2025年11月19日水曜日

江漢西遊日記六 その47

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

云フ処  まで皆 々 送 ル㐂左衛門 甚  タ別 レをおしミ

いうところまでみなみなおくるきざえもんはなはだわかれをおしみ


両  眼ニ涙(ナミタ)を浮 へ个里㐂左衛門 云 ニハ当 春  ハ参(サン)

りょうめに  なみだ をうかべけりきざえもんいうにはとうしゅんは  さん


宮 い多し必  ス大 坂 ニて御目ニかゝるべしと約(ヤク)シ

ぐういたしかならずおおさかにておめにかかるべしと  やく し


个る可゛其 後ニ聞 ハ参 宮 して返 りて死し多るを

けるが そのごにきくはさんぐうしてかえりてししたるを


云フ吾 尓別 レをおしミ多る前 表  なるや此 日

いうわれにわかれをおしみたるぜんぴょうなるやこのひ


南  風 暖 氣麦 畑  尓ひ者゛り啼 て空 ニ舞(マ)ひ

みなみかぜだんきむぎばたけにひば りなきてそらに  ま い


藤 井よりひと市 ニて駕籠尓乗ル吉 井川 能

ふじいよりひといちにてかごにのるよしいかわの


邊  ニて昼  喰  春加々戸伊(イン)部を越ヘ片 上 ヨリ又

あたりにてちゅうしょくすかがど  いん べをこえかたがみよりまた


駕籠ニ能里三 里能間  八木山 路 山 中  夜 ニ入

かごにのりさんりのあいだやぎやまみちさんちゅうよるにいり


三ツ石 松屋 と云 能 家 ニ泊 ル晩 方 寒 シ

みついしまつやというよきいえにとまるばんがたさむし

(大意)

(補足)

「藤井よりひと市」、「伊(イン)部を越ヘ片上」、古地図の左隅が岡山、左斜め上の街道をすすんで、藤井村、河の手前に一日市村があります。さらにそのまま街道のさき、青い入江のところが片上村でその手前に伊部村があります。 

 現在の地図です。

 縮尺があります。ざっと40数キロの行程、駕籠を使ったとはいえ強行軍であります。

「南風暖氣麦畑尓ひ者゛り啼て空ニ舞(マ)」う時期になりました。


 

2025年11月18日火曜日

江漢西遊日記六 その46

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

鮮(スクナ)し

十  二日 曇 ル泰 清 院 ニて逢フ尾州  の人 参 ル

じゅうににちくもるせいたいいんにてあうびしゅうのひとまいる


銅 版 を見セ个連ハ肝 を津婦゛春此 地白 魚

どうはんをみせければきもをつぶ すこのちしらうお


沢 山 平 皿 ニ三 盃 喰フ亦 灰 貝 と云 ハ石 灰

たくさんひらさらにさんばいくうまたはいがいというはせっかい


能替 り尓なるシックイ也 此 貝 サルボウ貝 ニ似

のかわりになるしっくいなりこのかいさるぼうがいにに


て裏 ノ方 まてウネあり此 肉 を喰フ之 ハ他 ニ

てうらのほうまでうねありこのにくをくうこれはほかに


なきと云フ卜 助 も来 ル夜 九  ツ時 過 迄 話 ス雨

なきというぼくすけもきたるよるここのつどきすぎまではなすう


天 ニても明日出  立 せんとて荷こしらへ春る

てんにてもあすしゅったつせんとてにごしらへする


十  三 日 雨 ヤマズ朝 五  時 過 少  々  ヤム故 ニ爰

じゅうさんにちあめやまずあさいつつどきすぎしょうしょうやむゆえにここ


を出  立 して裏 路 お城 の邊  を通 り松 本 と

をしゅったつしてうらみちおしろのあたりをとおりまつもとと

(大意)

(補足)

「十二日」、寛政1年2月12日 1789年3月8日。

「尾州」、「尾張(おわり)国」の通称で、現在の愛知県西部から岐阜県西濃地域一帯を指します、とAIの概要より。

「白魚」、好物と見えて以前の日記でも腹いっぱい食ってました。

「灰貝」、フネガイ科の二枚貝で、殻を焼いて貝灰(かいばい)にしたことから名づけられました。厚い殻には放射状に18本ほどの強い肋があり、灰黄色の殻皮で覆われています。肉は食用、とこれもAIの概要より。

「夜九ツ時過迄」、夜中の0時。「過迄」のふたつのくずし字に注意。

「朝五時」、朝8時頃。

「松本」、どの辺まで見送りをしたのかと、岡山の東周辺を探したのですが見つかりませんでした。

「銅版を見セ个連ハ肝を津婦゛春」 、江漢さんまたしても、ドヤ顔が目にうかびます

 

2025年11月17日月曜日

江漢西遊日記六 その45

P55 東京国立博物館蔵

(読み)

新 太郎 少  将  熊 沢 と謀(ハカツ)て寺 \/を破却(ハキヤク)

しんたろうしょうしょうくまさわと  はかっ ててらてらを   はきゃく


春と云フ今 ハ如舊(モト)となれ里玉 嶋 在 の人 云

すといういまはもとのごとしとなれりたましまざいのひという


玉 嶋 ハ舩着(ツキ)ニて頗  ル好 事能人 あり何ンと

たましまはふな つき にてすこぶるこうずのひとありなんと


我 等と一 所 尓玉 し満へお出 と申  あと戻 り

われらといっしょにたましまへおいでともうすあともどり


なり不行 兎角 長 旅 して吾 宿 ニ妻 子アレ

なりゆかずとかくながたびしてわれやどにさいしあれ


ハ帰 り度 思 フ人 ハ出  家ニなるべし吾 も出  家

ばかえりたくおもうひとはしゅっけになるべしわれもしゅっけ


ならハ何ン十  年 も玉 嶋 ハおろ可何 ク迄 も死

ならばなんじゅうねんもたましまはおろかいずくまでもし


まて遊 歴 せんニ残 念 なる事 也 尾州  能人

までゆうれきせんにざんねんなることなりびしゅうのひと


とて泰 清 院 と云フ寺 ニて逢フ吾カ名ヲ聞

とてせいたいいんというてらにてあうわがなをきき


甚  タ懼(ヲソ)ル何(イツ)方 へ行キても吾カ名ヲ不知 者

はなはだ  おそ る  いず かたへゆきてもわがなをしらずもの

(大意)

(補足)

「舊」、旧の旧字体。

「玉嶋」、倉敷の西側、川向う。

「泰清院」、清泰院(せいたいいん)のまちがいと参考書にはありました。清泰院(せいたいいん)は備前岡山藩主池田忠継・忠雄の菩提寺。

「吾カ名ヲ不知者」、次頁に「鮮(スクナ)し」と続きます。

 ほんとにこの江漢さんって、自尊心旺盛目立ちたがりやで、外面だけでなく心の内でも、満足しきって、よしよしとうなずいているでしょうねぇ。

 自分が出家していれば、何十年も津々浦々どこまでも遊歴するだろうナンテこと言ってますけど、無理ですって(カッコつけているだけです)、すぐにホームシックになってしまうのに・・・

 

2025年11月16日日曜日

江漢西遊日記六 その44

P54 東京国立博物館蔵

(読み)

九  日雨 蝋 画をビイドロニ認  メル倅  㐂左衛門 ハ

ここのかあめろうがをびいどろにしたためるせがれきざえもんは


好 事者 ニて吾 を信 春る事 如神    親 七 郎 治

こうずものにてわれをしんずることかみのごとしおやしちろうじ


六 十  余の人 ニて書 も讀メ甚  タ風 流  人 ニて

ろくじゅうよのひとにてしょもよめはなはだふうりゅうじんにて


夜 の八 時 まで話  春同 家若 林  朴(ホク)助 と

よるのやつどきまではなしすどうけわかばやし  ぼく すけと


云 人 来 ル

いうひときたる


十 日雨天 山 川 金 左衛門 岡 山 の家中  来 ル

とおかうてんやまかわきんざえもんおかやまのかちゅうきたる


十  三 年 以前 江戸勤 番 ニて逢ツ多る人 画ヲ

じゅうさんねんいぜんえどきんばんにてあったるひとえを


多能し武人 也 昼 より卜 助 方 ヘ行キ夫 より

たのしむひとなりひるよりぼくすけかたへゆきそれより


備 中  玉 嶋 能人 卜 助 方 ニ居て㐂左衛門 と共

びっちゅうたましまのひとぼくすけかたにいてきざえもんととも


尓羅漢 寺其 餘 の寺 を見 物 春昔 し

にらかんじそのほかのてらをけんぶつすむかし

(大意)

(補足)

「九日」、寛政1年2月9日 1789年3月5日。

「十三年以前江戸勤番ニて逢ツ多る人」、参勤交代は諸藩の財政を壊滅的にした元凶であり、同時に武家制度をも崩壊させた原因のひとつとなったのではありますが、江戸の文化を日本全国に広め、また諸国の地方文化を江戸にもたらしもしました。

 

2025年11月15日土曜日

江漢西遊日記六 その43

P53 東京国立博物館蔵

(読み)

八ツ時 過 尓なる宿 能主 人 料  理人 二 人ニ

やつどきすぎになるやどのしゅじんりょうりにんふたりに


て町 ハツレ迄て送 ル爰 より二里宮 内 ヘ出テ

てまちはずれまでおくるここよりにりみやうちへでて


往 来 なり亦 二里行 て岡 山 石 関 町  着

おうらいなりまたにりゆきておかやまいしせきちょうちゃく


林  氏尓至 ル親 七 郎 治倅  㐂左衛門 出て

はやししにいたるおやしちろうじせがれきざえもんでて


能ク\/御帰 リ此 間  中  指 ヲ屈 シ占   などして

よくよくおかえりこのあいだじゅうゆびをくっしうらないなどして


お待 申  とて早 々 喰  事を出し湯ニ入 り亦

おまちもうしとてそうそうしょくじをだしゆにはいりまた


奥 能坐しきへ行キコタツをして當 リな

おくのざしきへゆきこたつをしてあたりな


から父子咄 春寒 氣津よけ連ハ寛(ユル)\/

がらふしはなすかんきつよければ  ゆる ゆる


と御滞 畄  あれとさて何 方 ヘ行キても尊

とごたいりゅうあれどさていずかたへゆきてもそん


敬(ケウ)されるも婦しきなる事 かな

  けい されるもふしぎなることかな

(大意)

(補足)

 足守から4里の徒歩で岡山石関町へ、16Kmも歩くなんて、それも寒中です。

どこへ行っても大切にもてなされ尊敬されているようだと、至極満足げな江漢さん、湯につかりながらも、幸せそうです。どうしてそんなに尊敬されるのだろうと、わかっているくせに自尊心をくすぐられて、ニヤニヤ顔が目に浮かびます。

 

2025年11月14日金曜日

江漢西遊日記六 その42

 

P52 東京国立博物館蔵

(読み)

六 日天 氣鴨 鹿 料  理申  付 酒 を呑ミ宿 能

むいかてんきかもしかりょうりもうしつけさけをのみやどの


倅  浄  瑠璃をか多り一 興  春夫 より亦 御殿

せがれじょうるりをかたりいっきょうすそれよりまたごでん


へ行キ初 午 趣 好 を春夜 八 時 ニ帰 る

へゆきはつうましゅこうをすよるやつどきにかえる


七 日曇 ル八 時 此 より雪 降 出ス庭 の中(ウチ)色 \/

なのかくもるやつどきころよりゆきふりだすにわの  うち いろいろ


かざり物 田舎(イナカ)者 見 物 尓来ル雪 故 皆\/

かざりもの   いなか ものけんぶつにくるゆきゆえみなみな


かえる其 日も夜 の八 時 旅 宿 へ帰 ル

かえるそのひもよるのやつどきたびやどへかえる


八 日天 氣寒 く氷 ル今 日四 時 出  立 せんとて

ようかてんきさむくこおるきょうよつどきしゅったつせんとて


お暇  乞 ニ罷  出ル足 守 侯 お逢 金 五百  疋 ト

おいとまごいにまかりでるあしもりこうおあいきんごひゃっぴきと


八 丈  嶋 一 反 被 下 夫 より所  々  暇  乞 ニ参 り宿 へ

はちじょうじまいったんくださりそれよりところどころいとまごいにまいりやどへ


ハ庄  屋方 より蕎麦(ソバ)を贈 ル段 \/暇(ヒマ)取 漸  く

はしょうやがたより   そば をおくるだんだん  ひま どりようやく

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年2月6日 1789年3月2日。

「倅」、原文では「亻」が「忄」。「璃」、原文では「理」。

「夜八時」、夜中の2時。「七日曇ル八時」、こっちは昼の2時。「今日四時」、朝の10時頃。

「暇乞」、くずし字は二文字で覚えます。

「罷出」、これもセットで覚えます。

「八丈嶋」、島をもらうわけがないので、これは「縞」。

「被下」、これもセットで覚えます。

「段\/」、学んでなければ読めません。

 寒さが一番厳しい折、ましてや「寒く氷ル」という、夜中の2時まで歓談していたわけですけど、寒くなかったのかぁといらぬ心配をしてしまいます。

 

2025年11月13日木曜日

江漢西遊日記六 その41

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

个連ハ田夫田畑 の間  へタイ松 を持チ数 \/出シ

ければたふたはたのあいだへたいまつをもちかずかずだし


路 を照 し田夫の家 ニハあんどんを門(カト)口 ニ出シ

みちをてらしたふのいえにはあんどんを  かど ぐちにだし


又 タヒ松 を持 セ城  下迄テ連(ツレ)行 ハ尚 \/あり

またたいまつをもたせじょうかまで  つれ ゆくはなおなおあり


か多く思 フよし老 人 ハ数 珠を以 テ拝(ヲカム)なり

がたくおもうよしろうじんはじゅずをもって  おがむ なり


誠  尓愚直(クチヨク)なる者 ニて上ミ尓居ル者 之 を憐(アハレム)

まことに   ぐちょく なるものにてかみにいるものこれを  あわれむ


べし

べし


五 日雨 昼 より天 氣昼 過 御殿 へ出テ小襖

いつかあめひるよりてんきひるすぎごてんへでてこふすま


二組(クミ)桜  尓小鳥 流  尓鮎 の画なり明日出  立ツ

に  くみ さくらにことりながれにあゆのえなりあすしゅったつ


せんと申  上ケ个連ハ初 午 見 物 して八 日ニ出  立

せんともうしあげければはつうまけんぶつしてようかにしゅったつ


スべしと鹿 の肉 鴨 一 羽を下タさる

すべしとしかのにくかもいちわをくださる

(大意)

(補足)

「五日」、寛政1年2月5日 1789年3月1日。

「鹿の肉鴨一羽を下タさる」、鹿肉鴨肉を頂いたものの、江漢さんが料理をするわけではなく、この日記にも料理人が困っている様子がかかれています。春波楼筆記にはこのようにあります。 

 江漢が鹿の生血をすすりのんだいきさつは、この日記と春波楼筆記ではことなって記されていますが、どちらにしろこれらのことは事実であったようです。