2025年9月17日水曜日

江漢西遊日記五 その53

P60 東京国立博物館蔵

(読み)

戊  申  暮 ヨリ己   酉 ノ春 正  月

つちのえさるくれよりつちのととりのはるしょうがつ


四 日四 時 此 嶋 を舟 ニテ

よっかよつどきこのしまをふねにて


乗 出ス又 之助 ト我 等

のりだすまたのすけとわれら


なり皆 々 岸 迄 見送 ル

なりみなみなきしまでみおくる


冬 能旅 先 此 嶋 尓

ふゆのたびまずこのしまに


生月(イキツキ)て春 能平戸(ヒラト)

   いきつき てはるの   ひらど


を明 渡 る舟

をあけわたるふね


筑 前 ノ経  師 左右 治

ちくぜんのきょうじ さゆうじ


此 嶋 ノ人 新 四良

このしまのひとしんしろう


筑 前 ノ商  人 金 兵衛

ちくぜんのしょうにんきんべえ

(大意)

(補足)

「戊申(つちのえさる)」「己酉(つちのととり)」、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせた60個は整然と組み合わさって、覚えやすいのですが、それらふたつを組み合わせた訓読みはどうも苦手であります。

「戊申暮ヨリ己酉ノ春」、天明8年西暦1788年暮れより天明9年(寛政元年1月25日〜)西暦1789年の春。

「正月四日」、天明9年1月4日。1789年1月29日。

「四時」、10時頃

 

2025年9月16日火曜日

江漢西遊日記五 その52

P56P57 東京国立博物館蔵

P58P59

(読み)

P56

鯨  ヲカコム図

くじらをかこむず


鯨  二 ツ連レ

くじらふたつつれ


入  勢

はいるいきおい


鮪 見

しびみ


鯨  見

くじらみ


景 嶋

けいしま


網 舟

あみふね


通  舟

とおしふね

P57

潮 ヲ吹ク勢

しおをふくいきおい


三崎 鯨  ヲ切 解 所

みさきくじらをきりとくところ


鮪 網

しびあみ


鮪 見

くじらみ


クジラ見

くじらみ


P58

鯨  ヲ解(トク)所

くじらを  とく ところ


カグラサント云

かぐらさんという


万 力 シヤチ

まんりきしゃち


七ナカラ立ツ

ななからたつ


人 夫四十  程

にんぷしじゅうほど


ニテ肉 ヲ巻キ

にてにくをまき


切ルナリ

きるなり

P59

納屋アリ

なやあり

(大意)

(補足)

「西遊旅譚四」より「鯨を囲圖」。

また、鯨の種類も五頭描いています。 

どの鯨も気のせいではなく、目がやけにリアルです。

 これら5種類のもう少し詳しい内容です。

骨納屋之図。 

肉納屋之図。 

 江漢の生きた時代以降、米国がマッコウクジラ鯨油(街灯や家庭のロウソク、機械の潤滑油、石鹸などの原料)を求めて日本近海にきます。1840年~60年頃までの20年間が全盛期でした。鯨油を樽に蓄え、ほかはみな捨ててしまっていたようです。

 日本の捕鯨はまるまる一頭無駄なく解体して利用しているのがよくわかります。


 

2025年9月15日月曜日

江漢西遊日記五 その51

P54 東京国立博物館蔵

P55

(読み)

コレハ瀬ト云 テ鯨  ノ口 ハタ鼻 ノ先キ

これはせといいてくじらのくちばたはなのさき


鰭 ナドニ付 テアル者 ニテ

しびなどにつきてあるものにて


鯨  ヨリ生  シテ貝 ナリ其

くじらよりしょうじてかいなりその


貝 ニ亦 茸(キノコ)ノ様 ナル者

かいにまた  きのこ のようなるもの


付 テ活(イキ)テ手ノ如 キ者 ヲ

つきて  いき ててのごときものを


ウコカス此 者 瀬美

うごかすこのものせみ


鯨  ニアリ

くじらにあり


大 キサ如図

おおきさずのごとし


コレハ坐頭 鯨  ノ者

これはざとうくじらのもの


菌(キノコ)ノコトキ物

  きのこ のごときもの


油  に揚 テ喰フ

あぶらにあげてくう


生 ヱン ウス色

なまえん うすいろ


足ノ如  キ者

あしのごときもの


コレハ死シテ動  ズ

これはししてうごかず


内 ニ足 ノ如 キ者 アリ

にくにあしのごときものあり


貝 ニ付 テ別 物 ナリ

かいにつきてべつものなり


貝 ハ色 白

かいはいろしろ


P55

鮪 視楼

しびみろう


鯨  視

くじらみ


鯨  来 ル時 ハハタヲ

くじらきたるときははたを


出シ知ラセル

だししらせる

(大意)

(補足)

「油に揚テ喰フ」とあります。これは鯨や鮪に付着しているものですけど、岩場などにはカメノテという同じような生物があって、茹でておいしく食べることができます。蟹や海老、ウニなど磯の生き物の味で、見かけはよろしくありませんがなかなかうまいものです。

「生ヱン ウス色」、西遊旅譚四では「生胭脂肉色」とかかれています。なんでしょうか?

「西遊旅譚四」にも同様の画がさらに詳しく描かれています。

貝などの画。

鮪見楼。 


 鮪見楼はこの画のを見る限り、よじ登るしか方法はなさそうです。

 

2025年9月14日日曜日

江漢西遊日記五 その50

P52 東京国立博物館蔵

P53

(読み)

全 身 黒 腹 ノ方 少 シ

ぜんしんくろはらのほうすこし


白 シ鼻 ノ先 白 キハ

しろしはなのさきしろきは


瀬と云 貝 也

せというかいなり


夜半 出テ鯨  ノ背ニ登 ル

やはんでてくじらのせにのぼる


坐シタルハ余レ

ざしたるはわれ


立 タルハ又 之助

たちたるはまたのすけ


僕  弁 喜

しもべべんき

P53

十  二月 十  五日 朝 鯨

じゅうにがつじゅうごにちあさくじら


来 ルト云 知ラセ未  飯

きたるというしらせいまだめし


不喰 故 ニアツキ飯 ニ水

くわずゆえにあつきめしにみず


ヲカケ一 椀 喰ヒ舟 ニ

をかけひとわんくいふねに


乗ル鯨  所  々  ヘニケ見

のるくじらところどころへにげみ


へス晩 七  時 比 舟 ヲ生 月 へ

へずばんななつどきころふねをいきつきへ


返ヘサントスル時 大 嶋 ノ方

かえさんとするときおおしまのほう


ニテ頻 リニ印  ヲ以  マネグ

にてしきりにしるしをもってまねく


夫 より大 嶋 ノ方 コギ行 事

それよりおおしまのほうこぎゆくこと


四里程 モアラント思 ヒケリ

しりほどもあらんとおもいけり

(大意)

(補足)

「夜半出テ」、鯨の尾の上の方に、満月が出ています。明るかったでしょう。

「十二月十五日」、天明8年12月15日。西暦1789年1月10日。この日は月齢13.6で満月は12日でしたから、この画のとおりお月さんは丸く見えたはずです。

「鯨来ルト云」、「未飯不喰故」、「舟ニ乗ル」、来未乗の三文字が少しずつ違うだけで難しい。全部「来」と読んでいました。

「西遊旅譚四」にもかなり詳しく、鯨に関する記述と画があります。

『夜半出天 鯨乃背に の本゛る 鯨番人』

『鯨切解圖』

『鯨漁之圖』 

 「江漢西遊日記」、「西遊旅譚」ともに鯨に関する文章・画はかなりの頁をさいて、詳細に記述していて、江漢さんが好奇心全開、からだをはって知ろうとしているのがよくわかります。

 P52、月夜の浜によこたわる鯨。目を哀しそうに描いているのが、江漢さんらしい。

 

2025年9月13日土曜日

江漢西遊日記五 その49

P51 東京国立博物館蔵

(読み)

生 月 嶋 ニテ一 里西 ノ方

いきつきしまにていちりにしのほう


松 本 と云 所  鮪 漁  アリ

まつもとというところしびりょうあり


往 て見 物 春其 時

ゆきてけんぶつすそのとき


四国 ヨリ藝 者

しこくよりげいしゃ


来 リ力  持 手津ま

きたりちからもちてづま


を見 物 春

をけんぶつす


其 所  の田 夫

そのところのでんぷ


老 若  男 女

ろうにゃくなんにょ


見 物 春

けんぶつす

(大意)

(補足)

「田夫」、農夫のことですが、いままでうん十年ずっと「たふ」と読んできてました。お恥ずかしい😞・・・

 江漢さんの描く農夫や年寄・子どもたちは、たくさんの絵師がいる中で、すぐに彼が描いたのだとわかるくらい特徴的で、表情や物腰のあたたかさが伝わってきます。着ているものなどもこのとおりだったのでしょう。継ぎ当ては当たり前、これが普段着なのでしょう。

 

2025年9月12日金曜日

江漢西遊日記五 その48

P50 東京国立博物館蔵

(読み)

布(シキ)可へ舟 六 艘 ニてかこ武時 尓鮪 誠  尓小

  しき かえふねろくそうにてかこむときにしびまことにこ


魚  を掌(テノヒラ)尓春くゐ多る如 し夫 を鳶口(トビクチ)能様

ざかなを  てのひら にすくいたるごとしそれを   とびぐち のよう


なるかぎ尓て引(ヒキ)揚(アケ)る海 血(チ)能波 立ツ誠  ニ

なるかぎにて  ひき   あげ るうみ  ち のなみたつまことに


め川らしき見 物 なり之(コレ)を見終(ヲハ)里て陸(ヲカ)尓

めずらしきけんぶつなり  これ をみ  おわ りて  おか に


納屋尓至 りして其 時 四国 阿波より力  持

なやにいたりしてそのときしこくあわよりちからもち


曲  持 など春る藝 者 来 リて爰 尓居ル故 尓

きょくもちなどするげいしゃきたりてここにおるゆえに


又 之助 其 藝 を好 ミ个連ハ色 \/藝 をし个り

またのすけそのげいをこのみければいろいろげいをしけり


其 処  能者 肝 を津ぶして見 物 春夫 よりして

そのところのものきもをつぶしてけんぶつすそれよりして


宿 へ帰 りぬ往 来 皆 舟

やどへかえりぬおうらいみなふね


九  日亦 時雨 雪 霰  風 吹キ此 日絹 地尓画

ここのかまたしぐれゆきあられかぜふきこのひきぬじにえ

(大意)

(補足)

「力持」、『② 重い物を持ち上げる武芸,また見世物。また,その人』

「曲持」、『きょくもち【曲持ち】曲芸として,手・足・肩・腹などで,樽(たる)・臼(うす)・米俵・人などを持ち上げて自由にあやつる芸』

「九日」、天明8年12月9日。西暦1789年1月4日。

「誠ニめ川らしき見物なり」、「鮪冬網(志びふ由あミ)」の画のように、激しい漁をそれほど離れていない小舟から見物したのでしょうけど、それでも小舟からの見物も同じようなものだったとおもわれます。同じ小舟に亦之助や新四郎も乗っていたのかもしれません。

「西遊旅譚四」に江漢の画があります。『鮪網之圖』です。 

 こちらは「鮪漁」の画。


  前回の画は江漢の画ではなく、こちらが江漢の画。漁師たちは誰一人腰蓑などなく褌一丁にハチマキ、身につけているものはそれだけであとは裸です。こちらが実際の鮪漁の様子。

やはりすごいですね。

「鯱(シャチホコ)又タカマツ 鮪を 喰んと して人を 不恐舟乃 きハま天 き多る」とありますから、舟から落ちたらシャチにやられてしまいます。命がけ!

 

2025年9月11日木曜日

江漢西遊日記五 その47

P49 東京国立博物館蔵

(読み)

八 日曇  此 嶋 の西 の方 松 本 と云 処  鮪 アルよし

ようかくもりこのしまのにしのほうまつもとというところしびあるよし


朝 より又 之助 新 四郎 同 道 して行ク尓鮪

あさよりまたのすけしんしろうどうどうしてゆくにしび


二百  四 十  二疋 と云 大漁(タイリヨウ)の時 ハ千 も取レるよし

にひゃくよんじゅうにひきという   たいりょう のときはせんもとれるよし


さて其 鮪 ハ山 \/能腰 を群(ムレ)て回(メグ)る者 故 山

さてそのしびはやまやまのこしを  むれ て  めぐ るものゆえやま


能腰 尓網(アミ)をしき張ル其(ソレハ)幕(マク)能如 く尓して

のこしに  あみ をしきはる  それは   まく のごとくにして


底(ソコ)なし又 鮪 見楼(ヤクラ)を建て鮪 来ル時 ハ

  そこ なしまたしびみ  やぐら をたてしびくるときは


旗(ハタ)を出して之 を知らせる口 網(アミ)の舟 之 を見

  はた をだしてこれをしらせるくち  あみ のふねこれをみ


て網(アミ)能口 をしめる網底(アミソコ)なしと雖  も鮪 下(シタ)

て  あみ のくちをしめる   あみそこ なしといえどもしび  した


をくゝ里て逃(ニグ)る事 なし爰 ニ於 て舟 四方 ヨリ

をくぐりて  にぐ ることなしここにおいてふねしほうより


あ川まりかこんで一 方 より麻綱(ヲツナ)能網 と

あつまりかこんでいっぽうより   おつな のあみと

(大意)

(補足)

「八日」、天明8年12月8日。西暦1789年1月3日。

 鮪漁の様子の画です。

 画の説明に「鮪冬網(志びふ由あミ)」とあります。上半身裸で腰蓑(こしみの)だけという漁師もたくさんいるのがわかります。真冬で海の上、寒いにきまっていますが、激しい動きと気合で寒さなど感じなかったのかもしれません。