2025年12月22日月曜日

江漢西遊日記六 その80

P94 東京国立博物館蔵

(読み)

日暮(クレ)て五 ツ時 前 ニ帰 ル

ひ  くれ ていつつどきまえにかえる


廿   二日 朝 雨 後 ヤム伏 見六 右衛門 来ル生 鯛 漸

にじゅうににちあさあめのちやむふしみろくえ もんくるなまだいようやく


四五寸 位  ニして價  五匁  之(コレ)を吸 物 として酒 を

しごすんくらいにしてあたいごもんめ  これ をすいものとしてさけを


出ス

だす


廿   三 日 曇  冨士の画老 人 の像 出来ル伏 見へ

にじゅうさんにちくもりふじのえろうじんのぞうできるふしみへ


持 行ク良  祐 老 人 ニ渡 春返 り尓桃 山 へ登 ル花

もちゆくりょうすけろうじんにわたすかえりにももやまへのぼるはな


少  々  末 夜 ニ入 帰 り路 新 地と云 処  茶 屋へ上 里

しょうしょうすえよるにいりかえりみちしんちというところちゃやへあがり


妓  一 人呼ヒ大 酒 春る

おんなひとりよびおおざけする


廿   四 日天 氣四条  丸 屋亦 七 方 へ行キビイドロ板

にじゅうよっかてんきしじょうまるやまたしちかたへゆきびいどろいた


吹 様 をおしへる茶 菓子を出ス夫 より荻 野へよる

ふきようをおしえるちゃがしをだすそれよりおぎのへよる

(大意)

(補足)

「廿二日」、寛政1年3月22日 1789年4月17日。

「良祐老人」、(その73)の3月17日に頼まれた画、近江日野商人の中井源左衛門良祐このとき73歳(1716年~1805年)。

「四条丸屋亦七」、(その76)で登場。

「荻野左衛門尉」、(その68)、(その73)に登場してます。

 毎日京都及び周辺の観光で出歩き飲み歩き、夜は夜で茶屋遊び、しかし老人の画はコツコツ描いていたようです。

 

2025年12月21日日曜日

江漢西遊日記六 その79

P93 東京国立博物館蔵

(読み)

去りて橋 を渡 里虚空 蔵 の前 能田 楽 茶 や

さりてはしをわたりこくうぞうのまえのでんがくじゃや


へあかり田 楽 ニて酒 を呑ミ个る尓何ンぞ魚  ハなき

へあがりでんがくにてさけをのみけるになんぞさかなはなき


ヤと問ヘハ者やと云 小魚  ニ大 根 を切リ酢ヲかけて

やととえばはやというこざかなにだいこんをきりすをかけて


出し希れ此 地海 遠 ふして魚  なし夫 より梅

だしけれこのちうみとううしてさかななしそれよりうめ


能宮 と云フ処  を横 尓見て桂  の渡 し千 本 通

のみやというところをよこにみてかつらのわたしせんぼんどおり


嶋 原 を見て東 寺尓至 ル此 日終  日 弘 法 大

しまばらをみてとうじにいたるこのひしゅうじつこうぼうだい


師開 帳  寺内 参 詣 多 シ千 手 観 音 堂 アリ

しかいちょうじないさんけいおおしせんじゅかんのんどうあり


後 ロハ薬 師昔 シハ大 伽羅 ニて消  失 しぬ

うしろはやくしむかしはだいがらんにてしょうしつしぬ


碇(イシツヱ)至  て大 きし羅生  門 の趾 アリ夫 より

  いしずえ いたっておおきしらしょうもんのあとありそれより


して本 願 寺能前 を通 り此 邊  漸  く焼 能こる

してほんがんじのまえをとおりこのあたりようやくやけのこる

(大意)

(補足)

「虚空蔵」、嵐山、虚空蔵法輪寺。

「梅の宮」、梅宮大社。

「伽羅」、伽藍。「碇」、礎。

 嵐山からそのままほぼ真東へ、JR京都駅裏の東寺、そして本願寺着。比較的のんびりした京都観光の1日の様子です。

 

2025年12月20日土曜日

江漢西遊日記六 その78

P92 東京国立博物館蔵

(読み)

なり引 手真紅(シンク)能婦さお多巻 武春び誠  ニ堂

なりひきて   しんく のふさおだまきむすびまことにどう


上  方 能おもむき別 なり爰 を出て二十  余町  行キ

じょうがたのおもむきべつなりここをでてにじゅうよちょうゆき


嵯峨の釈 迦十  九日 より開 帳  亦 七 八 町  過 て

さがのしゃかじゅうくにちよりかいちょうまたしちはちちょうすぎて


嵐  山 桜  松 の木陰 より咲(サキ)出テ前 ハ大 井河 の流 レ

あらしやまさくらまつのこかげより  さき いでまえはおおいがわのながれ


此 比 ハ出張 の茶 屋アリ床(セウ)木(キ)を貸(カス)床  机(キ)の足

このころはでばりのちゃやあり  しょう  ぎ を  かす しょう  ぎ のあし


を流レ 尓ひ多し盃   を持テハ花 ひら飛 来て酒 尓

をながれにひたしさかずきをもてばはなびらとびきてさけに


いる向 フ山 の根ハ水 深 く笩  を丹 波の方 よりおろ春

いるむこうやまのねはみずふかくいかだをたんばのほうよりおろす


然 ル尓吾 等不案 内 ニして酒 肴 を先 ニて

しかるにわれらふあんないにしてしゅこうをさきにて


求 メんと思 ヒし尓茶 屋ニハ茶 能ミ尓して且 テ麁(ソ)

もとめんとおもいしにちゃやにはちゃのみにしてかって  そ


菓もなし故 尓他 の酒 呑 楽 し武を見て爰 を

かもなしゆえにほかのさけのみたのしむをみてここを

(大意)

(補足)

「お多巻武春び」、『おだまき を―【苧環】① つむいだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもの。おだま。』

「堂上方」、『どうじょう だうじやう【堂上】〔古くは「とうしょう」「どうしょう」とも〕① 昇殿を許された公卿・殿上人の総称。公家。堂上方。 ↔地下(じげ)』

「嵯峨の釈迦堂」、清凉寺 (嵯峨釈迦堂)、JR嵯峨嵐山駅からすぐ。

「大井河」、大堰川。

「床木」、床几。「床机」、床几。「笩」、筏もありますけど、どちらも読みは(いかだ)。

「麁(ソ)菓」、『そか ―くわ【粗菓】粗末な菓子。人に菓子を勧めたり,贈ったりするとき,謙遜していう語』。『そひん【粗品・麁品】① 粗悪な物。粗物。「御覧に足らぬ―なりとも御収納下され」〈近世紀聞•採菊〉』


 

2025年12月19日金曜日

江漢西遊日記六 その77

P91 東京国立博物館蔵

(読み)

頂  とあり池 尓色 \/能名 石 あり天 井  古法

ちょうとありいけにいろいろのめいせきありてんじょうこほう


眼 の画と云 画ハ見へ春゛柱  の隅ミを見る尓金

げんのえというえはみえず はしらのすみをみるにきん


箔 少 シ残 り多る有 夫 よりお室 尓参 ル二王 門

ぱくすこしのこりたるありそれよりおむろにまいるにおうもん


を入  て堂 の前 桜  さか里京  ハ春 の一 季ハ誠  ニ

をはいりてどうのまえさくらさかりきょうははるのいっきはまことに


都  乃春 ニて風 乃吹 ぬ所  ニて毎 日 能 天(テン)キ

みやこのはるにてかぜのふかぬところにてまいにちよき  てん き


ニて貴賤 皆 花 を見て楽 しむ亦 御所 の

にてきせんみなはなをみてたのしむまたごしょの


お坐しき拝 見 春る襖  金 泥 引 極 彩 色 ニ

おざしきはいけんするふすまきんでいびきごくさいしきに


花 と鳥 を模様 尓散ラし多るあり亦 人 物 或

はなととりをもようにちらしたるありまたじんぶつあるいは


孔雀  御坐間とも云 処  揚ケ多ゝみ屏  風ニて

くじゃくござまともいうところあげたたみびょうぶにて


かこひ其 後 ロ草 花 置 上(アケ)泥 引 砂 子

かこいそのうしろくさばなおき  あげ でいびきすなご

(大意)

(補足)

「古法眼」、『こほうげん ―ほふげん【古法眼】

父子ともに法眼の位を授けられている時,その父の方をいう称。特に,狩野元信をいう』、江漢は狩野元信のことをかならずこの言葉を使っています。

「泥引」、『でいびき【泥引き】刷毛(はけ)などで金泥・銀泥を引くこと』。

「砂子」、『すなご【砂子・沙子】① すな。まさご。

② 金銀の箔(はく)を粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・色紙・襖(ふすま)紙などに吹きつけて装飾とする。「―ノ屛風」〈日葡辞書〉』。

 金閣寺の内部を細かく観察しています。やはり絵師なのでしょうけど、抑えようもなく好奇心がまさるのでしょう。

 

2025年12月18日木曜日

江漢西遊日記六 その76

P90 東京国立博物館蔵

(読み)

入 る四条  栁   馬 場丸 亦 ヘ行ク夫 より清 水 観

いれるしじょうやなぎのばんばまるまたへゆくそれよりきよみずかん


音 開 帳  へ参 ル桜  の盛 里茶店 に休 ミ祇園

のんかいちょうへまいるさくらのさかりさてんにやすみぎおん


へ参 り二軒 茶 屋てん楽 ニて酒 を呑ミ祇園 町

へまいりにけんちゃやでんがくにてさけをのみぎおんまち


四条  へ出て帰 ル京  地ハ婦人 よし神 社 仏 閣

しじょうへでてかえるきょうちはふじんよしじんじゃぶっかく


山 をか多と里景色 よし東 都ニ異  里

やまをかたどりけしきよしとうとにことなり


廿   一 日 天 氣朝 より西 北 の方 へ行ク北 野天 神

にじゅういちにちてんきあさよりせいほくのほうへゆくきたのてんじん


北 の門 を出谷 川 尓二軒 茶 屋あり鯉 の吸 物 う

きたのもんをでたにがわににけんちゃやありこいのすいものう


なき能蒲 焼 アリ夫 より平 野の宮 三 社

なぎのかばやきありそれよりひらののみやさんしゃ


あり桜 花さかり亦 金閣寺(キンカクジノ)寺(テラ)へ行ク十  人

ありおうかさかりまた    きんかくじの   てら へゆくじゅうにん


ニて銀 二匁  出し見 物 春三 階 能額 ニハ究 意

にてぎんにもんめだしけんぶつすさんかいのがくにはくっきょう

(大意)

(補足)

「四条栁馬場丸亦ヘ行ク」、「四条栁馬場」は(しじょうやなぎのばんば)と読み、それにつづく「丸亦ヘ行ク」が意味不明です。(追記)「四条丸屋亦七」のことでした。

「廿一日」、寛政1年3月21日 1789年4月16日。

「平野の宮三社」、江戸時代から夜桜が庶民に開放されて以来、「平野の夜桜」として有名。

「究意頂」、AIによる概要です。

『金閣寺(鹿苑寺)の「究竟頂(くっきょうちょう)」は、舎利殿の最上層(第3層)を指す名称で、中国風の禅宗様仏殿造りを取り入れた究極の極楽浄土を表現した空間です。 仏舎利を安置する場所であり、内部は金箔で覆われ、後小松天皇の筆による「究竟頂」の額がかけられていました』。

 春真っ盛り。春の京都は何度も行きましたが、それでもまた行ってみたい♪

宇治方面もいいなぁ〜。

 

2025年12月17日水曜日

江漢西遊日記六 その75

P89 東京国立博物館蔵

(読み)

とぞ時 の鐘 あり宵(ヨイ)の中(ウチ)二三 町  の間  植(ウヘ)

とぞときのかねあり  よい の  うち にさんちょうのあいだ  うえ


木其 外 喰 物 諸 道 具捅 ざる様 能物

きそのほかくいものしょどうぐおけざるようのもの


小道 具等 を賣る是 ヲ夜市 と云ツて皆

こどうぐとうをうるこれをよいちといってみな


買ヒ尓行 夫 故 昼 ハ野菜 其 外 世代(セタイ)道

かいにゆくそれゆえひるはやさいそのほか   せたい どう


具賣リ歩 く者 なし此 市 所  々  尓あり

ぐうりあるくものなしこのいちところどころにあり


四条  橋 結メの町 ハ毎 夜なり其 外 寺 町

しじょうはしづめのまちはまいよなりそのほかてらまち


の丸 太町  堀 川 立 賣 の邊  なり

のまるたちょうほりかわたちうりのあたりなり


十  九日 天 氣六 右衛門 頼 ミの画認  メる

じゅうくにちてんきろくえ もんたのみのえしたためる


廿 日天 氣暖 色  小袖 一 ツニて宜 し閑院(カンニン)の宮(ミヤ)

はつかてんきだんしょくこそでひとつにてよろし   かんにん の  みや


様 へ銅 版 江戸の圖八 景 能目か年御覧 尓

さまへどうはんえどのずはっけいのめがねごらんに

(大意)

(補足)

「捅」、桶。原文の漢字の読みは(トウ)。「世代」、世帯。「橋結」、橋詰。いつもながら誤字をまったく気にしてない様子。

「十九日」、寛政1年3月19日 1789年4月14日。

「閑院(カンニン)の宮(ミヤ)」、閑院宮(かんいんのみや)。日本の皇室における宮家の一つ。世襲親王家の四宮家の一つ。家領千石。当時の主は第二代典仁親王。他三家は伏見・有栖川・桂(八条・京極)。

 

2025年12月16日火曜日

江漢西遊日記六 その74

P88 東京国立博物館蔵

(読み)

治臺 へ行ク先 日 皆 梅 の花 なりし尓今 ハ皆

じだいへゆくせんじつみなうめのはななりしにいまはみな


桃 の花 となり茶店 あり蜆  の吸 物 でんかく

もものはなとなりさてんありしじみのすいものでんがく


酒 を賣ル見渡 春処  漸  く五六 十  人 皆 京

さけをうるみわたすところようやくごろくじゅうにんみなきょう


邊の人 なり中 に妓 子など連レ来ル者 ハ他国 のい

べのひとなりなかにげいこなどつれくるものはたこくのい


なか者 ニて顔 色 毛風 俗 も違 ヒて見尓くくぞ

なかものにてかおいろもふうぞくもちがいてみにくくぞ


ある晩 景 京  へ帰 ル路 六右衛門 尓逢フ嶋 原

あるばんけいきょうへかえるみちろくえもんにあうしまばら


より文(フミ)参  多るを彼 地の風 ニて初 會 ニて毛

より  ふみ まいりたるをかのちのふうにてしょかいにても


なじミ能如 し

なじみのごとし


十  八 日 天 氣中 井老 人 の像 出来ル宵(ヨイ)六

じゅうはちにちてんきなかいろうじんのぞうできる  よい ろっ


角 堂 観 音 ハ札 所 ニて爰 ハ京  の中  央 なり

かくどうかんのんはふだしょにてここはきょうのちゅうおうなり

(大意)

(補足)

「初會ニて毛なじミ能如し」、すでに何度か説明してきましたが、今回はAIの概要です。

『「花魁 初会(しょかい)」とは、江戸時代の吉原遊廓で初めての客が**花魁(高級遊女)**と対面し、儀礼的な顔合わせや酒宴を行う最初の段階を指します。

初会の流れと特徴

顔合わせ: 客は妓楼(遊女屋)の「張見世」で花魁を選び、手配してもらいます。

引付座敷: 初めての客は「引付座敷」に通され、花魁と対面します。

儀礼: 盃を酌み交わす儀式が行われ、教養や身分が試されました。

「三回目で肌を許す」説: 初会で花魁は口を利かず、2回目(裏)で打ち解け、3回目(馴染み)で初めて肌を許すという説は有名ですが、これは伝説であり、現実には初会から関係を持つことも多かったとされます。

「裏」と「馴染み」: 2度目の来店は「裏を返す(裏)」、3度目は「馴染み」と呼ばれ、馴染みになるとより親密な関係になることが期待されました』。

「十八日」、寛政1年3月18日 1789年4月13日。

「六角堂」、赤印のところ。 


 梅が終わり、桃の花となり、次は桜です。もう西洋暦では4月もなかば。