


海 を望 ム詩なと作 リて帰 りぬ

うみをのぞむしなどつくりてかえりぬ


六 日雨 画を認  メル暑 ウスシ

むいかあめえをしたためるしょうすし


七 日天 氣よし明日出  立 せんとて所  々

なのかてんきよしあすしゅったつせんとてところどころ


暇  乞 ニ行キ出  立 能仕度 春る

いとまごいにゆきしゅったつのしたくする


八 日天 氣明 六 時 尓魯庵 方 を出て

ようかてんきあけむつどきにろあんかたをでて


八木山 と云 を越 ルニ其 比 秋 なれハ松 山

やきやまというをこゆるにそのころあきなればまつやま

(大意)

(補足)

 赤穂城(地図の左隅)の南側が御崎、そこから船に乗って、坂越の船着き場(右上)へ、 

そこから山を少々登って、大避神社(おおさけ)(右隅)が観音堂のようです。 

 ランカンによって海を望んだのはこんな景色だったでしょう。生島が望めます。 

「望ム」、「暇乞」、何度も出てきているので読めます。

「六日〜八日」、天明8年九月六日〜八日。1788年10月5日〜7日。

「八木山」(ヤキヤマ)、地図で備前市とある色のかわっているところ。

 赤穂を出立してからずっと山路です。高速ならあっという間。

 

2025年3月29日土曜日

江漢西遊日記三 その30

P30 東京国立博物館蔵

(読み)

取リ角(スミ)桜  大 手外 堀 アリて能 城 なり

とり  すみ やぐらおおてそとぼりありてよきしろなり


五 日天 氣尓て新 塩 濱 と云 処  ニ参 ル之 ハ

いつかてんきにてしんしおはまというところにまいるこれは


新 規尓取 立テし塩 濱 也 とぞ塩 濱 は田

しんきにとりたてししおはまなりとぞしおはまはた


能如 ク尓して四面 ニ溝(ミソ)あり其 溝 へ自   ラ塩

のごとくにしてしめんに  みぞ ありそのみぞへおのずからしお


能さして且 て潮 を扱ミて濱 ヘうつ事 ナシ

のさしてかってしおをくみてはまへうつことなし


潮 を煮る所  アリ一 間 四方 ニして厚 サ六 七

しおをにるところありいっけんしほうにしてあつさろくしち


寸 所  々  縄(ナワ)尓て約(ツリ)て薄ス鍋 なり赤 穂

すんところどころ  なわ にて  つり てうすなべなりあこお


塩 日本 第 一 也 其(コゝニ)冨人 の家 アリ夫 ヨリ

しおにほんだいいちなり  ここに ふじんのいえありそれより


三崎 大 明  神 の祠  アリ社  古 ヒ大 松 廻 り

みさきだいみょうじんのほこらありやしろふるびおおまつまわり


海 岸 波 あらく嶋 数 \/見ヘてヨキ景色(ケシキ)

かいがんなみあらくしまかずかずみえてよき   けしき

(大意)

(補足)

「角(スミ)桜」、角櫓。「自ラ塩能さして」、自ラ潮能さして。「扱ミて」、汲ミて。「約(ツリ)て」、釣て。

「五日」、天明8年九月五日。1788年10月4日。

「三崎大明神」、赤穂市御崎の温泉街に位置する伊和都比売神社(いわつひめじんじゃ)のことでしょうか。

 赤穂のお城は、伊能図では森和泉守居城と記されています。 

 塩田は御城の南側、河口付近です。

 

2025年3月28日金曜日

江漢西遊日記三 その29

P29 東京国立博物館蔵

(読み)

結メして其 節 能懇 意なり故 ニ爰 ニ至 ル

つめしてそのせつのこんいなりゆえにここにいたる


三 日曇  て後 天 氣画二三 紙描(カク)夫 ヨリ

みっかくもりてのちてんきえにさんし  かく それより


同 藩 の者 能処  ヘ参  酒 肴 を出春宿

どうはんのもののところへまいるしゅこうをだすやど


ヨリ六 月 十  九日 出の状  を見ル

よりろくがつじゅうくにちでのじょうをみる


四 日天 氣甚  タ暑 シ衛守 と云 人 織 部

よっかてんきはなはだあつしえもりというひとおりべ


と二 人太夫(カロウ)なり爰 ニ至 ル尓酒 肴 ヲ出シ

とふたり   かろう なりここにいたるにしゅこうをだし


話 ス此 家 城  内 ニて至  て古 シ昔 シ麻 野

はなすこのいえじょうないにていたってふるしむかしあさの


家能時 の小野氏の屋しきと云 亦 大 石

けのときのおのしのやしきというまたおおいし


氏能屋しき趾 アリ之 ハ焼 て門 能ミ残 ル

しのやしきあとありこれはやけてもんのみのこる


瓦  を見ル尓二 ツ巴  アリ城 ハ一 方 ハ海 をか多

かわらをみるにふたつどもえありしろはいっぽうはうみをかた

(大意)

(補足)

「江戸結メ」、江戸詰メ。

「三日」、天明8年九月三日。1788年10月2日。

「麻野家」、浅野家。

「大石氏能屋しき趾アリ之ハ焼て門能ミ残ル」、画像は20190126 あこう路地さんぽ(旧城下町地区)資料より、 

『浅野内匠頭の刃傷事件の際、その知らせを持って早かごで駆けつけた早水藤左衛門、萱野三平が叩いたと言われています。 

享保14年(1729)、建物の大半が火災に遭いましたが、長屋門だけが焼失をまぬがれ、その後建て替え等を経て数少ない江戸時代建築として非常に価値が高く、現在も城内に残っています』。

 門の瓦を拡大すると、二つ巴が確認できます。

 赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)でしたので、江漢が訪れたときより、約85年前です。江漢さんのおじいさんぐらいの時代。まだ関係者や浪士の家族や親族がいたはずで、まだまだ生々しい出来事であったとおもいます。

 

2025年3月27日木曜日

江漢西遊日記三 その28

P28 東京国立博物館蔵

(読み)

なり御影(カケ)石 是(コレ)なり此 宝 殿 ハ神 代

なりみ  かげ いし  これ なりこのほうでんはじんだい


造 リ多る者 ニて一 向 訳(ワケ)知レ春゛夫 より豆メ

つくりたるものにていっこう  わけ しれず それよりまめ


﨑 ヘ出ル市能河 能前 より姫 路能天 主

さきへでるしのかわのまえよりひめじのてんしゅ


見ヘる下(シモ)の手と云 処  キタナキ家 尓泊(トマ)る

みえる  しも のてというところきたなきいえに  とま る


昨 夜もノミ尓せ免られ篤 と不眠  困  入ル

さくやものみにせめられとくとねむれずこまりいる


二 日朝 ヨリ雨天 二里行 ていかるガへ至 里

ふつかあさよりうてんにりゆきていかるがへいたり


片 嶋 と云 処  より赤穂(アカウ)尓入 雨 も小降(フリ)ナリ

かたしまというところより   あこう にいるあめもこ  ぶり なり


松 山 を過キ城  下ニ至 ル爰 迄 三 里の路

まつやまをすぎじょうかにいたるここまでさんりのみち


なり入 口 河 アリて橋 を渡 リ市中  人

なりいりぐちかわありてはしをわたりしちゅうじん


家皆 瓦  屋町 尓魯庵 と云 醫ハ江戸

かみなかわらやまちにろあんといういはえど

(大意)

(補足)

「豆メ﨑ヘ出ル市能河能前より姫路能天主見ヘる」、現在の地図ですけど、確かに姫路城が見えます。

「二日」、天明8年九月二日。1788年10月1日。

「赤穂」、伊能図で確かめるも、いかるガ、片嶋、松山という地名が見当たりません。 


 ここ赤穂で街歩きするようです。

 

2025年3月25日火曜日

江漢西遊日記三 その27

P27 東京国立博物館蔵

(読み)略

石能宝

殿

石山

石山

四間四方

四間四方

一枚石也

(大意)

(補足)

 石の宝殿の画は現在のいろいろな写真とまったく同じです。 

岩山から切り出したもののようで、変わりようもなかったのでしょう。

Googleマップでこの石の表面までアップで近づくことができました。

 場所は昨日の「尾上の鐘」(おのえのかね)から加古川を渡ったところ。 

 この日記を旅案内として一緒に旅行している気分なのですけど、当時から237年もたっていて、そのあいだに大きな社会変革が何度かあったのに、ほぼほぼ地名などもまた観光地もたどれるというところが、おもしろい。

 

2025年3月24日月曜日

江漢西遊日記三 その26

P26 東京国立博物館蔵

(読み)

入 田舎 路 ナリ尾 上の鐘 を見る其(コレ)世尓

いるいなかみちなりおのえのかねをみる  これ よに


有ル鐘 と異 ナリ龍  頭能処  尓穴 アリ是 ハ

あるかねとことなりりゅうずのところにあなありこれは


黄 色 能音 ニし多る者 と云 廻 里ニ天 人 を

おうしきのおとにしたるものというまわりにてんにんを


鋳付 多り夫 より高 砂子能松 住 吉 能

いつけたりそれよりたかさごのまつすみよしの


宮 曽根の松 ハ

みやそねのまつは


天 満 宮 の社

てんまんぐうのやしろ


の内 ニあり石 の

のうちにありいしの


宝 殿 ハ奇妙

ほうでんはきみょう


なる者 なり其

なるものなりその


近 邊 皆 山 石

きんぺんみなやまいし

(大意)

(補足)

「尾上の鐘」(おのえのかね)、神功皇后(じんぐうこうごう)(仲哀天皇の皇后)がもちかえったという朝鮮鐘。重要文化財。現存。

 江漢画と比べると似ているようなそうでないような。

「黄色能音」、黄鐘(おうしき)の音。『① 日本音楽の音名。十二律の八番目の音。中国十二律の林鐘(りんしよう)に相当し,音高は洋楽イ音にほぼ等しい』

 尾上の鐘の音がネットにあるのではないかと探しましたが、ありませんでした。他のお寺などの鐘の音はいろいろあるのですけど。