2025年8月17日日曜日

江漢西遊日記五 その22

P22 東京国立博物館蔵

(読み)

と云 人 江戸屋しきニテ度 々 結メ多る人 ニて懇(コン)

というひとえどやしきにてたびたびつめたるひとにて  こん


意之(コレ)へ尋  ル酒 出春鮪  鰯(イハシ)のさかななり

い  これ へたずねるさけだすまぐろ  いわし のさかななり


此 日平 戸松 浦侯 へ我 等参  候   事 を申

このひひらどまつらこうへわれらまいりそうろうことをもうし


上 ルとぞ

あげるとぞ


十  九日 風 雨 雪 あられ亦 ハ日照 し青 天

じゅうくにちふうせつゆきあられまたはひでりしせいてん


を見ル甚  タ寒 し旅 館 主 人 の云 爰 ハ盗賊(トウソク)ハ

をみるはなはださむしりょかんしゅじんのいうここは   とうぞく は


なき所  と云フ然  とも戸も風屏(ひようふ)モなくてハ寒 し

なきところというしかれどもとも   びょうぶ もなくてはさむし


夜 尓入 正  右衛門方 より申  来 ル明日明後日

よるにいりしょうえもんかたよりもうしきたるあすあさって


能うち壱岐能守 お目尓かゝられ可申   と申

のうちいきのかみおめにかかられもうしべしともうし


来ル

くる

(大意)

(補足)

「結メ」、詰め。

「平戸松浦侯」、第9代松浦静山(まつらせいざん)。宝暦7(1757)年〜天保12(1841)年。文政4(1821)年以降書き続けた『甲子夜話』は江戸時代の随筆として有名。ウイキペディアに『清(静山)は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能に嫁いで慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入り、明治天皇を産んでいる。よって清は明治天皇の曽祖父にあたる』とありました。

「参候事」、「候」が「ら」のように見えますけど、ながれから「候」のくずし字というより、簡略記号。

「十九日」、天明8年11月19日。西暦1788年12月16日。

 天候は相変わらずめちゃくちゃのようであります。

「風屏」、屏風ですけど、逆さまになっちゃってます。

「壱岐能」、安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見する。同年12月18日従五位下・壱岐守に叙任する。安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により、家督を相続した。

 

2025年8月16日土曜日

江漢西遊日記五 その21

P21 東京国立博物館蔵

(読み)

四五百  里能海 上  七 八 日 ニして江戸尓着(ツク)十  二

しごひゃくりのかいじょうしちはちにちにしてえどに  つく じゅうに


月 五嶋 マグロと云 物 なり兼 て舩 尓塩 を貯(タクハ)

がつごとうまぐろというものなりかねてふねにしおを  たくわ


へ舩 滞(トゝコヲ)る時 ハ塩 漬(ツケ)尓春其 價  十  分  一 となる

へふね  とどこお るときはしお  づけ にすそのあたいじゅうぶんのいちとなる


此 地其 後追 \/漁  春る物 ハ皆 油  ニ春鮪(シヒ)

ことちそのごおいおいりょうするものはみなあぶらにす  しび


一 ツ舩 より舩 尓買 尓金 四十  五匁  位  なり故 ニ

ひとつふねよりふねにかうにきんしじゅうごもんめくらいなりゆえに


塩 ニしてハ大 損(ソン)とぞ鮪  一 斤 ニて三 十  二文 なり

しおにしてはおお  ぞん とぞまぐろいっきんにてさんじゅうにもんなり


肉 黒 赤 し毒 アリ伊豆海 ニて漁  春る鮪(マクロ)

にくくろあかしどくありいずうみにてりょうする  まぐろ


とハ亦 別 種 なるベシ唐 蘇州  邊  ニてハ大 キ

とはまたべっしゅなるべしとうそしゅうあたりにてはおおき


サ八 九尺  大 毒 ありて人 不喰 とぞ

さはっくしゃくおおどくありてひとくわずとぞ


十  八 日 今 日も時雨 風 雨なり山 本 庄  右衛門

じゅうはちにちきょうもしぐれふううなりやまもとしょうえもん

(大意)

(補足)

「四五百里能海上七八日ニして江戸尓着(ツク)十二

月五嶋マグロと云物なり」、地図で大まかに平戸〜東京の海上路を測ってみると、約1600km程あり、8日間かかったすれば、1日に約200km。風だけがたよりで8日間ずっと西風に恵まれなければなりません。いつもがいつも、そのようにできたとはとてもおもえません。

 しかし江戸では五島鮪という言葉があるので、届けられていたということは確かなようであります。

「十八日」、天明8年11月18日。西暦1788年12月15日。

「金四十五匁」「鮪一斤ニて三十二文」「大キサ八九尺」と度量衡がいろいろあって大変。

 

2025年8月15日金曜日

江漢西遊日記五 その20

P20 東京国立博物館蔵

(読み)

ごとしと云 此 宿 雨 戸なし障  子婦春まなし

ごとしというこのやどあまどなししょうじふすまなし


天井(テン セウ)を張(ハラ)春゛扨 \/寒 し爰 も風 土長 崎 能

   てんじょう を  はら ず さてさてさむしここもふうどながさきの


如 し時雨(シクレ)ニて大 雨 風 雪 あられ降りて

ごとし   しぐれ にておおあめかぜゆきあられふりて


東 方 ノ氣色 なしさて平 戸城  下海 岸

とうほうのけしきなしさてひらどじょうかかいがん


尓人 家並 ヒて此 節 鮪(シヒ)漁  ニて大 舩 岸 ニ

にじんかならびてこのせつ  しび りょうにておおふねきしに


着(ツキ)鮪 を積ム事 一 艘 尓何 萬 数 艘 尓積ム

  つき しびをつむこといっそうになんまんすうそうにつむ


故 海 能潮 鮪 の血(チ)流 レて赤 し鮪 舩 此 時(シ)

ゆえうみのしおしびの  ち ながれてあかししびふねこの  し


雨(グレ)能嵐  尓帆を張り玄 界 灘(ナタ)を過 て下 能関

  ぐれ のあらしにほをはりげんかい  なだ をすぎてしものせき


尓至 り防 州  灘 を越へ阿波能鳴 戸を渡里

にいたりぼうしゅうなだをこえあわのなるとをわたり


志摩の国 鳥羽浦 ニ掛ケ伊豆能東  洋 を経(へ)

しまのくにとばうらにかけいずのひがしなだを  へ

(大意)

(補足)

「平戸城下」、平戸藩6万1700石。古地図と現在のもの。黒子島、牛首(平戸牛ヶ首灯台)など地形はほとんどかわっていません。また平戸オランダ商館HPに1621年平戸図(平戸城下の絵図)があります。 


  一艘に何万匹も鮪を積んだ船が数艘ということで、港の浜は血だらけで海が赤いとあります。その鮪満載の船が平戸から玄界灘をへて下関にいたり、坊州灘を越え鳴門をわたり、鳥羽の浦でひと休み、伊豆を経て、江戸に向かうわけです。ホントかなと疑ってしまいます。

 木村蒹葭堂「日本山海名産圗會」にこの鮪の説明と画があります。 

 当時も今も平戸五島付近はすぐれた鮪漁場であったようです。

 

2025年8月14日木曜日

江漢西遊日記五 その19

P19 東京国立博物館蔵

(読み)

十  七 日 なり天 氣舩 より上 り舩 頭 能宅 尓行 て

じゅうしちにちなりてんきふねよりあがりせんどうのたくにゆきて


喰  事春夫 より長 崎 宿  あり宮 能町  橋 口 次

しょくじすそれよりながさきしゅくありみやのちょうはちぐちじ


兵衛と云 爰 尓藤 五郎 とて幸 作 能外 料  能

へえというここにとうごろうとてこうさくのがいりょうの


弟子四五日 以前 尓参 り居ル其 者 先ツ酒 を買

でししごにちいぜんにまいりおるそのものまずさけをかう


シビ能さしミニて呑ム平 戸ハシビマグロイワシ

しびのさしみにてのむひらどはしびまぐろいわし


皆 其 毒 ニ当 り湿瘡(シツサウ)を病 者 多 し宿 能主

みなそのどくにあたり   しっそう をやむものおおしやどのしゅ


人 眼のあしき人 故 之(コレ)を聞く尓私   惣 毒 能

じんめのあしきひとゆえ  これ をきくにわたくしそうどくの


病 ヒありて両  眼 ぬけ出テ一 寸 程 さかり申

やまいありてりょうがんぬけでていっすんほどさがりもうす


時 尓熱 病  を王川゛らひし尓大 熱 の為(タメ)ニ

ときにねつびょうをわず らいしにおおねつの  ため に


其 湿 毒 殊(コト)\/くぬけ夫 故 尓眼(マナコ)かく能

そのしつどく  こと ごとくぬけそれゆえに  まなこ かくの

(大意)

(補足)

「十七日」、天明8年11月17日。西暦1788年12月14日

「外料」、『がいりょう ぐわいれう 【外療・外料】

外科的治療。また,外科医。「―へいさぎよく行く向ふきず」〈誹風柳多留•18〉』

「シビ」、『しび【鮪】① マグロの異名。② クロマグロの成魚で,大形のものの異名。 』『めじ。クロマグロの若魚で,1メートル 以下のものの異名。メジマグロ。』

「惣毒」、瘡毒(そうどく さう【瘡毒】梅毒の異名。かさ。)。

「湿瘡」、『疥癬(かいせん)、疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病。かゆみが激しい。指の間・わきの下・陰部など皮膚の柔らかい部分を冒す。皮癬(ひぜん)。湿瘡(しつそう)。』

 マグロはあしがとても早いので、刺し身で食していろいろあたって、病気になることが多かったのだろうとおもいます。

 

2025年8月13日水曜日

江漢西遊日記五 その18

P18 東京国立博物館蔵

(読み)

喰  事せ春゛横 に伏し个連ハ何 ヤラうゑ尓

しょくじせず よこにふしければなにやらうえに


かけ个る可゛トロ\/と一 寝(ネイ)里し个る可゛僕 来て云フニハ

かけけるが とろとろとひと  ねい りしけるが ぼくきていうには


今 風 可直 り申  故 ニ舟 を出春と目を覚(サマシ)け

いまかぜがなおりもうすゆえにふねをだすとめを  さまし け


る氣可゛さ川者゜里快(コゝロモ)ち能 夫 より舟 へ行ク尓

るきが さっぱ り  こころも ちよくそれよりふねへゆくに


夜 能八 時 比 なり満 月 浪 を照 シ寒 風 肌(ハタヱ)ヲ

よるのやつどきころなりまんげつなみをてらしかんぷう  はだえ を


とふ春東風吹ヒて舟 走 ル事 者やし牛 ガ

とうすこちふいてふねはしることはやしうしが


首(クヒ)など云 嶋 を見ル重 キ流人 ハ爰 尓来ルと云

  くび などいうしまをみるおもきるにんはここにくるという


夫 ヨリ九十  九嶋 能外 海 を乗り行ク誠  尓

それよりくじゅうくしまのそとうみをのりゆくまことに


西 ハ朝  鮮 唐 能大 洋 なり風 追(ヲイ)てニて忽  チ

にしはちょうせんとうのたいようなりかぜ  おい てにてたちまち


夜明 て四 時 過 ニ平 戸嶋 尓着(チヤク)岸 春

よあけてよつどきすぎにひらどしまに  ちゃく がんす

(大意)

(補足)

「肌(ハタヱ)」、『はだえ ―へ【肌・膚】① 皮膚。はだ。「―は雪の如くにて」〈朱雀日記•潤一郎〉』

「九十九嶋」、平戸島の対岸の細々した島々。北松浦半島西岸(相浦〜小佐々町〜鹿町町)に連なる五島灘に面したリアス式海岸の群島。

「平戸嶋」、ウイキペディアに詳しい。その中で『1609年(慶長14年)にオランダ商館、1613年(同18年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立された。しかしその後の鎖国政策によって1623年(元和9年)にイギリス商館閉鎖、オランダ商館も1641年(寛永18年)に長崎の出島へ移転して、平戸港における南蛮貿易は終わった』というのが印象的であります。

 満月の下、夜中の2時に肌に刺すような寒風の東風で、追手(追い風)で疾走しても平戸島に着いたのは朝10時過ぎでありました。

 

2025年8月12日火曜日

江漢西遊日記五 その17

P17 東京国立博物館蔵

(読み)

用 ユる事 なり漸  く尓して爰 を越へ小鯛 可浦 と云フ

もちゆることなりようやくにしてここをこえこたいがうらという


処  ニ七  時 かゝる山 尓社  あり舟 よりあか里磯 邊へ

ところにななつどきかかるやまにやしろありふねよりあがりいそべへ


歩 き向 フ能祠  へ参 ル尓見所  なし舩 頭 其 外 能

あるきむこうのほこらへまいるにみどころなしせんどうそのほかの


乗 合 能者 も爰 ニ知ル者 ありて何 クへ可行 帰 り尓

のりあいのものもここにしるものありていずくへかゆきかえりに


求 メ多るやドフロクとて濁  酒 を我 尓進 メ个る故

もとめたるやどぶろくとてにごりざけをわれにすすめけるゆえ


一 口 呑て 顔 をシカメて止メぬ夫 より其 酒 能

ひとくちのみてかおをしかめてやめぬそれよりそのさけの


当 り多るや昨 夜舟 尓伏し寒 氣能当 里タル

あたりたるやさくやふねにふしかんきのあたりたる


歟頭痛 などして氣分 あしゝ夫 より程 なくして

かずつうなどしてきぶんあししそれよりほどなくして


大 鯛 ガ浦 ニ掛 ル爰 ハ皆 平 戸領  なり因 て田夫能

おおたいがうらにかかるここはみなひらどりょうなりよってたふの


家 尓あか里火ニ当 り个る可゛氣分 あしき故 尓

いえにあがりひにあたりけるが きぶんあしきゆえに

(大意)

(補足)

「心を用ユる」、用心はレ点読みでした。

「大鯛が浦」「小鯛が浦」、大小とあるのである程度大きい浦なのかと地図で探しましたが見つけられませんでした。

 どぶろくの質はともかくとして、日本中どこにでもあったといわれています。

 

2025年8月11日月曜日

江漢西遊日記五 その16

P16 東京国立博物館蔵

(読み)

雪 まし里あられ風 吹き又 ハ上  天 氣となる

ゆきまじりあられかぜふきまたはじょうてんきとなる


時 甚  タ暖 氣となる言 語ハ東 方 と甚  タ異  り

ときはなはだだんきとなるげんごはとうほうとはなはだことなり


十  六 日 天 氣小串 と云 処  ニて舟 ニて夜を明(アカ)し

じゅうろくにちてんきおぐしというところにてふねにてよを  あか し


朝 舩 を出して六 里程 走 りて針 尾能瀬戸

あさふねをだしてろくりほどはしりてはりおのせと


なり右 ハ大 村 領  左  ハ平 戸領  なり山 両  方 ヨリ

なりみぎはおおむらりょうひだりはひらどりょうなりやまりょうほうより


入 込ミ其 間  僅  ニして波 なく潮(ウシヲ)雲珠巻

いりこみそのあいだわずかにしてなみなく  うしお うずまき


木 目能如 し或   岩 石 ニ觸れ白 浪 飛んで

もくめのごとしあるいはがんせきにふれしらなみとんで


沸騰(ホツトウ)能如 し引 しをニう川゛へ乗り入ル時 ハ舟 忽

   ほっとう のごとしひきしおにうず へのりいるときはふねたちまち


巻 込 と云 夫 故 潮 能満チ多る時 渡 ル也 此 瀬戸

まきこむというそれゆえしおのみちたるときわたるなりこのせと


能間  を能る事 凡  半 里程 あるべし舩 頭 甚  タ心  を

のあいだをのることおよそはんりほどあるべしせんどうはなはだこころを

(大意)

(補足)

「十六日」、天明8年11月16日。西暦1788年12月13日。

「針尾能瀬戸」、渦潮といえば、鳴門の渦潮しかしりませんでした。大村湾が外海と唯一つながっているところなので、潮の出入りが激しい。

 「西遊旅譚四」に画があります。 

 江漢さん、旅の最初の頃は、船に乗ると緊張感が伝わってきましたが、何度か命がけの乗船で慣れてきたのでしょう、冷静な目で状況を観察できているようであります。