2024年11月23日土曜日

江漢西遊日記一 その10

P10P11 東京国立博物館蔵

(読み)

生  して木なし

しょうじてきなし


熱 海より日金 地蔵 堂

あたみよりひがねじぞうどう


まて五十  町  登 ル亦 爰

までごじゅっちょうのぼるまたここ


より五六 町  能ほりて

よりごろくちょうのぼりて


圓(マル)山 アリ

  まる やまあり


坊 舎 三 軒 肉 喰

ぼうしゃさんげんにくじき


妻 躰 なり

さいたいなり


地蔵 堂 昔 シハ六 角

じぞうどうむかしはろっかく


今 ハ四角 トナル

いまはしかくとなる


二十  八 年 過 ルうち尓

にじゅうはちねんすぐるうちに


山 奥 まても

やまおくまでも


開 け多り

ひらけたり


P11

坊 舎 立 場

ぼうしゃたてば


<冨士の画>

(大意)

(補足)

 今でいえばちょうど梅雨時六月上旬。

冨士の眺めがよい。

「二十八年過ルうち尓」、この旅は天明8(1788)年4月中旬出発で、その後江漢は4,5回この近辺を旅していて、頭注(やフリガナもきっとそうだろうと考えます。手もとにあるこの日記を読み返すたびに加えていったという雰囲気)は文化12(1815)年頃に書かれているので、約28年過ぎている。江漢さんは計算間違いや誤字脱字や思い込みが激しい人柄だったようですけど、この部分は正しそう。

 やわらかい線でやさしい絵になっています。うす〜く彩色したらきれいだろうな、とは素人の所見。


 

2024年11月22日金曜日

江漢西遊日記一 その9

P9 東京国立博物館蔵

(読み)

五六 町  小路 ヲ登 ル尓山 頂  春こし平 ラカなる

ごろくちょうこみちをのぼるにさんちょうすこしたいらかなる


所  あり石碑(ヒ)あり眺  望 を誌 ス

ところありせき ひ ありちょうぼうをしるす 


[箱 根ヨリ越 ル立 場トナル日金 越ヘトテ駕(カ)ゴ往 来 ス]

 はこねよりこゆるたてばとなるひがねごえとて  か ごおうらいす


伊豆国賀茂郡日金頂所観望者

十国五嶋自子至卯相模国武蔵国

安房国上総国下総国自辰至甲其

国所隷之南五箇嶋及遠江国自

酉至玄駿河国信濃国甲斐国天

明三年八月東都林居士應熱海

長渡邊房求之需建之


此 眺  望 誠  尓日本 第 一 也 此 邊 能山 ハカヤ

このちょうぼうまことににほんだいいちなりこのへんのやまはかや


(大意)駄文のつづき

 円山頂上からの眺めを描いている。

「円山頂きより西を望む。箱根山より三嶋、沼津、狩野河、冨士河見へる。」

その風景、230年前が昨日のようで、全く変わらない。

きっと千年前も二千年前も同じだったに違いない。


 私も何度かここを訪れたが、30年ほど前のここからの眺めは忘れられない。

ちょうど日没時、夕焼けが駿河湾も紅色にし、狩野川・富士川付近の家々からは夕餉の煙が立ち上り、聞こえるのは風の音と、カヤがこすれあう音のみ。

ただただ立ちすくんで眺めるのみであった。


 江漢先生もいたく感激している。

「此眺望誠に日本第一也」


 ところで、一緒に登ったご婦人はどうしたかというと、

登りきった地蔵堂にお地蔵さんが祀ってある「誠にキタナイ」お堂が3軒あったのだが、

まぁどうしようもないので、毛せんなどをしき、べんとうをひらき、ご婦人と一緒に食事をしたようだ。


 文中、坊舎三軒のあと、「肉食妻躰」とわざわざ記している。

当時の知識人と言われる人たちは、神社仏閣・石碑などには敬意を払い興味があったが、そこに住まう坊さんは嫌いだったようである。


 江漢さん、「肉食妻躰」の坊さんを蔑んでいたのだろう。

彼にとっては、見て見ぬふりできぬことだったに違いない。


 さて、其後はどうしたものか記されてない。


(補足)

 江漢さん、石碑を見つけると書き写すのが好きなようで、このあとの日記でも、たびたび記しています。

 石碑文の意味は大雑把に「伊豆国賀茂郡日金の頂上からは十国五嶋を望める。子(北)から卯(東)の方角には、相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国。辰(東南東)から甲(申の誤記(西南西))には、それらの国の南にある五つの島々及び、遠江国。酉(西)から玄(亥の誤記(北北西))には、駿河国・信濃国・甲斐国。天明三年八月、熱海里正の渡邉氏の求めに応じて建てた」。

 この碑文はネットで調べることができて、江漢さんは一部をとばしてしまったり、写し間違いしたようです。

「東都林居士(諸島出雲光英源清候等)應熱海(里正)渡邊房求之需建之」が正しそう。

 更に調べると、写真もあってちょっと拝借(申し訳ありません)。

 わたしもここに何度も行っているのだけれど、この石碑は記憶がありません。

 

2024年11月21日木曜日

江漢西遊日記一 その8

P8 東京国立博物館蔵

(読み)

湯の権 現 来能宮 へ参  夫 より渚  邊を歩

ゆのごんげんきのみやへまいりそれよりなぎさべをほ


春熱 海一 村 所  々  尓湯涌く処  あり海 中  ニ

すあたみいっそんところどころにゆわくところありかいちゅうに


湧 処  アリ故 尓名ツク

わくところありゆえになづく


七 日天 氣自楽(ジラク)亭 ニ居ル婦人 従  者 と吾

なのかてんき   じらく ていにいるふじんじゅうしゃとわれ


従  者 と七 八 人 して日金 山 の頂   ニ圓 山 アリ

じゅうしゃとしちはちにんしてひがねさんのいただきにえんざんあり


之 ヱ登  ン事 を約 し即 五十  町  登 り峠  尓

これえのぼらんことをやくしそくごじゅっちょうのぼりとうげに


地蔵 堂 アリ坊 舎 三 軒 肉 食 妻 躰 なり

じぞうどうありぼうしゃさんげんにくじきさいたいなり


地蔵 ハ丈 六 の坐像 にして銅 佛 也 坊 舎 誠  尓

じぞうはたけろくのざぞうにしてどうぶつなりぼうしゃまことに


キタナキ処  然  共 夫 へ毛 せんなどしき遍んとう

きたなきところしかれどもそれへもうせんなどしきべんとう


を開 き彼 婦人 と共 尓食  事春亦 爰 より

をひらきかのふじんとともにしょくじすまたここより


頭注[廿   八 年 以前 ト違 ヒ坊 舎 一 軒 ハヱンガワ

   にじゅうはちねんいぜんとちがいぼうしゃいっけんはえんがわ


折 回 シ甚   ヨシ花 コザナドシキ茶 等 ヲ出ス]

おりまわしはなはだよしはなござなどしきちゃなどをだす


(大意)駄文のつづき

湯の権現来の宮へお参りし、その後は熱海の浜を散歩した。

浜のあちこちで湯が湧き出し、海中で湧いているところもあって

江漢先生、熱海の名前の由来に納得した様子である。


 この来の宮神社、現在でも熱海から一駅のJR来宮駅の裏にある。


5月7日(西暦6月10日)

 晴天。

先日から自楽亭に宿泊しているご婦人とお供のもの、江漢さんと従者あわせて7,8人で日金山の頂きにある円山へ登ろうということになった。

50町というから、約5.4Kmの険しい山路を登った


 正確には日金山地蔵堂まで50町、さらにここから5,6町登って円山である。

28年前と比べると、ずいぶん開けたものだと江漢、挿絵の中に記している。


 そして、28年以前とは違って、誠にキタナキ坊舎のうち一軒は、建物のまわりに縁側があり、雰囲気がよいではないか。それに花ゴザなんて敷いているし、お茶など出している。ここはもう箱根越えの駕籠かき人の休憩所になっている。日金越え駕籠が往来して当時とはずいぶん変わってしまったものだ、と日記に頭注がある。


 江漢は41歳で体力は心配ないだろうが、ご婦人は50歳ぐらいである。

地図で確認するとやはり山奥。

たいしたものだ。

(補足)

「渚邊」、読み不明。

「妻躰」、妻帯。

「遍んとう」、ちょっと読みを悩みましたが、変体仮名「遍」(へ)でべんとう(弁当)。

 

2024年11月20日水曜日

江漢西遊日記一 その7

P7 東京国立博物館蔵

(読み)

三 日雨天 自楽 亭 と云 離 レ坐しき尓松 平

みっかうてんじらくていというはなれざしきにまつだいら


長 門候 能お部屋と見ヱて五十  位  能婦人

ながとこうのおへやとみえてごじゅうくらいのふじん


下女 壱 人侍  ヒ二 人下男 二 人連レ同 宿  しぬ

げじょひとりさむらいふたりげなんふたりつれどうしゅくしぬ


爰 より地引 をして得多るとて鯛 二 ツサヨリ

ここよりじびきをしてえたるとてたいふたつさより


二 ツ贈 ル即 生  写  尓春より春

ふたつおくるそくしょううつしにす???


四 日朝 ヨリ天 氣従  者 ヨンゲル尓画を描(カヽ)せ

よっかあさよりてんきじゅうしゃよんげるにえを  かか せ


楽  ム亦 灸  治を春る宿 より柏  餅 をおくる

たのしむまたきゅうじをするやどよりかしわもちをおくる


[ヨンゲルとハ従  者 ノ事 也 若 ヒ者 ト云フヲランタ辞  なり]

 よんげるとはじゅうしゃのことなりわかいものというおらんだことばなり


五 日節 句なり四時ヨリ雨 後 大 雨 額 一 面

いつかせっくなりよじよりあめのちおおあめがくいちめん


竪(タテ)物 一 幅 出来ル半 太夫 父子禮 ニ来る

  たて ものいっぷくできるはんだゆうふしれいにくる


六 日天 氣西 南 ノ風 漸  く此 日単  物 をきる

むいかてんきせいなんのかぜようやくこのひひとえものをきる


(大意)駄文のつづき

5月3日

 雨天である。

梅雨寒だったのだろうか。


 この日、VIPが泊まる自楽亭と云う離れ坐しきに下見のためか、

50歳位の婦人、下女1人、侍2人、下男2人がやってきて同宿した。

松平長門侯のお部屋見のようだ。

長門の37万石クラスの大大名だ。


 地引網をして魚がとれた。

鯛二匹、サヨリ二匹をもらい、すぐ刺し身にして食うかとおもいきや、

即写生するところが絵描き江漢である。


5月4日

 朝より晴天である。

暇で気分もよかったのだろう。

「従者ヨンゲルに画を描せ楽」しんだ。


 頭注に「ヨンゲルとは、従者の事也。若ひ者と云ふヲランダ辞なり」

と注記している。

この日記の注記はほとんどが後の文化12年(1815年)、江漢亡くなる3年前のものである。


 画を教え疲れると、こんどはお灸をしてもらった。

まさに温泉湯治である。


 しばらくすると、端午の節句は明日であるが柏餅が宿よりふるまわれ、

いやぁ、実に愉快愉快、江漢先生気分は上々である。


5月5日(西暦6月8日)

 節句である。

昼前10時頃から雨が降り、その後大雨になった。


 額一面と竪物一幅が出来上がり、お礼に半太夫と息子が一緒にやって来た。


5月6日

 晴天となり、西南の風で暖かくなり、久しぶりに単衣だけで過ごせた。


(補足)

「自楽亭」、「二楽亭」のことらしい。 

 賓客用の離れ。今井氏の屋敷から独立した建物で、北西に糸川を背にし東南に海を望めるようにして建てられていた。今井氏は、一般座敷・一碧楼・二楽亭があり、他に今井氏自身の立派な住居があった。とありました。

「松平長門候」、毛利治親(はるちか)。宝暦4(1754)年〜寛政3(1791)年。長門・周防両国において36万9410石を領し、長門萩城に住す、とありました。

「より春」、このぶぶん不明。

「竪物」、『たてもの 【竪物】竪表具(書画などを裂(きれ)や紙を貼り合わせた表具を使って縦長の軸物に表装すること)にした軸物』

「宿より柏餅をおくる」「鯛二ツサヨリ二ツ贈ル」、「もらった。いただいた。」の意ですけど、当時はこのように使ったのか、江漢独自の使い方なのかは不明。

 

2024年11月18日月曜日

江漢西遊日記一 その6

P6 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   九日 朝 ヨリ雨 降ル後 天 氣熱 海より十  八

にじゅうくにちあさよりあめふるのちてんきあたみよりじゅうはっ


町  小田原 ノ方 山 路 ヲ越ヘて瀧 の湯あり同

ちょうおだわらのほうやまみちをこえてたきのゆありどう


宿  の者 と行ク誠  尓此 様 なる深 山 幽 谷 ニ至 ル

しゅくのものとゆくまことにこのようなるしんざんゆうこくにいたる


事 初 メテなり故 尓め川らしくおもしろし

ことはじめてなりゆえにめずらしくおもしろし


五月 朔  日朝(アサ)雨 晩 天 氣脇 本 陣 渡 辺 彦 左

ごがつついたち  あさ あめばんてんきわきほんじんわたなべひこざ


衛門 方 へ行ク爰 ニモ一 色 桜 あり海 を望 ム日金

えもんかたへゆくここにもいっしきろうありうみをのぞむひがね


山 へ登 らん事 を話 ス

さんへのぼらんことをはなす


二 日曇 ル終  日 画を認   ル半 太夫 幷   同 宿  能

ふつかくもるしゅうじつえをしたためるはんだゆうならびにどうしゅくの


者 集  リ吾カ話 シを聞ク氣候 寒 シ綿 入 ニ

ものあつまりわがはなしをきくきこうさむしわたいれに


袷  を重  テきる

あわせをかさねてきる


(大意)駄文の続き

 昨日は、旅に出て、初めてウンチクをたれようとしたのに出鼻をくじかれたが、

熱海の湯と付近の景色に好奇心全開する。


4月29日

 前日と同じ日付になっているが、日記はこうなっている。

日記を書いていると日付の間違いは誰でもあることだ。


 しかし江漢先生、漢字をよく間違える。

そして、其の間違えた漢字をずっと使っている。

間違えたのではなく、間違えて覚えてしまいそれが正しい漢字だと信じている。


 いったん回復したとおもった天気は、また朝から雨である。

しかし後に晴れ。


 湯治場で顔見知りになった者と、山路を越えて滝の湯と云うところへ出かけた。

熱海から小田原の方へ十八町というから、約2Km弱。


「誠に此様なる深山幽谷に至る事初めてなり。故にめずらしくおもしろし」

きっと現在の奥湯河原だろう。

何度か行ったことがあるが、江漢ならずとも良いところだ。


5月1日(西暦1788年6月4日)

 朝方は雨降り、晩に晴れた。

「脇本陣渡辺彦左衛門方へ行く」とある。

この方、熱海温泉を開発したいわば地元の名士。


 先日の今井氏のところの離れは一碧楼だったが

渡辺氏のところにも「爰にも一色桜あり」であった。

そこから海を望み、初島を眺めたことだろう。

江漢さん、VIP待遇されているのだ。


 当主と近くの日金山(十国峠)からの眺めが絶景であることをきき、そこに登ってみたいなど歓談した。


5月2日

 曇りである。

湯疲れがでたのか、天気のせいか此の日は終日画を描いていたようだ。

渡辺氏や今井氏に所望されたのかもしれない。


 今井半太夫さんや湯治客が集まって、江漢の話しを聞いた。

此の日は寒く、江漢さん綿入れに袷を重ねてきて、話した。

次第に顔面紅潮し、鼻高々って感じで得意満面だったに違いない。


(補足)

「十八町」、江漢は「町」を、「可」に似たくずし字をずっと使っています。

「朝(アサ)」、こんな漢字にまでフリガナをふっているのは、上の「朔」にひきずられて間違えてしまったからだろうとおもわれます。このようなかたちの訂正がこのあと何度もでてきます。

「望ム」、くずし字がとても「望」に見えません。このあとでもでてきます。

「聞ク」、「聞」のくずし字は特徴的、「冖」+「夕」のようなかたち。

「渡辺彦左衛門」、熱海を開拓し、その基礎を築いた草分けは今井半大夫、渡邉彦左衛門、芥川五郎右衛門の3軒といわれた。

「日金山」、前回のブログの熱海の画像にのっています。

 「氣候寒シ綿入ニ袷を重テきる」、現在の6月上旬頃にもかかわらず着込んでいる。この異常気象は世界的なもので、翌年7月のフランス革命もこのことがその原因のひとつといわれています。

 

2024年11月17日日曜日

江漢西遊日記一 その5

P5 東京国立博物館蔵

(読み)

昼  夜三 度宛 半 太夫 庭 ヨリ湧 出て一 村 ニ樋

ちゅうやさんどずつはんだゆうにわよりわきでていっそんにひ


を以 テかける塩 氣あつて熱 湯 なり江戸へ快   く

をもってかけるしおけあってねっとうなりえどへこころよく


して長 﨑 の方 へおも武く事 を申  遣  ス湯入 の者

してながさきのほうへおもむくことをもうしつかわすゆいりのもの


浅 草 へかへる人 尓多能武

あさくさへかえるひとにたのむ


頭注[熱 海ヘハ其 後四五度モ行ク一 昨 年 半 太 夫方

   あたみへはそのごしごどもゆくいっさくねんはんだゆうかた


ニて入  湯 セし時 二代 目也 前 の半 太夫 ハ甚  タおもしろ

にてにゅうとうせしときにだいめなりまえのはんだゆうははなはだおもしろ


き人 なりき]

きひとなりき


廿   八 日 曇  て少  々  雨 此日初   て海 岸 を歩ス不

にじゅうはちにちくもりてしょうしょうあめこのひはじめてかいがんをほすふ


漁  とて魚  春くなし

りょうとてさかなすくなし


廿   九日 朝 雨 七 時比 天 氣トナル今 井ニ一 碧 桜 ト

にじゅうくにちあさあめしちじころてんきとなるいまいにいっぺきろうと


云 有 画など認  メ持参 し多る蘭 器蘭 書 ナト

いうありがなどしたためじさんしたるらんきらんしょなど


取 出し皆 々 尓見せける尓事(コウ)好(ヅ)なる者 もなし

とりだしみなみなにみせけるに  こう   ず なるものもなし


見 物 山 の如 jし

けんぶつやまのごとし

(大意)駄文の続き

4月27日

 朝から雨だ。

江漢、湯治場は初めてで興味津々である。

「塩気ありて熱湯なり」」

湯に指を突っ込んでぺろっと舐めたのだろう。


 これより27年後文化12年に、此の日の日記の頭注に次のように書き込んでいる。

「熱海へは其後四五度も行く。一昨年半太夫方にて入湯せし時、二代目也。前の半太夫は、甚だおもしろき人なりき。」


 よっぽど気に入ったとみえ、4,5回も行っている。

江戸から約108Km、駕籠に乗ることもあったろうが、基本は歩きだ。

いやはや、当時の人達のなんと健脚なこと、真似はできない。


 湯につかり隣の人と、とりとめのないはなしをしてたときのことだ。

その人どうやら浅草に帰るらしい。

申し訳ないが、ひとつ手紙を書くので江戸までお願いできますかと云い終わらない内に

おやすいことでと、はなしはまとまった。


 手紙は「快くして長崎の方へおもむく事を遣す。」

3年経たねば帰国せずとの固い決心なぞどこ吹く風、おもいっきり優柔不断・朝令暮改、揺れに揺れる心境だったが、やっとやっとやぁ〜っと、西へ向かう決心がついたようである。


 さぁゆくぞと決心を繰り返し、約2週間後に手紙で其の決心を伝えているわけだが、

受け取った奥方、どんな気持ちだったろう。

しょうがない人ねぇ、か。


 まぁ、とにかく江漢先生、手紙を書くことによって退路をふさぎ、

今度こそ決心を固めたようだ。


4月28日

 昨日に引き続き、曇って小雨降るなか、初めて海岸を散歩した。

地元の漁師さんか、魚屋さんとでも世間話をしたのだろうか

不漁で魚が少ないと記している。


4月29日(西暦6月3日)

 朝から雨がまだ降っていたが、夕方4時頃やっと天気になった。

一碧楼という宿の離れに出かけて、画を描いたり、

天秤棒で担いできたオランダの品々を自慢げに、

江漢先生たくさんの湯治客などに見せびらかすのだが、

どうも興味深げに見てくれる人はなく、がっかり。


 旅に出て、初めてウンチクをたれようとしたのに出鼻をくじかれたが、

熱海の湯と付近の景色に好奇心全開する。

(補足)

頭注「一昨年」、文化十(1813)年のこと。

「一碧桜」、延宝年間(1673〜1680)に建てられた湯店の離れで、茶人向きに数寄をこらしたうえ、熱海の眺望をほしいままにするように造られていた。

 

2024年11月16日土曜日

江漢西遊日記一 その4

P4 東京国立博物館蔵

(読み)

熱 海路也 熱 海まで七 里左  ハ大 海 浪 打

あたみじなりあたみまでしちりひだりはおおうみなみうち


右 ハ山 也 石 橋 山 真 田ノ塚 あり米 神 村 立

みぎはやまなりいしばしやまさなだのつかありこめかみむらたて


場あり皆 山 坂 路 ニして真奈鶴 なと云 石

ばありみなやまさかみちにしてまなずるなどいういし


をきり出春海 上  ニハ大 嶋 初 嶌 見ヘ山 ハ雲 を

をきりだすかいじょうにはおおしまはつしまみえやまはくもを


吐き誠  尓初 メて見多る故 ニや不快 全快  春夫 ヨリ

はきまことにはじめてみたるゆえにやふかいぜんかいすそれより


根府川 番 所 を越へ江の浦 土肥なと云フ

ねぶがわばんしょをこええのうらどいなどいう


処  を過 て熱 海ニ至 ル尓皆 山 路 左  ニ海 を見て

ところをすぎてあたみにいたるにみなやまみちひだりにうみをみて 


風 景 よし熱 海今 井半 太夫 方 ニ至 ル其 比ロ

ふうけいよしあたみいまいはんだゆうかたにいたるそのころ


入  湯 能者 多 し江戸ハ二十  七 里隔  ルなり

にゅうとうのものおおしえどはにじゅうしちりへだたるなり


廿   七 日 朝 ヨリ雨天 湯 治場尓ハ初 メテなり此 湯ハ

にじゅうしちにちあさよりうてんとうじばにははじめてなりこのゆは

(大意)駄文の続き。

 国府津、小田原とすすみ、真鶴を過ぎ、熱海へと行く。

真鶴は江戸城の石垣に使われ、江戸っ子にも知名度が高かった。

鎌倉時代から現在も良質な石を切り出している。

なので、ダンプカーが多く注意が必要な道路です。

 現在では真鶴道路があり、週末は渋滞の名所となっている。

当時は山の上に路があり、険しかった。

この旧道、実際車で走っても路は狭く険しく、海原を楽しむ余裕などない。

波しぶきを浴びながら真鶴道路、眺めはすこぶるよい。

 日記に、

「海上には大嶋、初嶋見へ、山は雲を吐き、誠に初めて見たる故にや、不快全快す。」

とあるとおり、現在でもそのままである。

 今井半太夫方、今で言う高級旅館に泊まった。

「其比ろ入湯の者多し。」とあり、

当時から有名な温泉だったことがわかる。

「江戸から二十七里隔たるなり」とのことである。

4月27日(西暦6月1日)

 朝から雨だ。

江漢、湯治場は初めてで興味津々である。

(補足)

「立場」、『たてば【立て場・建場】① 江戸時代,街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所。明治以後は人力車などの集合所・発着所をいった』

「誠尓」、江漢のこの日記で一番使われている表現かも。「成」のくずし字が特徴的。これに「土」偏がつくと「城」、これもほどほどでてきます。

「熱海」、江戸時代には湯戸制度により、27軒の湯戸が通りをはさんで軒をつらねる湯治場であった。「近世熱海の空問構造と温泉宿「湯戸」の様相」に詳しく記されています。


「石橋山」「米神村」、

「初嶋」、


「今井半太夫」、熱海村名主。大名投宿の本陣に指定されていた熱海最大最上の宿で、江戸でも評判であった。初代半太夫は熱海を開発し、温泉場発展の基礎を開いた。以後、湯戸27軒の最高責任者であった。

 今年の7月、湯河原温泉泊の予定が、流れてしまってとても残念でありました😢