2025年9月14日日曜日

江漢西遊日記五 その50

P52 東京国立博物館蔵

P53

(読み)

全 身 黒 腹 ノ方 少 シ

ぜんしんくろはらのほうすこし


白 シ鼻 ノ先 白 キハ

しろしはなのさきしろきは


瀬と云 貝 也

せというかいなり


夜半 出テ鯨  ノ背ニ登 ル

やはんでてくじらのせにのぼる


坐シタルハ余レ

ざしたるはわれ


立 タルハ又 之助

たちたるはまたのすけ


僕  弁 喜

しもべべんき

P53

十  二月 十  五日 朝 鯨

じゅうにがつじゅうごにちあさくじら


来 ルト云 知ラセ未  飯

きたるというしらせいまだめし


不喰 故 ニアツキ飯 ニ水

くわずゆえにあつきめしにみず


ヲカケ一 椀 喰ヒ舟 ニ

をかけひとわんくいふねに


乗ル鯨  所  々  ヘニケ見

のるくじらところどころへにげみ


へス晩 七  時 比 舟 ヲ生 月 へ

へずばんななつどきころふねをいきつきへ


返ヘサントスル時 大 嶋 ノ方

かえさんとするときおおしまのほう


ニテ頻 リニ印  ヲ以  マネグ

にてしきりにしるしをもってまねく


夫 より大 嶋 ノ方 コギ行 事

それよりおおしまのほうこぎゆくこと


四里程 モアラント思 ヒケリ

しりほどもあらんとおもいけり

(大意)

(補足)

「夜半出テ」、鯨の尾の上の方に、満月が出ています。明るかったでしょう。

「十二月十五日」、天明8年12月15日。西暦1789年1月10日。この日は月齢13.6で満月は12日でしたから、この画のとおりお月さんは丸く見えたはずです。

「鯨来ルト云」、「未飯不喰故」、「舟ニ乗ル」、来未乗の三文字が少しずつ違うだけで難しい。全部「来」と読んでいました。

「西遊旅譚四」にもかなり詳しく、鯨に関する記述と画があります。

『夜半出天 鯨乃背に の本゛る 鯨番人』

『鯨切解圖』

『鯨漁之圖』 

 「江漢西遊日記」、「西遊旅譚」ともに鯨に関する文章・画はかなりの頁をさいて、詳細に記述していて、江漢さんが好奇心全開、からだをはって知ろうとしているのがよくわかります。

 P52、月夜の浜によこたわる鯨。目を哀しそうに描いているのが、江漢さんらしい。

 

2025年9月13日土曜日

江漢西遊日記五 その49

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

生 月 嶋 ニテ一 里西 ノ方

いきつきしまにていちりにしのほう


松 本 と云 所  鮪 漁  アリ

まつもとというところしびりょうあり


往 て見 物 春其 時

ゆきてけんぶつすそのとき


四国 ヨリ藝 者

しこくよりげいしゃ


来 リ力  持 手津ま

きたりちからもちてづま


を見 物 春

をけんぶつす


其 所  の田 夫

そのところのでんぷ


老 若  男 女

ろうにゃくなんにょ


見 物 春

けんぶつす

(大意)

(補足)

「田夫」、農夫のことですが、いままでうん十年ずっと「たふ」と読んできてました。お恥ずかしい😞・・・

 江漢さんの描く農夫や年寄・子どもたちは、たくさんの絵師がいる中で、すぐに彼が描いたのだとわかるくらい特徴的で、表情や物腰のあたたかさが伝わってきます。着ているものなどもこのとおりだったのでしょう。継ぎ当ては当たり前、これが普段着なのでしょう。

 

2025年9月12日金曜日

江漢西遊日記五 その48

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

布(シキ)可へ舟 六 艘 ニてかこ武時 尓鮪 誠  尓小

  しき かえふねろくそうにてかこむときにしびまことにこ


魚  を掌(テノヒラ)尓春くゐ多る如 し夫 を鳶口(トビクチ)能様

ざかなを  てのひら にすくいたるごとしそれを   とびぐち のよう


なるかぎ尓て引(ヒキ)揚(アケ)る海 血(チ)能波 立ツ誠  ニ

なるかぎにて  ひき   あげ るうみ  ち のなみたつまことに


め川らしき見 物 なり之(コレ)を見終(ヲハ)里て陸(ヲカ)尓

めずらしきけんぶつなり  これ をみ  おわ りて  おか に


納屋尓至 りして其 時 四国 阿波より力  持

なやにいたりしてそのときしこくあわよりちからもち


曲  持 など春る藝 者 来 リて爰 尓居ル故 尓

きょくもちなどするげいしゃきたりてここにおるゆえに


又 之助 其 藝 を好 ミ个連ハ色 \/藝 をし个り

またのすけそのげいをこのみければいろいろげいをしけり


其 処  能者 肝 を津ぶして見 物 春夫 よりして

そのところのものきもをつぶしてけんぶつすそれよりして


宿 へ帰 りぬ往 来 皆 舟

やどへかえりぬおうらいみなふね


九  日亦 時雨 雪 霰  風 吹キ此 日絹 地尓画

ここのかまたしぐれゆきあられかぜふきこのひきぬじにえ

(大意)

(補足)

「力持」、『② 重い物を持ち上げる武芸,また見世物。また,その人』

「曲持」、『きょくもち【曲持ち】曲芸として,手・足・肩・腹などで,樽(たる)・臼(うす)・米俵・人などを持ち上げて自由にあやつる芸』

「九日」、天明8年12月9日。西暦1789年1月4日。

「誠ニめ川らしき見物なり」、「鮪冬網(志びふ由あミ)」の画のように、激しい漁をそれほど離れていない小舟から見物したのでしょうけど、それでも小舟からの見物も同じようなものだったとおもわれます。同じ小舟に亦之助や新四郎も乗っていたのかもしれません。

「西遊旅譚四」に江漢の画があります。『鮪網之圖』です。 

 こちらは「鮪漁」の画。


  前回の画は江漢の画ではなく、こちらが江漢の画。漁師たちは誰一人腰蓑などなく褌一丁にハチマキ、身につけているものはそれだけであとは裸です。こちらが実際の鮪漁の様子。

やはりすごいですね。

「鯱(シャチホコ)又タカマツ 鮪を 喰んと して人を 不恐舟乃 きハま天 き多る」とありますから、舟から落ちたらシャチにやられてしまいます。命がけ!

 

2025年9月11日木曜日

江漢西遊日記五 その47

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  此 嶋 の西 の方 松 本 と云 処  鮪 アルよし

ようかくもりこのしまのにしのほうまつもとというところしびあるよし


朝 より又 之助 新 四郎 同 道 して行ク尓鮪

あさよりまたのすけしんしろうどうどうしてゆくにしび


二百  四 十  二疋 と云 大漁(タイリヨウ)の時 ハ千 も取レるよし

にひゃくよんじゅうにひきという   たいりょう のときはせんもとれるよし


さて其 鮪 ハ山 \/能腰 を群(ムレ)て回(メグ)る者 故 山

さてそのしびはやまやまのこしを  むれ て  めぐ るものゆえやま


能腰 尓網(アミ)をしき張ル其(ソレハ)幕(マク)能如 く尓して

のこしに  あみ をしきはる  それは   まく のごとくにして


底(ソコ)なし又 鮪 見楼(ヤクラ)を建て鮪 来ル時 ハ

  そこ なしまたしびみ  やぐら をたてしびくるときは


旗(ハタ)を出して之 を知らせる口 網(アミ)の舟 之 を見

  はた をだしてこれをしらせるくち  あみ のふねこれをみ


て網(アミ)能口 をしめる網底(アミソコ)なしと雖  も鮪 下(シタ)

て  あみ のくちをしめる   あみそこ なしといえどもしび  した


をくゝ里て逃(ニグ)る事 なし爰 ニ於 て舟 四方 ヨリ

をくぐりて  にぐ ることなしここにおいてふねしほうより


あ川まりかこんで一 方 より麻綱(ヲツナ)能網 と

あつまりかこんでいっぽうより   おつな のあみと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年12月8日。西暦1789年1月3日。

 鮪漁の様子の画です。

 画の説明に「鮪冬網(志びふ由あミ)」とあります。上半身裸で腰蓑(こしみの)だけという漁師もたくさんいるのがわかります。真冬で海の上、寒いにきまっていますが、激しい動きと気合で寒さなど感じなかったのかもしれません。

 

2025年9月10日水曜日

江漢西遊日記五 その46

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

之(コレ)を鮪 舩 尓積ミ个る尓七 日め尓四五百  里

  これ をしびふねにつみけるになのかめにしごひゃくり


能海 上  を経(ヘ)て江戸尓参 り多り

のかいじょうを  へ てえどにまいりたり


七 日天 氣爰 ハ朝 茶 を土瓶 尓て煎 し夫 ヲ

なのかてんきここはあさちゃをどびんにてせんしそれを


持 出して茶 を進 メルニ茶 うけモシクシと云フ

もちだしてちゃをすすめるにちゃうけもしくしという


物 なり之(コレ)ハ赤 ヱイと云 魚  能干(ホシ)多るを打 て麻

ものなり  これ はあかえいというさかなの  ほし たるをうちてあさ


能如 し夫 ヘ酒 醤  油をかけ多るなり之(コレ)ハな

のごとしそれへさけしょうゆをかけたるなり  これ はな


まぐさき事 なし此 者 なき時 ハあ王びを煮

まぐさきことなしこのものなきときはあわびをに


多る物 なり爰 ニ目白 と云 小鳥 能ク見ル尓江戸

たるものなりここにめじろということりよくみるにえど


尓て云 朝  鮮 目白 なりここニてハ壱 州  目白 ト云う

にていうちょうせんめじろなりここにてはいっしゅうめじろという


なり

なり

(大意)

(補足)

「七日」、天明8年12月7日。西暦1789年1月2日。

「七日め尓四五百里能海上を経(ヘ)て江戸尓」到着するのは、最速でということでしょうけど、それでも信じられません。「鮪舩」はその21に出てきた五嶋鮪を江戸に運ぶ船のことですけど、うーん🤔。江漢さん長崎からでしたっけ、やはり船で江戸に荷物を宅配していました。

 

2025年9月9日火曜日

江漢西遊日記五 その45

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 て戴(イタゝ)くと云フ義なりと其 時 より鯨  を

といいて  いただ くというぎなりとそのときよりくじらを


取ル備(ソナヱ)をな春亦 春 の土用 尓漁  を止ムと朝

とる  そなえ をなすまたはるのどようにりょうをやむとあさ


飯 前 能話(ハナシ)なり夫 より新 四郎 方 ヘ行く酒

めしまえの  はなし なりそれよりしんしろうかたへゆくさけ


鴨 能吸 物 鮪 の肉 を出し日暮 て帰 ル此 海

かものすいものしびのにくをだしひぐれてかえるこのうみ


よりヱイノ尾と云フ者 天 尓登 ル事 あり是 ハ

よりえいのおをいうものてんにのぼることありこれは


龍  なりと云 登 らんと春る時 黒 雲 さか里て

りゅうなりというのぼらんとするときくろくもさがりて


海 の潮 を巻き次第 \/ 尓天 尓能ほる尓雲

うみのしおをまきしだいしだいにてんにのぼるにくも


中 よりヱいと云 魚  能尾の如 き物 ヒラ\/として

なかよりえいというさかなのおのごときものひらひらとして


見ヱ遠 さかる。故 尓ヱイの尾可゛登 ルと云 なり

みえとおざかる ゆえにえいのおが のぼるというなり


此 日新 四郎 より朝  鮮 者゛ち七 ツ入子(イレコ)を贈 る

このひしんしろうよりちょうせんば ちななつ   いれこ をおくる

(大意)

(補足)

 竜巻を「ヱイノ尾」にたとえてみているところが、おもしろい。たしかに竜巻の漏斗部分を平たいエイのからだにみたてて、細く巻き上げている部分を尾とすれば、エイが空に登っていくようにみえます。

 鯉のぼりじゃないけど、エイが空を泳いでいるなんて発想がいいですね。

 

2025年9月8日月曜日

江漢西遊日記五 その44

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

尓毛 せんをしき盃   を取 て四方 蒼 海 を

にもうせんをしきさかずきをとりてしほうそうかいを


眺 ミ外 国 尓遊 ヒ多る心  持 ぞ春る番 人 六 十  歳

のぞみがいこくにあそびたるこころもちぞするばんにんろくじゅっさい


位  能者 江戸尓十  年 居多ると云 江戸十  里

くらいのものえどにじゅうねんいたるというえどじゅうり


四方 軒 を並 へて人 家續 キ其 外 ハ田畑 ニて

しほうのきをならべてじんかつづきそのそとはたはたにて


大 根 の太(フト)サさし渡 し七 八 寸 もあると云フ

だいこんの  ふと ささしわたししちはっすんもあるという


大 笑  し希り夫 より段 \/と山 を下 り彼ノ

おおわらいしけりそれよりだんだんとやまをくだりかの


老 婆カ処  ニより瑠  球  芋 能蒸(ムシ)多るを喰ヒ

ろうばがところによりりゅうきゅういもの  むし たるをくい


益 冨 宅 へ帰 りぬ

ますとみたくへかえりぬ


六 日天 氣亦 之助 尓鯨  を取 比 時節 を聞 ニ冬

むいかてんきまたのすけにくじらをとるこのじせつをきくにふゆ


小  寒 十 日前 鯨  来 ル時 なり之 を小  寒 カグメ

しょうかんとおかまえくじらきたるときなりこれをしょうかんかぐめ

(大意)

(補足)

「瑠球芋」、琉球芋。

「六日」、天明8年12月6日。西暦1789年1月1日。

 一行が山登りの前に立ち寄った、亦之助の乳母であった老婆宅では、帰りによってくれとたのんだのでしょう、芋を蒸して待っていたようです。温かい心づかい。