2025年12月14日日曜日

江漢西遊日記六 その72

P86 東京国立博物館蔵

(読み)

ウヅマサ聖  徳 太 子開 帳  大 井河 ニ掛 ル土橋 アリ

うずまさしょうとくたいしかいちょうおおいがわにかかるどばしあり


吐月 橋  と云 渡 しハ虚空 蔵 嵐  山 なり亦タ

とげつきょうというわたしはこくうぞうあらしやまなりまた


もと能橋 を渡 里天 龍  寺夫 より嵯峨の

もとのはしをわたりてんりゅうじそれよりさがの


釈 迦堂 茶店 ニ休 ミ裏 を出て愛 宕へ

しゃかどうさてんにやすみうらをでてあたごへ


行ク路 婦もとより五十 町  清 瀧 なと云 処  アリテ

ゆくみちふもとよりごじっちょうきよたきなどいうところありて


路 \/喰 物 アリ人 をも泊 ル女  土器(カワラケ)を投(ナケ)る

みちみちくいものありひとをもとめるおんな   かわらけ を  なげ る


妙 なり山 上  ニ至 レハ雪 消 残 ル夫 より下 り路

たえなりさんじょうにいたればゆきけしのこるそれよりくだりみち


尓して野山 を越 て北 野天 神 へ出て日暮

にしてのやまをこえてきたのてんじんへでてひぐれ


前 冨 ノ小 路尓かえりぬ

まえとみのこうじにかえりぬ


十  五日 曇  此 間  頼 ミし目鏡  箱 出来る

じゅうごにちくもりこのあいだたのみしめかがみばこできる

(大意)

(補足)

「大井河」、大堰川。「吐月橋」、渡月橋。いくらなんでも吐月とはちょっとひどすぎ、風流のかけらもない。

『おおいがわ おほゐがは 【大堰川】

京都府中東部,丹波高地の大悲山(たいひざん)に源を発し,亀岡付近(渡月橋より上流)で保津(ほづ)川と名を変え,さらに(渡月橋の)下流で桂川となり,淀(よど)川に注ぐ川。大井川。「いろいろの木の葉ながるる―しもは桂のもみぢとやみむ」〈拾遺和歌集•秋〉』。『大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来』するとありました。

「冨ノ小路」、南北の青い部分、繁華街です。

「十五日」、寛政1年3月15日 1789年4月10日。

 この日14日は、嵐山、愛宕山、北野天神などの周辺の1日観光、ずいぶんと歩いたはずです。

 

2025年12月13日土曜日

江漢西遊日記六 その71


P85 東京国立博物館蔵

(読み)

十  三 日 曇  昼 より四条  竹 田から繰 を見 物 春

じゅうさんにちくもりひるよりしじょうたけだからくりをけんぶつす


画心 紙と云 大 唐 紙 三 十  三 匁  ニ調  へ亦 能そき

がせんしというおおからかみさんじゅうさんもんめにととのへまたのぞき


目鏡 能箱 出来ル

めがねのはこできる


十  四 日曇  朝 飯 後より愛宕 ヘ参 ル三 条  ヲ

じゅうよっかくもりあさめしごよりあたごへまいるさんじょうを


西 へ行キ十  五六 町  過 シハ洛 外 なり田畑 路ニ獄

にしへゆきじゅうごろくちょうすぎしはらくがいなりたはたじにごく



門 あり者しめて見ル此 盗   ハ三 十  三 間 堂 能

もんありはじめてみるこのぬすっとはさんじゅうさんげんどうの


床(ヱン)の下 ニ住 て夜盗 なり捕  ラれて縄 をぬけ

  えん のしたにすみてやとうなりとらえられてなわをぬけ


途中  ニて逃 出し路 を通 ル醫者 能脇 差

とちゅうにてにげだしみちをとおるいしゃのわきざし


を取 ぬき身を以 て古 手屋ヘ入 衣類 を着(キ)

をとりぬきみをもってふるてやへいりいるいを  き


多ると云 産 レハ薩摩(サツマ)の者 と云 夫 より嵯峨

たるといううまれは   さつま のものというそれよりさが

(大意)

(補足)

「十三日」、寛政1年3月13日 1789年4月8日。

「竹田から繰」、このようなものだったのでしょうか、 

「画心紙」、画仙紙。

「調へ」、『ととの・える ととのへる 【整える・調える・斉える】⑦ 買う。「酒を―・へに来たほどに」〈狂言・伯母が酒•鷺流〉』

「愛宕」、観光地嵐山のさらに北西部。

 

2025年12月12日金曜日

江漢西遊日記六 その70

P81 東京国立博物館蔵

P82 


 P83

P84

(読み)

P81

小倉堤

おぐらつつみ


三 十 町  アリ

さんじっちょうあり

P82

きゃく


中居

なかい

P83

嶋 原 大夫

しまばらたゆう

P84

愛 宕山

あたごやま


カワラケ

かわらけ


ナゲ

なげ

(大意)

(補足)

 嶋原太夫の前帯のでかいこと。足袋をはいているとおもいきや、はだしでした。

愛宕山のかわらけ投げについてのAIの概要です。

『京都の愛宕山や高雄などで、見晴らしの良い場所から素焼きの土器(かわらけ)を投げて、その舞い方を楽しむ遊びで、厄除けの意味合いもあり、古典落語の演目にもなった有名な風習です。落語『愛宕山』では、旦那が小判を投げるという滑稽な話に発展しますが、本来は参詣客が楽しんだ縁起の良い行事でした』。

「女土器(カワラケ)を投(ナケ)る妙なり」、それをながめるふたりは江漢と弁㐂。

 

2025年12月11日木曜日

江漢西遊日記六 その69

P80 東京国立博物館蔵

(読み)

三 条  生(イケ)春松 源 柏 宗 なと名 家アリ鯉 ふな

さんじょう  いけ すまつげんはくそうなどめいかありこいふな


うなぎ酒 を呑 妓  一 人三 味せんハなら春゛夫

うなぎさけをのむおんなひとりしゃみせんはならず それ


よりして新 地と云 処  ヘ至 り亦 爰 妓  壱 人茶 や

よりしてしんちというところへいたりまたここおんなひとりちゃや


の女  房 を連レて嶋 原 へ行ク揚 屋偶 徳 と云

のにょうぼうをつれてしまばらへゆくあげやすみとくという


尓参 ル玄 関 より上 ル書 院 坐しき燭  臺

にまいるげんかんよりあがるしょいんざしきしょくだい


数 十  如昼    照 春女  房 出 中 居八 九人 妓

すうじゅうひるのごとくてらすにょうぼうでてなかいはっくにんおんな


四人 盲 人 壱 人夫 より大夫 をかりて見ル

よにんもうじんひとりそれよりたゆうをかりてみる


三 十  人 其 内 玉 の井と云 を揚 る夜 の八ツ時

さんじゅうにんそのうちたまのいというをあげるよるのやつどき


比 尓帰 ル

ころにかえる


十  二日 曇  氣分 あしゝ偶 然 として暮 春

じゅうににちくもりきぶんあししぐうぜんとしてすごす

(大意)

(補足)

「三条生洲」、『川に面した座敷があり鯉、鮒、鰻などの川魚や鴨などを店の生洲(高瀬川の水を引き込んだ)や庭に飼っておいて、客の注文に応じて料理を出す』。

「松源」「柏宗」については、当時の有名な茶屋・料理屋ではないかとおもわれますが、不明です。

「揚屋偶徳」、京都島原の揚屋、角屋徳兵衛の略。角屋は島原の郭内でも由緒ある揚屋として、歴史上の重要な舞台ともなった。また、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。

 さらに平成10年度からは、「角屋もてなしの文化美術館」を開館して、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品等の展示・公開を行うことになりました。

「夜の八ツ時比」、夜中の2時頃。

「十二日」、寛政1年3月12日 1789年4月7日。

「偶然」、寓然。しばらく前にも、同じように過ごしました。

 江漢さん、午前2時ごろに帰宅。二日酔いと寝不足で「氣分あしゝ」だったようです。

 

2025年12月10日水曜日

江漢西遊日記六 その68

P79 東京国立博物館蔵

(読み)

五十  位  爰 ニ十  四 日滞 畄  春る

ごじゅうくらいここにじゅうよっかたいりゅうする


八 日曇  さ武し荻 野左衛門 方 へ行ク頗  ルおらん

ようかくもりさむしおぎのさえもんかたへゆくすこぶるおらん


多を好 ム人 ニて窮  理談 を春酒 肴 を出して

だをこのむひとにてきゅうりだんをすしゅこうをだして


よろこぶ

よろこぶ


九  日宿 の弟   を連レ北 野天 神 へ行ク天 曇

ここのかやどのおとうとをつれきたのてんじんへゆくてんくもり


て雪 降 出春此 日さ武し大 霜 厚ツ氷 リハル

てゆきふりだすこのひさむしおおしもあつごおりはる


十 日朝 霜 氷 ル天 氣京  ハめつらしき故 尓

とおかあさしもこおるてんききょうはめずらしきゆえに


所  々  を歩ス祇園 より金 毘羅参 り人 多 し

ところどころをほすぎおんよりこんぴらまいりひとおおし


僕(ホク)弁 喜大 坂 へ遣  ス

  ぼく べんきおおさかへつかわす


十  一 日 大 雨 晩 方 雷 鳴 伏 見六 右衛門来 ル

じゅういちにちおおあめばんがたらいめいふしみろくえもんきたる

(大意)

(補足)

「八日」、寛政1年3月8日 1789年4月3日。

「窮理談を春」、江漢はこの長崎西遊の後、寛政5(1793)年〜文化6(1809)年に以下の科学書を次々に刊行した。『銅版地球全図』『地球全図略説』『銅図』『和蘭天説』『和蘭通舶』『刻百爾(コッペル)天文図解』『地球儀略図解』。『春波楼筆記』には「小子は天文地理を好み、わが日本にはじめて地転の説をひらく」と自負し、地動説の紹介と普及に功績をあげた。

 1792年に発刊した『地球全図』、 

「雪降出春此日さ武し大霜厚ツ氷リハル」、1789年は世界中で異常気象の年でした。現在でも4月上旬春先の爆弾低気圧でこのようなことはありますので、なんとも判断がつきかねます。

「祇園」、なんども日記にでてきてます。日記では「祇」が「祗」となっています。

 

2025年12月9日火曜日

江漢西遊日記六 その67

P78 東京国立博物館蔵

(読み)

路 雨 降 出春

みちあめふりだす


六 日大 雨 扇 面 ニ画を描ク伊賀の商  人 昨

むいかおおあめせんめんにえをかくいがのしょうにんさく


夜より爰 ニ居ル銅 版 目か年を見セる其 者

やよりここにおるどうはんめがねをみせるそのもの


云 私   兄 画を好 ム是 より吉 野ノ方 へお出

いうわたくしあにえをこのむこれよりよしののほうへおいで


ならハ必  ス相 待 申  と云 九  兵衛津の者 を

ならばかならずあいまちもうすというきゅうべえつのものを


連レ来 ル亦 佐兵衛方 ニて小倉 能沼 の蜆(シゝミ)

つれきたるまたさへえかたにておぐらのぬまの  しじみ


至  て大 キシ吸 物 ニして酒 を呑ム

いたっておおきしすいものにしてさけをのむ


七 日天 氣さ武し伏 見京  町 より京  冨 の

なのかてんきさむしふしみきょうまちよりきょうとみの


小 路姉 カ小 路日野屋方 へ引 越ス主 人 ハ廿   二

こうじあねがこうじひのやかたへひっこすしゅじんはにじゅうに


三 能若 者 弟   十  六 七 能キ人 物 なり母 親 アリ

さんのわかものおとうとじゅうろくしちよきじんぶつなりははおやあり

(大意)

(補足)

「六日」、寛政1年3月6日 1789年4月1日。

「吉野ノ方へお出ならハ」、江漢はその後、文化9(1812)年、吉野へ観光旅行をして、『吉野紀行』をあらわしています。

 伏見京町に2月28日〜3月6日まで泊まって、この日7日に姉カ小路日野屋へ引っ越しました。

 

2025年12月8日月曜日

江漢西遊日記六 その66

P77 東京国立博物館蔵

(読み)

尓て呼 れ酒 出 馳走 ニなり帰 ル文 策 と物

にてよばれさけだすちそうになりかえるぶんさくともの


語 りして夜 五  時 尓寝ル此 文 策 と云 醫者

がたりしてよるいつつどきにねるこのぶんさくといういしゃ


ハ相 馬能人 ニて此 伏 見ニ滞 畄  して居(イ)し

はそうまのひとにてこのふしみにたいりゅうして  い し


なり

なり


四 日天 氣後 曇  冨士の画出来上 ル昼 比

よっかてんきのちくもりふじのえできあがるひるごろ


隣 家佐兵衛方 へ文 策 と行ク酒 を呑ミ又

りんかさへえかたへぶんさくとゆくさけをのみまた


九  兵衛処  へ茶 尓参 ル帰 りて茶 尓おかされ

きゅうべえところへちゃにまいるかえりてちゃにおかされ


二 人共 夜半 迄 不眠

ふたりともやはんまでねむれず


五 日曇  京  へ行ク三 里あり宗 林 寺門

いつかくもりきょうへゆくさんりありそうりんじもん


前 大 雅堂 能跡 へ行ク其 外 所  々  へ尋  る返

ぜんたいがどうのあとへゆくそのほかところどころへたずねるかえり

(大意)

(補足)

「四日」、寛政1年3月4日 1789年3月30日。

「茶尓おかされ二人共夜半迄不眠」、むかしもいまもお茶で眠れなくなってしまうのは時代をこえてのアルアル。

「宗林寺門前大雅堂」、京都市のHPより。

『池大雅(1723~76)の家は北山深泥池村で代々農業を営んだが,父が京都に出て銀座の下役になった。大雅は少年時代より書を学び,南画を研究した。30歳頃祇園茶店の娘町(玉瀾)と結婚し,この地真葛原(知恩院から円山公園を経て双林寺に至る台地一帯)に草庵を結んだ。与謝蕪村(1716~83)とともに日本的な独自の文人画を大成した。この石標は池大雅の住居跡を示すものである』。 

 池大雅や蕪村も、江漢さんと同時代の人だったのですね、へぇ〜、です。