P55 東京国立博物館蔵
(読み)
糸(シ)能入 多る物 を打 かけ尓着(キ)多り髪 ハ江
し のいるたるものをうちかけに き たりかみはえ
戸能様 なり夜具ハ表(ヲモテ)木綿(メン)なり裏 ハ絹(キヌ)
どのようなりやぐは おもて も めん なりうらは きぬ
ニて蒲とん同 断 なり長 崎 能衣装 と
にてふとんどうだんなりながさきのいしょうと
云 ハ昔 し能事 也 昔 しハ唐 人 おらん多も
いうはむかしのことなりむかしはとうじんおらんだも
町 尓宿 を取 金 一 両 に付 十 二匁 うん上
まちにやどをとりきんいちりょうにつきじゅうにもんめうんじょう
を出し多る時 能事 なり今 ハ唐 人 おらん
をだしたるときのことなりいまはとうじんおらん
多人 能代 物 皆 上 ヘ買ヒあけ夫 よりして
だじんのしろものみなかみへかいあげそれよりして
商 人 入 札 ニて買フ事 とハなりぬ別 て
しょうにんにゅうさつにてかうこととはなりぬべっして
此 節 ハ水 野公 と云 お奉行 此 方 尚 \/
このせつはみずのこうというおぶぎょうこのかたなおなお
衰(スイ)びし多ると云 揚 代 廿 五匁 酒 肴
すい びしたるというあげだいにじゅうごもんめさけさかな
(大意)
略
(補足)
「絹」、絹のくずし字はどうも苦手です。
「同断」、断のくずし字は特徴的なので覚えやすい。
「うん上」、運上。税金のこと。
「水野公」、水野 忠通(みずの ただゆき、延享4年(1747年)〜文政6年11月17日(1823年12月18日))。水野若狭守。この年の9月に着任。
寛政の改革を推し進めた松平定信は、天明6年(1786年)もしくは翌7年初頭に将軍徳川家斉に上申した書状に、「長崎は日本の病の一ツのうち」であり、その統治は熟考すべきことだと書いた後、当時長崎奉行を務めていた水野は「相応御用に相立ち申す可き(しっかりしており役に立つ)」者と述べていた。『よしの冊子』にも、定信から目をかけられたことで「水野ハ一体気丈無欲ニてよき御役人のよしのさた」(なかなか気が強く無欲なので、よい役人だ)と評判になったことが書かれている、とウィキペディアにありました。
「衰(スイ)びし多ると云」、ウィキペディアに『天明8年(1788年)に、同僚の長崎奉行の末吉利隆が長崎在勤中に処罰を受けたため貿易業務は滞った。国内の銅不足とあいまって、貿易用の銅搬入が遅延し、そのために後任の水野は離日を控えたオランダ商館長に責められた。水野は、輸出銅が枯渇したのは長崎会所の乱脈経営にあると考え、会所改革のため翌寛政元年(1789年)にオランダ貿易に深く関与していた年番大通詞の堀門十郎と長崎会所調役の久松半右衛門を処分した』とあって、このことを指しているのかもしれません。