P99 東京国立博物館蔵
(読み)
いなかなり此 所 ハさかなハなしどせ う汁
いなかなりこのところはさかなはなしどじょうじる
をして喰 セけり江戸者 七 八 人 同 宿 春
をしてくわせけりえどものしちはちにんどうしゅくす
江戸辞(コトハ)を久 し婦り尓聞ク尓誠 尓重 ヒ物
えど ことば をひさしぶりにきくにまことにおもいもの
云 ニて聞キ尓くし
いいにてききにくし
三 日雨 降 爰 より名古屋ニ出テ能 町 續 ク
みっかあめふるここよりなごやにでてよきまちつづく
夫 より大 ゾネと云 所 へ一 里半 かち河 へ
それよりおおぞねというところへいちりはんかちがわへ
一 里坂 下 へニ里半 雨天 故 爰 尓泊 ル宿
いちりさかしたへにりはんうてんゆえここにとまるやど
あしゝ山 々 ツツジ花 さか里
あししやまやまつつじはなざかり
四 日雨天 六 時 過 尓出 立 して内 津と云
よっかうてんむつどきすぎにしゅったつしてうつつという
所 此 邊 ノ者 内 津を宇津ゝと云 虎渓 山 ハ
ところこのあたりのものうつつをうつつというこけいさんは
(大意)
略
(補足)
「三日」、寛政1年4月3日 1789年4月27日。
「大ゾネ」、大曽根。「かち河」、勝川(かちがわ)。「坂下」。「内津(うつつ)」。この街道を「下街道」といったそうです。『下街道は日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説のある古くからの道で,名古屋城から大曽根,春日井市に入り,勝川・坂下・内津から,池田(多治見),釜戸(瑞浪市)を経て中山道大井宿の手前,追分(恵那市)で中山道に出た。この経路は現在の県道内津・勝川線とほぼ一致している。下街道は,幕府や尾張藩が指定した街道ではないので,本陣・一里塚はなく,正式な宿場もない脇道であった。下街道は,庶民の道として江戸時代を通じてにぎわった』。
「虎渓山(こけいざん)」、『岐阜県多治見市にある臨済宗の古刹「虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ)」として有名で、特に秋の紅葉が美しい名所です』とありました。
梅や桜はとっくにおわって、「山々ツツジ花さか里」の時期になってしまいました。













