2025年12月11日木曜日

江漢西遊日記六 その69

P80 東京国立博物館蔵

(読み)

三 条  生(イケ)春松 源 柏 宗 なと名 家アリ鯉 ふな

さんじょう  いけ すまつげんはくそうなどめいかありこいふな


うなぎ酒 を呑 妓  一 人三 味せんハなら春゛夫

うなぎさけをのむおんなひとりしゃみせんはならず それ


よりして新 地と云 処  ヘ至 り亦 爰 妓  壱 人茶 や

よりしてしんちというところへいたりまたここおんなひとりちゃや


の女  房 を連レて嶋 原 へ行ク揚 屋偶 徳 と云

のにょうぼうをつれてしまばらへゆくあげやすみとくという


尓参 ル玄 関 より上 ル書 院 坐しき燭  臺

にまいるげんかんよりあがるしょいんざしきしょくだい


数 十  如昼    照 春女  房 出 中 居八 九人 妓

すうじゅうひるのごとくてらすにょうぼうでてなかいはっくにんおんな


四人 盲 人 壱 人夫 より大夫 をかりて見ル

よにんもうじんひとりそれよりたゆうをかりてみる


三 十  人 其 内 玉 の井と云 を揚 る夜 の八ツ時

さんじゅうにんそのうちたまのいというをあげるよるのやつどき


比 尓帰 ル

ころにかえる


十  二日 曇  氣分 あしゝ偶 然 として暮 春

じゅうににちくもりきぶんあししぐうぜんとしてすごす

(大意)

(補足)

「三条生洲」、『川に面した座敷があり鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを店の生洲(高瀬川の水を引き込んだ)や庭に飼っておいて、客の注文に応じて料理を出す』。

「松源」「柏宗」については、当時の有名な茶屋・料理屋ではないかとおもわれますが、不明です。

「揚屋偶徳」、京都島原の揚屋、角屋徳兵衛の略。角屋は島原の郭内でも由緒ある揚屋として、歴史上の重要な舞台ともなった。また、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。

 さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

「夜の八ツ時比」、夜中の2時頃。

「十二日」、寛政1年3月12日 1789年4月7日。

「偶然」、寓然。しばらく前にも、同じように過ごしました。

 江漢さん、午前2時ごろに帰宅。二日酔いと寝不足で「氣分あしゝ」だったようです。

 

2025年12月10日水曜日

江漢西遊日記六 その68

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

五十  位  爰 ニ十  四 日滞 畄  春る

ごじゅうくらいここにじゅうよっかたいりゅうする


八 日曇  さ武し荻 野左衛門 方 へ行ク頗  ルおらん

ようかくもりさむしおぎのさえもんかたへゆくすこぶるおらん


多を好 ム人 ニて窮  理談 を春酒 肴 を出して

だをこのむひとにてきゅうりだんをすしゅこうをだして


よろこぶ

よろこぶ


九  日宿 の弟   を連レ北 野天 神 へ行ク天 曇

ここのかやどのおとうとをつれきたのてんじんへゆくてんくもり


て雪 降 出春此 日さ武し大 霜 厚ツ氷 リハル

てゆきふりだすこのひさむしおおしもあつごおりはる


十 日朝 霜 氷 ル天 氣京  ハめつらしき故 尓

とおかあさしもこおるてんききょうはめずらしきゆえに


所  々  を歩ス祇園 より金 毘羅参 り人 多 し

ところどころをほすぎおんよりこんぴらまいりひとおおし


僕(ホク)弁 喜大 坂 へ遣  ス

  ぼく べんきおおさかへつかわす


十  一 日 大 雨 晩 方 雷 鳴 伏 見六 右衛門来 ル

じゅういちにちおおあめばんがたらいめいふしみろくえもんきたる

(大意)

(補足)

「八日」、寛政1年3月8日 1789年4月3日。

「窮理談を春」、江漢はこの長崎西遊の後、寛政5(1793)年〜文化6(1809)年に以下の科学書を次々に刊行した。『銅版地球全図』『地球全図略説』『銅図』『和蘭天説』『和蘭通舶』『刻百爾(コッペル)天文図解』『地球儀略図解』。『春波楼筆記』には「小子は天文地理を好み、わが日本にはじめて地転の説をひらく」と自負し、地動説の紹介と普及に功績をあげた。

 1792年に発刊した『地球全図』、 

「雪降出春此日さ武し大霜厚ツ氷リハル」、1789年は世界中で異常気象の年でした。現在でも4月上旬春先の爆弾低気圧でこのようなことはありますので、なんとも判断がつきかねます。

「祇園」、なんども日記にでてきてます。日記では「祇」が「祗」となっています。

 

2025年12月9日火曜日

江漢西遊日記六 その67

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

路 雨 降 出春

みちあめふりだす


六 日大 雨 扇 面 ニ画を描ク伊賀の商  人 昨

むいかおおあめせんめんにえをかくいがのしょうにんさく


夜より爰 ニ居ル銅 版 目か年を見セる其 者

やよりここにおるどうはんめがねをみせるそのもの


云 私   兄 画を好 ム是 より吉 野ノ方 へお出

いうわたくしあにえをこのむこれよりよしののほうへおいで


ならハ必  ス相 待 申  と云 九  兵衛津の者 を

ならばかならずあいまちもうすというきゅうべえつのものを


連レ来 ル亦 佐兵衛方 ニて小倉 能沼 の蜆(シゝミ)

つれきたるまたさへえかたにておぐらのぬまの  しじみ


至  て大 キシ吸 物 ニして酒 を呑ム

いたっておおきしすいものにしてさけをのむ


七 日天 氣さ武し伏 見京  町 より京  冨 の

なのかてんきさむしふしみきょうまちよりきょうとみの


小 路姉 カ小 路日野屋方 へ引 越ス主 人 ハ廿   二

こうじあねがこうじひのやかたへひっこすしゅじんはにじゅうに


三 能若 者 弟   十  六 七 能キ人 物 なり母 親 アリ

さんのわかものおとうとじゅうろくしちよきじんぶつなりははおやあり

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年3月6日 1789年4月1日。

「吉野ノ方へお出ならハ」、江漢はその後、文化9(1812)年、吉野へ観光旅行をして、『吉野紀行』をあらわしています。

 伏見京町に2月28日〜3月6日まで泊まって、この日7日に姉カ小路日野屋へ引っ越しました。

 

2025年12月8日月曜日

江漢西遊日記六 その66

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

尓て呼 れ酒 出 馳走 ニなり帰 ル文 策 と物

にてよばれさけだすちそうになりかえるぶんさくともの


語 りして夜 五  時 尓寝ル此 文 策 と云 醫者

がたりしてよるいつつどきにねるこのぶんさくといういしゃ


ハ相 馬能人 ニて此 伏 見ニ滞 畄  して居(イ)し

はそうまのひとにてこのふしみにたいりゅうして  い し


なり

なり


四 日天 氣後 曇  冨士の画出来上 ル昼 比

よっかてんきのちくもりふじのえできあがるひるごろ


隣 家佐兵衛方 へ文 策 と行ク酒 を呑ミ又

りんかさへえかたへぶんさくとゆくさけをのみまた


九  兵衛処  へ茶 尓参 ル帰 りて茶 尓おかされ

きゅうべえところへちゃにまいるかえりてちゃにおかされ


二 人共 夜半 迄 不眠

ふたりともやはんまでねむれず


五 日曇  京  へ行ク三 里あり宗 林 寺門

いつかくもりきょうへゆくさんりありそうりんじもん


前 大 雅堂 能跡 へ行ク其 外 所  々  へ尋  る返

ぜんたいがどうのあとへゆくそのほかところどころへたずねるかえり

(大意)

(補足)

「四日」、寛政1年3月4日 1789年3月30日。

「茶尓おかされ二人共夜半迄不眠」、むかしもいまもお茶で眠れなくなってしまうのは時代をこえてのアルアル。

「宗林寺門前大雅堂」、京都市のHPより。

『池大雅(1723~76)の家は北山深泥池村で代々農業を営んだが,父が京都に出て銀座の下役になった。大雅は少年時代より書を学び,南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘町(玉瀾)と結婚し,この地真葛原(知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯)に草庵を結んだ。与謝蕪村(1716~83)とともに日本的な独自の文人画を大成した。この石標は池大雅の住居跡を示すものである』。 

 池大雅や蕪村も、江漢さんと同時代の人だったのですね、へぇ〜、です。


 

2025年12月7日日曜日

江漢西遊日記六 その65

P76 東京国立博物館蔵

(読み)

此 時 大 和廻 里をせ春゛亦 小倉 堤  へ出て

このときやまとめぐりをせず またおぐらつつみへでて


伏 見京  町 ニ帰 ル

ふしみきょうまちにかえる


二 日雨天 四ツ時 より京  の方 へ行ク深 草 と云

ふつかうてんよつどきよりきょうのほうへゆくふかくさという


処  焼 物 アリ東 福 寺の前 を過 て三 十  三

ところやきものありとうふくじのまえをすぎてさんじゅうさん


軒 堂 大 佛 殿 夫 より五条  橋 へ出寺 町

げんどうだいぶつでんそれよりごじょうばしへでてらまち


通 りを行キ四条  より三 条  芝 居の前 へ出て

とおりをゆきしじょうよりさんじょうしばいのまえへでて


麩(フ)屋町  へ行 路 ニて文 束 と云 人 ニ逢ヒ同 道 して

  ふ やちょうへゆくみちにてぶんさくというひとにあいどうどうして


知音 院 へ参  祇園 清 水 へ参 り亦 伏 見ニ返 ル

ちおんいんへまいるぎおんきよみずへまいりまたふしみにかえる


三 日天 氣寒  日野孫 三 郎 頼 ミの画八部の

みっかてんきさむしひのまごさぶろうたのみのえやべの


冨士を描ク昼 比 より隣  九  兵衛方 ひゐな祭 り

ふじをかくひるごろよりとなりきゅうべえかたひいなまつり

(大意)

(補足)

「二日」、寛政1年3月2日 1789年3月28日。

「深草と云処焼物アリ」、現在では京都の焼き物といえば「清水焼」となりますが、当時はこの「深草焼き」のようでした。AIの概要では次のようにありました。

『深草の焼き物について

深草(現在の京都市伏見区深草)一帯は良質な粘土が豊富に産出したため、奈良時代には既に土師部(はじべ)が埴輪や土器、瓦などを制作していました。 

深草焼(ふかくさやき): 京焼のルーツの一つとされ、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した作陶家もいました。当初は素朴な締焼(しめやき)でしたが、室町時代以降に釉薬を使った陶器も生まれています。

深草土器(ふかくさかわらけ): 神社などで使用される素焼きの土器も深草で作られていました』。

「大佛殿」、方広寺にあった大仏のこと。江漢さんが見た大仏は寛政10年(1798年)に落雷によって焼失。

「文束」、文策。

「ひゐな」、『ひいな ひひな 【雛】ひな人形。ひな。季春「うつくしきもの,…―の調度」〈枕草子•151〉』

「三十三軒堂」、三十三間堂。「知音院」、知恩院。

 この日の観光コースは修学旅行生のものとほぼ同じです。


 

2025年12月6日土曜日

江漢西遊日記六 その64

P75 東京国立博物館蔵

(読み)

行ク尓六 地蔵 小畑 村 を過 黄 檗 山 ニ至 ルニ

ゆくにろくじぞうこはたむらをすぎおうばくさんにいたるに


入 口 門 尓第 一 義と云 額 山 門 尓萬 福 寺

いりぐちもんにだいいちぎというがくさんもんにまんぷくじ


本 堂 尓大 王 殿 裏 尓威徳 荘 厳 と在

ほんどうにだいおうでんうらにいとくそうごんとあり


霊 峰 沙 門 即 非敬 書 誠  唐 めき多る処

れいほうしゃもんそくひけいしょまことからめきたるところ


なり夫 より三 宝 堂 橋 寺 恵心 寺恵心

なりそれよりさんぽうどうはしでらえしんじえしん


僧 都自作 の像 あり寛 仁 元 年 六 月 十

そうずじさくのぞうありかんにんがんねんろくがつとお


日卒 春今年 迄 七 百  七 十  三 年 ニなる橋

かそっすことしまでななひゃくななじゅうさんねんになるはし


あり損 春舟 渡 し即 宇治河 是 也 渡 り

ありそんすふなわたしそくうじがわこれなりわたり


て松 あり扇  の芝 と云 左  ニ釣 殿 鳳 凰

てまつありおおぎのしばというひだりにつりどのほうおう


堂 前 ニ池 アリ其 上 の瀬を山 吹 の瀬と云

どうまえにいけありそのうえのせをやまぶきのせという

(大意)

(補足)

「小畑村」、小幡(こはた)村か。

「萬福寺 霊峰沙門即非敬書」で調べると、AIの概要は次の通り。

『京都府宇治市にある黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)と、江戸時代前期に活躍した中国出身の高僧である即非如一(そくひにょいち)禅師に関わる言葉です。具体的には、即非禅師が揮毫(きごう)した書の落款(らっかん、署名)や題名の一部と考えられます。 内訳は以下の通りです。

萬福寺: 1661年に中国僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師によって開創された、黄檗宗の大本山です。

即非(そくひ): 即非如一禅師(1616年-1671年)のことです。隠元禅師の弟子として来日し、長崎の崇福寺の住職を務めた後、萬福寺の第2代住持となりました。

霊峰沙門(れいほうしゃもん): 霊峰は即非禅師の別号(呼び名)の一つ、沙門は出家修行者を意味します。

敬書(けいしょ): 恭しく(うやうやしく)書いた、という意味です』。AIは信用できないので、個別に調べてみると、まぁ、あっているようです。

「七百七十三年」、この日は西暦で1789年3月27日。寛仁(かんにん)元年は西暦1017年なので引き算をすると、772年前となります。

 恵心寺と平等院は宇治川をはさんで向かいあっていますので、江漢さんは恵心寺から川を渡って、平等院へ行ったようです。そこの「扇の芝」は『治承4年(1180年)の宇治川の戦いで平氏軍に敗れた源頼政が、平等院に逃げ込み、自刃した場所と伝えられています。伝説によると、頼政は西方極楽浄土を願って大きな軍扇(ぐんせん)を敷き、その上で切腹したことから「扇の芝」と呼ばれるようになりました』とあります。

「釣殿」、『つりどの【釣り殿】

寝殿造りの南端の,池に臨んで建てられた周囲を吹き放ちにした建物。魚釣りを楽しんだところからの名という。納涼・饗宴に用いられた』。

 宇治の平等院鳳凰堂は江漢さんの好みではなかったようで、画を残していません。大和巡りはせずに伏見京町へ帰ってしまいました。

 もう50数年前のことでしょうか、もしかしたら大阪万博1970年のときだったかもしれません。父と京都旅行をして萬福寺を訪問しました。真夏の暑い盛り、汗だくでしたが境内は日陰も多く、涼しかった。そこで見た、鉄眼和尚の一切経の版木は感動的でした。ずっと見ていたら、係員の方がガラスケースの中につまれていた真っ黒な版木を取り出して持たせてくれました、重たかった。これは世界にこれ1枚しかないのだとおもうと、いっそうずしりと両手にそのおもみがしみました。版木の漢字の彫りは、たくさん刷っただろうに角がまだしっかりとたっていて、丈夫なのだなとおもったものです。中国ではもうこの一切経の版木はとっくに失われていて、世界でもここにしかない貴重なものということです。 

2025年12月5日金曜日

江漢西遊日記六 その63

P74 東京国立博物館蔵

(読み)

鍋 嶌 黒 田と呼フ古  へ能屋しき能跡 と

なべしまくろだとよぶいにしえのやしきのあとと


見ユ其 畑  のウ子\/尓梅 桃 を植 て其

みゆそのはたけのうねうねにうめももをうえてその


比 梅 能花 さか里なり臺 より見下 セハ皆

ころうめのはなざかりなりだいよりみおろせばみな


梅 村 小倉 能沼 堤  向 フ方 ハ春 日山 八幡

うめむらおぐらのぬまつつみむこうかたはかすがやまやわた


山 遥  尓吉 野能方 金 剛 山 を望 ム左  ハ黄檗(ヲーハク)

やまはるかによしののほうこんごうさんをのぞむひだりは   おうばく


山 宇治の方 なり臺 を下 レハ御香 の宮

さんうじのほうなりだいをおりればごこうのみや


とて鎮 守 なり門 ハ古  へ能臺 所  能門 と云フ

とてちんじゅなりもんはいにしえのだいどころのもんという


画馬堂 尓大 釜 ニ菊 桐 の紋 アリ

えまどうにおおがまにきくきりのもんあり


三 月 朔 日 天 氣寒 シ宇治の方 へ行ク尓宮

さんがつついたちてんきさむしうじのほうへゆくにみや


乃前 を通 り梅 畑  を過 て城  址を左  ニ見テ

のまえをとおりうめばたけをすぎてじょうしをひだりにみて

(大意)

(補足)

「ウ子\/」、いままでずっとこの「ウ子」の「子」を「ネ」としてきましたが、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「子」が字の形として正解のようです。

「小倉」、巨椋。この古地図を見ると大池の右に小倉村とありますので、正しいのかも。


 「御香の宮」、『御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)は京都市伏見区に鎮座し、安産・子育ての社として古くより信仰を集めています』とありました。
 

「画馬堂」、絵馬堂。

「三月朔日」、寛政1年3月1日 1789年3月27日。

 見学するところ、見学したいところがたくさんあるのでしょう。精力的に近辺を歩き回っています。