2025年7月5日土曜日

江漢西遊日記四 その48

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

糸(シ)能入 多る物 を打 かけ尓着(キ)多り髪 ハ江

  し のいるたるものをうちかけに  き たりかみはえ


戸能様 なり夜具ハ表(ヲモテ)木綿(メン)なり裏 ハ絹(キヌ)

どのようなりやぐは  おもて も  めん なりうらは  きぬ


ニて蒲とん同 断 なり長 崎 能衣装  と

にてふとんどうだんなりながさきのいしょうと


云 ハ昔 し能事 也 昔 しハ唐 人 おらん多も

いうはむかしのことなりむかしはとうじんおらんだも


町 尓宿 を取 金 一 両  に付 十  二匁  うん上

まちにやどをとりきんいちりょうにつきじゅうにもんめうんじょう


を出し多る時 能事 なり今 ハ唐 人 おらん

をだしたるときのことなりいまはとうじんおらん


多人 能代 物 皆 上 ヘ買ヒあけ夫 よりして

だじんのしろものみなかみへかいあげそれよりして


商  人 入  札 ニて買フ事 とハなりぬ別  て

しょうにんにゅうさつにてかうこととはなりぬべっして


此 節 ハ水 野公 と云 お奉行  此 方 尚 \/

このせつはみずのこうというおぶぎょうこのかたなおなお


衰(スイ)びし多ると云 揚 代 廿   五匁  酒 肴

  すい びしたるというあげだいにじゅうごもんめさけさかな

(大意)

(補足)

「絹」、絹のくずし字はどうも苦手です。

「同断」、断のくずし字は特徴的なので覚えやすい。

「うん上」、運上。税金のこと。

「水野公」、水野 忠通(みずの ただゆき、延享4年(1747年)〜文政6年11月17日(1823年12月18日))。水野若狭守。この年の9月に着任。

 寛政の改革を推し進めた松平定信は、天明6年(1786年)もしくは翌7年初頭に将軍徳川家斉に上申した書状に、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、その統治は熟考すべきことだと書いた後、当時長崎奉行を務めていた水野は「相応御用に相立ち申す可き(しっかりしており役に立つ)」者と述べていた。『よしの冊子』にも、定信から目をかけられたことで「水野ハ一体気丈無欲ニてよき御役人のよしのさた」(なかなか気が強く無欲なので、よい役人だ)と評判になったことが書かれている、とウィキペディアにありました。

「衰(スイ)びし多ると云」、ウィキペディアに『天明8年(1788年)に、同僚の長崎奉行の末吉利隆が長崎在勤中に処罰を受けたため貿易業務は滞った。国内の銅不足とあいまって、貿易用の銅搬入が遅延し、そのために後任の水野は離日を控えたオランダ商館長に責められた。水野は、輸出銅が枯渇したのは長崎会所の乱脈経営にあると考え、会所改革のため翌寛政元年(1789年)にオランダ貿易に深く関与していた年番大通詞の堀門十郎と長崎会所調役の久松半右衛門を処分した』とあって、このことを指しているのかもしれません。

 

2025年7月4日金曜日

江漢西遊日記四 その47

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

筑 町 服 部 甚 兵衛方 尓宮 嶋 尓て別 レ

つきまちはっとりじんべえかたにみやじまにてわかれ


し春 木門 弥と云 者 爰 尓滞 畄  して居ル

しはるきもんやというものここにたいりゅうしている


と云フ故 尓一寸  よりぬ宿 元 へ手紙 を頼 ム

というゆえにちょっとよりぬやどもとへてがみをたのむ


廿   一 日 曇  て雨 昼 より亦 大 徳 寺へシツ

にじゅういちにちくもりてあめひるよりまただいとくじへしっ


ボク尓呼ハレ馳走 ニなる夜 ニ入 江戸宿  老 ト

ぽくによばれちそうになるよるにいりえどしゅくろうと


云 人 来 リ知ル人 ニなる夫 より田口 惣 八 郎 と

いうひときたりしるひとになるそれよりたぐちそうはちろうと


云 人 之(コレ)もヲトナと云 役 人 なり之(コレ)と共 尓

いうひと  これ もおとなというやくにんなり  これ とともに


丸 山 揚 屋河 さきやと云 家 尓至 り太夫

まるやまあげやかわさきやといういえにいたりたゆう


を揚 る名は半 太夫 と云フ田口 ハ小式 部と

をあげるなははんだゆうというたぐちはこしきぶと


云フ衣装  ハ絹 縮 面 なり亦 何 ヤラ金

いういしょうはきぬちりめんなりまたなにやらきん

(大意)

(補足)

「廿一日」、天明8年10月21日。西暦1788年11月18日。

「ヲトナ」、ここでは長崎各町の代表者。町民の選挙により選ばれた。

「絹縮面」、縮緬。

 さて何度目かの揚屋。江漢さん目がキラキラしてきます。

 

2025年7月3日木曜日

江漢西遊日記四 その46

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

廿 日雨 天鍛冶(カチ)町  荒木(アラキ)為 之進 と云フ

はつかうてん   かじ ちょう   あらき ためのしんという


者 能処  ヘ行ク之 ハ画(ヱ)鑑定(メキゝ)能役 ニて夫

もののところへゆくこれは  え    めきき のやくにてそれ


故 画も春こし描(カク)なり一 向 能下手爰 ニて昼

ゆええもすこし  かく なりいっこうのへたここにてちゅう


喰  ヲ出春夫 ヨリ大 徳 寺尓行キ和尚  尓

しょくをだすそれよりだいとくじにゆきおしょうに


逢ひ酒 食  を出ス庭 尓かひでと云 唐(カラ)

あいしゅしょくをだすにわにかえでという  から


楓(モミチ)あり之(コレ)ハ黄色 尓なる能ミ尓して紅 葉

  もみじ あり  これ はきいろになるのみにしてこうよう


ハせぬも能なり此 節 紅(ベニ)能如 クなり和尚

はせぬものなりこのせつ  べに のごとくなりおしょう


の云 今年 初 メて紅 葉 春と云 さて庭 ヨリ

のいうことしはじめてこうようすというさてにわより


見おろせバおらん多出嶋 唐 人 蔵 屋し

みおろせばおらんだでじまとうじんくらやし


き十  善 寺目能下 尓見ユ夫 よりして

きじゅうぜんじめのしたにみゆそれよりして

(大意)

(補足)

「廿日」、天明8年10月20日。西暦1788年11月17日。

「荒木(アラキ)為之進」、『荒木 元融(あらき げんゆう、享保13年(1728年)〜寛政6年4月18日(1794年5月17日))は、江戸時代中期の長崎派画家』。江漢は「一向能下手」と酷評していて、それは「秘伝のガラス絵の技法を教えてもらえなかったことへの鬱憤晴らしと捉えられている」とウィキペディアにありました。

 おだてられると調子にのり、願いが叶えられないとふてくされる。いい歳をしてガキのようですけど、年をとってもその性格はかわりませんでした。昼食をごちそうされているのにな・・・

「画(ヱ)鑑定(メキゝ)能役」、唐絵名利。長崎奉行のもとにおかれ、洋画・唐絵を鑑定し、値付け・買い入れにあたった役。

「庭ヨリ見おろせバおらん多出嶋唐人蔵屋しき十善寺目能下尓見ユ」、なるほど地図にある大徳寺のすぐ西に十善寺があり、入江の向こうには出島阿蘭陀屋敷があります。


「唐楓(カラモミジ)」、中国が原産のカエデなのでトウカエデ(唐楓)という名が付き、日本には江戸時代に渡来、切れ込みのある葉の形をカエルの手に見立てたことによる。

 

2025年7月2日水曜日

江漢西遊日記四 その45

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

ナシ

なし


十  九日 天 氣ニて小袖 綿 入 一 ツ着(キ)てよし昼

じゅうくにちてんきにてこそでわたいれひとつ  き てよしひる


ヨリ酒 屋町  鉅鹿(キヨロク)裕 五良 方 ヘ参 ル主 人 出て

よりさかやちょう   きょろく ゆうごろうかたへまいるしゅじんでて


云フ私  の祖父ハ支那明(カラミン)の世の者 ニて外 国 ヨリ

いうわたしのそふは    からみん のよのものにてがいこくより


亂 を起 シ明 亡  ル能時 亂 避ケて此 日本 長

らんをおこしみんほろぶるのときらんさけてこのにほんなが


崎 ヘ来 リて今 爰 尓住  居 春性 ハ魏鉅 鹿 と云

さきへきたりていまここにじゅうきょすせいはぎきょろくという


処  能者 也 其 比 ハ持 来 リし物 も有 家居 も

ところのものなりそのころはもちきたりしものもありかきょも


彼 国 能風 尓造 里お目尓かけ度 物 もありし尓

かのくにのふうにつくりおめにかけたくものもありしに


火災 にて失  ひ如此    能体(テイ)なりとなミ多を浮

かさいにてうしないかくのごとくの  てい なりとなみだをうか


へ古と和里を申 シきなる程 一 向 能貧 乏 人 とハなりぬ

べことわりをもうしきなるほどいっこうのびんぼうにんとはなりぬ

(大意)

(補足)

「十九日」、天明8年10月19日。西暦1788年11月16日。

「魏鉅鹿」、『鉅鹿家(おうがけ)の祖先魏之琰(ぎしえん)と兄の魏琰禎(六官)は明朝滅亡後、長崎に来航し安南貿易に従事し、巨商となり、崇福寺の大(おお)檀(だん)那(な)として活躍した。鉅鹿家は明の遺臣魏之琰(九官)を祖とする長崎在住の中国人の名門である。鉅鹿の姓は之琰が徳川家光から中国の魏の発祥地、河北省鉅鹿の地名を賜わったものという。 元禄2年(1689)之琰が死去して、子供たちが父と伯父を立派な純中国式の墓で合葬した。之琰は死去するまで鉅鹿姓を名乗らず魏であったが、子供から鉅鹿と日本姓を名乗った』と、長崎県学芸文化課のHPにありました。

 もう小寒いのか、「小袖綿入一ツ着(キ)てよし」とあります。

 

2025年7月1日火曜日

江漢西遊日記四 その44

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

ハ大 友 能真 鳥哥(カ)婦゛妓(キ)なりより処  なく見

はおおとものまとり  か ぶ   き なりよりどころなくけん


物 して夜 の九   時 過 尓帰 りぬ

ぶつしてよるのここのつどきすぎにかえりぬ


十  七 日 曇 ルおらん多出嶋 へ入 ル尓ハ坊  主惣

じゅうしちにちくもりおらんだでじまへはいるにはぼうずそう


髪ハなら春゛と云 爰 ニ於 て剃(ソツ)て野郎 となり

ははならず というここにおいて  そっ てやろうとなり


江 助 と名を改  ム一 人も江 助 と云 者 なしとかく

こうすけとなをあらたむひとりもこうすけというものなしとかく


江 漢 先 生 と呼フ又 利助 と槐 庵 と共 尓

こうかんせんせいとよぶまたりすけとかいあんとともに


木 庵 開 基能福 済 寺へ行ク寺中  永 笑

もくあんかいきのふくさいじへゆくじちゅうえいしょう


院 尓参 り酒 出 日暮 帰 ル額 在 大 雄 宝 殿 ト

いんにまいりさけだすひぐれかえるがくありだいゆうほうでんと


温 陵  鄭 泰 印 コレハ国 性 爺ノ事 なりとぞ

おんりょうていしんいんこれはこくせんやのことなりとぞ


十  八 日 クモル此 日灸  治春る此 地ニ切 モクサ

じゅうはちにちくもるこのひきゅうじするこのちにきりもぐさ

(大意)

(補足)

「より処なく」、とくに見るべきところもないものだった、といった感じでしょうか。

「十七日」、天明8年10月17日。西暦1788年11月14日。

「坊主」、「主」のくずし字が「丶」の下が「王」なので、そのくずし字「己」の形になっています。

「国性爺」、近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で有名。『人形浄瑠璃。時代物。近松門左衛門作。1715年初演。明朝から亡命した鄭芝竜(ていしりゆう)と日本女性との間に生まれた子鄭成功(ていせいこう)(和藤内)が,明朝再興に活躍した史実をもとに,国姓爺(和藤内)を中心に脚色したもの』。

 江漢さん、髪の毛を剃っていよいよ出島に入る準備をします。

 

2025年6月30日月曜日

江漢西遊日記四 その43

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

多る事 也 夫 より白 眠 と云 人 印 能上  手ニて

たることなりそれよりはくみんというひといんのじょうずにて


名高 キ人 なり之 へ参  知ル人 ニなる倅  ハ醫

なだかきひとなりこれへまいるしるひとになるせがれはい


者 ニて槐 庵 と云 爰 を去 て丸 山 寄 合

しゃにてかいあんというここをさりてまるやまよりあい


町  夜見世を見 物 春見世尓郡 内 嶋 能如 キ

ちょうよみせをけんぶつすみせにぐんないじまのごとき


衣服 ニて客  を取れハ衣装  を改  ムと云 價(アタ)へ

いふくにてきゃくをとればいしょうをあらたむという  あた へ


揚 代 十  匁  雑 用 共 亦 太夫 あり揚 屋二軒

あげだいじゅうもんめざつようともまたたゆうありあげやにけん


あり之 ハ揚 屋ヘ呼フ事 なり揚 代 廿   七 匁  内

ありこれはあげやへよぶことなりあげだいにじゅうななもんめうち


十  匁  ハ雑 用 なり漸  く太夫 六 七 人 とぞ此

じゅうもんめはざつようなりようやくたゆうろくしちにんとぞこの


節 夜 芝 居アリ亦 それへ行キ芝 居を見ル尓

せつよるしばいありまたそれへゆきしばいをみるに


砂糖(サトウ)よし能こもニて張リ多る小屋ニて狂  言

   さとう よしのこもにてはりたるこやにてきょうげん

(大意)

(補足)

「郡内嶋」、『ぐんないじま【郡内縞】』。『ぐんないおり【郡内織】山梨県郡内地方で産する絹織物。甲斐絹(かいき)の一種。太い格子縞のものが多く,夜具地。郡内縞』。

「砂糖(サトウ)よし」、きっとサトウキビのような葦(あし)のことでしょうか。

 江漢さんは揚屋については一家言の持ち主でありますので、どこへいってもその鑑識眼を最大限に発揮して、事細かく記しています。

 ウィキペディアの「丸山遊女」に、非常に詳しく様々な事柄が記されています。

 

2025年6月29日日曜日

江漢西遊日記四 その42

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

唐 人 がゝ里の者 なり此 人 能話  尓程 赤 城

とうじんかかりのものなりこのひとのはなしにていせきじょう


ハ浙 江 のうち乍(サ)浦と云 処  能人 なり少 シ書

はせっこうのうち  さ ほというところのひとなりすこししょ


を能ク春然  共 無学 人 ニて皆 商  人 の手代

をよくすしかれどもむがくじんにてみなしょうにんのてだい


なり方 西 園 ハ福 建 能近 邊 ニて舩 を仕出ス

なりほうせいえんはふっけんのきんぺんにてふねをしだす


者 ノ親 類 ニて之 も商  人 ニて交易(コウヱキ)ニ疎(ウトク)して

もののしんるいにてこれもしょうにんにて   こうえき に  うとく して


画など描キ能らくら者 なり皆 学 文 亦

えなどかきのらくらものなりみながくもんまた


ハ詩なと作 ル事 ハ一 向 尓知ら春゛となり

はしなどつくることはいっこうにしらず となり


十  六 日 天 氣朝 飯 後より勝 木利助 と云 人

じゅうろくにちてんきあさめしごよりかちきりすけというひと


能方 へ参 り昼 頃 より木 庵 開 基能南 京

のかたへまいりひるごろよりもくあんかいきのなんきん


寺 ヘ行キ見ル尓寺 ハ山 ニアリ誠  ニ唐 めき

でらへゆきみるにてらはやまにありまことにとうめき

(大意)

(補足)

「程赤城」、『享保20年(1735)生~180?歿

 名は霞生、字は赤城、号を柏塘と称し、一般的には字の赤城を以て知られた文人で、江南の人。明の船主で、医者でもあり、中国と長崎を往来して長崎の唐館に住し、書画を善くして日本の文化人と交流した清人で、日本語に通じて和歌も詠んだ。天明8年(1788)には春木南湖(江漢より二週間ほどはやく長崎に到着している)が会談しているし、文化元年(1804)には福山藩の儒医伊沢蘭軒も交流を持っている』、とありました。

「方西園」、『初来日は明和元年(1764年)とも安永元年(1772年)ともいう。安永3年(1774年)の来日記録ははっきりしている。安永9年(1780年)、45歳の時、元順号の副船主として渡海したが5月2日に房総沖で難破し安房国朝夷郡千倉に漂着。乗組員78名は全員無事だったが岩槻藩の唐人への待遇が悪く問題となった。

 日本船にて長崎に移送される途中、富士山を実見。西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆を走らせたという。このほかにも日本各地を写生。後に谷文晁により「漂客奇賞図」として模刻される。その遠近法が当時大いに注目される』、とウィキペディアにありました。

「南京寺」、『興福寺は、長崎県長崎市寺町にある、日本最古の黄檗宗の寺院。山号は東明山。山門が朱塗りであるため、あか寺とも呼ばれ、仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれる』。

「能らくら者」、『のらくらもの のらくら者】のらくらして役に立たない人。なまけ者。のら者』。のらくろではありませんでした。

「十六日」、天明8年10月16日。西暦1788年11月13日。

 ここでは程赤城、方西園にたいしてですけど、きっと唐人にたいして、江漢の彼らの蔑視・差別感が顕著にあらわれています。一方で西欧人や彼らの書物や物品・画などはペコペコとありがたがり、西欧のものならなんでも興味をもち、収集・研究をしています。

  しかしながら、西遊旅譚三では支那人の風俗・船などについて冷静に画人としての目で観察し「総て支那人は日本人にかわる事なし。志(ココロザシ)はなはだ似より。雅もあり俗もあり。又顔面(ガンショク)日本人の如し。只衣装の違いあるのみなり」とあって、数ページをさいて詳しく記しています。