2025年1月17日金曜日

江漢西遊日記二 その17

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

羽織 き多る者 ハ巻キ羽織 尓し踊 ル中 尓屋

はおりきたるものはまきはおりにしおどるなかにや


臺 を造 り男  数(ス)人 居て三 味せん尓合 セて

たいをつくりおとこ  す にんいてしゃみせんにあわせて


おんどをう多ふ其 文 句年 々 かわるよし

おんどをうたうそのもんくねんねんかわるよし


さて宮 を越ヘ此 地ハ言 語風 俗 皆 京  ニ

さてみやをこえこのちはげんごふうぞくみなきょうに


属(ソクス)家 能建 方 大家(ヲゝヤ)根(ネ)のノキを長 ク出して

  ぞくす いえのたてかた   おおや   ね ののきをながくだして


隣  の堺  尓ヘキリとてへゐ能様 なる物 を入 ルなり

となりのさかいにへきりとてへいのようなるものをいれるなり


大 火後(ゴ)京  都ニハ此 ヘキリなし

たいか  ご きょうとにはこのへきりなし


十  六 日 曇 ル後 天 氣此 四 日市 日永 よりも四

じゅうろくにちくもるのちてんきこのよっかいちひえいよりもし


里程 あり菰(コモ)野と云 処  土方(ヒシカタ)侯 一 万 石 能領

りほどあり  こも のというところ   ひじかた こういちまんごくのりょう


地なり爰 尓鈴 木久  右衛門とて画の門 弟 あり

ちなりここにすずききゅうえもんとてえのもんていあり

(大意)

(補足)

「宮」、熱田宿。

「十六日」、天明8年七月十六日。1788年8月17日。

「菰野」、日永村より左斜め上に土方大和守在所とあります。 

「土方侯」、当時の藩主は九世土方義苗。天明二年五歳で襲封、天保元(1830)年隠居するまでの48年間、藩主として活躍、名君として数々の逸事を残した、とありました。

「堺」、境。


 

 

2025年1月16日木曜日

江漢西遊日記二 その16

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

十  四 日天 氣トナル今 日ハ中  元 能御祝  儀とて

じゅうよっかてんきとなるきょうはちゅうげんのごしゅうぎとて


一 村 皆  々禮 尓至 ル昼  喰 ニハ餅 ニ小 豆を付

いっそんみなみなれいにいたるちゅうじきにはもちにあずきをつけ


て喰  春其 夜も前 夕 能通 りツンツク踊 リあり

てしょくすそのよもぜんゆうのとおりつんつくおどりあり


おと里と云 ニハ非 ス只 手と手を取 伸(ノヒ)多り屈(カゞン)多り

おどりというにはあらずただてとてをとり  のび たり  かがん だり


春る能ミ誠  尓田 舎能おとりなり婦人 も綿帽(ワタボウ)

するのみまことにいなかのおどりなりふじんも   わたぼう


子(シ)をか武里禮 尓歩 くなり

  し をかむりれいにあるくなり


十  五日 天 氣朝 飯 料  理もなしズイキ酢あゐ

じゅうごにちてんきあさめしりょうりもなしずいきすあい


小 豆を坪 ニ入 付 多 能ミ日暮 より亀(キ)六 同 道

あずきをつぼにいれつけたるのみひぐれより  き ろくどうどう


して四 日市 尓行キ盆 踊  を見ル桑 名此 邊 ハ

してよっかいちにゆきぼんおどりをみるくわなこのへんは


川 﨑 おんどとて女 郎 お山 あミ笠 をか武り

かわさきおんどとてじょろうおやまあみがさをかぶり

(大意)

 略

(補足)

「十四日」、天明8年七月十四日。1788年8月15日。

「中元」、『ちゅうげん【中元】〔道教で,人間贖罪(しよくざい)の日として神をまつった日。上元・下元とともに三元の一〕

① 旧暦7月15日のこと。元来,道教の習俗であったが,のちに仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され,死者の霊を供養する』。

「祝義」、「祝儀」。

「ズイキ酢あゐ」、ズイキ酢和え。ずいきの和物。ズイキは【〈芋茎〉】① サトイモの茎。干したものはいもがらといい,食用とする。

「四日市尓行キ盆踊」、江漢の西遊旅譚一に画があります。

こちらは四日市諏訪明神祭。

 お中元やお歳暮の風習は、わたしが小さかった頃はそれぞれ届ける人がきちんと挨拶を兼ねて直接、家に届けていたことが多かったようにおもいます。現在は宅配業者がほとんどになりました。 

2025年1月15日水曜日

江漢西遊日記二 その15

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

晩 方 裏 能田畑 へ出テ歩ス日暮 庭 尓床(セ ウ)机(キ)を

ばんがたうらのたはたへでてほすひぐれにわに  しょう   ぎ を


立テ涼 ム爰 ニ長 右衛門 ハ源 兵衛能おぢなり其

たてすずむここにちょうえもんはげんべえのおじなりその


妻 京  能産 レ京  能話  を聞ク

つまきょうのうまれきょうのはなしをきく


十  三 日 天 氣雨 故 暑 ゆる武晩 方 給  ヲ着(キ)多り

じゅうさんにちてんきあめゆえしょゆるむばんがたあわせを  き たり


此 邊 盆 踊(ヲトリ)とて此 村 ヨリ出スおと里あり四 日市 ヨリ半

このへんぼん  おどり とてこのむらよりだすおどりありよっかいちよりはん


路隔  リ爰 能おとりハツンツク踊  とて十  二三 十  六 七

ろへだたりここのおどりはつんつくおどりとてじゅうにさんじゅうろくしち


能男 女 手と手を取 輪尓なりてツンツク\/  とて

のだんじょてとてをとりわになりてつんつくつんつくとて


おとる也 中 尓十  五六 能男  の子白 きさらし能手

おどるなりなかにじゅうごろくのおとこのこしろきさらしのて


拭(ヌグ)ゐを保うか武里してう多をう多ひて太

  ぬぐ いをほおかむりしてうたをうたいてたい


鞁(コ)を多ゝく

  こ をたたく

(大意)

(補足)

「十三日」、天明8年七月十三日。1788年8月14日。

「給」は「袷」、「鞁」は「鼓」。

「盆踊」、「盆」の上半分「分」のくずし字がちゃんと「彡」+「丶」になっています。

「ツンツク踊り」、現在も「日永つんつくおどり」として行われています。

                                                                        勢州日永村ツンツク踊之図、西遊旅譚一。NDL蔵。

 江漢が描写している通りの踊りです。

 

2025年1月14日火曜日

江漢西遊日記二 その14

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

十 日天 氣四 日市 西 町  沢 邊三 益 ハ亀(カメ)の石 ヲ

とおかてんきよっかいちにしちょうさわべさんえきは  かめ のいしを


所 持春見 物 ニ行 昼  喰 出ス明(ミン)能小  僊の

しょじすけんぶつにゆくちゅうじきだす  みん のしょうせんの


画を見ル波 を渡 ル仙 人 也 中  条  木 唇 と云 人 ハ

えをみるなみをわたるせんにんなりちゅうじょうもくしんというひとは


津の町 能茶 人 なり此 者 能云 江戸ニ参 リシ

つのまちのちゃじんなりこのもののいうえどにまいりし


時 江戸橋 と云 処  を江戸能人 をやとゐて

ときえどばしというところをえどのひとをやといて


ともニして通 りし尓茶 人 往 来 能人 を見て云フ

ともにしてとおりしにちゃじんおうらいのひとをみていう


尓ハ今日(キヨウ)ハ何 事 可ありしやとも能者 ヘ尋  多り

には   きょう はなにごとかありしやとものものへたずねたり


江戸ハ人 能多 ヒ処  なりと話 シ个る

えどはひとのおおいところなりとはなしける


十  一 日 天 氣高 尾氏頼 ミの画出来ル

じゅういちにちてんきたかおしたのみのえできる


十  二日 天 氣鴨 能画ツイ立 獅子の画出来ル

じゅうににちてんきかものえついたてししのえできる

(大意)

(補足)

「十日」、天明8年七月十日。1788年8月11日。

数日前まで体調不良でも、頼まれた画を数点仕上げています。もっとも「倡家ニ能ぼ」って「酒を呑ミて日暮かえりぬ」くらいの不快さでしたから、それほどでもなかったのかも。

 

2025年1月13日月曜日

江漢西遊日記二 その13

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

行 の時 駕籠へ直奏(ソウ)し多ると状  の中 ニあり

こうのときかごへじき そう したるとじょうのなかにあり


七 日天 氣晩 方 雨 バラツク庭 ニて蝉 能ヌ

なのかてんきばんがたあめばらつくにわにてせみのぬ


ケルを見ル兎角 癪  氣なり

けるをみるとかくしゃっきなり


八 日雨 今 日も不快 夜 も不眠

ようかあめきょうもふかいよるもねむらず


九  日曇 ル後 天 氣不快 少  々  よろし亀(キ)

ここのかくもるのちてんきふかいしょうしょうよろし  き


六 と四 日市 築 地と云 処  ノ高 尾九  兵衛と岡

ろくとよっかいちつきじというところのたかおきゅうべえとおか


三 英 右 の者 と倡  家ニ能ぼる酒 を呑ミて日

さんえいみぎのものとしょうかにのぼるさけをのみてひ


暮 かえりぬ三 英 女  房 吾 ニ向 ヒ行(ユカシツ)てゴサリ

ぐれかえりぬさんえいにょうぼうわれにむかい  ゆかしつ てごさり


マセとハモウお出サルカと云 事 也 サイセンとハ四

ませとはもうおでさるかということなりさいせんとはし


五日 も過 多る事 を云フ此 地能言(コトハ)なり

ごにちもすぎたることをいうこのちの  ことば なり

(大意)

(補足)

「直奏」、駕籠訴(かごそ。江戸時代の越訴(おつそ)の一。幕府の高官や大名などが駕籠で通行するのを待ち受けて,訴状を投げ入れたりして直接訴え出ること)。

「七日」、天明8年七月七日。1788年8月8日。

「亀六」、岩清水亀六。滝沢馬琴も「羇旅漫録」の中で「勢州追分内日永村に、岩清水亀六という人あり」と伊勢の好事家を紹介している、残念ながら会えなかったようです。

「高尾九兵衛」、土地の名家で文学を好み、当時雅人の間に交友が多かった。後年、本居宣長の長女飛騨が再縁した相手である、とありました。

 体調不調の中、セミが脱皮するのを見たとありますが、脱皮するのはたいてい日の出前頃、それとも脱皮した抜け殻を見たのか、どっちにしても気分的なものだったのかもしれません。ちょっと回復したら遊びに出かけているし・・・

 

2025年1月12日日曜日

江漢西遊日記二 その12

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

五  時 比 宮 ニ至 ル舟 出ル故 尓舟 ニ乗り桑 名ニ

いつつどきころみやにいたるふねでるゆえにふねにのりくわなに


着ク四 日市 を過 ル事 半 路日永 村 清水 源

つくよっかいちをすぎることはんろひなかむらしみずげん


兵衛宅 ニ至 ル爰 ハ江戸尓出見世あり兄  弟

べえたくにいたるここはえどにでみせありきょうだい


出て話 春六 月 二 日出ノ状(ゼ ウ)を見ル

でてはなすろくがつふつかでの  じょう をみる


四 日天 氣大 暑 爰 尓暫  く滞 留  春父子出

よっかてんきたいしょここにしばらくたいりゅうすふしで


て話 春晩 方 夕 立 冷 氣トナル

てはなすばんがたゆうだちれいきとなる


五 日天 氣暑 シ草 画六 七 枚 出来ル亦 金 の

いつかてんきあつしそうがろくしちまいできるまたきんの


小襖  山 水 能画認  ム少  ゝ  不快 父子世話スル

こぶすまさんすいのえしたたむしょうしょうふかいふしせわする


六 日朝 雨 少  々  冷 氣癪  氣未 タ不快 夜 ニ入

むいかあさあめしょうしょうれいきしゃっきいまだふかいよるにはいり


大 雨 雷   江戸中 橋 の者 白 川 侯 ヘ西 ノ久保ヲ通(ツウ)

おおあめかみなりえどなかはしのものしらかわこうへにしのくぼを  つう


行 の時

こうのとき

(大意)

(補足)

「宮」、尾張の熱田。ここから桑名までが海上七里の船路で「七里の渡し」で有名なところ。

桑名・四日市・日永村の地図。三つの地名が少々わかりにくいですけど確認できます。 

「日永村」、東海道と参宮街道の分岐点にあたり、交通の要所。参宮街道上には大鳥居が街道をまたいで高くそそり立っていた。 

 「六月二日出ノ状(ゼウ)」、約一ヶ月遅れの手紙を受け取ったわけですけど、どんな方法で受け取ることができたのでしょうか。この頃は大阪や江戸の間でお金の手形の決済などが行われていましたから、飛脚や運送業は想像以上に発達していたのではとおもいます。

「四日」、天明8年七月四日。1788年8月5日。

 江漢さん、風邪を引いてしまったようです。

 

江漢西遊日記二 その11

P15 東京国立博物館蔵

(読み)

昼  食 春夫 より舞 木村 など過 て藤 川 尓至 ル

ちゅうじきすそれよりまいきむらなどすぎてふじかわにいたる


岡 崎 ハ能 驛 なり

おかざきはよきえきなり


[白 キハ大 シマ黄ナリ]此虻(アブ)江戸近 在 ニ見春蜂(ハチ)ニ非 スア

 しろきはおおしまきなり この あぶ えどきんざいにみず  はち にあらずあ


ブなり此 虻 熊蜂(ハチ)を喰 付 タルを取

ぶなりこのあぶくま はち をくいつけたるをとり


ウツス此 道 中  筋 ニ多 し

うつすこのどうちゅうすじにおおし


池鯉 鮒鳴 海此 間  矢者゛き能橋 あり亦

ちりゅうなるみこのあいだやは ぎのはしありまた


八ツ橋かき川者゛多能名 所 桶 者ざま今 川

やつはしかきつばたのめいしょおけはざまいまがわ


能亡 ヒタル所  右 ヘ少 シ入  石 碑立ツお王りやと云フ

のほろびたるところみぎへすこしはいりせきひたつおわりやという


家 ニ泊 ル

いえにとまる


三 日天 氣誠  尓大 暑 なり朝 六 比 出  立 して

みっかてんきまことにたいしょなりあさむつころしゅったつして

(大意)

(補足)

藤川・岡崎の地図。 

「道中筋ニ」、「筋」の漢字はいつもながら「竹」+「肋」の二文字のようにみえます。

岡崎(御城の画があるところ)・池鯉鮒・鳴海・熱田(宮)の地図。

「矢者゛き能橋」、矢作(やはぎ)。岡崎から左斜め上の街道を上ると熱田へ至ります。岡崎を出てすぐに矢作川と村があって、江漢の文章とはことなってしまいますので、岡崎から池鯉鮒・鳴海に至る間のという理解か?

「八ツ橋かき川者゛多能名所」、『伊勢物語』など歌枕で有名な名所。八橋伝説地。

「今川能亡ヒタル所」、「タル所」が一行前の「名所」とそっくり。

「三日」、天明8年七月三日。1788年8月4日。