2025年6月28日土曜日

江漢西遊日記四 その41

P48 東京国立博物館蔵

(読み)

なり此 邊 能土民 瑠  球  イモを常  喰  と春

なりこのへんのどみんりゅうきゅういもをじょうしょくとす


長 崎 ニてハ芋 カイを喰  春芋 至  て甘 し

ながさきにてはいもがゆをしょくすいもいたってあまし


白 赤 の二品(ヒン)アリ

しろあかのに  ひん あり


十  四 日曇  丈  助 と云 人 松 十  郎 近 所 の人 なり

じゅうよっかくもりじょうすけというひとまつじゅうろうきんじょのひとなり


管生(スコー)山 尓居多る出  家を同 道 春菅生 山

   すごう さんにいたるしゅっけをどうどうすすごうさん


ハ西 国 札 所 ニて伊豫能国 なり階(ハシコ)ニて山 尓

はさいごくふだしょにていよのくになり  はしご にてやまに


登 り春る処  至  て妙 なる所  と云 不行 此 出

のぼりするところいたってたえなるところというゆかずこのしゅっ


家ニ聞ク

けにきく


十  五日 天 氣此 長 崎 へ入 口 を西 坂 と云 爰 ヨリ

じゅうごにちてんきこのながさきへいりぐちをにしさかというここより


見多るを圖春昼 比 爰 能親 類 の人 参 ル之(コレ)ハ

みたるをずすひるころここのしんるいのひとまいる  これ は

(大意)

(補足)

「瑠球」、琉球。

「十四日」、天明8年10月14日。西暦1788年11月11日。

「管生山」、愛媛県菅生山大宝寺、四国八十八箇所霊場の44番札所となる寺院。最初の管は「竹」冠、次のは「艹」冠になっています。

「出家」、『僧侶。僧』

「十五日」、天明8年10月15日。西暦1788年11月12日。

「西坂と云爰ヨリ見多るを圖春」、西遊旅譚三に「西坂より長崎を望む」があって、これがその画のようです。


 

 

2025年6月27日金曜日

江漢西遊日記四 その40

P47 東京国立博物館蔵

(読み)

脇 津深 堀 戸町 など云 処  あり二里半 参  山

わきつふかぼりとまちなどいうところありにりはんまいるやま


能うへを通 ル所  左右 海 也 脇 津ニ三崎 観

のうえをとおるところさゆううみなりわきつにみさきかん


音(オン)堂 アリ爰 ニ泊 ル

  おん どうありここにとまる


十  三 日 曇 ル時雨 尓て折 \/雨 降ル連レの者 ハ

じゅうさんにちくもるしぐれにておりおりあめふるつれのものは


途中  尓滞 畄  春我 等ハ帰 ルおらん多舩 亦

とちゅうにたいりゅうすわれらはかえるおらんだせんまた


唐 舩 沖 尓かゝ里居ル唐 人 下官(クワン)の者

からふねおきにかかりいるとうじんげ  かん  のもの


七 八 人 陸 へ水 を扱ミ尓あかる皆 鼡  色 能

しちはちにんりくへみずをくみにあがるみなねずみいろの


木綿 能着(キ)物 頭  ニハダツ帽 をか武り多り

もめんの  き ものあたまにはだつぼうをかむりたり


初 メて唐 人 を見多り路 \/ハマヲモトコンノ

はじめてとうじんをみたりみちみちはまおもとこんの


菊 野尓あり脇 津ハ亦 長 崎 より亦 暖 土

きくのにありわきつはまたながさきよりまただんど

(大意)

(補足)

「脇津」、ウィキペディアには『「脇岬」の由来について、脇津と岬の2つの地名を合わせたものとする説がある。中世には「肥御崎(ひのみさき)」、近世は「脇御岬」または「御岬」とも表記された』とありました。深堀村は地図の右上。 

「十三日」、天明8年10月13日。西暦1788年11月10日。

「下官(クワン)」、官のくずし字は学んでいないと読めません。次の行の「水」も同様。

「扱ミ」、汲む。

「ダツ帽」、いろいろ調べても不明。

「ハマヲモト」、浜木綿(ハマユウ)の別名。「コンノ菊」、ノコンギクのことか。

「脇津ニ三崎観音(オン)堂アリ爰ニ泊ル」、観音堂に泊まったのでしょうか?いつもなら宿の様子をあれこれ記してますけど、まったくありません。


 

2025年6月26日木曜日

江漢西遊日記四 その39

P46 東京国立博物館蔵

(読み)

蘭 物 ヲかざり酒 肴 を出し夜 能九   時 過

らんものをかざりしゅこうをだしよるのここのつどきすぎ


尓帰 ル

にかえる


十  二日 天 氣ニて朝 早 く御﨑 観 音 皆 \/

じゅうににちてんきにてあさはやくみさきかんのんみなみな


参 ルとて吾 も行 ンとて爰 より七 里ノ路 ナリ

まいるとてわれもゆかんとてここよりしちりのみちなり


松 十  郎 夫 婦外 ニかきやと云 家 能女  房

まつじゅうろうふうふほかにかぎやといういえのにょうぼう


亦 壱 人男 子五人 ニして参 ル此 地生  涯

またひとりだんしごにんにしてまいるこのちしょうがい


ま由をそら春゛夫 故 王かく亦 き里 うも

まゆをそらず それゆえわかくまたきりょうも


能く見ユ鍵(カキ)や婦ハ者゛多゛し参 リ皆 路 山

よくみゆ  かぎ やふはは だ しまいりみなみちやま


坂 ニして平 地なし西 南 を武ゐて行ク右

さかにしてへいちなしせいなんをむいてゆくみぎ


ハ五嶋 遥 カニ見ユ左  ハあまくさ嶋 原 見ヘ

はごとうはるかにみゆひだりはあまくさしまばらみへ

(大意)

(補足)

「夜能九時過」、深夜0時。

「十二日」、天明8年10月12日。西暦1788年11月9日。

「御﨑観音」、円通寺観音寺。地図で探すと似たようなお寺がたくさんあって迷います。「爰より七里ノ路」というのと、「西南を武ゐて行ク右ハ五嶋遥カニ見ユ左ハあまくさ嶋原見ヘ」るのは岬の先端にある「肥之御崎観音寺」だとおもいます。 

 そのお寺をもう少し詳しく調べると

『昔から長崎からの参詣者も多く、唐人屋敷跡に隣接する十人町(じゅうにんまち)から観音様へと続く約28kmの「御崎道(みさきみち)」という道があり、この道にそって観音様詣りをしました。今も「みさきみち」と標された石碑が残っています』

とあって、ここで間違いないようです。

 十人前後の人数で片道約30kmの小旅行、ピクニックとはとても言えません。

車でなら行ってみたい。いい眺めだろうなぁ〜。

 

2025年6月25日水曜日

江漢西遊日記四 その38

P45 東京国立博物館蔵

(読み)

吉 参 ル話(ハナス)唐 人 八 月 十  五日 月 餅 と云 を

きちまいる  はなす とうじんはちがつじゅうごにちげっぺいというを


造(ツク)り夫 をも羅ゐ喰ヒし尓小麦 能粉 ニて製

  つく りそれをもらいくいしにこむぎのこなにてせい


し油  尓て揚 多る物 至  て甘(アマシ)彼 国 糯 米 アル

しあぶらにてあげたるものいたって  あまし かのくにもちごめある


と雖  モ吾 日本 能米 能如 くなら春゛故 尓

といえどもわがにほんのこめのごとくならず ゆえに


日本 能餅 なし

にほんのもちなし


十  一 日 天 氣嶋 原 屋しきへ行ク晩 方 風

じゅういちにちてんきしまばらやしきへゆくばんがたふ


呂屋へ行ク居ヘ風呂也 夜 ニ入 平 戸町  幸

ろやへゆくすへぶろなりよるにいりひらどちょうこう


作 処  ヘ行ク二階 おらん多坐しきを見 物 ス

さくところへゆくにかいおらんだざしきをけんぶつす


イキリス細 工のヒイドロ額 蘭間(ランマ)下 ニ掛ケ

いぎりすさいくのびいどろがく   らんま したにかけ


ならべ下 ニハ椅(イ)スを並  其 外 奇妙  なる

ならべしたには  い すをならべそのほかきみょうなる

(大意)

(補足)

 前々回のブログで「おらん多舩 唐人舩」の画がありました。記録に、この年天明8年(1788)には、唐船は13隻、オランダ船は2隻来航したとあるので、江漢さんはちょうどこれからそれら船が帰国するところに出会ったようです。

「も羅ゐ」、この変体仮名「羅」(ら)はあまりみなかったような気がします。

「甘」、調べてみるとここにあるような「耳」に似たくずし字もあることがわかりました。

「十一日」、天明8年10月11日。西暦1788年11月8日。

「おらん多坐しき」、吉雄幸作はオランダ人と接する中で異国の書物・絵画・器具など珍品を収集し、それらを自宅の二階をオランダ風にした部屋に飾った。食事会なども催し、当時人々はこの二階を『吉雄の阿蘭陀座敷』と呼んで珍しがった、とありました。

 

2025年6月24日火曜日

江漢西遊日記四 その37

P44 東京国立博物館蔵

(読み)

なり多る前 ハ長 崎 甚 左衛門 と云 人 能領  地也

なりたるまえはながさきじんざえもんというひとのりょうちなり


此 日本 へ異国 ヨリ舩 を着(ツク)ルハ伊勢能大湊(ミナト)

このにほんへいこくよりふねを  つく るはいせのおお みなと


と云 所  さダかなら春゛夫 より泉 州  堺  の濱 ナリ

というところさだかならず それよりせんしゅうさかいのはまなり


亦 筑 前 博多 者か多より肥前 平 戸嶋 尓

またちくぜんはかたはかたよりひぜんひらどしまに


渡海 して寛 永 辛  巳の年 今 能長 崎 尓

とかいしてかんえいかのとみのとしいまのながさきに


なるさておらん多大 通 詞吉 雄(ヲ)幸 作 同  ク

なるさておらんだだいつうじよし  お こうさくおなじく


本 木榮 之進 両  人 未 タ役 所 より不返  夫 故

もときえいのしんりょうにんいまだやくしょよりかえらずそれゆえ


か者゛嶋 町  稲 部松 十  郎 へ行ク此 者 ハおらん多゛

かば しまちょういなべまつじゅうろうへゆくこのものはおらんだ


部屋付 役 ノ者 なり先ツ是 ニ暫  ク滞 畄  春日

べやつきやくのものなりまずこれにしばらくたいりゅうすひ


暮レて吉 雄本 木能二 人参 ル亦 本 木の息 元

ぐれてよしおもときのふたりまいるまたもときのそくもとよし

(大意)

(補足)

「長崎甚左衛門」、『長崎 甚左衛門純景(ながさき じんざえもん すみかげ、天文17年(1548年)? - 元和7年12月22日(1622年1月25日))は戦国時代・安土桃山時代の城主。深江浦(長崎)を領す。キリシタン大名』

「寛永辛巳(かのとみ)の年」、寛永十八1641)年

「大通詞」、明暦二(1656)年以後、大通詞・小通詞・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞・内通詞と階級がもうけられていた。

「吉雄(ヲ)幸作」、享保九(1724)年〜寛政十二(1800)年。51年間も大通詞職で活躍。解体新書初版に序文をよせている、とありました。

「本木榮之進」、享保二十(1735)年〜寛政六(1794)年。オランダ通詞、蘭学者。

 江漢は天文学方面のこの大先達に直接会って啓発されることが多かったようで、この旅が終えてから、もっぱら天文・地理をはじめとする西洋自然科学の研究と啓蒙書著述に没頭していった、とありました。

「本木の息元吉」、元吉ではなく茂吉。明和二(1767)年生まれ。

 

2025年6月23日月曜日

江漢西遊日記四 その36

P42 東京国立博物館蔵

P43

(読み)

おらん多舩

おらんだふね


唐 人 舩

とうじんふね

P43

屋しきハ十  善 寺と云 処  ニして低(ヒクキ)所  故 見得

やしきはじゅうぜんじというところにして  ひくき ところゆえみえ


春゛唐 舩 ハ七 八 艘 白 キ幡 を立 大 者とト

ず からふねはしちはっそうしろきはたをたておおはとと


云 処  尓かゝ里ておらん多゛舩 ハ其 比 十  月

いうところにかかりておらんだ ふねはそのころじゅうがつ


なれハ大 者とを出 神(カウ)さきと云 処  ハ一 里ヲ

なればおおはとをでて  こう さきというところはいちりを


隔 ツ爰 に一 艘 今 一 艘 ハ山 尓かくれて見

へだつここにいっそういまいっそうはやまにかくれてみ


え春゛向 フ所  ハ西 ニて沖 なり爰 より向

えず むかうところはにしにておきなりここよりむかい


地ハ稲 佐と云 処  なり山 ニ登 り此 景色

ちはいなさというところなりやまにのぼりこのけしき


を寫 春長 崎(サキ)町  数 九  十  六 町  と云 一 躰

をうつすなが  さき ちょうすうきゅうじゅうろくちょうといういったい


海 き王山 ニして町 中 石階(サカ)多 し旅 館 ハ

うみぎわやまにしてまちなかいし さか おおしりょかんは


なし旅 人 滞 畄  を禁 春゛今 能長 崎 尓

なしたびびとたいりゅうをきんず いまのながさきに

(大意)

(補足)

「十善寺」は長崎村と記してある左に十善寺郷とあり、「神(カウ)さき」は地図の左下に神崎臺場、「稲佐」は左端やや上に稲佐山とあります。 

「大者と」、大波止(場)。

「おらん多゛舩ハ其比十月なれハ」、オランダ船は季節風を利用して7~9月ごろにやってきて貿易業務を行い、10月に出航していました。出島には代々カピタンを引き継いだ商館長の日記が豊富にあり、翻訳されてるものも多数あるので、当時の様子がとても詳しくわかります。

 阿蘭陀船出帆之図です。右の山に神嵜とあります。 

 長崎の街なか見物よりも、まず全体を見渡せる稲佐山にのぼり(調べると333mもあります)、写生をするのはいかにも江漢さんらしい。

 

2025年6月22日日曜日

江漢西遊日記四 その35

P40 東京国立博物館蔵

P41

(読み)

夫 より一  方ハ畑  一 方 ハ山 能根を行ク処  ニして

それよりいっぽうははたけいっぽうはやまのねをゆくところにして


岩 尓佛  のか多ちを彫 付 てあり皆 面 部

いわにほとけのかたちをほりつけてありみなめんぶ


手足 を打 かきてあり之 ハ古  へイギリス

てあしをうちかきてありこれはいにしえいぎりす


人 渡 り多る時 能し王ざなりとぞ爰 より長

じんわたりたるときのしわざなりとぞここよりなが


崎 能入 口 なり是 ハ本 道 ニ非  本 道 ハ大

さきのいりぐちなりこれはほんどうにあらずほんどうはおお


村 よりいさ者ヤ四里矢上 ヘ一 里日見へ一 里

むらよりいさはやよりやがみへいちりひみへいちり


長 崎 へニ里なり長 崎 入 口 能町 を桜  の馬場

ながさきへにりなりながさきいりぐちのまちをさくらのばば


と云フ夫 よりして浦 上 と云 処  ニ至 ル高 キ処  ニて山

というそれよりしてうらがみというところにいたるたかきところにてやま


なり爰 も長 崎 へ入 口 人 家續 く長 崎 能

なりここもながさきへいりぐちじんかつづくながさきの


町 中 見ヘおらん多屋しきニハ幡(ハタ)を建て唐 人

まちなかみえおらんだやしきには  はた をたてとうじん

P41

鯖(サハ)腐(クサラカシ)石

  さば   くさらかし いし


数 丈  ニして上 ノ石 危  くかゝる

すうじょうにしてうえのいしあやうくかかる


さバと云 魚  ハくされや春し夫 を

さばというさかなはくされやすしそれを


持(モチ)行く者 此 石 能落 ン事 を恐 れ

  もち ゆくものこのいしのおちんことをおそれ


とヤかくヤと云 うち鯖 くされ多り

とやかくやといううちさばくされたり

(大意)

(補足)

「大村よりいさ者ヤ四里矢上ヘ一里日見へ一里」、諫早は右上、矢上、日見は下中央の入江のところ。

「幡(ハタ)」、旗。

「鯖(サハ)腐(クサラカシ)石」、時津の奇岩として有名なようです。『西遊旅譚三』にも画があります。また「岩尓佛のか多ちを彫付てあり」の画もあります。 

 人家が続く長崎の町中が見え、旗を建てたオランダ屋敷をのぞみ、遠目から長崎に着いたと静かに感じ入っているようであります。