P61 東京国立博物館蔵
(読み)
茶 屋
ちゃや
布 引 の瀧 山 の
ぬのびきのたきやまの
中 段 より見ル
ちゅうだんよりみる
女 瀧 アリ少 シ小 サシ
おんなだきありすこしちいさし
(大意)
略
(補足)
「布引の滝」で検索すると、神戸、京都、鳥取などいくつかが候補にあがりますけど、ここはもちろん神戸の滝です。しかし江漢さんの画と現在の滝の写真がずいぶんとことなっていて、二百年ちょっとのあいだにくずれたのかもしれません。
P61 東京国立博物館蔵
(読み)
茶 屋
ちゃや
布 引 の瀧 山 の
ぬのびきのたきやまの
中 段 より見ル
ちゅうだんよりみる
女 瀧 アリ少 シ小 サシ
おんなだきありすこしちいさし
(大意)
略
(補足)
「布引の滝」で検索すると、神戸、京都、鳥取などいくつかが候補にあがりますけど、ここはもちろん神戸の滝です。しかし江漢さんの画と現在の滝の写真がずいぶんとことなっていて、二百年ちょっとのあいだにくずれたのかもしれません。
P60 東京国立博物館蔵
(読み)
あり楠 の碑を石 摺 ニして賣ル亦 清盛 ノ石
ありくすのひをいしずりにしてうるまたきよもりのいし
塔(ハカ)アリ布 引 の瀧 ハ摩耶山 ノ下 ニアリ山 ノ中 腹
はか ありぬのびきのたきはまやさんのしたにありやまのちゅうふく
より望 て能キ瀧 ナリ岡 本 と云 処 其 比 梅 さか
よりのぞみてよきたきなりおかもとというところそのころうめさか
里兵 庫の者 梅 見ニ行ク夫 より西 の宮 ニ泊 ル
りひょうごのものうめみにゆくそれよりにしのみやにとまる
以上 十 里の路 也
いじょうじゅうりのみちなり
十 七 日 雨 大 降 大 坂 迄 五里駕籠ニ能る
じゅうしちにちあめおおぶりおおさかまでごりかごにのる
晩 七 ツ時 比 丸 清 方 ニ著ク宿 元 の状 正 月 二 日
ばんななつどきころまるせいかたにつくやどもとのじょうしょうがつふつか
出無事ナルヨシ安心(アンシン)春る
でぶじなるよし あんしん する
十 八 日 天 氣北 堀 江蒹 葭堂 ヘ行ク色\/
じゅうはちにちてんききたほりえけんかどうへゆくいろいろ
談 話春昼 過 帰 ル晩 方 丸 庄。 治兵衛。扇 久。
だんわすひるすぎかえるばんがたまるしょうじへえ せんきゅう
(大意)
略
(補足)
「布引の瀧ハ摩耶山ノ下ニアリ」、日記では「耶」が「邪」。
古地図の左下の神戸村をでてすぐ左上が布引の滝、その右上に摩耶山があります。そのまま街道に沿って中央辺りが岡本村になり、さらにすすんで古地図の右側が西宮宿です。
「以上十里の路也」ですから、40kmすすんだことになります。
「十七日」、寛政1年2月17日 1789年3月13日。
「大坂迄五里駕籠ニ能る」、20kmを二人でかつぎとおすのは難しいでしょうから、きっと交代のかつぎ手がふたりいたとおもいます。
「北堀江蒹葭堂ヘ行ク」、長崎へ行くときも何度か立ち寄ってます。
帰りは駕籠をよく使ってます。一刻も早く江戸へ帰りたい気持ちでいっぱいなようです。
P59 東京国立博物館蔵
(読み)
屋庄 左衛門 方 へより丹 波福 知山 ヘ行ク尓ハ
やしょうざえもんかたへよりたんばふくちやまへゆくには
市能河 尓付 て山 尓ニ入 ルよし此 節 雪 も
しのかわにつきてやまににはいるよしこのせつゆきも
あり亦 路 難 所 なれハ不行 加古川 ヘ四里
ありまたみちなんしょなればゆかずかこがわへしり
大 久保へ三 里半 五十 町 又 一 里程 行キ明
おおくぼへさんりはんごじっちょうまたいちりほどゆきあか
石川 者゛多尓泊 ル大 倉 谷 本 宿 なり爰 ヨリ
しかわば たにとまるおおくらだにほんしゅくなりここより
淡 路嶋 見へ大 坂 ニ近カより多る心 持 春る
あわじしまみえおおさかにちかよりたるこころもちする
十 六 日 天 氣六 時 過 尓明 石を發 足 して
じゅうろくにちてんきむつどきすぎにあかしをほっそくして
舞 子カ濱 風 景 よし敦盛(アツモリ)の石 塔 の
まいこがはまふうけいよし あつもり のせきとうの
前 ニて蕎麦を喰ヒ程 なく兵 庫ニ至 楠
まえにてそばをくいほどなくひょうごにいたるくす
能碑(ヒ)あり少 シ山 ニ入 て廣 厳 寺ニ宝 物
の ひ ありすこしやまにいりてこうごんじにほうもつ
(大意)
略
(補足)
地名がたくさんでてきます。
「姫路」より「加古川」へ、
「大久保(大窪)」より「明石」で泊、
「大倉谷(大蔵谷)」より「敦盛(アツモリ)の石塔」へ、
「敦盛墓兵庫津神戸」、
「廣厳寺(こうごんじ)」、『神戸市中央区楠町七丁目にある臨済宗の仏教寺院。別名の楠寺として広く知られる』
「十六日」、寛政1年2月16日 1789年3月12日。
「敦盛(アツモリ)の石塔の前ニて蕎麦を喰ヒ」、古地図を見ても風光明媚な浜がずっとつづき、淡路島などの島々が見えて、そばもさぞかしうまかったことでありましょう。
P58 東京国立博物館蔵
(読み)
十 四 日曇 北 風 さ武し三ツ石 を明 七 ツ時 尓
じゅうよっかくもりきたかぜさむしみついしをあけななつどきに
出 立 して有年(ウネ)迄 三 里山 路 なり漸 く尓して
しゅったつして うね までさんりやまみちなりようやくにして
夜明 多り有年河 舟 渡 し正 条 より駕
よあけたりうねかわぶねわたししょうじょうよりか
籠ニて姫 路ニ泊 爰 より丹 波へ出テ夫 より
ごにてひめじにとまるここよりたんばへでてそれより
京 へ行ク心 得なれと兎角 故郷 へかえ里度
きょうへゆくこころえなれどとかくこきょうへかえりたし
妻 子ある故 歟夫 故 ニ所 々 行キ残 し多る所 多 シ
さいしあるゆえかそれゆえにところどころゆきのこしたるところおおし
今 更 思 ヘハ残 念 なり姫 路皮 四五枚 買(カフ)
いまさらおもえばざんねんなりひめじかわしこまい かう
商 人 の云 京 光 代 寺当 月 八 日消 失 と云
しょうにんのいうきょうこうだいじとうげつようかしょうしつという
去 年 能大 火尓焼 残 里多る処 なり
きょねんのたいかにやけのこりたるところなり
十 五日 天 氣無風 五 時 過 尓出 立 して表
じゅうごにちてんきむふういつつどきすぎにしゅったつしておもて
(大意)
略
(補足)
「十四日」、寛政1年2月14日 1789年3月10日。
「明七ツ時」、夜明け前4時。真冬の4時に出立するなんて、よほど先を急ぎたいのでね。
「三ツ石」「有年(ウネ」、現在の地図です。右側の竜野の河よりが正条(しょうじょう)。
「正条」、「姫路」、右端にお城の絵があって、そこが姫路。左側の揖保川の左に正条村。
「姫路皮」、『姫路はわが国の皮革のふるさととして著名である』とあって、わたしはまったく知りませんでした。
「光代寺」、高台寺。実際は「2月9日、高台寺で火災が発生し小方丈や庫裏などが焼失した」とあります。消失してからまだ5日しかたってないのに、もう姫路まで届いてます。
「去年能大火」、『天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災』。
江漢さん、再三「兎角故郷へかえ里度妻子ある故歟」とこぼしていますが、そんなことはなく、普段の江戸の生活が恋しいだけだとおもいます。
P57 東京国立博物館蔵
(読み)
云フ処 まで皆 々 送 ル㐂左衛門 甚 タ別 レをおしミ
いうところまでみなみなおくるきざえもんはなはだわかれをおしみ
両 眼ニ涙(ナミタ)を浮 へ个里㐂左衛門 云 ニハ当 春 ハ参(サン)
りょうめに なみだ をうかべけりきざえもんいうにはとうしゅんは さん
宮 い多し必 ス大 坂 ニて御目ニかゝるべしと約(ヤク)シ
ぐういたしかならずおおさかにておめにかかるべしと やく し
个る可゛其 後ニ聞 ハ参 宮 して返 りて死し多るを
けるが そのごにきくはさんぐうしてかえりてししたるを
云フ吾 尓別 レをおしミ多る前 表 なるや此 日
いうわれにわかれをおしみたるぜんぴょうなるやこのひ
南 風 暖 氣麦 畑 尓ひ者゛り啼 て空 ニ舞(マ)ひ
みなみかぜだんきむぎばたけにひば りなきてそらに ま い
藤 井よりひと市 ニて駕籠尓乗ル吉 井川 能
ふじいよりひといちにてかごにのるよしいかわの
邊 ニて昼 喰 春加々戸伊(イン)部を越ヘ片 上 ヨリ又
あたりにてちゅうしょくすかがど いん べをこえかたがみよりまた
駕籠ニ能里三 里能間 八木山 路 山 中 夜 ニ入
かごにのりさんりのあいだやぎやまみちさんちゅうよるにいり
三ツ石 松屋 と云 能 家 ニ泊 ル晩 方 寒 シ
みついしまつやというよきいえにとまるばんがたさむし
(大意)
略
(補足)
「藤井よりひと市」、「伊(イン)部を越ヘ片上」、古地図の左隅が岡山、左斜め上の街道をすすんで、藤井村、河の手前に一日市村があります。さらにそのまま街道のさき、青い入江のところが片上村でその手前に伊部村があります。
現在の地図です。
縮尺があります。ざっと40数キロの行程、駕籠を使ったとはいえ強行軍であります。
「南風暖氣麦畑尓ひ者゛り啼て空ニ舞(マ)」う時期になりました。
P56 東京国立博物館蔵
(読み)
鮮(スクナ)し
十 二日 曇 ル泰 清 院 ニて逢フ尾州 の人 参 ル
じゅうににちくもるせいたいいんにてあうびしゅうのひとまいる
銅 版 を見セ个連ハ肝 を津婦゛春此 地白 魚
どうはんをみせければきもをつぶ すこのちしらうお
沢 山 平 皿 ニ三 盃 喰フ亦 灰 貝 と云 ハ石 灰
たくさんひらさらにさんばいくうまたはいがいというはせっかい
能替 り尓なるシックイ也 此 貝 サルボウ貝 ニ似
のかわりになるしっくいなりこのかいさるぼうがいにに
て裏 ノ方 まてウネあり此 肉 を喰フ之 ハ他 ニ
てうらのほうまでうねありこのにくをくうこれはほかに
なきと云フ卜 助 も来 ル夜 九 ツ時 過 迄 話 ス雨
なきというぼくすけもきたるよるここのつどきすぎまではなすう
天 ニても明日出 立 せんとて荷こしらへ春る
てんにてもあすしゅったつせんとてにごしらへする
十 三 日 雨 ヤマズ朝 五 時 過 少 々 ヤム故 ニ爰
じゅうさんにちあめやまずあさいつつどきすぎしょうしょうやむゆえにここ
を出 立 して裏 路 お城 の邊 を通 り松 本 と
をしゅったつしてうらみちおしろのあたりをとおりまつもとと
(大意)
略
(補足)
「十二日」、寛政1年2月12日 1789年3月8日。
「尾州」、「尾張(おわり)国」の通称で、現在の愛知県西部から岐阜県西濃地域一帯を指します、とAIの概要より。
「白魚」、好物と見えて以前の日記でも腹いっぱい食ってました。
「灰貝」、フネガイ科の二枚貝で、殻を焼いて貝灰(かいばい)にしたことから名づけられました。厚い殻には放射状に18本ほどの強い肋があり、灰黄色の殻皮で覆われています。肉は食用、とこれもAIの概要より。
「夜九ツ時過迄」、夜中の0時。「過迄」のふたつのくずし字に注意。
「朝五時」、朝8時頃。
「松本」、どの辺まで見送りをしたのかと、岡山の東周辺を探したのですが見つかりませんでした。
「銅版を見セ个連ハ肝を津婦゛春」 、江漢さんまたしても、ドヤ顔が目にうかびます
P55 東京国立博物館蔵
(読み)
新 太郎 少 将 熊 沢 と謀(ハカツ)て寺 \/を破却(ハキヤク)
しんたろうしょうしょうくまさわと はかっ ててらてらを はきゃく
春と云フ今 ハ如舊(モト)となれ里玉 嶋 在 の人 云
すといういまはもとのごとしとなれりたましまざいのひという
玉 嶋 ハ舩着(ツキ)ニて頗 ル好 事能人 あり何ンと
たましまはふな つき にてすこぶるこうずのひとありなんと
我 等と一 所 尓玉 し満へお出 と申 あと戻 り
われらといっしょにたましまへおいでともうすあともどり
なり不行 兎角 長 旅 して吾 宿 ニ妻 子アレ
なりゆかずとかくながたびしてわれやどにさいしあれ
ハ帰 り度 思 フ人 ハ出 家ニなるべし吾 も出 家
ばかえりたくおもうひとはしゅっけになるべしわれもしゅっけ
ならハ何ン十 年 も玉 嶋 ハおろ可何 ク迄 も死
ならばなんじゅうねんもたましまはおろかいずくまでもし
まて遊 歴 せんニ残 念 なる事 也 尾州 能人
までゆうれきせんにざんねんなることなりびしゅうのひと
とて泰 清 院 と云フ寺 ニて逢フ吾カ名ヲ聞
とてせいたいいんというてらにてあうわがなをきき
甚 タ懼(ヲソ)ル何(イツ)方 へ行キても吾カ名ヲ不知 者
はなはだ おそ る いず かたへゆきてもわがなをしらずもの
(大意)
略
(補足)
「舊」、旧の旧字体。
「玉嶋」、倉敷の西側、川向う。
「泰清院」、清泰院(せいたいいん)のまちがいと参考書にはありました。清泰院(せいたいいん)は備前岡山藩主池田忠継・忠雄の菩提寺。
「吾カ名ヲ不知者」、次頁に「鮮(スクナ)し」と続きます。
ほんとにこの江漢さんって、自尊心旺盛目立ちたがりやで、外面だけでなく心の内でも、満足しきって、よしよしとうなずいているでしょうねぇ。
自分が出家していれば、何十年も津々浦々どこまでも遊歴するだろうナンテこと言ってますけど、無理ですって(カッコつけているだけです)、すぐにホームシックになってしまうのに・・・