2025年7月26日土曜日

江漢西遊日記四 その69

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

氣能毒 ニぞんじ白 砂糖 三 俵  宛 奇(キ)心 い多

きのどくにぞんじしろざとうさんぴょうずつ  き しんいた


春べし然 し住  僧 能身持 不宜     ハ無用 尓

すべししかしじゅうそうのみもちよろしからざればむように


い多春べしと通 詞ヨリ住  寺尓申  聞ケル僧

いたすべしとつうじよりじゅうじにもうしきけるそう


頭  を低(タレ)耻(ハチ)入 个り惣 て此 長 崎 能寺 ゝ ハ

かしらを  たれ   はじ いりけりすべてこのながさきのてらでらは


とかく妾  を招(カゝ)へ肉 喰  など恒 と春故 ニヤ

とかくめかけを  かか えにくしょくなどつねとすゆえにや


かく云 しなり唐 人 能墓(ハカ)アル故 一 年 尓何ン

かくいいしなりとうじんの  はか あるゆえいちねんになん


貫 目と定 メ砂糖 を寄心 春る事 なり

かんめとさだめさとうをきしんすることなり


唐 人 塚 能前 ニて衣類 金 銀 を描(カキ)多るを

とうじんづかのまえにているいきんぎんを  かき たるを


板 行 ニ押(ヲシ)多る紙 を燃(モス)盃   をチユポイと云フ

はんこうに  おし たるかみを  もす さかずきをちゅぽいという


目か年など見ル事 をハカン\/と云フ

めがねなどみつことをばかんかんという

(大意)

(補足)

「奇(キ)心」、寄進。

「住寺」、住持。

「招(カゝ)へ」、抱え。

「寄心」、寄進。

 江漢さんは坊様が大嫌い。当時長崎には生臭坊主がゴロゴロしていたのでありましょう。

 これで第四冊がおわります。次回から「江漢西遊日記五」となります。

 

2025年7月25日金曜日

江漢西遊日記四 その68

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

管弦(クワンゲン)能氣取 なり寺 能門 ニ至 ルと止メる也

   か んげん のきどりなりてらのもんにいたるととめるなり


誠  尓飴 賣 能如 し唐 人 下官 ノ者 多 し其

まことにあめうりのごとしとうじんげかんのものおおしその


内 能キ人 ハ十  人 之(コレ)を船 頭 と呼フ宋 敬 庭

うちよきひとはじゅうにん  これ をせんどうとよぶそうけいてい


と云 人 尓知己(シルヒト)ニなる是 ハ五十  位  尓見へ髭(ヒケ)少々

というひとに   ひるひと になるこれはごじゅうくらいにみえ  ひげ ショウショウ


あり其 餘 ハひげなし亦 西 湖と云 人 ハ四十  位

ありそのほかはひげなしまたせいこというひとはしじゅうくらい


ニして是 は肥(コヘ)多る人 なり顔 色 利口 そふ尓見

にしてこれは  こえ たるひとなりかおいろりこうそうにみ


由予カ製 春る銅 版 画能覗(ノソキ)目か年を見セ

ゆよがせいするどうはんがの  のぞき めがねをみせ


けれハ皆 々 感 心 春るシツポコ臺 四人 結(ツメ)ニて

ければみなみなかんしんするしっぽこだいよにん  つめ にて


吾 も共 尓喰ヒ个り住  僧 唐 人 尓無心 を申  故

われもともにくいけりじゅうそうとうじんにむしんをもうすゆえ


数 十  人 呼(ヨヒ)多り唐 人 の云フニハ寺 も大 破ニ及 べ里

すうじゅうにん  よび たりとうじんのいうにはてらもたいはにおよべり

(大意)

(補足)

「宋敬庭」、宋敬亭。南京船主。平賀源内が明和元(1764)年に秩父で石綿を発見し、すぐに火浣布(かかんふ)をつくった。宋敬亭はこれを非常に珍しがり、注文したが、まだ小片しかつくれず源内を困らせた、とありました。

「西湖」、費 晴湖(ひ せいこ、生没年不詳)は清の商人・画家。江戸時代中期、日本に渡来し南宗画様式の画技を伝える。わが国の画壇に寄与すること甚だ大きかった、とありました。

「結(ツメ」、詰め。

 

2025年7月24日木曜日

江漢西遊日記四 その67

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

済マぬうちハ舩 を神 崎 能沖 尓掛 十  一 月 ニ至

すまぬうちはふねをこうさきのおきにかけじゅういちがつにいた


里おらん多かひ多ん乗 切 して東風を待

りおらんだかぴたんのりきりしてこちをまち


て出  舩 春

てしゅっこうす


廿   八 日 朝 曇  五  時 より唐 人 通 詞清 川

にじゅうはちにちあさくもりいつつどきよりとうじんつうじきよかわ


榮 左衛門 下通 詞吉 嶋 佐十  良 と共  大 波

えいざえもんげつうじきちじまさじゅうろうとともにおおなみ


戸より屋根舟 ニ能里稲 作 悟真 寺へ唐 人

どよりやねふねにのりいなさくごしんじへとうじん


六 十  人 程 佛 参 春舟 向  地能岸 尓着(ツク)と

ろくじゅうにんほどぶっさんすふねむかうちのきしに  つく と


寺 より笛 太 鞁を打ツ者 をやとゐて唐 人

てらよりふえたいこをうつものをやといてとうじん


能先 ヘ立チ笛 多ゐこをなら春此 者 一 向 尓

のさきへたちふえたいこをならすこのものいっこうに


下人 ニて羽織 もき春゛埒 もなき体(テイ)ニて林(ハヤス)

げにんにてはおりもきず らちもなき  てい にて  はやす

(大意)

(補足)

「済」のくずし字、読めませんでした。

「廿八日」、天明8年10月28日。西暦1788年11月25日。

「唐人通詞」、職務は世襲で、ほとんどが明末清初の日本への政治的亡命者か、海寇(かいこう。海上から侵入する賊。海賊)のながれであったといわれる、とありました。ウィキペディアに詳説あり。

「唐人六十人程佛参」、唐人は、当時長崎の人からアチャサンとよばれ、仏参は「阿茶さんの寺参り」といわれていた。それは、唐人屋敷に閉じ込められた彼らの数少ないレクリエーションでもあり、しばしば黙許された。辮髪異装の行列は、まことに豪華でかつ悠長なもだったらしい。彼らはお詣りのあと、市中の茶屋で遊興した。とありました。

 江漢さんはこの行列を見たものとおもわれます。

「林(ハヤス)」、囃す。


2025年7月23日水曜日

江漢西遊日記四 その66

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

中  足 ハ履(クツ)なし春足 なり之 ハ柱  ヘ能ほり

ちゅうあしは  くつ なしすあしなりこれははしらへのぼり


帆綱 を渡 ル故 なる歟此 者 陸 ヘあから春゛只

ほづなをわたるゆえなるかこのものおかへあがらず ただ


舩 中  能ミ尓暮 春事 なり此 マタロス帆綱 より

せんちゅうのみにくらすことなりこのまたろすほづなより


帆津な尓渡 里軽 王さをし水 中  へも入  事 妙

ほづなにわたりかるわざをしすいちゅうへもはいることたえ


なり黒  坊ハ其 王ざ一 向 尓出来春゛石 火矢ハ

なりくろんぼはそのわざいっこうにできず いしひやは


毎 朝 一 ツ放 ツ事 也 亦 祝  事ニハ二 ツ三 ツも放 ツ

まいあさひとつはなつことなりまたしゅくじにはふたつみっつもはなつ


是 ハ日本 火を打ツて浄(キヨ)メル如 し舩 を動  春

これはにほんひをうって  きよ めるごとしふねをうごかす


為(タメ)尓打ツなど云フハ長 崎 者 能うそ話 しなり

  ため にうつなどいうはながさきもののうそばなしなり


舩 ハ六 月 着  岸 して八 月 出  舩 春ると雖  モ新(シン)

ふねはろくがつちゃくがんしてはちがつしゅっこうするといえども  しん


かひ多ん古 かび多ん能勘 定  其 外 取 合 とくと

かぴたんふるかぴたんのかんじょうそのほかとりあいとくと

(大意)

(補足)

「勘定」、『⑦ 考え定めること。かんてい。「ただ身ひとりの上を―すべし」』

「舩ハ六月着岸して八月出舩春る」、季節風の関係で大型帆船はほとんどがこの時期しか航海できませんでした。

「長崎者能うそ話しなり」、自分はオランダ船に乗り、カピタンとも友人でいろいろ聞き及んでいるので、地元の人も知らないことを知っているのだと鼻高々自慢しています。彼の辞書には謙虚という言葉はなさそうです。船に乗れるよう手配してくれたのは長崎者ですよ。

 

2025年7月22日火曜日

江漢西遊日記四 その65

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

あり綱 ハ表  と艫(トモ)の方 ヘハ餘 里張ら春゛左右 へ

ありつなはおもてと  とも のほうへはあまりはらず さゆうへ


数 十  春じ尓張ル事 剛(キヒシ)く其 綱 ニ横 尓亦 張りて

すうじゅうすじにはること  きびし くそのつなによこにまたはりて


者しごとして登 ル帆を掛 ルケタハ揚ケおろしをせツ

はしごとしてのぼるほをかけるけたはあげおろしをせず


帆ハ此 ケタニ巻く久 しく舩 かゝ里春る時 ハ帆を

ほはこのけたにまくひさしくふながかりするときはほを


者川し帆亦 長カなり尓非 ス四方(カク)なり中 ノ柱

はずしほまたながなりにあらずし  かく なりなかのはしら


尓三 ツ先 の柱  尓二 ツ矢帆一 ツ亦 二 ツとも能方 ニハ

にみっつさきのはしらにふたつやほひとつまたふたつとものほうには


大 キなる帆一 ツ是 ハ向 フ風 ニ乗ル開 き帆なり

おおきなるほひとつこれはむかうかぜにのるひらきほなり


年 々 舩 違 ヒぬ表  尓獅子(シシ)を黄尓ぬりて

ねんねんふねちがいぬおもてに   しし をきにぬりて


あり舩 中  を働  く者 をマタロスと云 是 ハおら

ありせんちゅうをはたらくものをまたろすというこれはおら


ん多地方 能者 なり衣類(イルイ)ハ蘭 人 の如 く寒

んだちほうのものなり   いるい はらんじんのごとくかん

(大意)

(補足)

「マタロス」、オランダ語 matroos 、船員。「西遊旅譚三」に図あり。 

 左のマタロスの顔を拡大してみると、いかにも紅毛碧眼っぽく描いていて、瞳が特徴的です。右の船員が手にしているものは拡声器か?

 オランダ船も唐船も当時の錦絵にたくさん描かれています。

 

2025年7月21日月曜日

江漢西遊日記四 その64

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

能り一 里沖 神﨑(カウサキ)尓蘭 舶 ふなかゝ里して

のりいちりおき   こうさき にらんせんふながかりして


其 舩 能そバへ乗り付 其 高 キ事 二丈  程 モ

そのふねのそばへのりつけそのたかきことにじょうほども


あらんと見へ縄 者゛しこを登 ル事 至  て武ツカし

あらんとみえなわば しこをのぼることいたってむつかし


登 り津くして下 を見れハ屋根ニ能ぼりて見

のぼりつくしてしたをみればやねにのぼりてみ


見おろ春如 しさて大 舶 なか\/書 ニも辞(コトハ)

みおろすごとしさておおふねなかなかしょにも  ことば


ニも述へか多し舩 チヤンニて黒 ぬ里闌 干(ランカン)能ミ

にものべがたしふねちゃんにてくろぬり    らんかん のみ


黄色 なり石 火矢筒 一 方 ニ二十  五頂 いて

きいろなりいしひやつついっぽうににじゅうごいだいて


六 十  程 あり艫(トモ)能方 屋形 ありヒイドロ障子(ショウシ)

ろくじゅうほどあり  とも のほうやかたありびいどろ   しょうじ


ニして海 を望 武帆柱 ラ三 カ所 尓立ツ帆綱(ツナ)ハ

にしてうみをのぞむほばしらさんかしょにたつほ  づな は


誠  尓くも能巣能如 し綱(ツナ)毎(コト)セビとて万 力 車

まことにくものすのごとし  つな   ごと せびとてまんりきしゃ

(大意)

(補足)

「ふなかゝ里して」「武ツカし」「津くして」、「し」が他の文字とかさなっています。

「二丈程」、約6m。

「チヤン」、チャン〔「青」の中国音からか〕→瀝青(れきせい)『れきせい歴青・瀝青】

天然に産する固体,半固体などの炭化水素類の一般的総称。普通,天然アスファルト・コールタール・石油アスファルト・ピッチなどをいう。道路舗装用材料・防水剤・防腐剤などに用いる。ビチューメン。チャン』のことだとおもわれます。『チャンぬり【チャン塗り】

瀝青(れきせい)を塗ること。「―の油かはらけ,しぼかみのたばこ入」〈浮世草子・日本永代蔵6〉』

「望武」、ひさびさの「望」のくずし字、忘れていてすぐには読めませんでした。

「セビ」、西遊旅譚三の図の説明の中に「万力車。長崎にニテハセビト云。ヲランダニテハカツトロルト云」とあります。

 西遊旅譚三に蘭舶の詳細な図があります。

 船の中央で縄バシコを登っている人が描かれています。

「石火矢筒一方ニ二十五頂いて六十程あり」、画にもあるとおり、荷を運ぶ商船とは名ばかりで、実際は軍船であったのが当時の船でありました(宣教師もほとんどが軍人でした)。自分の船を守るだけではなく、海上で他国の船にであって、自分の船のほうが強そうだとみれば海賊行為に及び、荷を奪っていました。

 また本国で英仏蘭のいずれかが戦争状態であると、アジアの航路でそれらの国が出会うと即、大砲の打ち合いとなって戦闘となるのでした。それらに関するたくさんの記録や本も出版されています。

 江漢さん「石火矢筒」の数をちゃんとあわせたように描いています。ふだんの風景画とはまったくことなる筆運び、タッチです。

 

2025年7月20日日曜日

江漢西遊日記四 その63

P73 東京国立博物館蔵

(読み)

牛 なり蘭 人 鉄 槌(テツツイ)を以 テひ多以を打 殺(コロス)又

うしなりらんじんてっつい     をもってひたいをうち  ころす また


四足 を志バ里横 ニして能どを切り殺 春夫 ヨリ

しそくをしばりよこにしてのどをきりころすそれより


後 足 を志バ里車  ニて引 あけるニ口 よりして

あとあしをしばりくるまにてひきあげるにくちよりして


水 出ツ足 能処  ヨリ段 \/と皮 をひらき殊\/

みずでずあしのところよりだんだんとかわをひらきことごと


く肉 を塩 ニ春彼 国 ニてハ牛  肉 を上  喰  と春る

くにくをしおにすかのくににてはぎゅうにくをじょうしょくとする


中  以下ハパンとて小麦 ニて製(セイ)春物 なり之 を食

ちゅういかはぱんとてこむぎにて  せい すものなりこれをくう 


寒  国 ニして米 を不   生故 なり

さむしくににしてこめをしょうぜずゆえなり


廿   七 日 とかく雨 折 \/時雨(シクレ)なり朝 五  時 比 吉

にじゅうしちにちとかくあめおりおり   しぐれ なりあさいつつどきころよし


雄息(ソク)定  之助 おらん多通 詞ニて其文(フン)箇(コ)

お  そく じょうのすけおらんだつうじにてその ぶん   こ


持 となり紅 毛 舩 へ荷積ミ水 門 より小舟 尓

もちとなりこうもうせんへにづみすいもんよりこぶねに

(大意)

(補足)

「ひ多以」「志バ里」、変体仮名が目立ちます。

「段\/」、くずし字辞典にはここのような形のものはありませんでした。

「殊\/く」、悉く。ことごとく。

「廿七日」、天明8年10月27日。西暦1788年11月24日。

「文箇」、文庫。

「紅毛舩」、『こうもうせん【紅毛船】江戸時代,オランダ船の俗称。幕末には広く諸外国の船をいう』