2025年2月21日金曜日

江漢西遊日記二 その52

P62 東京国立博物館蔵

(読み)

六 七 町  行 て門 徒宗  此 寺 ニ至 ル本 堂 ノ

ろくしちちょうゆきてもんとしゅうこのてらにいたるほんどうの


天井(テンセ ウ)尓雲 龍  左右 十  六 善 神 を画ク

   てんじょう にうんりゅうさゆうじゅうろくぜんじんをかく


筆 太トニして雲 谷 風 なり此 所  能人

ふでぶとにしてうんこくふうなりこのところのひと


能描(カキ)多ると云 爰 ハ一 躰(タイ)人 能利口 なる所  ニて

の  かき たるというここはいっ  たい ひとのりこうなるところにて


画などかく者 数 々 アリ爰 ハ蒲(ガ)毛う(生)郡 ト云

えなどかくものかずかずありここは  が もう   ぐんという


水 口 佐渡 守 加藤 侯 能領  地なり人 家

みずぐちさどのかみかとうこうのりょうちなりじんか


千 軒 余と云フ夫 より山 路 尓入 リ一 里余  を

せんけんよというそれよりやまみちにはいりいちりあまりを


行キて小野村 と云フ尓至 ル井田助 右衛門此

ゆきておのむらというにいたるいだすけえもんこの


所  ニ少  々  能知ル人 ありてそれヘよる爰 ニてベン

ところにしょうしょうのしるひとありてそれへよるここにてべん


トウを開 キ个る尓小童(コトモ)四五人 来 リてベントウを

とうをひらきけるに   こども しごにんきたりてべんとうを

(大意)

(補足)

「十六善神」、『じゅうろくぜんじん じふろく― 5【十六善神】

〘仏〙「般若経」とその誦持者の守護を誓った一六の夜叉(やしや)神。薬師十二神将に四天王を加えたもの。異説もある』

「筆」が「華」に見えます。

「雲谷」、『うんこくとうがん 【雲谷等顔】

[1547〜1618]安土桃山時代の水墨画家。肥前の人。毛利家に仕え周防の雪舟の旧跡雲谷庵を再興。雄勁な筆法と大胆な構図で障屛画を描いた。雲谷派の祖。萩市を中心に作品が残る』

「蒲(ガ)毛う(生)郡ト云水口佐渡守加藤侯能領地」、地図では能登守となっています。 

「小野村」、関宿というところが三叉路になっていて、その近所にこの村がありますけど、なんか変です。

 日野大窪町が中井本家の所在地。水口藩は初期から財政的に逼迫していたらしく、安永4年(1775)以降、仕送り方を依頼し、中井家も江戸の藩邸と水口城に毎月の費用を仕送る重責を負わされていた、とありました。

 中井家がこの時期、大富豪であったのは確かなようで、それなのに三井三越のように現在に生き延びてないのが不思議でした。このような大名を支える資金援助(大名貸し)があり、それが先々すべてチャラにされるわけですから、存続は難しかったのでしょう。

 

2025年2月20日木曜日

江漢西遊日記二 その51

P61 東京国立博物館蔵

(読み)

此 圓(マルイ)と丸 と能間  か者なれてある処  ハ皆ナ

この  まるい とまるとのあいだがはなれてあるところはみな


天ンてござる爰 で活(イキて)歩(アルイ)ていかれぬ

てんでござるここで  いきて   あるい ていかれぬ


此 天 を飛(ト)フ尓ハ神(タマシヒ)尓なら袮ハ飛ハれ

このてんを  と ぶには  たましい にならねばとばれ


ぬと云ヒ聞カ春れハ其 婦人 至極 ニがてん

ぬといいきかすればそのふじんしごくにがてん


していよ\/阿弥陀様 をお頼 ミ申  事 とて

していよいよあみださまをおたのみもうすこととて


重  尓菓子ニシメを贈  个る此 婦人 此 ノ

じゅうにかしにしめをおくりけるこのふじんここの


家 より近 所 ヘ嫁して今 屋も女(メ)となり多

いえよりきんじょへかしていまやも  め となりた


るなりと只 極 楽 へ行ク事 能ミ願 ふ人 也

るなりとただごくらくへゆくことのみねがうひとなり


十  二日 上  天 氣爰 ノ親類(ルイ)尓助 右エ門 と云ふ

じゅうににちじょうてんきここのしん るい にすけえ もんという


人 其 比 五十  位  ニて此 日案内 して先ツ

ひとそのころごじゅうくらいにてこのひあないしてまず

(大意)

(補足)

「十二日」、天明8年八月十二日。1788年9月11日。

 御婦人の「極楽というところはどこにございましょうや。その極楽に私は生きて参りとうござります。死んでいてはその極楽も見ることはできません。どうぞ生きたまま参りたく、そしてその極楽はどこにござります」と、畳にしかれた「地球ノ圖」を見ながら、江漢さんに迫ったのでしょう。手を合わせて祈る民衆の根源的な問いかけであります。

 くそ坊主なら、「えぇ〜っい!信心が足りぬ、祈りが足りぬ、もっともっと無心になって祈るのじゃ。祈りが足りぬから、そのような邪念をもつのだ」とでもいって、煙に巻くでしょうね。

 「生きて歩いて行かれぬこの天を飛ぶには神(たましい)にならねば飛ぶことができない」との、江漢さんのこの説法は妙な説得力があって、御婦人は至極納得、お重にお菓子やら煮しめをつめて贈られ、江漢さんはしんみりしつつもうれしかったことでありましょう。

 何度読み返しても、今そこで、隣の部屋で行われている出来事のように思われて仕方がありません。

 

2025年2月19日水曜日

江漢西遊日記二 その50

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

参 りとふござ里ま春死シでいてハ一 向 尓

まいりとうござりますししでいてはいっこうに


夢中  故 どふそ生 て参  度 其 極 楽 ハ

むちゅうゆえどうぞいきてまいりたくそのごくらくは


どこでこさりま春と云フ爰 ハ多 ク門 徒宗

どこでござりますというここはおおくもんとしゅう


ニて此 門 も其 宗  旨ニて皆 極 楽 ヘやるつ

にてこのもんもそのしゅうしにてみなごくらくへやるつ


毛里なれど生 ていき多以ニハ坊 主もちと

もりなれどいきていきたいにはぼうずもちと


困  入 多ると見得タリ我 等爰 ニ於 て申  ニハ

こまりいりたるとみえたりわれらここにおいてもうすには


さて生(イキ)て居てハ極 楽 ヘいかれぬ訳(ワケ)ハ此

さて  いき ていてはごくらくへいかれぬ  わけ はこの


世界 能圖ハ丸 ヒ物 シヤ其 外 ハ天ンでご

せかいのずはまるいものじゃそのほかはてんでご


ざる此 様 なる世界 可゛天 の中 尓いくつもご

ざるこのようなるせかいが てんのなかにいくつもご


ざりま春其 うちニ極 楽 世界 可゛ありて

ざりますそのうちにごくらくせかいが ありて

(大意)

(補足)

「門徒宗」、浄土真宗のこと。真宗、一向宗とも。鎌倉初期,法然の弟子の親鸞が創始した浄土教の一派。阿弥陀仏の力で救われる絶対他力を主張し,信心だけで往生できるとする。

 江漢さんは、御婦人の心からの真摯な疑問と希望に、「坊主もちと困入多る」とおもいつつも、御婦人が一番納得するであろう答えを、きっと「地球ノ圖」を指さしながら、説明したこととおもいます。

 御婦人は真剣な表情で、「地球ノ圖」と江漢さんの顔を交互に見つつ、かすかにうなずくさまが見えてきそうです。

じつに、生き生きとした会話と場面が、感動的です。

 

2025年2月18日火曜日

江漢西遊日記二 その49

P59 東京国立博物館蔵

(読み)

て龍  吐水 ニて庭 尓水 をかけさて其 比 中

てりゅうどすいにてにわにみすをかけさてそのころちゅう


年 能婦人 是 ハ京  大 火事ニて此 所  ヘ奉

ねんのふじんこれはきょうおおかじにてこのところへほう


公 ニ来 りし者 也 相 應 尓暮 し多る者 尓や之(コレ)

こうにきたりしものなりそうおうにくらしたるものにや  これ


尓琴 を弾(ヒカ)せ个り亦タ吾 所 持し多る地球  ノ

にことを  ひか せけりまたわれしょじしたるちきゅうの


圖を取 出し来 ル人 々 尓講 訳  して見セ个るニ

ずをとりだしきたるひとびとにこうしゃくしてみせけるに


歳 比 三 十  六 七 位  能婦人 か多和ら尓居て

としごろさんじゅうろくしちくらいのふじんかたわらにいて


話 シを聞 し尓や可゛て近 くへより只(タゝ)今 御咄  ヲ

はなしをききしにやが てちかくへより  ただ いまおはなしを


承    ル尓天 竺 お釈 迦さ満能おいでなさる

うけたまわるにてんじくおしゃかさまのおいでなさる


所  も承(セ ウチ)ちい多しまし多可゛極 楽 と云 処  ハ何(イツ)

ところも  しょうち ちいたしましたが ごくらくというところは  いず


く尓こざりま春私   ハどふそ活(イキ)て極 楽 へ

くにござりますわたくしはどうぞ  いき てごくらくへ

(大意)

(補足)

「水」のくずし字は読めるようになりましたが、その形は形を持たぬように筆の流れにまかせたよう。その上の「龍吐水」では「水」は楷書。

「京大火事」、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した史上最大規模の火災。御所・二条城・京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。

「地球ノ圖」、この画像は江漢が各地で見せていたものではなく、江漢が作成した銅版画です。 

「講訳」、講釈。

 この場面、御婦人と江漢さんの会話は何度よんでもグッとくるところで、江漢さん独特の優しさあふれる受け答えに、そして御婦人の対応に目頭があつくなります。

 

2025年2月17日月曜日

江漢西遊日記二 その48

P58 東京国立博物館蔵

(読み)

伊州(セイシ ウ)よりハ寒 し朝 夕 ハ給  小袖 を用 ユ銅 板

   せいしゅう よりはさむしあさゆうはあわせこそでをもちゆどうはん


能そき目か年ハ此 様 なる物 初 メテ見ル故

のぞきめがねはこのようなるものはじめてみるゆえ


甚  タ者ヤ里二 人嫁 出て壱 人ハ孫 三 郎

はなはだはやりふたりよめでてひとりはまごさぶろう


妻 と見ヘ歳 十  六 七 紫   色 能ちりめん

つまとみえとしじゅうろくしちむらさきいろのちりめん


振 袖 を着て吾 尓逢フ老 人 夫 婦も

ふりそでをきてわれにあうろうじんふうふも


不離  して者なし春る家 尓蔵 春る画色 \/

はなれずしてはなしするいえにぞうするえいろいろ


出し見セル中 尓ハ能キ画もあり

だしみせるなかにはよきえもあり


十  一 日 朝 曇  ムシ暑 シニ枚 婦春満山 水 亦

じゅういちにちあさくもりむしあつしにまいふすまさんすいまた


ツイ立 花鳥  ヲ認  メル茶 菓子ホ 出してもてな春

ついたてかちょうをしたためるちゃがしなどだしてもてなす


日も暮レ个連ハ庭 能石 灯 籠 尓火をと保し

ひもくれければにわのいしどうろうにひをとぼし

(大意)

(補足)

「伊州(セイシウ)」、伊勢が念頭にあったのでしょう、「勢州」です。

「給小袖」、袷です。江漢さん、やはりそそっかしい。

「壱人」、主人ではない。

「十一日」、天明8年八月十一日。1788年9月10日。

「石灯籠」、「籠」が二文字のようにみえます。なぜか竹冠の漢字(筋など)はくずし字だと二文字のようになってます。

 江漢さん、これ以上はなかろうというおもてなしで気分は上々、「ニ枚婦春満山水亦

ツイ立花鳥ヲ認メル」とたくさんの作品を仕上げたようです。

「紫色能ちりめん振袖」、髪型はともかく、こんな姿だったのでしょうか。 

 手持ちのちりめん本「朝顔」の挿絵です。

 

2025年2月16日日曜日

江漢西遊日記二 その47

P57 東京国立博物館蔵

(読み)

ニて之 ハ画も好キな人 故 夫 より色\/

にてこれはえもすきなひとゆえそれよりいろいろ


所 持の物 を取 出し能そき目か年を

しょじのものをとりだしのぞきめがねを


皆 〃 見 物 して感 心 春ぢ〃様 も甚  タ

みなみなけんぶつしてかんしんすじじさまもはなはだ


よろこび者〃様 も出て話  春夫 より

よろこびばばさまもでてはなしすそれより


膳 を出春茶 碗 も里焼 物 坪(ツホ)ひら

ぜんをだすちゃわんもりやきもの  つぼ ひら


皆 料  理手き王なる事 也 爰 ハ湖水

みなりょうりてぎわなることなりここはこすい


へ毛遠 く魚  一 向 尓得か多し夜 ニ入 休

へもとおくさかないっこうにえがたしよるにいりやす


ミ希る尓夜具ハどん春也 蚊屋ハモヱギ

みけるにやぐはどんすなりかやはもえぎ


能紗(シヤ)なり遍里ハ緋ぢりめんなりき

の  しゃ なりへりはひちりめんなりき


十 日朝 曇 ル後 天 氣此 日野ハ山 中  故 可

とおかあさくもるのちてんきこのひのはさんちゅうゆえか

(大意)

(補足)

「焼物」、鯛の尾頭付きの塩焼きが正式。箸をつけずに持ち帰るのが通例。「坪」、煮汁の少ない小煮物。蒸してあんをかけるような料理。「ひら」、鳥・肉・野菜などのうま煮などを3品または5品盛り合わせる。平皿・平椀ともいう。本膳料理というらしい。

 料理もさることながら、寝具もとびきり上等な最高のもの。

「湖水」、琵琶湖。

「十日」、天明8年八月十日。1788年9月9日。現在の9月上旬で標高もある山の中でも、蚊帳は必要だったみたいで、「モヱギ能紗(シヤ)なり」とあって豪華。

  文化八(1811)年の江漢の随想集『春波楼筆記』は、自筆本・書写本はなく、現存するのは明治24年の翻刻された本ということで、中井家に関するところだけそこから抜き出しました。 

 道中、掘っ立て小屋の蚤虱が飛び跳ねて眠れぬような宿にとまることもあれば、大富豪の申し分なく、きっと江漢さんも経験したことのないような豪華なところもあって、これも旅の醍醐味。

 


2025年2月15日土曜日

江漢西遊日記二 その46

P56 東京国立博物館蔵

(読み)

金 持 とハ見へ連と是 ハ困 り多る所  へ参

かねもちとはみえれどこれはこまりたるところへまいり


多ると思 ヒ先 奥 の坐しきへ案内

たるとおもいまずおくのざしきへあない


して通 シ个る尓此 間  出来多る坐しき

してとおしけるにこのあいだできたるざしき


と見へて至  てき連ゐなり先 能 茶

とみえていたってきれいなりまずよきちゃ


を出し菓子を出し夫 より茶 津けを

をだしかしをだしそれよりちゃづけを


出タ春爰 ニ於 て申  ニハ我 等所 持し多

いだすここにおいてもうすにはわれらしょじした


る珍 物 をご覧(ラン)ン尓入レんと云 けれハ

るちんぶつをご  らん んにいれんといいければ


ハイ只 今 倅  可七 弟   かえりまし春其 時

はいただいませがれかしちおとうとかえりましすそのとき


拝 見 可仕     と申  程 なく弟   孫 三 郎 返 り

はいけんつかまつるべしともうすほどなくおとうとまごさぶろうかえり


て我 等ニあゐさ川春二   五六 歳 能人

てわれらにあいさつすにじゅうごろくさいのひと

(大意)

(補足)

「此間出来多る坐しき」、江漢の来訪は新築9年目にあたる。このときの間取り図が現存している、とありました。

「倅可七弟」、「弟孫三郎」、光武の三男、正治右衛門。本名を武成といい、のちに京都店・尾道店をまかされ、京都中井家の当主となる、とありました。

 江漢さん、最初は困惑を隠せませんでしたが、「能茶を出し菓子を出し夫より茶津け」とすすむにつれて、ご機嫌になってきました。