P21 東京国立博物館蔵
(読み)
羽織 き多る者 ハ巻キ羽織 尓し踊 ル中 尓屋
はおりきたるものはまきはおりにしおどるなかにや
臺 を造 り男 数(ス)人 居て三 味せん尓合 セて
たいをつくりおとこ す にんいてしゃみせんにあわせて
おんどをう多ふ其 文 句年 々 かわるよし
おんどをうたうそのもんくねんねんかわるよし
さて宮 を越ヘ此 地ハ言 語風 俗 皆 京 ニ
さてみやをこえこのちはげんごふうぞくみなきょうに
属(ソクス)家 能建 方 大家(ヲゝヤ)根(ネ)のノキを長 ク出して
ぞくす いえのたてかた おおや ね ののきをながくだして
隣 の堺 尓ヘキリとてへゐ能様 なる物 を入 ルなり
となりのさかいにへきりとてへいのようなるものをいれるなり
大 火後(ゴ)京 都ニハ此 ヘキリなし
たいか ご きょうとにはこのへきりなし
十 六 日 曇 ル後 天 氣此 四 日市 日永 よりも四
じゅうろくにちくもるのちてんきこのよっかいちひえいよりもし
里程 あり菰(コモ)野と云 処 土方(ヒシカタ)侯 一 万 石 能領
りほどあり こも のというところ ひじかた こういちまんごくのりょう
地なり爰 尓鈴 木久 右衛門とて画の門 弟 あり
ちなりここにすずききゅうえもんとてえのもんていあり
(大意)
略
(補足)
「宮」、熱田宿。
「十六日」、天明8年七月十六日。1788年8月17日。
「菰野」、日永村より左斜め上に土方大和守在所とあります。
「土方侯」、当時の藩主は九世土方義苗。天明二年五歳で襲封、天保元(1830)年隠居するまでの48年間、藩主として活躍、名君として数々の逸事を残した、とありました。
「堺」、境。