2025年10月19日日曜日

江漢西遊日記六 その16

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

徳 末 と云 コレ迄(マテ)四里夫 より田畑 の路 右 左

とくすえというこれ  まで しりそれよりたはたのみちみぎひだり


山 々 高 シ日暮 前 唐 津能城 の脇キ濱(ハマ)

やまやまたかしひぐれまえからつのしろのわき  はま


﨑 と云フ処  筑 前 や庄  助 と云 家 ニ泊 ル能 宿

さきというところちくぜんやしょうすけといういえにとまるよきやど


なりき直(スク)尓居(スヱ)風呂やヘ行キし尓此 邊 ミナ

なりき  すぐ に  すえ ふろやへゆきしにこのへんみな


石 炭 を焚く路 \/風 雪 霰  降 漸  く人 心(コゝ)

せきたんをたくみちみちかぜゆきあられふるようやくひと  ここ


持(チ)春る

  ち する


十  一 日 天 氣ニハあれど甚  タ寒風(カンフウ)濱 﨑 と云フ

じゅういちにちてんきにはあれどはなはだ   かんぷう はまさきという


処  を出テ吉 井能間  川 アリ夫 より濱 邊ヘ出テ

ところをでてよしいのあいだかわありそれよりはまべへでて


右 ハ西 海 唐 津の城 見ユ深(フカ)江と云 処  より馬

みぎはにしうみからつのしろみゆ  ふか えというところよりうま


尓乗ル前 原 より駕籠ニ能里漸  ク日暮 今 宿

にのるまえばるよりかごにのりようやくひぐれいましゅく

(大意)

(補足)

「徳末」、徳須恵。古地図の左隅が徳末村、街道沿いに北上すると唐津のお城があり、虹ノ松原を東へすぐのところが濱崎村。 

「十一日」、天明9年1月11日。1789年2月5日。

「濱崎」、古地図の左下が濱崎村、そのまま海沿いをすすんで、中央あたりの楕円型の入江の右浜が深江村、そして右隅に前原村。 

「濱﨑と云フ 処を出テ吉井能間川アリ夫より濱邊ヘ出テ 右ハ西海唐津の城見ユ」、地図を見ると、進行方向に向かって左が海です。濱崎村を出立して、振り返って来た路をながめると唐津のお城がみえたのでしょう、なので振り返れば右が海になります。

「今宿」、左端が今宿村、右端が福岡でお城が描かれています。

 長崎に来る途中の日記にもありましたが、当時から石炭は家庭でも、ここの風呂屋のようにも、日常で使われていたようです。

 途中、馬に乗ったり、駕籠をつかったりと、懐はあたたかかったようであります。

 

2025年10月18日土曜日

江漢西遊日記六 その15

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

ヤミけ連爰 を出  立 して見れハ泊  やも一 二

やみけれここをしゅったつしてみればとまりやもいちに


軒 あり夫 より一 里を過 て今 福 と云 処  ニ

けんありそれよりいちりをすぎていまふくというところに


至 り七 ツ時 過 尓今 利と云 宿 ニ泊 ル問 屋をベットフ

いたりななつどきすぎにいまりというやどにとまるとんやをべっとう


と云 旅 人 宿 一 向 尓なし巡  礼 宿 一 軒 ある能ミ夫

というたびにんやどいっこうになしじゅんれいやどいっけんあるのみそれ


故 平 戸の者 と云 けれハ夫 故 焼 物 問 ヤニ泊  ニ喰

ゆえひらどのものといいければそれゆえやきものとんやにとまるにしょく


事等 よし内 もよし扨 爰 まで能路 々 入 海 ニ

じとうよしうちもよしさてここまでのみちみちいりうみに


して能キ景色 多 し皆 寫 春

してよきけしきおおしみなうつす


十 日夜 より風 雪 五  時 尓爰 出  立 して行ク皆

とおかよるよりふうせついつつどきにここしゅったつしてゆくみな


山 路 なり唐 津ノ堺  西 ノ方 屋しき野と云 所  山

やまみちなりからつのさかいにしのほうやしきのというところやま


能尓村 あり雪 ま多ら尓積ミ景 よし夫 より

のにむらありゆきまだらにつみけいよしそれより

(大意)

(補足)

「今福」、調川(つきのかわ)の東側。

 そのまま入り海にそって南東へ、奥まったところが伊万里。 


 現在の地図ではこんな感じ。

「扨爰まで能路々入海ニ して能キ景色多し皆寫春」、このあと、6頁もそれらの画のために費やしています。とても感動した様子です。

「十日」、天明9年1月10日。1789年2月4日。

「屋しき野」、現在の地図です。

 九州とはいえ、真冬の山路、「雪ま多ら尓積ミ」とありますけど、大変な旅路だろうと想像できます。

 

2025年10月17日金曜日

江漢西遊日記六 その14

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

油  水 と云 処  氣ヲ吹ク

あぶらみずというところきをふく


コレハ穴 アリ其 穴 ノ

これはあなありそのあなの


口 迄 潮 ヲ満チ

くちまでしおをみち


波 穴 ヲ閉ツ

なみあなをとず



セマツテ氣ヲ

せまってきを


吹くなり

ふくなり


予潮 ノ此 穴 ニ

よしおのこのあなに


満 ル時 通  し故 ニ視タり

みつるときとおりしゆえにみたり

(大意)

(補足)

 この画は「四日天氣よし亦之助と同舟して此生月 嶋を發して多嶋大嶋右ニ白岳能絶(セツ) 壁(ヘキ)を見て油水と云処ニ舟をよせ鮪納 屋ニ至り喰事春」とある1月4日の船旅で見たもの。

 沖に帆船二艘が描かれてますけど、これは実際のものではなく絵師としての習い性。

 

2025年10月16日木曜日

江漢西遊日記六 その13

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

家 ハ一 尺  程 も横 尓まがり裏 口 尓戸なし

いえはいっしゃくほどもよこにまがりうらぐちにとなし


夜半 比 迄 主 人 不帰  夫 故 尓股 引 のまゝニて

やはんころまでしゅじんかえらずそれゆえにももひきのままにて


横 尓なり个連ハ何 ヤラキタナキ蒲(フ)とんを可け

よこになりければなにやらきたなき  ふ とんをかけ


希り一 向 不眠  して居ルうち破(ヤフレ)者かまを者き

けりいっこうねむれずしておるうち  やぶれ ばかまをはき


たもと尓ゴロ\/と鈴(スゞ)の音 をして高(タカ)間(マ)可原 なり

たもとにごろごろと  すず のおとをして  たか   ま がはらなり


正  月 故 尓五里も六 里も遠方(ヱンホウ)を竃(カマ)じめ尓

しょうがつゆえにごりもろくりも   えんぽう を  かま じめに


歩(アル)くなりとぞ

  ある くなりとぞ


九  日曇 ル大 風 寒 しさて主 人 ハ夜 比 未 タ明

ここのかくもるおおかぜさむしさてしゅじんはよるころいまだあけ


ぬ尓出で行キ个里程 なく我 ホも起(ヲ)き正  月

ぬにいでゆきけりほどなくわれらも  お きしょうがつ


能事 なれハ埒(ラチ)もなき雑 煮を出し个里雨 も

のことなれば  らち もなきぞうにをだしけりあめも

(大意)

(補足)

「破(ヤフレ)者かま」、たっつけばかま【裁着袴】のことか?『男子袴の一。膝から下を細く仕立てたもの。活動に便利なため,江戸中期から武士が旅行・調練などに用い,また奉公人・行商人が用いた。現在は相撲の呼び出しなどが用いている。伊賀袴』

「高(タカ)間(マ)可原」、高天原(たかまがはら)、神主のことか?

「竃(カマ)じめ」、『年末に行われる日本の伝統行事で、竃(かまど)の神様に感謝し、新しい年を迎えるために竃に注連縄を張って締めくくることです。これには、台所や火を司る三宝荒神(さんぽうこうじん)などの神様をお祀りし、新年の災厄除けを祈願する意味があります』とありましたが、正月にも行うのかもしれません。竃あけですね。

「九日」、天明9年1月9日。1789年2月3日。

 「家ハ一尺程も横尓まがり裏口尓戸なし」の貧しい家の正月の精一杯の雑煮を「埒(ラチ)もなき」とは、罰当たり江漢!

 

2025年10月15日水曜日

江漢西遊日記六 その12

P15 東京国立博物館蔵

P18

(読み)

泊 ル尓未 タ七  時 過 なり雨 いよ\/降 甚  タさ武し

とまるにいまだななつどきすぎなりあめいよいよふりはなはださむし


さて大 いな可ニてこの社 人 の家 尓老 婆二 人

さておおいなかにてこのしゃじんのいえにろうばふたり


若 ヒ女  一 人居。多宮 ハ畄主なり夫 故 手紙

わかいおんなひとりおりたみやはるすなりそれゆえてがみ


ハよめ春゛一 向 ぶあゐさ川なり大 蔵 の手紙

はよめず いっこうぶあいさつなりおおくらのてがみ


ニハ此 人 ハ殿 様 のお客  なりと申  遣  スと有(アリ)

にはこのひとはとのさまのおきゃくなりともうしつかわすと  あり


希れど手 紙を讀む人 なし夫 故 王らじ

けれどてがみをよむひとなしそれゆえわらじ


をぬき多るまゝ尓てあがり莚(ムシロ)じき能上 尓

をぬぎたるままにてあがり  むしろ じきのうえに


坐し个里イロり尓生 松 を燃(モシ)いぶし。

ざしけりいろりになままつを  もし いぶし


タバコ能ヤニだらけ扨 々 キタナけれど寒

たばこのやにだらけさてさてきたなけれどさむ


き故 イロリ尓当 里个る。そこらを見れバ

きゆえいろりにあたりける そこらをみれば

P18

正  月 九  日武野多宮 宅 調(ツキノ)川(カワ)と云 処

しょうがつここのかむのたみやたく  つきの   かわ というところ


此 家 ニ泊

このいえにとまる


なんき春る朝 出  立

なんぎするあさしゅったつ


せんとて

せんとて


雑 煮を

ぞうにを


出ス盃   を

だすさかずきを


出ス

だす

(大意)

(補足)

「七時過」、午後4時過ぎ。

「多宮」、宮のくずし字は何度か出てきていますが、最初は読めませんが形が特徴的なので、忘れないくずし字の一つになります。

「畄主」、留守。

P18が多宮の家の画。莚(むしろ)は囲炉裏のまわりだけに敷かれていると想像したのですが、部屋いっぱいにありました。奥には大きな水瓶が見えています。

「九日」、天明9年1月9日。1789年2月3日。

 正月なので、雑煮を出し、盃までも出しています。貧しいながらも精一杯のおもてなしです。

 

2025年10月14日火曜日

江漢西遊日記六 その11

P14 東京国立博物館蔵

(読み)

取レ多るを聞キ夜 の内 行ク又 々 大 蔵 参 リて

とれたるをききよるのうちゆくまたまたおおくらまいりて


遠 眼鏡 を餞 別 尓贈 ル亦 之助 へも手紙

とおめがねをせんべつにおくるまたのすけへもてがみ


を残 し安 兵衛案 内 して田比羅(タヒラ)の渡 し

をのこしやすべえあんないして    たひら のわたし


場(バ)まで送 る渡 里一 里なり爰 ニて平 戸

  ば までおくるわたりいちりなりここにてひらど


嶋 を離  ル後(ウシロ)をかえ里見ル尓平 戸能方 より

じまをはなれる  うしろ をかえりみるにひらどのほうより


雲 を起(ヲコ)し忽  チ雨 となる厨(ミクリヤ)と云 所  ニて豆(トウ)ふ

くもを  おこ したちまちあめとなる  みくりや というところにて  とう ふ


やニより昼  喰  春此 邊  一 向 能田舎 なり爰

やによりちゅうしょくすこのあたりいっこうのいなかなりここ


も鮪 漁  を春夫 よりツキ能カワと云フ処  ニ至

もしびりょうをすそれよりつきのかわというところにいた


る雨 いよ\/降(フル)爰 尓大 蔵 神 主 能下タ武野

るあめいよいよ  ふる ここにおおくらかんぬしのしたむの


多宮 と云フ者 アリ大 蔵 の手紙 を持チ爰 ニ

たみやというものありおおくらのてがみをもちここに

(大意)

(補足)

「田比羅(タヒラ」、田平。平戸市と記してある向かいが田平。海沿いにすすんで松浦市のところにある駅マークがJR調川(つきのかわ)駅。これからゆくところです。

「厨(ミクリヤ)」、御厨(みくりや)。海沿いの路をたどって、御厨村がありその先に調川村があります。 

 平戸島を離れ、九州北部海岸沿いを歩き始めました。

 

2025年10月13日月曜日

江漢西遊日記六 その10

P13 東京国立博物館蔵

(読み)

出し是 ハ上 ヨリ被下候     と能事 私   より貴公 尓

だしこれはかみよりくだされそうろうとのことわたくしよりきこうに


上ケ可申   と

あげもうすべしと


七 日天 氣朝 六 時 半 比 麻 上 下 を着(チヤク)して

なのかてんきあさむつどきはんころあさかみしもを  ちゃく して


社 内 ニ参  居ル五  時 過 壱岐(イキ)能守(カミ)侯(コウ)装  束

しゃないにまいりおるいつつどきすぎ   いき の  かみ   こう しょうぞく


ニて社 参 大 紋 の武士三 人 付 添ヒ神 主。

にてしゃさんだいもんのぶしさんにんつきそいかんぬし


別 當。神 女。太 鞁。打 笛 吹キ。相 結 る拝 殿

べっとうしんにょたいこ うちふえふき あいつめるはいでん


ニてお話 し申  て。し里ぞく夫 より亦 安 兵

にておはなしもうして しりぞくそれよりまたやすべ


衛方 へよる一 生  能別 レなりとて又 々 酒 を出シ

えかたへよりいっしょうのわかれなりとてまたまたさけをだし


別 レをおしミ个る

わかれをおしみける


八 日天 氣益 冨 氏ハ大 嶋 尓て鯨  数 々

ようかてんきますとみしはおおしまにてくじらかずかず

(大意)

(補足)

「被下候」、よく出てくるかたちなので、この三文字で一文字のようにして覚えます。

「七日」、天明9年1月7日。1789年2月1日。

「朝六時半比」、朝の7時頃。

「大紋」、『だいもん【大紋】① 大形の紋様。

② 大形の家紋を五か所に染めた直垂(ひたたれ)(大相撲の行司の装束)。袴にも五か所に紋をつける。室町時代に始まり,江戸時代には五位以上の武家の通常の礼服となった』。

「太鞁」、太鼓。

「結る」、詰る。