2026年1月3日土曜日

江漢西遊日記六 その92

P106 東京国立博物館蔵

(読み)

宮 ニ泊 ル爰 より日本 橋 迄 六 里余  と云

みやにとまるここよりにほんばしまでろくりあまりという


四月 十  三 日 天 氣浦 和蕨(ワラヒ)を過 て板 橋

しがつじゅうさんにちてんきうらわ  わらび をすぎていたばし


尓至  追 分ケと云 処  より駕籠ニ能里本 郷

にいたりおいわけというところよりかごにのりほんごう


通 里神 田明  神 の前 より日本 橋 を通  て

どおりかんだみょうじんのまえよりにほんばしをとおりて


三 十 町  芝 神 僊 坐尓著(ツク)八ツ時 過 なり僕

さんじっちょうしばしんせんざに  つく やつどきすぎなりしもべ


弁 㐂ハ駿 州  藤 枝 の者 ニて去 年 歳 十  六 ニて

べんきはすんしゅうふじえだのものにてきょねんとしじゅうろくにて


予(ヨ)可゛後(シリヱ)尓就(ツキ)長 崎 より平 戸生 月 嶋 ニ三 十

  よ が   しりえ に  つき ながさきよりひらどいきつきしまにさんじゅう


日 畄  ツて鯨  漁  を見其 余 京  大 坂 今 亦

にちとどまってくじらりょうをみそのほかきょうおおさかいままた


江 都能繁(ハン)昌  を見る名 馬能尻 ニ居ル

こうとの  はん じょうをみるめいばのしりにいる


蝿 の如 し歟嚮(サキノヒ)西 遊 旅 談 として画を入レ

はえのごとしか  さきのい さいゆうりょだんとしてえをいれ

(大意)

(補足)

「日本橋迄六里余と云」、中山道の大宮〜日本橋は30kmとあって、六里余とはちょっとひらきがあります。

「四月十三日」、寛政1年4月13日、1789年5月7日。もう初夏といってもいいくらいの季節。

「大宮」「浦和」「蕨」「板橋」、

「神田明神」「日本橋」「芝新銭座」、 

「駿州」、駿河国。

「名馬能尻ニ居ル蝿の如し」、とても巻末の最後を飾る言葉とはおもえないセリフ。どうしようもない江漢さんです。

「嚮(サキノヒ)」、キョウ。②さきに。まえに。

「西遊旅談」、『西遊旅譚』全五巻。寛政六(1794)年初版。享和三(1803)年『画図西遊譚』として図を一部変更のうえ再版された。

 「天明戊申四月二十三日 昼過ぎ、江戸芝神僊坐を出立して」から約1年、江戸に戻ったのは四月十三日のやはり昼過ぎ遅く八つ時過ぎでした。

 中山道をとばしすぎて疲れてしまったのでしょうか、「板橋尓至追分ケと云処より駕籠ニ能里」、これまたかなりの距離を駕籠にゆられて自宅に戻ったのでありました。

 

2026年1月2日金曜日

江漢西遊日記六 その91

P105 東京国立博物館蔵

(読み)

射貫 の穴 見ユ松 井田ニ泊 ル

いぬきのあなみゆまついだにとまる


十  一 日 曇 ル後 雨 正  六ツ時 立ツ妙  義山 へ三 十 町

じゅういちにちくもるのちあめしょうむつどきたつみょうぎさんへさんじっちょう


安 中 能宿  なり板 者な高 崎 能キ処  なり

あんなかのしゅくなりいたはなたかさきよきところなり


上  州  絹 を賣ル亦 能キ天 氣となる十  二里十

じょうしゅうきぬをうるまたよきてんきとなるじゅうにりじゅう


九  町  を経て深 谷ニ泊 ル榛(ハル)名山 ヘ五里あるよし

きゅうちょうをへてふかやにとまる  はる なさんへごりあるよし


不行

ゆかず


十  二日 天 氣朝 六 時 深 谷を出て熊  谷宿

じゅうににちてんきあさむつどきふかやをでてくまがやしゅく


を過 レハ熊  谷能土手三 十 町  ありサイカチ

をすぎればくまがやのどてさんじっちょうありさいかち


能木多 し右 ノ方 大 山 冨士を見ル爰 より

のきおおしみぎのほうおおやまふじをみるここより


押(ヲシ)と云フ処  ニ近 し此 日十  一 里二十  八 町  大(ヲゝ)

  おし というところにちかしこのひじゅういちりにじゅうはっちょう  おお

(大意)

(補足)

「松井田」「安中」「板者な(板鼻)」「高崎」「深谷」「熊谷」「押(ヲシ)(忍)」、

「十一日」、寛政1年4月11日、1789年5月5日。

 熊谷をすぎて、丹沢や富士山が見え、ますます一刻もはやく江戸につきたい気持ちは高ぶるばかり。

 天気にも恵まれ、11日12日連日約50kmを一気に江戸へ向かいます。ここまでくれば、街道の道も整備されているし、またほとんど平らなのでどんどん進むことができたのでしょう。


 

2026年1月1日木曜日

江漢西遊日記六 その90

P104 東京国立博物館蔵

(読み)

おとかめ漸(ヨウ)\/王び事 して去りぬ狂  哥一 首 ニ

おとがめ  よう ようわびごとしてさりぬきょうかいっしゅに


お直 クし能の里うちし多とおとか免ハ皆 下(シタ)

おちょくしののりうちしたとおとがめはみな  した


\/能曲 りか袮なり塩 な多゛と云 処  尓泊 ル十  一

したのまがりかねなりしおなだ というところにとまるじゅういち


里余  の路 なり

りあまりのみちなり


十 日曇  雨 なし正  六 時 尓出  立 一 里半 行キ岩

とおかくもりあめなししょうむつどきにしゅったついちりはんゆきいわ


田村 尓て夜明 ル闇 夜野火誠  ニ火事の如 シ

たむらにてよあけるやみよのびまことにかじのごとし


小田井軽 井沢(サハ)坂 本 の間  薄 井峠  七 年

おたいかるい  さわ さかもとのあいだうすいとおげしちねん


以前 浅 間山 焼 る此 邊  小石 降ル山 \/皆

いぜんあさまやまやけるこのあたりこいしふるやまやまみな


小石 ニて埋 ル樹 木 枯レル此 山 路 誠  ニ難 所

こいしにてうまるじゅもくかれるこのやまみちまことになんしょ


なり此 邊  より妙  義山 見得る亦 ユリ若 大 臣

なりこのあたりよりみょうぎさんみえるまたゆりわかだいじん

(大意)

(補足)

「お直クし」、お勅使。

「塩な多゛」、塩名田宿。「十一里余の路なり」とあって、かなりの強行軍です。

「十日」、寛政1年4月10日、1789年5月4日。

「岩田村」、岩村田です。「小田井」、「軽井沢」、「坂本」、「薄井峠」、碓氷峠。 

「七年以前浅間山焼る」、天明大噴火(てんめいだいふんか)は、江戸時代の1783年8月5日(天明3年7月8日)に発生した浅間山の大噴火。

「ユリ若大臣」、百合若大臣。『妙義山の射貫岩は、昔、ここで百合若大臣が松井田の里はずれから弓を射て、その時踏ん張った足跡石が路傍に残り、真正面にある岩には、彼が射通したという穴があいている』といった、怪異妖怪噺。

 

2025年12月31日水曜日

江漢西遊日記六 その89

P103 東京国立博物館蔵

(読み)

亀 屋と云 宿 尓泊 ル八ツ時 比 なり裏 ニ温 泉 アリ

かめやというやどにとまるやつどきころなりうらにおんせんあり


湯尓入 ル一 人吾可僕  弁 㐂尓聞ク見多る人 也

ゆにはいるひとりわがしもべべんきにきくみたるひとなり


と云 弁 㐂性 名 を云ヘハ手を打ツてなる程 と云フ

というべんきせいめいをいえばてをうってなるほどという


毛 利石 見守  臣 と云ヒき諏訪能池 (湖   )ノ向 フ尓城

もうりいわみのかみしんといいきすわのいけ みずうみ のむこうにしろ


見ユ冨士此 日ミへ春゛初 メて田を少 シ見ル

みゆふじこのひみえず はじめてたをすこしみる


九  日天 氣爰 より駕籠ニて出  立 し和田峠

ここのかてんきここよりかごにてしゅったつしわだとうげ


五里あり峠  尓雪 消  残 ル手ニ取 て見ル七 曲  坂

ごりありとうげにゆきすこしのこるてにとりてみるななまがりさか


アリ寒 ウして麦 も不生  能地なり夫 より下 りて

ありさむうしてむぎもふしょうのちなりそれよりくだりて


何 と可云 処  ニて日 光 勅  使御休 ミアリ其 傍  ラ尓

なんとかいうところにてにっこうちょくしおやすみありそのかたわらに


駕籠を下 シ个連ハ下部(シモベ)乗りうちし多るとて

かごをおろしければ   しもべ のりうちしたるとて

(大意)

(補足)

「亀屋」、現在も営業している「聴泉閣かめや」はこの宿と同じででしょうか?中山道で温泉が湧くのはここの下諏訪だけだったようです。

「性名」、姓名。

「九日」、寛政1年4月9日、1789年5月3日。

「和田峠」、標高1600m、中山道最大の. 難所とされた。 

「日光勅使」、日光例幣使。天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のこと。

「乗りうち」、『のりうち【乗り打ち】馬やかごに乗ったまま,貴人・神社・仏閣などの前を通り過ぎること。下乗(げじよう)の礼を欠く行為。「早馬三騎,門前まで―にして」〈太平記•11〉』

 中山道最大の難所を駕籠で5里(約20km)、駕籠代もさることながら、駕籠かきも二人では無理で、交代するひと二人で交互に運んだのではとおもうのですけど、それにしても重労働です。

 

2025年12月30日火曜日

江漢西遊日記六 その88

P102 東京国立博物館蔵

(読み)

云 物 なりウドニ似多る物 なり竹 なし松 も少 シ

いうものなりうどににたるものなりたけなしまつもすこし


多  ハ杉 なり檜(ヒ)の木ハ切ル事 を禁 ス

おおくはすぎなり  ひ のきはきることをきんず


七 日爰 ヲ出上 松 へ行 間  ニ橋 ニ霜 アリ天 氣よし

なのかここをでうえまつへゆくあいだにはしにしもありてんきよし


夫 より福 嶋 へ行キ昼  喰 春宮 能越シ藪 原 な

それよりふくしまへゆきちゅうじきすみやのこしやぶはらな


らゐ能間  鳥 居峠  アリ十  八 町  登 りて三 十 町  下 ル

らいのあいだとりいとおげありじゅうはっちょうのぼりてさんじっちょうくだる


程 なくならゐなり一 里半 行 て熱 河 尓泊 ル乗り

ほどなくならいなりいちりはんゆきてにえがわにとまるのり


多る馬子能家 なり

たるまごのいえなり


八 日天 氣爰 を立 て二里行 本 山 尓至 ル是

ようかてんきここをたちてにりゆきもとやまにいたるこれ


まて岐曽路ニして誠  尓深 谷 なり爰 ニて尾張

まできそじにしてまことにしんこくなりここにておわり


能領  地尓離 ル此 日七 里廿   四 町  下(シモ)諏訪(スハ)横

のりょうちにはなるこのひしちりにじゅうよんちょう  しも    すわ よこ

(大意)

(補足)

「檜(ヒ)の木ハ切ル事を禁ス」、檜だけでなく、山林の木の伐採は非常に厳しく管理されていて、幕府直轄の天領の樹木を無断で伐採すると死罪相当の刑でした。天領内での薪拾いも重罪でありました。

「七日」、寛政1年4月7日、1789年5月1日。

昨日1789年4月30日は米国初代大統領George Washingtonが就任した記念すべき日でありました。

「上松へ行間ニ」、「間」のくずし字がわかりにく、しかし2行あとに「ならゐ能間」にも「間」があって、おなじ形のくずし字になっています。

「上松」「福嶋」「宮能越シ」「藪原」「ならゐ」「鳥居峠」「熱河」(贄川(にえがわ))「本山」、「下諏訪」、 

 地図を見てもわかるとおり、かなりの距離、それも山路難路、いくら馬にのっての旅路とはいえ、金に糸目もつけずといった感じで江戸へまっしぐらです。

 

2025年12月29日月曜日

江漢西遊日記六 その87

P101 東京国立博物館蔵

(読み)

半 六 町  落 合 へ一 里爰 より坂 を登 ル事 二十

はんろくちょうおちあいへいちりここよりさかをのぼることにじゅう


五町  馬籠 宿  あり泊 ル是 を十 解 峠  と云ふ

ごちょうまごめしゅくありとまるこれをじっこくとおげという


家 ハ古 し柱  ハ皆 ツガの木壁(カヘ)なし板 なり板

いえはふるしはしらはみなつがのき  かべ なしいたなりいた


ハケヤ木テ ウナ目ニてカンナをかけ春゛

はけやきちょうなめにてかんなをかけず


六 日天 氣山 \/を登 ル尓皆 ツゝジ亦 桜  酢桃

むいかてんきやまやまをのぼるにみなつつじまたさくらすもも


ボケ能花 桃 梨 花 盛 りなり駒 ガ嶽 雪 降

ぼけのはなももなしはなざかりなりこまがたけゆきふり


木曽河 ニ傍(ソウ)て上 松 まて不行 して立 町 と

きそがわに  そう てうえまつまでゆかずしてたちまちと


云 処  泊  屋二三 軒 アリ爰 ニ泊 ル前 尓岐曽河

いうところとまりやにさんけんありここにとまるまえにきそがわ


を望 ム所  々  渓 流  往 来 ヘ流 レ流 レの音 誠  尓

をのぞむところどころけいりゅうおうらいへながれながれのおとまことに


雷 鳴 の如 し爰 ニてカテ飯 を喰フギヨウブと

らいめいのごとしここにてかてめしをくうぎょうぶと

(大意)

(補足)

「落合」、「馬籠」、 

「六日」、寛政1年4月6日 1789年4月30日。

「上松まて不行して立町」、

「十解峠」、「解」を「斛」と間違えたか。十斛峠、十国峠。

「テウナ」、手斧(ちょうな)。

「岐曽河」、木曽河。

「ギヨウブ」、シシウド。

 西洋暦ではもう4月も終わりですが、街道沿いの山々は春真っ盛り、桃源郷です。また山菜がたくさんとれるときでもあります。

 

2025年12月28日日曜日

江漢西遊日記六 その86

P100 東京国立博物館蔵

(読み)

おもしろき処  と云 亦 開 帳  あり故 ニ参 ル弁 天 也

おもしろきところというまたかいちょうありゆえにまいるべんてんなり


見せ物 喰  店 あり大 雨 故 参 詣 なし池 ニ

みせものしょくてんありおおあめゆえさんけいなしいけに


橋 を掛ケ瀧 おつる寺内 ニてせ者゛き処  なれど

はしをかけたきおつるじないにてせば きところなれど


能キ処  なり雨 ま春\/降り夫 より河 の邊 りを

よきところなりあめますますふりそれよりかわのあたりを


行く事 なかし漸  く七  時 比 釜 戸と云 宿 ニ泊 ル

ゆくことながしようやくななつどきころかまどというやどにとまる


今 日より十 日を過 シハ江戸へ帰 ルとて指 を屈

きょうよりとおかをすごしばえどへかえるとてゆびをおっ


ていそぐ山 \/花如綿

ていそぐやまやまはなわたのごとし


五 日上  天 氣明 六 時 過 ニ出て追 分 ニ至 り

いつかじょうてんきあけむつどきすぎにでておいわけにいたり


大 井能間  西 行  塚 アリ北 の方 を望 メハ飛弾

おおいのあいださいぎょうづかありきたのほうをのぞめばひだ


の国 御 嶽 千 峰 皆 雪 夫 より中 津ヘニ里

のくにおんたけせんぽうみなゆきそれよりなかつへにり

(大意)

(補足)

「飛弾」、飛騨。

「五日」、寛政1年4月5日 1789年4月29日。

「追分ニ至り大井能間西行塚アリ」、槇ケ根追分(まきがねおいわけ)をすすんで、大湫宿(おおくて)から大井宿の間にあって、『「伝西行塚」とも呼ばれ、この地で西行法師が亡くなり埋葬された、あるいは供養のために建てられた塚だと伝えられています』とありました。

「今日より十日を過シハ江戸へ帰ルとて指を屈ていそぐ」、やはり江戸に近くなるにつれて、先をせく気持ちが強くなってきているようです。