2025年11月6日木曜日

江漢西遊日記六 その34

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

行 尓寒 風 骨 をとふ春片 上 ヘ五里岡

ゆくにかんぷうほねをとうすかたかみへごりおか


山 へ七 里何 分 岡 山 ヘ行キ度 三 里能ま王

やまへしちりなにぶんおかやまへゆきたくさんりのまわ


里と云フさていなか路 風 烈 しく風 を防 き

りというさていなかみちかぜはげしくかぜをふせぎ


休 ムべき所  なし誠  尓烈 風 骨 肉 を透(トヲス)とハ

やすむべきところなしまことにれっぷうこつにくを  とおす とは


此 事 なり三 里を過 て奥 能郷 と云フ処  ニて

このことなりさんりをすぎておくのごうというところにて


一 軒 家アリ爰 ニて酒 を買 て呑 少 シいきをして

いっけんやありここにてさけをかいてのむすこしいきをして


夫 より走 りて川 あり舟 ニて渡 ル又 大 キなる

それよりはしりてかわありふねにてわたるまたおおきなる


樋 アリ漸  く尓して岡 山 石 関 町 赤穂(アカウ)屋㐂左

おけありようやくにしておかやまいしぜきまち   あこう やきざ


衛門 方 へ行く親 子出テ只 今 お帰 りカとて奥 能

えもんかたへゆくおやこでてただいまおかえりかとておくの


離(ハナレ)坐しきへともなゐコタツをして当(アテ)湯ニ入 ル

  はなれ ざしきへともないこたつをして  あて ゆにはいる

(大意)

(補足)

「片上」、画像の右上に赤穂線備前片上の駅があります。

「奥能郷」、邑久。上の画像で赤穂線邑久駅(おくえき)があります。

「岡山石関町」、 

「赤穂(アカウ)屋㐂左衛門」、往路の9月9、10日に泊まっている。江漢は後年、喜左衛門に頼まれて洋画を送っています。

 江漢さん「いなか路風烈しく風を防き休ムべき所なし誠尓烈風骨肉を透」という真冬の旅路、喜左衛門さん方でこたつ、あたたかい湯でほっとしたようです。

 

2025年11月5日水曜日

江漢西遊日記六 その33

P43 東京国立博物館蔵

(読み)

舩 著(ツキ)なり保 命 酒 能名 物 あり蕎麦(ソバ)ヤ酒

ふな  つき なりほうめいしゅのめいぶつあり   そば やさか


屋湯やあり酒 など呑 又 舩 尓能る舩 中  さて\/

やゆやありさけなどのみまたふねにのるせんちゅうさてさて


寒 し難 渋  春る陸(オカ)へ上(アカ)らんと思 へども岡 山 ヘ

さむしなんじゅうする  おか へ  あが らんとおもえどもおかやまへ


いなか路 十  八 里あるとぞ

いなかみちじゅうはちりあるとぞ


廿   四 日天 氣風 アリ誠  尓舩 走 ル事 疾(ハヤ)し二十

にじゅうよっかてんきかぜありまことにふねはしること  はや しにじゅう


四五里過 て備前 能牛窓(ウシマド)と云 処  ニ懸(カケル)家

しごりすぎてびぜんの   うしまど というところに  かける いえ


千 軒 ある処  なり此 追 手尓てハ明日ハ大 坂 ヘ

せんけんあるところなりこのおってにてはあすはおおさかへ


著 と雖   餘 りなんぎ故 尓爰 ニてあがる泊  屋

つくといえどもあまりなんぎゆえにここにてあがるとまりや


一軒(ケン)アリ泊 る

い  けん ありとまる


廿   五日 天 氣大 西 風 烈 シ朝 五  時 ニ出  立 して

にじゅうごにちてんきおおにしかぜつよしあさいつつどきにしゅったつして

(大意)

(補足)

「保命酒」、『広島県福山市名産の薬味酒である。生薬を含むことから「瀬戸内の養命酒」などと言われることもあるが、養命酒とは異なり医薬品ではない』とあり、ウィキペディアに詳しく記されています。

「廿四日」、天明9年1月24日。1789年2月18日。

「牛窓」、現在の地図で右下の白いところに牛窓神社があります。

古地図と比べても、大きな川二本があって、それほど変わってないようにはみえます。

「西遊旅譚五」に「備前牛窓」の画があります。 

 風にめぐまれ超特急で大阪に到着するとおもいきや、船中あまりの寒さに難渋して、備前牛窓で陸に上がり一軒家に泊まり、翌日「大西風烈シ」の中、岡山に向けて朝8時頃出発しました。

 牛窓村が「家千軒ある処なり」とあって、かなり大きな村です。ほんとかな?

牛窓から岡山へは西に向かいます。

 

2025年11月4日火曜日

江漢西遊日記六 その32

P42 東京国立博物館蔵

(読み)

と聞 个連ハ婦なまん中(チ ウ)なりと云 此 舩 へ

とききければふなまん  じゅう なりというこのふねへ


呼フ尓二百  文 なりと或  ハ畏(ヲソ)ル同 郷  ならん

よぶににひゃくもんなりとあるいは  おそ るどうきょうならん


能詩あり和漢 同 し事 也 扨 々 珍(メツラ)しき事

のしありわかんおなじことなりさてさて  めずら しきこと


かなとて一 眠  して夜明 多り

かなとてひとねむりしてよあけたり


廿   一 日 曇  て風 アリ舩 走 ル事 早(ハヤ)シ忽  チ上  関

にじゅういちにちくもりてかぜありふねはしること  はや したちまちかみのせき


能沖 を乗り三 十  五里走 ルヌワと云 嶋 ニ掛

のおきをのりさんじゅうごりはしるぬわというしまにかかる


廿   二日 天 西 風 夜半 舩 を出して藝 州  の内

にじゅうににちはれにしかぜやはんふねをだしてげいしゅうのうち


ミタライと云 処  を見て走 里備 後能鞆(トモ)と

みたらいというところをみてはしりびんごの  とも と


云フ処  ニ泊 ス舩 頭 爰 ヘ碇(イカリ)を頼 ム故 舩 よりあ可゛る

いうところにはくすせんどうここへ  いかり をたのむゆえふねよりあが る


予(ワレ)も共 尓小舟 尓能里上(アカル)爰 ハ福 山 能領  地ニテ

  われ もともにこぶねにのり  あがる ここはふくやまのりょうちにて

(大意)

(補足)

「婦なまん中(チウ)」、『ふなまんじゅう ―まんぢゆう【船饅頭】

近世,江戸隅田川に浮かべた小舟の中で色を売った私娼。船君』、と辞書にはありましたが、日本津々浦々どこにでもあったようです。

「或ハ畏(ヲソ)ル同郷ならん」、この詩のようです。 

「廿一日」、天明9年1月21日。1789年2月15日

「上関(かみのせき)」「怒和(ぬわ)」、たった1日で35里(約140km)。そして翌日、西風で一気に福山へ。船は今の新幹線でした。


 「ミタライ」、御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(広島県呉市)の港町。

 来るときは今津(福山と尾道の中間辺り)に9月15日に泊り、そこから下関に10月2日についています。17日かかったのがわずか2日!

 

2025年11月3日月曜日

江漢西遊日記六 その31

P41 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日ハラ\/雪 霰  降ル爰 尓筑 前 若 松 舩 ハ

はつかはらはらゆきあられふるここにちくぜんわかまつふねは


百  石 積ミ能小舩 米 を積ミ外 尓能り合 ナ

ひゃっこくつみのこぶねこめをつみほかにのりあいな


シ舩 賃 四十  目古 キ蒲とん壱 貫 二百  ニて

しふなちんしじゅうめふるきふとんいっかんにひゃくにて


借り大 坂 迄 かり切 乗里出し个連ど瀬

かりおおさかまでかりきりのりだしけれどせ


戸口 潮 さし込ミ帆を十  分 尓張レとも舩ネ

とぐちしおさしこみほをじゅうぶんにはれどもふね


あと戻 里春る故 尓陸(ヲカ)へ上 り風呂尓者いり

あともどりするゆえに  おか へあがりふろにはいり


舩 頭 と同  く何 ヤラ埒 もなき人 能家 ニ行

せんどうとおなじくなにやららちもなきひとのいえにゆく


雪 アラレ降 寒 し七 ツ時 比 又 舩 ニ能り彼(カ)能

ゆきあられふるさむしななつどきころまたふねにのり  か の


借(カリ)り多るキタナキ蒲とんをかぶ里寝ルと

  かり りたるきたなきふとんをかぶりねると


女  能声 ニて何 ヤラ物 云フ舩 頭 尓あれハ何 シヤ

おんなのこえにてなにやらものいうせんどうにあれはなんじゃ

(大意)

(補足)

「廿日」、天明9年1月20日。1789年2月14日

「四十目」、『㋐ 秤(はかり)で計った量。重さ。「―減り」㋑ 重さの単位。匁(もんめ)。「百―」』。『もんめ【匁】② 江戸時代,銀目の名。小判一両の60分の1。③ (「文目」と書く)銭を数える単位。銭一枚を一文目とした。文。 』。

「貫」、『② 銭(ぜに)を数える単位。一〇〇〇文(もん)を一貫とする。ただし,江戸時代には実際は九六〇文を,明治時代には一〇銭のことをいった。貫文』

 大阪までの船を貸し切って40目、きたない蒲とんが壱貫二百とありますが、金額の比較が、よくわかりません。

「借リ」、どうみても「備」にみえます。

 

2025年11月2日日曜日

江漢西遊日記六 その30

P40 東京国立博物館蔵

(読み)

目つらしき本 なり法 師其 画ニ指(ユヒ)サシ平 家

めずらしきほんなりほうしそのえに  ゆび さしへいけ


投落(ホツラク)次第 を物 語(カタ)り春昔 シを思 ヒ出し目

   ぼつらく しだいをもの  がた りすむかしをおもいだしめ


尓涙  を浮 へ多り早 友 明  神 ハ向 フ地なり爰

になみだをうかべたりはやともみょうじんはむこうちなりここ


より望 ム尓十 町  許  尓見ユル瀬戸口 なり平 家

よりのぞむにじっちょうばかりにみゆるせとぐちなりへいけ


蟹 ハ世尓数 アル蟹 と違 ヒ背能甲 怒 レル顔

がにはよにかずあるかにとちがいせのこういかれるかお


色 アリ硯  石 ハ赤 キと青(アヲ)アリ此 山 能浅 村

いろありすずりいしはあかきと  あお ありこのやまのあさむら


山 ヨリ出ルとぞ又 大 積 山 ト云 よりモ出ル稲

やまよりでるとぞまたおおつぼやまというよりもでるいな


荷町  と云 処  遊 女 アリこー(ウ)シ造 り見世付 ハ

りちょうというところゆうじょありこ  う しつくりみせつけは


遊 女列(レツ)をなさ川皆 横 立 ニ居て至極 ザ川

ゆうじょ れつ をなさずみなよこだちにいてしごくざっ


トし多る所  なり

としたるところなり

(大意)

(補足)

「投落(ホツラク)」、没落。

「早友明神」、『主に北九州市門司区の和布刈(めかり)神社を指す別名です。和布刈神社は、「早鞆の瀬戸」という場所にある』。早鞆瀬戸(はやとものせと 【早鞆瀬戸】関門海峡東端の最狭部の水道。海底を国道が走り,関門橋がかかる。壇ノ浦合戦の古戦場) 

 すでに赤間関(下関)にいるので、「早友明神ハ向フ地なり」です。

「大積山」、大積山(おおつぼやま)は、現在の北九州市門司区付近にかつて存在した、赤間硯(あかますずり)の硯石の産地として知られる山。大積山産の石材は頁岩(赤色)で、赤間硯によく似た性質を持っていたとされています。

 稲荷町で遊女屋をみつけて、歴史探訪から現実にもどったようです。

 

2025年11月1日土曜日

江漢西遊日記六 その29

P39 東京国立博物館蔵

(読み)

平 家一 代 の盛衰(セイスイ)合 戦 の始終  を圖(ヅ)セリ

へいけいちだいの   せいすい かっせんのしじゅうを  ず せり


是 ハ土佐光 信 の筆 又 後 ロ能山 上 ニハ

これはとさみつのぶのふでまたうしろのやまうえには


壇(タン)の浦 ニて入 水 し多る人 々 能墳 墓アリ

  だん のうらにてじゅすいしたるひとびとのふんぼあり


宝 物 ハ土 御門 の院 幷  ニ後奈良能院

ほうもつはつちみかどのいんならびにごならのいん


正親 町 の院 右 の論 旨五通 鎌 倉 能

おおぎまちのいんみぎのりんじごつうかまくらの


御教  書 二十  三 通 尊 氏 能花押 御教

みぎょうしょにじゅうさんつうたかうじのかおうみぎょう


書 二通 太 閤 秀 吉 能短 冊 吉 田卜 部

しょにつうたいこうひでよしのたんざくよしだうらべ


家證  文 大 家代 々 毛 利吉 川 小早 川

けしょうもんたいかだいだいもうりきっかわこばやかわ


数 人 の書 十  余通 古筆 能平 家物 語

すうにんのしょじゅうよつうこひつのへいけものがたり


十  二巻 是 ハ筆 者 数 人 なり皆 長 門本 ニて

じゅうにかんこれはひっしゃすうにんなりみなながとぼんにて

(大意)

(補足)

「土佐光信」、『とさみつのぶ 【土佐光信】

室町中期の大和絵画家。宮廷の絵所預りとして活躍,幕府の御用絵師となり土佐派の画壇的地位を確立。多くの寺社縁起類や肖像画を描く。作「星光寺縁起」「足利義政像」など。生没年未詳』

「論旨」、『りんじ【綸旨】〔「りんし」とも。綸言(りんげん【綸言】天子・天皇のことば。みことのり。〔「礼記緇衣」による。「綸」は組糸。天子の言は発せられた時は糸のように細いが,これが下に達した時は組糸のように太くなる意〕)の旨の意〕

① 天皇の意を体して蔵人(くろうど)や側近が発行する奉書形式の文書。平安中期から南北朝時代に多く発行された』

「吉田卜部」、『主に「吉田兼倶」と「吉田兼好」を指し、吉田姓と卜部氏の姓が関係しています。吉田兼倶は「吉田神道」を創始した室町時代の神道家であり、卜部氏を家名とした吉田家の始祖とされる人物です。一方、吉田兼好は『徒然草』の著者で、本名は「卜部兼好」です』とAIの概要にありました。

「長門本」、『赤間神宮・宝物殿。重要文化財として室町時代に制作された「長門本 平家物語」20冊が左右に展示されている。これは阿弥陀寺本ともいい、昭和20(1945)年7月の空襲で周囲を焼失。戦後の文化財修復第1号として昭和25(1950)年に修復完了したものである』

 江漢さんが見学したものは、現在は赤間神宮宝物殿にあるようです。

日本はほぼ全土が空襲されています。いったいどれだけの文化財が焼かれてしまったことでしょうか。かくいう日本もアジアの古物を焼き払い壊しまくったのでありますが。

 

2025年10月31日金曜日

江漢西遊日記六 その28

P38 東京国立博物館蔵

(読み)

流  しま向 フ尓見へ与次平 塚 能前 を乗り。

りゅうしまむこうにみえよじへいづかのまえをのり


行キ可けと違 ヒ波 なく能キ舟ナ遊 ヒなりき

いきがけとちがいなみなくよきふなあそびなりき


七 ツ時 赤 間カ関 ニ著(ツク)朝  鮮 人 萩(ハキ)へ漂  流  シ

ななつどきあかまがせきに  つく ちょうせんじん  はぎ へひょうりゅうし


此(コゝ)所へ来ルと云 亦 おらん多人 廿 日ニ爰 ニ来

  ここ  へくるというまたおらんだじんはつかにここにく


るよし舩 尓おらん多能幡(ハタ)を建(タテ)多り

るよしふねにおらんだの  はた を  たて たり


十  九日 天 氣一 日 滞 畄  春阿弥陀寺ニ行キ

じゅうくにちてんきいちにちたいりゅうすあみだじにゆき


開 帳  春安 徳 帝 入 水 能海 ニて陵(ミサゝキ)もあり

かいちょうすあんとくていじゅすいのうみにて  きささぎ もあり


天 皇 能木 像 左右 能障  子ハ極 彩 色 ニ

てんのうのもくぞうさゆうのしょうじはごくさいしきに


して古法 眼 の画と云フ二位の尼 内 侍及 ヒ

してこほうげんのえというにいのあまないしおよび


平 家の一 族 能像 を画く次キの障  子ニハ

へいけのいちぞくのぞうをかくつぎのしょうじには

(大意)

(補足)

「眼流しま」、巖流島(がんりゅうじま)。正式名称は船島。無人島。引島のすぐ東側。

「赤間カ関」、赤間関。西国第一の要港。

「阿弥陀寺」、『 山口県下関市阿弥陀町にあった寺。中世には浄土宗,近世では真言宗に転じた。安徳天皇鎮魂のため1191年に建立。1875年(明治8)寺を廃して赤間宮(あかまじんぐう 【赤間神宮】山口県下関市阿弥陀寺(あみだじ)町にある神社。阿弥陀寺を神社に改めたもので安徳天皇をまつる。旧称,赤間宮。)となる』。

「十九日」、天明9年1月19日。1789年2月13日

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう。』

「二位の尼」、『にいのあま にゐ― 【二位の尼】

平時子(たいらのときこ)のこと。剃髪後,従二位に叙せられたのでいう。』

「内侍」、『ないし【内侍】

① 律令制で,内侍司の職員である尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじよう)の総称。本来は天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する女官であるが,平安中期には,妃・夫人・嬪(ひん)ら天皇の「妾」に代わる存在となり,また,単に内侍といえば,掌侍をさし,その筆頭者を勾当(こうとうの)内侍と呼ぶようになる。』