2025年12月16日火曜日

江漢西遊日記六 その74

P88 東京国立博物館蔵

(読み)

治臺 へ行ク先 日 皆 梅 の花 なりし尓今 ハ皆

じだいへゆくせんじつみなうめのはななりしにいまはみな


桃 の花 となり茶店 あり蜆  の吸 物 でんかく

もものはなとなりさてんありしじみのすいものでんがく


酒 を賣ル見渡 春処  漸  く五六 十  人 皆 京

さけをうるみわたすところようやくごろくじゅうにんみなきょう


邊の人 なり中 に妓 子など連レ来ル者 ハ他国 のい

べのひとなりなかにげいこなどつれくるものはたこくのい


なか者 ニて顔 色 毛風 俗 も違 ヒて見尓くくぞ

なかものにてかおいろもふうぞくもちがいてみにくくぞ


ある晩 景 京  へ帰 ル路 六右衛門 尓逢フ嶋 原

あるばんけいきょうへかえるみちろくえもんにあうしまばら


より文(フミ)参  多るを彼 地の風 ニて初 會 ニて毛

より  ふみ まいりたるをかのちのふうにてしょかいにても


なじミ能如 し

なじみのごとし


十  八 日 天 氣中 井老 人 の像 出来ル宵(ヨイ)六

じゅうはちにちてんきなかいろうじんのぞうできる  よい ろっ


角 堂 観 音 ハ札 所 ニて爰 ハ京  の中  央 なり

かくどうかんのんはふだしょにてここはきょうのちゅうおうなり

(大意)

(補足)

「初會ニて毛なじミ能如し」、すでに何度か説明してきましたが、今回はAIの概要です。

『「花魁 初会(しょかい)」とは、江戸時代の吉原遊廓で初めての客が**花魁(高級遊女)**と対面し、儀礼的な顔合わせや酒宴を行う最初の段階を指します。

初会の流れと特徴

顔合わせ: 客は妓楼(遊女屋)の「張見世」で花魁を選び、手配してもらいます。

引付座敷: 初めての客は「引付座敷」に通され、花魁と対面します。

儀礼: 盃を酌み交わす儀式が行われ、教養や身分が試されました。

「三回目で肌を許す」説: 初会で花魁は口を利かず、2回目(裏)で打ち解け、3回目(馴染み)で初めて肌を許すという説は有名ですが、これは伝説であり、現実には初会から関係を持つことも多かったとされます。

「裏」と「馴染み」: 2度目の来店は「裏を返す(裏)」、3度目は「馴染み」と呼ばれ、馴染みになるとより親密な関係になることが期待されました』。

「十八日」、寛政1年3月18日 1789年4月13日。

「六角堂」、赤印のところ。 


 梅が終わり、桃の花となり、次は桜です。もう西洋暦では4月もなかば。

 

2025年12月15日月曜日

江漢西遊日記六 その73

P87 東京国立博物館蔵

(読み)

昼 八ツ時 比 より荻 野左衛門  尉  方 へ行ク蘭 説 ヲ

ひるやつどきころよりおぎのさえもんのじょうかたへゆくらんせつを


話 春甚  タ奇と春酒 肴 を出し馳走 春夜

はなすはなはだきとすしゅこうをだしちそうすよる


能九  ツ時 過 尓帰 る京  住  せんと云 ヘハ甚  タよろ

のここのつどきすぎにかえるきょうずまいせんとつたえばはなはだよろ


こ婦

こぶ


十  六 日 天 氣よし暖 色  を催  ス祇園 邊  へ

じゅうろくにちてんきよしだんしょくをもよおすぎおんあたりへ


行キ大 雅堂 へ尋  る玉  瀾(ラン)も四五年 以前 ニ

ゆきたいがどうへたずねるぎょく  らん もしごねんいぜんに


死して今 ハ其 跡 ニ知らぬ名の人 居 个り

ししていまはそのあとにしらぬなのひとおりけり


十  七 日 天 氣日野中 井能婦人 来 ル中

じゅうしちにちてんきひのなかいのふじんきたるなか


井老 人 能像 を被頼  老 人 伏 見尓居ルよし

いろうじんのぞうをたのまるろうじんふしみにいるよし


伏 見ヘ行キ老 人 を寫春(ス)夫 より桃 山 宇

ふしみへゆきろうじんをうつ す それよりももやまう

(大意)

(補足)

「昼八ツ時比」、お昼の2時頃。おやつの時間はこの「八ツ」 からきてます。

「荻野左衛門尉」、荻野元凱(おぎの げんがい)だろうか?『加賀の金沢に生まれる。後に上洛し、奥村良筑の門人となり古法医学を学んだ。その後は江戸幕府からの招聘により、朝廷からの許可をもらった。これにより1794年(寛政6年)に典薬寮にて、当時の天皇だった光格天皇の皇太子の診療にあたった。1798年(寛政10年)には再度幕府からの招聘により漢方医学の教育を取り入れていた医学館で教鞭を執った。しかし元凱はその漢方に蘭方医学を用いた医学を教育を取り入れる事を希望した事が理由とされる事により、後に同学館から離れ京都に戻る。これによって「漢蘭折衷家」と呼ばれるようになった。その後は再度皇太子の診療にあたり、解剖学を学び晩年は河内国司としても活動した』。

「京住せんと云ヘハ甚タよろこ婦」、江漢はこの後、文化9(1812)年4月1日から11月21日まで京都に在住した。『江漢西遊日記三その8』でもそのことにふれています。

「大雅堂へ尋る玉瀾(ラン)も四五年以前ニ死して」、3月5日にも訪れています。玉蘭は池大雅の奥様、天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没なので「四五年以前ニ死して」は正確です。

「中井老人」、『江漢西遊日記二その44』にはじめてでてきました。当時日本一の商店主。

 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第三十八号、KEIZAI SHIRYOKAN KIYO_038_001-015Z.pdfに詳しく論じられています。

 中井老人の肖像画を往路復路でそれぞれ1枚ずつ描いたことになります。それら肖像画は個人像となっていて残念ながらネットで鑑賞することができません。

 とてもとても残念😢 

2025年12月14日日曜日

江漢西遊日記六 その72

P86 東京国立博物館蔵

(読み)

ウヅマサ聖  徳 太 子開 帳  大 井河 ニ掛 ル土橋 アリ

うずまさしょうとくたいしかいちょうおおいがわにかかるどばしあり


吐月 橋  と云 渡 しハ虚空 蔵 嵐  山 なり亦タ

とげつきょうというわたしはこくうぞうあらしやまなりまた


もと能橋 を渡 里天 龍  寺夫 より嵯峨の

もとのはしをわたりてんりゅうじそれよりさがの


釈 迦堂 茶店 ニ休 ミ裏 を出て愛 宕へ

しゃかどうさてんにやすみうらをでてあたごへ


行ク路 婦もとより五十 町  清 瀧 なと云 処  アリテ

ゆくみちふもとよりごじっちょうきよたきなどいうところありて


路 \/喰 物 アリ人 をも泊 ル女  土器(カワラケ)を投(ナケ)る

みちみちくいものありひとをもとめるおんな   かわらけ を  なげ る


妙 なり山 上  ニ至 レハ雪 消 残 ル夫 より下 り路

たえなりさんじょうにいたればゆきけしのこるそれよりくだりみち


尓して野山 を越 て北 野天 神 へ出て日暮

にしてのやまをこえてきたのてんじんへでてひぐれ


前 冨 ノ小 路尓かえりぬ

まえとみのこうじにかえりぬ


十  五日 曇  此 間  頼 ミし目鏡  箱 出来る

じゅうごにちくもりこのあいだたのみしめかがみばこできる

(大意)

(補足)

「大井河」、大堰川。「吐月橋」、渡月橋。いくらなんでも吐月とはちょっとひどすぎ、風流のかけらもない。

『おおいがわ おほゐがは 【大堰川】

京都府中東部,丹波高地の大悲山(たいひざん)に源を発し,亀岡付近(渡月橋より上流)で保津(ほづ)川と名を変え,さらに(渡月橋の)下流で桂川となり,淀(よど)川に注ぐ川。大井川。「いろいろの木の葉ながるる―しもは桂のもみぢとやみむ」〈拾遺和歌集•秋〉』。『大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来』するとありました。

「冨ノ小路」、南北の青い部分、繁華街です。

「十五日」、寛政1年3月15日 1789年4月10日。

 この日14日は、嵐山、愛宕山、北野天神などの周辺の1日観光、ずいぶんと歩いたはずです。

 

2025年12月13日土曜日

江漢西遊日記六 その71


P85 東京国立博物館蔵

(読み)

十  三 日 曇  昼 より四条  竹 田から繰 を見 物 春

じゅうさんにちくもりひるよりしじょうたけだからくりをけんぶつす


画心 紙と云 大 唐 紙 三 十  三 匁  ニ調  へ亦 能そき

がせんしというおおからかみさんじゅうさんもんめにととのへまたのぞき


目鏡 能箱 出来ル

めがねのはこできる


十  四 日曇  朝 飯 後より愛宕 ヘ参 ル三 条  ヲ

じゅうよっかくもりあさめしごよりあたごへまいるさんじょうを


西 へ行キ十  五六 町  過 シハ洛 外 なり田畑 路ニ獄

にしへゆきじゅうごろくちょうすぎしはらくがいなりたはたじにごく



門 あり者しめて見ル此 盗   ハ三 十  三 間 堂 能

もんありはじめてみるこのぬすっとはさんじゅうさんげんどうの


床(ヱン)の下 ニ住 て夜盗 なり捕  ラれて縄 をぬけ

  えん のしたにすみてやとうなりとらえられてなわをぬけ


途中  ニて逃 出し路 を通 ル醫者 能脇 差

とちゅうにてにげだしみちをとおるいしゃのわきざし


を取 ぬき身を以 て古 手屋ヘ入 衣類 を着(キ)

をとりぬきみをもってふるてやへいりいるいを  き


多ると云 産 レハ薩摩(サツマ)の者 と云 夫 より嵯峨

たるといううまれは   さつま のものというそれよりさが

(大意)

(補足)

「十三日」、寛政1年3月13日 1789年4月8日。

「竹田から繰」、このようなものだったのでしょうか、 

「画心紙」、画仙紙。

「調へ」、『ととの・える ととのへる 【整える・調える・斉える】⑦ 買う。「酒を―・へに来たほどに」〈狂言・伯母が酒•鷺流〉』

「愛宕」、観光地嵐山のさらに北西部。

 

2025年12月12日金曜日

江漢西遊日記六 その70

P81 東京国立博物館蔵

P82 


 P83

P84

(読み)

P81

小倉堤

おぐらつつみ


三 十 町  アリ

さんじっちょうあり

P82

きゃく


中居

なかい

P83

嶋 原 大夫

しまばらたゆう

P84

愛 宕山

あたごやま


カワラケ

かわらけ


ナゲ

なげ

(大意)

(補足)

 嶋原太夫の前帯のでかいこと。足袋をはいているとおもいきや、はだしでした。

愛宕山のかわらけ投げについてのAIの概要です。

『京都の愛宕山や高雄などで、見晴らしの良い場所から素焼きの土器(かわらけ)を投げて、その舞い方を楽しむ遊びで、厄除けの意味合いもあり、古典落語の演目にもなった有名な風習です。落語『愛宕山』では、旦那が小判を投げるという滑稽な話に発展しますが、本来は参詣客が楽しんだ縁起の良い行事でした』。

「女土器(カワラケ)を投(ナケ)る妙なり」、それをながめるふたりは江漢と弁㐂。

 

2025年12月11日木曜日

江漢西遊日記六 その69

P80 東京国立博物館蔵

(読み)

三 条  生(イケ)春松 源 柏 宗 なと名 家アリ鯉 ふな

さんじょう  いけ すまつげんはくそうなどめいかありこいふな


うなぎ酒 を呑 妓  一 人三 味せんハなら春゛夫

うなぎさけをのむおんなひとりしゃみせんはならず それ


よりして新 地と云 処  ヘ至 り亦 爰 妓  壱 人茶 や

よりしてしんちというところへいたりまたここおんなひとりちゃや


の女  房 を連レて嶋 原 へ行ク揚 屋偶 徳 と云

のにょうぼうをつれてしまばらへゆくあげやすみとくという


尓参 ル玄 関 より上 ル書 院 坐しき燭  臺

にまいるげんかんよりあがるしょいんざしきしょくだい


数 十  如昼    照 春女  房 出 中 居八 九人 妓

すうじゅうひるのごとくてらすにょうぼうでてなかいはっくにんおんな


四人 盲 人 壱 人夫 より大夫 をかりて見ル

よにんもうじんひとりそれよりたゆうをかりてみる


三 十  人 其 内 玉 の井と云 を揚 る夜 の八ツ時

さんじゅうにんそのうちたまのいというをあげるよるのやつどき


比 尓帰 ル

ころにかえる


十  二日 曇  氣分 あしゝ偶 然 として暮 春

じゅうににちくもりきぶんあししぐうぜんとしてすごす

(大意)

(補足)

「三条生洲」、『川に面した座敷があり鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを店の生洲(高瀬川の水を引き込んだ)や庭に飼っておいて、客の注文に応じて料理を出す』。

「松源」「柏宗」については、当時の有名な茶屋・料理屋ではないかとおもわれますが、不明です。

「揚屋偶徳」、京都島原の揚屋、角屋徳兵衛の略。角屋は島原の郭内でも由緒ある揚屋として、歴史上の重要な舞台ともなった。また、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。

 さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

「夜の八ツ時比」、夜中の2時頃。

「十二日」、寛政1年3月12日 1789年4月7日。

「偶然」、寓然。しばらく前にも、同じように過ごしました。

 江漢さん、午前2時ごろに帰宅。二日酔いと寝不足で「氣分あしゝ」だったようです。

 

2025年12月10日水曜日

江漢西遊日記六 その68

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

五十  位  爰 ニ十  四 日滞 畄  春る

ごじゅうくらいここにじゅうよっかたいりゅうする


八 日曇  さ武し荻 野左衛門 方 へ行ク頗  ルおらん

ようかくもりさむしおぎのさえもんかたへゆくすこぶるおらん


多を好 ム人 ニて窮  理談 を春酒 肴 を出して

だをこのむひとにてきゅうりだんをすしゅこうをだして


よろこぶ

よろこぶ


九  日宿 の弟   を連レ北 野天 神 へ行ク天 曇

ここのかやどのおとうとをつれきたのてんじんへゆくてんくもり


て雪 降 出春此 日さ武し大 霜 厚ツ氷 リハル

てゆきふりだすこのひさむしおおしもあつごおりはる


十 日朝 霜 氷 ル天 氣京  ハめつらしき故 尓

とおかあさしもこおるてんききょうはめずらしきゆえに


所  々  を歩ス祇園 より金 毘羅参 り人 多 し

ところどころをほすぎおんよりこんぴらまいりひとおおし


僕(ホク)弁 喜大 坂 へ遣  ス

  ぼく べんきおおさかへつかわす


十  一 日 大 雨 晩 方 雷 鳴 伏 見六 右衛門来 ル

じゅういちにちおおあめばんがたらいめいふしみろくえもんきたる

(大意)

(補足)

「八日」、寛政1年3月8日 1789年4月3日。

「窮理談を春」、江漢はこの長崎西遊の後、寛政5(1793)年〜文化6(1809)年に以下の科学書を次々に刊行した。『銅版地球全図』『地球全図略説』『銅図』『和蘭天説』『和蘭通舶』『刻百爾(コッペル)天文図解』『地球儀略図解』。『春波楼筆記』には「小子は天文地理を好み、わが日本にはじめて地転の説をひらく」と自負し、地動説の紹介と普及に功績をあげた。

 1792年に発刊した『地球全図』、 

「雪降出春此日さ武し大霜厚ツ氷リハル」、1789年は世界中で異常気象の年でした。現在でも4月上旬春先の爆弾低気圧でこのようなことはありますので、なんとも判断がつきかねます。

「祇園」、なんども日記にでてきてます。日記では「祇」が「祗」となっています。