2025年12月27日土曜日

江漢西遊日記六 その85

P99 東京国立博物館蔵

(読み)

いなかなり此 所  ハさかなハなしどせ う汁

いなかなりこのところはさかなはなしどじょうじる


をして喰 セけり江戸者 七 八 人 同 宿  春

をしてくわせけりえどものしちはちにんどうしゅくす


江戸辞(コトハ)を久 し婦り尓聞ク尓誠  尓重 ヒ物

えど  ことば をひさしぶりにきくにまことにおもいもの


云 ニて聞キ尓くし

いいにてききにくし


三 日雨 降 爰 より名古屋ニ出テ能 町 續 ク

みっかあめふるここよりなごやにでてよきまちつづく


夫 より大 ゾネと云 所  へ一 里半 かち河 へ

それよりおおぞねというところへいちりはんかちがわへ


一 里坂 下 へニ里半 雨天 故 爰 尓泊 ル宿

いちりさかしたへにりはんうてんゆえここにとまるやど


あしゝ山 々 ツツジ花 さか里

あししやまやまつつじはなざかり


四 日雨天 六 時 過 尓出  立 して内 津と云

よっかうてんむつどきすぎにしゅったつしてうつつという


所  此 邊  ノ者 内 津を宇津ゝと云 虎渓 山 ハ

ところこのあたりのものうつつをうつつというこけいさんは

(大意)

(補足)

「三日」、寛政1年4月3日 1789年4月27日。

「大ゾネ」、大曽根。「かち河」、勝川(かちがわ)。「坂下」。「内津(うつつ)」。この街道を「下街道」といったそうです。『下街道は日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説のある古くからの道で,名古屋城から大曽根,春日井市に入り,勝川・坂下・内津から,池田(多治見),釜戸(瑞浪市)を経て中山道大井宿の手前,追分(恵那市)で中山道に出た。この経路は現在の県道内津・勝川線とほぼ一致している。下街道は,幕府や尾張藩が指定した街道ではないので,本陣・一里塚はなく,正式な宿場もない脇道であった。下街道は,庶民の道として江戸時代を通じてにぎわった』。

「虎渓山(こけいざん)」、『岐阜県多治見市にある臨済宗の古刹「虎渓山永保寺(こけいざんえいほうじ)」として有名で、特に秋の紅葉が美しい名所です』とありました。

 梅や桜はとっくにおわって、「山々ツツジ花さか里」の時期になってしまいました。

 

2025年12月26日金曜日

江漢西遊日記六 その84

P98 東京国立博物館蔵

(読み)

江戸へ状  を出春

えどへじょうをだす


四月 朔  日曇  予(ワレ)惣 髪 なりしに長 﨑 ニて

しがつついたちくもり  われ そうはつなりしにながさきにて


おらん多唐 人 能館 内 ヘ入 ニハなら春故 ニ頭

おらんだとうじんのかんないへいるにはならずゆえにあたま


を剃(ソリ)江 助 と云 平 戸邊  迄 よりソロ\/髪 を

を  そり こうすけというひらどあたりまでよりそろそろかみを


能者゛し又 爰 ニて落 髪 して坊 主となりぬ

のば しまたここにてらくはつしてぼうずとなりぬ


二 日曇  朝 飯 過 尓日永 を出  立 して亀 六

ふつかくもりあさめしすぎにひながをしゅったつしてかめろく


四 日市 御瀧 川 能橋 の上 迄 送 ル三 英 と亀

よっかいちおたきがわのはしのうえまでおくるさんえいとかめ


石 亭 へより桑 名銭 屋と云 ニ参 里爰 ヨリ

いしていへよりくわなぜにやというにまいりここより


舟 かり切 三 百  文 何 \/風 景 よし佐屋

ふねかりきりさんびゃくもんなかなかふうけいよしさや


尓至 ル舟 よりあか里番 場尓泊 ル一 向 能

にいたるふねよりあがりばんばにとまるいっこうの

(大意)

(補足)

「四月朔日」、寛政1年4月1日 1789年4月25日。

「佐屋」、画像中央。東はすぐ名古屋です。


「番場(ばんば)」、滋賀県米原の東にある中山道の旧宿場町ですけど、ここではありません。なんでしょうか。

 江戸へ手紙を出し、現在地と江戸到着予定日時をしらせたのでしょう。江戸に向かって足早になっているようです。

 

2025年12月25日木曜日

江漢西遊日記六 その83

P97 東京国立博物館蔵

(読み)

ゼネラル能官 ニなり多ると夫 より日野へ行ク孫 三

ぜねらるのかんになりたるとそれよりひのへゆくまごさぶ


郎 助右衛門 ニ逢ヒ昼  喰 して程 なく立 テ山 越へ

ろうすけえもんにあいちゅうじきしてほどなくたちてやまごえ


三 里土 山 宿  へ七 ツ過 ニ出爰 ニ泊 ル

さんりつちやましゅくへななつすぎにでここにとまる


廿   八 日 土 山 を立 て鈴 鹿山 筆 捨(ステ)山 桜

にじゅうはちにちつちやまをたちてすずかやまふで  すて やまさくら


能咲 残 りて天 氣能ク亀 山 庄  野追 分

のさきのこりててんきよくかめやましょうのおいわけ


迄 ハ初 メて通 ル路 故 珍  し追 分 より半 路ニ

までははじめてとおるみちゆえめずらしおいわけよりはんろに


して日永 村 ニ至 ル七 ツ時 前 なり清水 源 兵衛

してひながむらにいたるななつどきまえなりしみずげんべえ


方 なり道 中  能者なし不盡 参 りし時 ハ廿 日ほ

かたなりどうちゅうのはなしつきずまいりしときははつかほ


と畄  リし尓此 度 明後日 出  立 せんと春

どとどまりしにこのたびあさってしゅったつせんとす


廿   九日 朝 少 シ雨 後 ヤム四 日市 三 英 参 ル

にじゅうくにちあさすこしあめのちやむよっかいちさんえいまいる

(大意)

(補足)

「日野」、往路では8月9日〜14日まで滞在しました。

「廿八日」、寛政1年3月28日 1789年4月23日。

「日永村」(ひながむら)、「参りし時ハ廿日ほと畄リし」、来るときに(7.3~15,7.23~8.2)と長く留まりました。ここから四日市まではすぐです。左隅が亀山、右隅に日永村と四日市があります。 

 大津からここまではずっと山道のはずで、季節と天気に恵まれたのか、江漢さん、気分よく難路を東へ歩みます。

 

2025年12月24日水曜日

江漢西遊日記六 その82

P96 東京国立博物館蔵

(読み)

大 津尓至 り草 津ヨリして石 部ニ泊 ル九里

おおつにいたりくさつよりしていしべにとまるくり


半 能路 なり

はんのみちなり


廿   七 日 天 氣石 部を明 六ツ過 ニ出て水 口 ニ

にじゅうしちにちてんきいしべをあけむつすぎにでてみずぐちに


至  おらん多人 江戸より帰 り路 昨 夜爰 ニ

いたるおらんだじんえどよりかえりみちさくやここに


泊 リ出  立 せんと春る処  吉 雄幸 作 ニ逢フ

とまりしゅったつせんとするところよしおこうさくにあう


長 﨑 尓て頼 ミ多る荷物 別 条  なく届  多る

ながさきにてたのみたるにもつべつじょうなくとどきたる


よしを聞キ安 心 春る蘭 人 カスプル。ロンベル

よしをききあんしんするらんじんかすぷる ろんべる


ケ尓逢フゲソンデルセイドト云ツて別  ルロンベ

けにあうげそんでるせいどといってわかれるろんべ


ルハ江戸へ五度来 リ多る人 也 此 上 ハ日本 へ

るはえどへごどきたりたるひとなりこのうえはにほんへ


不来 よし其 後聞 ハ天 竺 ベンカラ国 へ参 り

こざるよしそのごきくはてんじくべんがらこくへまいり

(大意)

(補足)

「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル」、 

「廿七日」、寛政1年3月27日 1789年4月22日。

「石部を明六ツ過ニ出て水口ニ至」、

「カスプル。ロンベルケ」、Hendrik Caspar Romberg(11 October 1744 – 15 April 1793)。英語版のウイキペディアに記載されています。

 蘭人一行と出会ったのが偶然のように記されていますが、彼らの日程は厳しく決められていたはずで、あらかじめ江漢さんたちはどのへんですれ違うかはわかっていたと思われます。

 

2025年12月23日火曜日

江漢西遊日記六 その81

P95 東京国立博物館蔵

(読み)

畄主ニて不逢

廿   五日 天 氣禁 裏地行  とて町  家より老 人

にじゅうごにちてんききんりちぎょうとてちょうかよりろうじん


小とも一 町  より二十  六 人 宛 吾 等老 人 の部ニ入り

こどもいっちょうよりにじゅうろくにんずつわれらろうじんのぶにいり


ツイヂ能内 三 町  尓二町  なり紫辰(シシン)殿 廻(クワイ)廊(ロウ)

ついじのうちさんちょうににちょうなり   ししん でん  かい    ろう


月 花門 日 花門 承  明 門 の邊  を諸 人 千 棒 ツキ

げっかもんにっかもんじょうめいもんのあたりをしょにんせんぼうつき


町 々 能印  能付 多る織(ノホリ)を建テキヤリ。ヲンドニて

まちまちのしるしのつけたる  のぼり をたてきやり おんどにて


さて\/珍  しき事 なり帰 り尓小共 ニ銭 五十  文 大

さてさてめずらしきことなりかえりにこどもにぜにごじゅうもんおと


人尓百  文 宛 下 さるおらん多今 日京  著(チヤク)と云

なにひゃくもんずつくださるおらんだきょうきょう  ちゃく という


廿   六 日 天 氣四 時 京  都を出  立 して三 条

にじゅうろくにちてんきよつどききょうとをしゅったつしてさんじょう


の橋 よりケアゲ能茶 ヤニよ里粟 田口 ヲ過キ

のはしよりけあげのちゃやによりあわだぐちをすぎ

(大意)

(補足)

「畄主」、留守。

「廿五日」、寛政1年3月25日 1789年4月20日。

「禁裏地行」、禁裏の周辺で行われるお祭りみたいなものでしょうか。

「ツイヂ」、築地。「紫辰」、紫宸。「織」、幟。「小共」、子供。

「月花門日花門承明門」、以下AIによる概要です。

『月華門、日華門、承明門は、京都御所の正殿である紫宸殿の南庭を囲む回廊に設けられた門です。東の日華門、西の月華門、南の承明門が、それぞれ日(太陽)と月(月)の象徴と、天皇が通る正式な南側通路として機能しています。 

各門の概要

承明門(じょうめいもん)

紫宸殿の南庭の南側に位置する回廊の門です。

格式が高い門であり、かつては天皇や主要な儀式に参加する者のみが通過できました。

日華門(にっかもん)

南庭の回廊の東側(向かって左)にある門です。

太陽を象徴し、東側からの入り口となります。

月華門(げっかもん)

南庭の回廊の西側(向かって右)にある門です。

月を象徴し、西側からの入り口となります。 

これらは、古代中国の思想に基づく「日・月」の対比と、天皇が南(太陽の方向)に向かって座るという形式を反映した重要な構造物です』。

「ケアゲ能茶ヤ」、 

「粟田口」、道順としては蹴上は粟田口のあとですけど。 

 寛政1年3月26日1午前10時、7日から25日までの京都滞在から江戸へ向けて出立しました。次の場所に向かう前は必ずお世話になった方々に暇乞いをしていました。ここでは記されてませんがやはり暇乞いは欠かさずに行っているとおもいます。

 次頁に「大津尓至り草津ヨリして石部ニ泊ル九里半能路なり」とあって、一気に9里半、なんと38kmを歩いています。たっぷり京都で休んだといっても、ほぼ毎日10km以上歩いて観光してますが、元気いっぱいの江漢さんです。

 

2025年12月22日月曜日

江漢西遊日記六 その80

P94 東京国立博物館蔵

(読み)

日暮(クレ)て五 ツ時 前 ニ帰 ル

ひ  くれ ていつつどきまえにかえる


廿   二日 朝 雨 後 ヤム伏 見六 右衛門 来ル生 鯛 漸

にじゅうににちあさあめのちやむふしみろくえ もんくるなまだいようやく


四五寸 位  ニして價  五匁  之(コレ)を吸 物 として酒 を

しごすんくらいにしてあたいごもんめ  これ をすいものとしてさけを


出ス

だす


廿   三 日 曇  冨士の画老 人 の像 出来ル伏 見へ

にじゅうさんにちくもりふじのえろうじんのぞうできるふしみへ


持 行ク良  祐 老 人 ニ渡 春返 り尓桃 山 へ登 ル花

もちゆくりょうすけろうじんにわたすかえりにももやまへのぼるはな


少  々  末 夜 ニ入 帰 り路 新 地と云 処  茶 屋へ上 里

しょうしょうすえよるにいりかえりみちしんちというところちゃやへあがり


妓  一 人呼ヒ大 酒 春る

おんなひとりよびおおざけする


廿   四 日天 氣四条  丸 屋亦 七 方 へ行キビイドロ板

にじゅうよっかてんきしじょうまるやまたしちかたへゆきびいどろいた


吹 様 をおしへる茶 菓子を出ス夫 より荻 野へよる

ふきようをおしえるちゃがしをだすそれよりおぎのへよる

(大意)

(補足)

「廿二日」、寛政1年3月22日 1789年4月17日。

「良祐老人」、(その73)の3月17日に頼まれた画、近江日野商人の中井源左衛門良祐このとき73歳(1716年~1805年)。

「四条丸屋亦七」、(その76)で登場。

「荻野左衛門尉」、(その68)、(その73)に登場してます。

 毎日京都及び周辺の観光で出歩き飲み歩き、夜は夜で茶屋遊び、しかし老人の画はコツコツ描いていたようです。

 

2025年12月21日日曜日

江漢西遊日記六 その79

P93 東京国立博物館蔵

(読み)

去りて橋 を渡 里虚空 蔵 の前 能田 楽 茶 や

さりてはしをわたりこくうぞうのまえのでんがくじゃや


へあかり田 楽 ニて酒 を呑ミ个る尓何ンぞ魚  ハなき

へあがりでんがくにてさけをのみけるになんぞさかなはなき


ヤと問ヘハ者やと云 小魚  ニ大 根 を切リ酢ヲかけて

やととえばはやというこざかなにだいこんをきりすをかけて


出し希れ此 地海 遠 ふして魚  なし夫 より梅

だしけれこのちうみとううしてさかななしそれよりうめ


能宮 と云フ処  を横 尓見て桂  の渡 し千 本 通

のみやというところをよこにみてかつらのわたしせんぼんどおり


嶋 原 を見て東 寺尓至 ル此 日終  日 弘 法 大

しまばらをみてとうじにいたるこのひしゅうじつこうぼうだい


師開 帳  寺内 参 詣 多 シ千 手 観 音 堂 アリ

しかいちょうじないさんけいおおしせんじゅかんのんどうあり


後 ロハ薬 師昔 シハ大 伽羅 ニて消  失 しぬ

うしろはやくしむかしはだいがらんにてしょうしつしぬ


碇(イシツヱ)至  て大 きし羅生  門 の趾 アリ夫 より

  いしずえ いたっておおきしらしょうもんのあとありそれより


して本 願 寺能前 を通 り此 邊  漸  く焼 能こる

してほんがんじのまえをとおりこのあたりようやくやけのこる

(大意)

(補足)

「虚空蔵」、嵐山、虚空蔵法輪寺。

「梅の宮」、梅宮大社。

「伽羅」、伽藍。「碇」、礎。

 嵐山からそのままほぼ真東へ、JR京都駅裏の東寺、そして本願寺着。比較的のんびりした京都観光の1日の様子です。