2025年12月3日水曜日

江漢西遊日記六 その61

P72 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   七 日 天 氣六 過 ニ大 坂 丸 清 方 を出  立

にじゅうしちにちてんきむつすぎにおおさかまるせいかたをしゅったつ


して安 道 寺町 筋 を東  能方 へ行キ山 ニ

してあんどうじまちすじをひがしのほうへゆきやまに


入 クラガリ峠  を越へ亦 向 フ能山 ニ至 りモ

いるくらがりとおげをこえまたむこうのやまにいたりも


ロノ木山 より南 都塔 及 ヒ大 仏 殿 見(ミ)

ろのきやまよりなんととうおよびだいぶつでん  み


え(ヘ)る山 を下 レハ春 日能社  誠  尓大 社 ナリ

え   るやまをくだればかすがのやしろまことにたいしゃなり


亦 大 佛 を見る猿 沢 の池 の邊  尓泊 ル

まただいぶつをみるさるさわのいけのあたりにとまる


廿   八 日 曇 ル椿 木町  古梅 園 へ参 り天 覧 能

にじゅうはちにちくもるつばきちょうこばいえんへまいりてんらんの


墨 を見る亦 墨 の形  を見る妙  工 なり夫 より

すみをみるまたすみのかたちをみるみょうこうなりそれより


南 都を出テ七 里伏 見尓至 ルニ其 路 小倉

なんとをでてしちりふしみにいたるにそのみちおぐら


堤  アリ是 ハ京  より南 都ヘ宇路を廻 里

つつみありこれはきょうよりなんとへうじをめぐり

(大意)

(補足)

「廿七日」、寛政1年2月27日 1789年3月22日。

「クラガリ峠」、暗峠。大阪を出立してほぼ真東へ。

 更に東へ、 

 猿沢の池です。 

 猿沢の池は春日大社、大仏の西にあります。見学してから西へ戻ったのでしょうか?なんか変です。

「椿木町古梅園」、「椿木町」ではなく「椿井町(つばいちょう)」のようです。古梅園は今でもあって、「1577年(室町時代末期)創業で、440年以上の歴史を持つ老舗の墨メーカーです。徳川幕府の御用達も務めた歴史を持ち、「奈良墨」の代名詞とも言える存在です」とありました。

「小倉堤」、『おぐらのいけ 【巨椋池】

京都市伏見区・宇治市・久世郡にまたがってあった周囲約16キロメートルの湖沼。一九三三(昭和八)~41年干拓によって消滅。現在は水田・住宅地帯。巨椋の入江。おぐらいけ』のようです。

「宇路」、宇治。

 かなりの道を、それも暗峠(くらがりとおげ)という非常に難所の山越えをしてからも、歩み続けています。健脚!

 

2025年12月2日火曜日

江漢西遊日記六 その60

P71 東京国立博物館蔵

(読み)

なんぎ春る

なんぎする


廿   五日 天 氣昼 時 より天 王 寺へ行ク京  壬(ミ)

にじゅうごにちてんきひるどきよりてんのうじへゆくきょう  み


生寺 開 帳  壬生狂  言 を見ル夫 より清 水

ぶでらかいちょうみぶきょうげんをみるそれよりきよみず


寺 へ行キ帰 り尓十一 屋五郎兵衛へ参 ル蕎麦を

でらへゆきかえりにといちやごろべえへまいるそばを


出春尼 五同 道 なり

だすあまごどうどうなり


廿   六 日 曇 ル尼 五より丸 清 ヘ行 蒹 葭堂

にじゅうろくにちくもるあまごよりまるせいへゆくけんかどう


へ暇  乞 参 ル酒 出て唐 墨 唐 扇 を餞 別

へいとまごいまいるさけでてからすみとうせんをせんべつ


ニ贈 ル明  朝  奈良ノ方 へ出  立 せんと思 フ

におくるみょうちょうならのほうへしゅったつせんとおもう


ナマナヤ治兵衛参 ル酒 肴 を出し夜 四 時

なまなやじへえまいるしゅこうをだしよるよつどき


過 帰 ル甚  タ別 レをおし武

すぎかえるはなはだわかれをおしむ

(大意)

(補足)

「廿五日」、寛政1年2月25日 1789年3月20日。

「十一屋五郎兵衛」、間 重富(はざま しげとみ、宝暦6年3月8日(1756年4月7日〜文化13年3月24日(1816年4月21日))は、江戸期の天文学者。寛政の改暦に功績があった。質屋を営む羽間屋の第六子として生まれる。蔵が11あったことからも「十一屋(といちや)」と呼ばれた裕福な家業を継ぎ、通称は十一屋五郎兵衛(7代目)、以上Wikipediaより。

「尼五」、これは以前にもでてきていてなんのことかわかりませんでしたが、尼崎屋五兵衛(木村兼葭堂とは特に親しかった)のことでした。

 

2025年12月1日月曜日

江漢西遊日記六 その59

P69 東京国立博物館蔵

P70

(読み)

箕山(キサン)

   きさん


瀑布(タキ)

   たき


正  面 ヨリ見テ

しょうめんよりみて


能キ瀧

よきたき


ナリ

なり


不動

ふどう


茶 屋

ちゃや

P70

勝 尾 寺観 音

かつおおじかんのん


札 所 なり

ふだしょなり


大 坂 へ五里

おおさかへごり

(大意)

(補足)

「不動」、『箕面山 瀧安寺』のHPに「14. 箕⾯⼤滝Mino-o Falls」があります。 

 説明文に『役⾏者お悟りの聖地。江⼾期までは当寺の境内として、滝壺の側に不動堂が建てられていた。現在は⼤阪府営「明治の森箕⾯国定公園」内にあり、⽇本の滝百選のひとつに選ばれている』、とあって、写真の観光客がいるあたりに不動や茶屋があったのでしょう。

 勝尾寺の手前の起伏が大きく描かれているは文中の「山上より望ム尓山なし平地尓見へ山を下レハ皆山路なり」を表現したものでしょうか。山門が子どもが描いたような稚拙さがあって、これも江漢の特徴かもしれません。


2025年11月30日日曜日

江漢西遊日記六 その58

P68 東京国立博物館蔵

(読み)

五郎兵衛方 ニ泊 ル此 近 く尓銀 山 アリ

ごろべえかたにとまるこのちかくにぎんざんあり


廿   四 日曇 ル後 天 氣爰 ヨリ三 里を行キて

にじゅうよっかくもるのちてんきここよりさんりをゆきて


深 山 尓入 ル瀧 アリ箕 尾の瀧 と云 能き

しんざんにはいるたきありみのおのたきというよき


瀧 なり右 ノ方 岩 石 を踏(フン)て攀(ヨシ)能ほり

たきなりみぎのほうがんせきを  ふん で  よじ のぼり


勝 尾 寺ニ至 り観 音 能札 所 也 大 坂 の城

かつおうじにいたりかんのんのふだしょなりおおざかのしろ


見ユ爰 ヨリ五里アリ山 上  より望 ム尓山 なし

みゆここよりごりありさんじょうよりのぞむにやまなし


平 地尓見へ山 を下 レハ皆 山 路 なり河 二 ツ

へいちにみえやまをくだればみなやまみちなりかわふたつ


を越へ一 ツハナカラ能渡 しと云フ北 堀 江三 町

をこえひとつはながらのわたしというきたほりえさんちょう


目尼 崎 屋五兵衛方 ニ夜 の四 時 過 ニ参 ルサテ

めあまざきやごへえかたによるのよつどきすぎにまいるさて


其 路 喰 物 なし暗夜(アンヤ)田のあぜ路 ニテ

そのみちくいものなし   あんや たのあぜみちにて

(大意)

(補足)

「五郎兵衛」、漢数字では「五」のくずし字が一番わかりにくいのですけど、ここのは楷書です。

「廿四日」、寛政1年2月24日 1789年3月19日。

「箕尾の瀧」、箕面です。画像の中央付近。勝尾寺はその右斜め上。

「北堀江三町目」、AIの概要では、

『江戸時代の北堀江三丁目周辺

堀江新地の開発: 元禄11年(1698年)に河村瑞賢によって西横堀川と木津川を結ぶ堀江川が開削され、その周辺が開発されました。この新しく開かれた土地が「堀江新地」と呼ばれました。

遊郭と芝居: 堀江新地は遊郭として発展し、幕府公認の新町遊廓に匹敵するほどの賑わいを見せました。また、歌舞伎座や人形浄瑠璃の小屋も開かれ、道頓堀に負けない芝居街としても知られていました。多くの人形浄瑠璃や浮世草子といった小説の舞台にもなっています。「橘通」という町名: 江戸時代、この辺りは「橘通(たちばなどおり)」という町名でした。

文化人の交流: 南堀江三丁目には、文人や勤王の志士であった藤井藍田の学塾「玉生堂」跡の碑があるなど、文化的な側面も持っていました。 

このように、江戸時代の北堀江三丁目は、大阪の「天下の台所」と呼ばれる経済的な中心地とは異なる、華やかな娯楽と文化の中心地として機能していました』、とありました。

 AIは平気でとんでもない間違いをしますけど、江漢さんが訪れた2年後、『寛政3年(1791)10月10日「堀江・島之内大火」南堀江伏見屋四郎兵衛町より出火 南北堀江、島之内を焼き尽くし町数87ヶ所を消失』は事実のようであります。

 

2025年11月29日土曜日

江漢西遊日記六 その57

P67 東京国立博物館蔵

(読み)

初 まりと云 時 役 者 皆 頭  を下ケル日暮 ニ芝

はじまりというときやくしゃみなあたまをさげるひぐれにしば


居終 りて兵  庫屋と云 茶 やニ行キ喰  事して

いおわりてひょうごやというちゃやにゆきしょくじして


帰 ル

かえる


廿   三 日 曇  朝 右 能両  人 参 ル四ツ時 前 十  一 屋案(アン)

にじゅうさんにちくもりあさみぎのりょうにんまいるよつどきまえじゅういちや  あん


内 して天神(ナニハ)橋 を渡 り池 田路即  チ池 田ニ

ないして   なにわ ばしをわたりいけだじすなわちいけだに


至 ル池 田河 流 レて酒 造 家三 十 軒 程 アリ

いたるいけだがわながれてしゅぞうかさんじっけんほどあり


伊丹 ニハ百  余軒 アリ池 田の名 酒 ハ満 願 寺

いたみにはひゃくよけんありいけだのめいしゅはまんがんじ


なり爰 ニてハ其 酒 を不賣 伊丹 ハケンビシ

なりここにてはそのさけをうらずいたみはけんびし


綿(モメン)屋七 ツ星 なり爰 を過 て多田と云 処  ニ

  もめん やななつぼしなりここをすぎてただというところに


至 ル多田の宮 アリ亦 温 泉 アリ中 野屋

いたるただのみやありまたおんせんありなかのや

(大意)

(補足)

「廿三日」、寛政1年2月23日 1789年3月18日。

「池田」、「多田」、「多田の宮」、 

 赤印が多田、その西に多田神社があり、南に下ったところが池田。

 

2025年11月28日金曜日

江漢西遊日記六 その56

P66 東京国立博物館蔵

(読み)

廿   一 日 曇  虎 の画を認  メ浮 フ瀬福 屋と云 茶 や

にじゅういちにちくもりとらのえをそたためうかぶせふくやというちゃや


ヘ遣  スよし亦 蒹 葭ヘ行ク馳走 春る薩摩(サツマ)の人

へつかわすよしまたけんかへゆくちそうする   さつま のひと


天 文 を知ル人 来ル吾カ名を聞 て驚  く亦 十

てんもんをしるひとくるわがなをききておどろくまたじゅう


一 屋五郎兵衛と云 人 来ル楕圓(イヒツ)文 廻 シを新 製

いちやごろべえというひとくる   いびつ ぶんまわしをしんせい


春と云フ

すという


廿   二日 雨天 十  一 屋五郎兵衛尼 カ﨑 屋五兵衛両

にじゅうににちうてんじゅういちやごろべえあまがさきやごへえりょう


人 吾 等をともなひ道 とん堀 芝 居を見 物

にんわれらをともないどんとんぼりしばいをけんぶつ


春雛 助 金 作 非人  敵  打 能狂  言 大 當 里

すひなすけきんさくひにんのかたきうちのきょうげんおおあたり


芝 居ハ江戸能繰(アヤツリ)芝 居程 なりさんしき両  方

しばいはえどの  あやつり しばいほどなりさんじきりょうほう


ニ十 軒 宛 アリ幕(マク)両  方 より志める是 ヨリ新ン狂  言

にじっけんずつあり  まく りょうほうよりそめるこれよりしんきょうげん

(大意)

(補足)

「廿一日」、寛政1年2月21日 1789年3月17日。

「浮フ瀬福屋」、江漢西遊日記三その16の往路ででてきた浮瀬とおなじところでしょうか。

「十一屋五郎兵衛」、「五郎」がわかりにくですけど、同じ名前が2行あとにでてきて、これは「五郎」の部分がよみやすい。やはりくずし字はそのときどきでいい加減です。

「吾カ名を聞て驚く」、大物ぶりたい江漢さんはいつでもどこでも自分を知らない人には少々腹を立て、そっけない態度。反対に知っていればうんうんとうなずいて満足。

「楕圓(イヒツ)文廻シ」、ぶん回しはコンパスのこと。コンパスのように楕円を描く器具。

「さんしき」、『さんじき【桟敷】→さじき(桟敷)に同じ』。『さじき【《桟敷》】さずき」の転〕

① 祭りや相撲などの興行物を見るために高く作った見物席。さんじき。

② 劇場で,平土間に対して左右に一段高く設けた席。桟敷席』

「幕(マク)両方より志める」、江戸ではもちろん片側からです。

 

2025年11月27日木曜日

江漢西遊日記六 その55

P65 東京国立博物館蔵

(読み)

丸 清 と共 尓道 とん堀 ヘ行ク茶 屋竹 庄  ニて

まるせいとともにどうとんぼりへゆくちゃやたけしょうにて


妓 子小梅 其 他 五人 白  人右近(ウコン)甚  タドロン

げいここうめそのほかごにんしろうと   うこん はなはだどろん


コとなり夜 八ツ時 過 尓帰 ル

ことなりよるやつどきすぎにかえる


十  九日 長 﨑 の圖を描キ蒹 葭堂 ヘ遣  ス此 日

じゅうくにちながさきのずをかきけんかどうへつかわすこのひ


雪 降 寒  夜ル山 﨑 町  丸 清 ヘ伏 見九  兵衛と同

ゆきふるさむしよるやまざきちょうまるせいへふしみきゅうべえとどう


道 して行 酒 を呑 さかな酢シ豆 腐なり

どうしてゆくさけをのみさかなすしとうふなり


廿 日曇  暖   扇 面 ニ画を数 \/描キ蒹葭(ケンカ)ヨリ

はつかくもりあたたかせんめんにえをかずかずかき   けんか より


菓子を贈  昼 比 風呂屋ヘ行ク四ツ時 までかゝ

かしをおくるひるごろふろやへゆくよつどきまでかか


里湯なし流 シ皆石炭(シツクヒ)タゝキ扇  風呂と云

りゆなしながしみな  しっくい たたきおおぎふろという


ニハ扇  を彫里戸多゛な婦ろなり

にはおおぎをほりとだ なぶろなり

(大意)

(補足)

「白人」、『はくじん【白人】

② 〔「白人(しろうと)」を音読みした語〕

㋐ 近世,上方で,私娼。また,公認の遊里以外の地にいた遊女。しろと。はく。「―芸子の今様めけるは,南北に風情をたたかはす」〈滑稽本・風流志道軒伝〉

㋑ 技芸などに熟達していない人。素人(しろうと)。「京の色里にて手弱き客を―と言へり」〈浮世草子・新吉原常々草〉』。すでに何度かでてきています。

「十九日」、寛政1年2月19日 1789年3月15日。

「風呂屋ヘ行ク」、江戸と大阪の銭湯文化の違いを述べているようで、以下AIの概要です。

『江戸時代の大阪の風呂事情

風呂の形式: 江戸時代の風呂は主に「戸棚風呂」と呼ばれる蒸し風呂の一種でした。浴槽は非常に浅く(膝丈程度)、上半身は湯気で蒸す仕組みでした。入口には「石榴口(ざくろぐち)」という低い仕切りがあり、湯気が逃げるのを防いでいました。

東西の違い: 江戸の銭湯の洗い場が板張りだったのに対し、大坂の銭湯では切り石が敷かれているのが特徴でした。この特徴は戦後の大阪の銭湯にも残っていたほど、根付いた文化でした。』

 蒹葭堂へは長崎へ来るときもたちよってしばらく出入りしていましたが、今回もやはり足繁く訪れています。当時の文化人、町人武士をとわず、蒹葭堂に出入りし主人に会うことが、文化人仲間入りのあかしになり、多くの人たちが訪れたようであります。